じぶんの足でたつ、それが教養なんだ

「われこそは」と力まないで、じぶんの歩調でのんびりゆったり歩くのがちょうどいい。

其中庵

2007-05-26 | 随想(essay)
 一昨年――昭和五年の秋もをはりに近い或る日であった。私は当もないそして果てもない旅のつかれを抱いて、緑平居への坂をのぼっていった。そこにはいつものやうに桜の老樹がしんかんと並び立ってゐた。   枝をさしのべてゐる冬木  さしのべてゐる緑平老の手であった。私はその手を握って、道友のあたたかさをしみじみと心の底まで味はった。  私は労れてゐた。死なないから、といふよりも死ねないから生きてゐるだけの活 . . . 本文を読む

ぐうたら手記

2007-05-19 | 随想(essay)
 したい事をして、したくない事はしない―これが私の性情であり、信条である。それを実現するために私はかういふ生活に入った(はいらなければならなかったのである)そしてかういふ生活に入ったからこそ、それを実現することが出来るのである。私は悔いない、恥ぢない、私は腹を立てない、ワガママモノといはれても、ゼイタクモノといはれても。  自己の運命に忠実であれ、山頭火は山頭火らしく。   ふけてひとりの水のうま . . . 本文を読む

同人山頭火

2007-05-12 | 随想(essay)
 山頭火が一笠一鉢に生を托する旅人になりきってから、もう何年経つであらう。彼は味取の観音堂に暫く足を停めていたが、其処をも遂に捨て、今又、歩きつゞけてゐる。彼の歩むのは、或る処へ行く事を目的として歩いてゐるのではない、歩く事その事の為に歩いてゐるのだ。彼にあっては生きるといふ事と歩くといふ事が同一語になってゐる。雲がただに歩み動き、水がただに歩み流れるが如く、彼も亦、歩まずにゐられずして歩いてゐる . . . 本文を読む

朝一杯、昼一杯、晩一杯

2007-05-05 | 随想(essay)
 昭和五年九月二十四日  藷焼酎のたゝりで出かけたくないのを、無理に草鞋を穿く、何というその生活だ。こんなうそをくりかえすために行乞してをるのか、行乞してゐて、この程度のうそからさへ、脱離し得ないのか。  昼食の代わりにお豆腐をいただく、そして幾度も水をのんだ。そのおかげで、だいぶ身心が軽くなった。  投げ与へられた一銭のひかりだ  馬がふみにじる草は花ざかり  朝一杯、昼一杯、晩一杯。一杯一 . . . 本文を読む