じぶんの足でたつ、それが教養なんだ

「われこそは」と力まないで、じぶんの歩調でのんびりゆったり歩くのがちょうどいい。

十月十二日(昭和五年)

2007-06-30 | 随想(essay)
(都城にて)九時の汽車にのる、途中下車して岩川で二時間、末吉で一時間行乞、今日はまた食ひ込みである。  年とれば故郷こひしいつくつくぼうし  海は果てなく島が一つ  一きれの雲もない空のさびしさまさる  こころしづかに山のおきふし                 (著作集Ⅰ「あの山越えて」) . . . 本文を読む

十月九日

2007-06-23 | 随想(essay)
 大堂津で藷焼酎の生一本をひっかけて、ほろほろ気嫌でやってくると、妙な中年男がいやに丁寧にお辞儀した。そして私が僧侶(?!)であることをたしかめてから、問うて曰く『道とは何でせうか』また曰く『心は何処にありますか』道は遠きにあらず近きにあり、趙州曰く、平常心是道、常済大師曰く、逢茶喫茶、逢飯食飯、親に孝行なさい、子を可愛がりなさいー心は内にあらず外にあらず、さて、どこにあるか、昔達磨大師は慧可大師 . . . 本文を読む

十月二日(鵜戸)

2007-06-16 | 随想(essay)
 今日はボクチン(木賃)に泊ることができた。殊に客は私一人で、二階の六畳一室にねそべって電燈の明るさで、旅のたよりを書くことが出来た。(中略)句はだいぶ出来た。旅で出来る句は、無理に作らないのだから、平凡でもその中に嫌味が少ない。   お経あげてお米もらうて百舌鳥ないて   露草が露をふくんでさやけくも   一りん咲けるは浜なでしこ   けふもぬれて知らない道をゆく   暗さおしよせる波がしら   . . . 本文を読む

昭和五年十月一日

2007-06-09 | 随想(essay)
 酒のうまさを知ることは、幸福でもあり不幸でもある。いはば不幸な幸福であらうか、「不幸にして酒の趣味を解し・・・」といふやうな文章は読んだことがないか知ら、酒飲みと酒好きとは別ものだが、酒好きの多くは酒飲みだ、一合一は合の不幸、一升は一升の不幸、一杯二杯三杯で陶然として自然と人生に同化するのが幸福だ(ここでまた若山牧水・葛西善蔵・そして放哉坊を思ひださずにはゐられない)酔うてにこにこするのがほんた . . . 本文を読む

廃人、廃屋に入る

2007-06-02 | 随想(essay)
 昭和七年九月二十日、私は其中庵の主になった。  私が探し求めてゐた其中庵は熊本にはなかった。嬉野にもなかった。ふる郷のほとりの山裾にあった。茶の木をめぐらし、柿の木にかこまれ、木の葉が散りかけ、虫があつまり、百舌鳥が啼きかける廃屋にあった。  廃人、廃屋に入る。  それは最も自然で、最も相応してゐるのではないか。水の流れるような推移ではないか。自然が、御仏が友人を通して指示する生活とはいへなから . . . 本文を読む