昨日は朝からおゆうぎ会のリハーサルを行った。
会場は、近くの県総合福祉センター「ゆいホール」。
円形型の天井を持つホール。声も響く。
場所が変わると「場所見知り」をする子も当然いる。
場所に呑まれて、いつもより、ちんまりとなってしまう子がいる中。
三歳児のバラ組、コスモス組だけは場所に負けない。
というよりも、
4歳児にもなれば「何をしにここにきた」ことを知っている。つまり目的を
もって参加していることを理解できる。
が、この三歳児クラスはもう大変。
敷きつめられた絨毯の上で、
寝ころがる。じゃれ合う。相撲を取る。背中に乗ったり肩にもたれたり。
絨毯でなければできない遊びへと展開する。
誰もが興奮状態。とにかく、場所に呑まれるというよりも
非日常の空間を戯れ、遊び、触れあいスキンシップ。
じーと座して辺りを伺っている2歳児にくらべて元気がよすぎるのだ。
目的を意識して、はやる心をトーンダウンさせてとりあえず座している4歳児に比べて
三歳児があまりにも飛び抜けて元気に見えるのだ。
自分の心の動きを、そのまま表現する能力をしっかりと持ち合わせている年令なのだ。
社会的自我ということばがある。
その社会的自我をまだ持ち合わせていないという方がいいのか
自己中心の最たるもので、この時期ジコチュウでなけばならない年令、と、いった方がいいのか。
社会全体が彼らのためにまわっている。
いま何をしたいか、目に留まるもの、耳に聞こえるもの、すべてが全開で吸収する。し、行動する。
小さなギャングたち集まりなのだ。
去年もそのまた去年も、そのまた去年も。同じだった。
自分の気持を出して気持ちよくなることをいっぱい体験しているさ最中なのだ。
そして、それが故にいっぱいぶつかることもまた体験する。
身体ごとぶつかることでしか、得られない喜びや怒り、そして寂しさ。
それらをしっかりと展開している目の前の子ら。
ハラハラしながらも、見守り、しかし、ちゃんとさせたい先生たち。
その心の動きが面白い。
舞台では、思い切り楽しんでいた。それがあって大きくなるんだから。
大人の目を意識するのはもう少し待ってねー。十分チビッコギャングのままで。
会場は、近くの県総合福祉センター「ゆいホール」。
円形型の天井を持つホール。声も響く。
場所が変わると「場所見知り」をする子も当然いる。
場所に呑まれて、いつもより、ちんまりとなってしまう子がいる中。
三歳児のバラ組、コスモス組だけは場所に負けない。
というよりも、
4歳児にもなれば「何をしにここにきた」ことを知っている。つまり目的を
もって参加していることを理解できる。
が、この三歳児クラスはもう大変。
敷きつめられた絨毯の上で、
寝ころがる。じゃれ合う。相撲を取る。背中に乗ったり肩にもたれたり。
絨毯でなければできない遊びへと展開する。
誰もが興奮状態。とにかく、場所に呑まれるというよりも
非日常の空間を戯れ、遊び、触れあいスキンシップ。
じーと座して辺りを伺っている2歳児にくらべて元気がよすぎるのだ。
目的を意識して、はやる心をトーンダウンさせてとりあえず座している4歳児に比べて
三歳児があまりにも飛び抜けて元気に見えるのだ。
自分の心の動きを、そのまま表現する能力をしっかりと持ち合わせている年令なのだ。
社会的自我ということばがある。
その社会的自我をまだ持ち合わせていないという方がいいのか
自己中心の最たるもので、この時期ジコチュウでなけばならない年令、と、いった方がいいのか。
社会全体が彼らのためにまわっている。
いま何をしたいか、目に留まるもの、耳に聞こえるもの、すべてが全開で吸収する。し、行動する。
小さなギャングたち集まりなのだ。
去年もそのまた去年も、そのまた去年も。同じだった。
自分の気持を出して気持ちよくなることをいっぱい体験しているさ最中なのだ。
そして、それが故にいっぱいぶつかることもまた体験する。
身体ごとぶつかることでしか、得られない喜びや怒り、そして寂しさ。
それらをしっかりと展開している目の前の子ら。
ハラハラしながらも、見守り、しかし、ちゃんとさせたい先生たち。
その心の動きが面白い。
舞台では、思い切り楽しんでいた。それがあって大きくなるんだから。
大人の目を意識するのはもう少し待ってねー。十分チビッコギャングのままで。