はぐれ雲のつれつ゛れ日記

還暦が過ぎ、そろそろ人生を振り返る歳、日々の出来事や思ったことを、思いつくままに・・・。

霧山城址

2021-02-28 20:40:52 | お城巡り

北畠氏館跡の裏手に標高560mの霧山山頂に南北朝時代の北畠氏の城址がある。高低差200m、往復3.4キロ、1時間30分で昼までに家に帰れるので登ってきた。

国史跡、北畠氏館跡庭園の横からスタート、庭園も見える。

植林された杉林の尾根を登る。

鐘突堂への登り道、右の細い道が城址への道

鐘突堂跡から霧山城址本丸を見る。

本丸跡

他でもいつも思うことだがこの石も高さ2メートル以上はあろうかと思うがどうやって建てたのだろう?

裏を見れば大正7年?の文字が読める。近くに岩石は見当たらないし、やはり本丸跡から掘り出したのだろうか。

それでも立てるとなれば何人の人足が必要だっただろう。石垣にしても、昔の人は凄かったですね。

帰りに368号線沿いにあるワラで出来た「アマビエ」に立ち寄り

過去の作品

ちょうど12時に我が家へ、昼からは畑仕事をしました。

奥にじゃがいも、真ん中にそら豆、手前にエンドウ、ラッキョウ、ニンニク、タマネギも植わっているが育ちが悪い。

 

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赤穂城跡

2021-02-27 09:46:19 | お城巡り

百名城に行くのはいつ以来だろう?今後は泊りがけで行かないときつくなってくる。

播州赤穂城跡に行ってきた。昼12時に着く予定だったがJR神戸線で人身事故があり2時間以上ダイヤが遅れた。

大阪駅で構内放送を聞いたが、人との接触事故と言ってたのに帰りのスマホ情報ではホームから入ってきた電車に飛び込みフロントガラスを破り車内に飛び込んだらしい。当人は亡くなったが他にも骨折した乗客や気分が悪くなった乗客もでて大事になってた。代替え輸送で大阪から三ノ宮まで阪急電車で行き、(フロントガラス半分にガムテープを貼った車両を目撃した)待っててもしょうがないので西明石まで各駅電車で行ったが信号待ち停車が多く、結局播州赤穂駅に着いたのは午後2時過ぎ、こういう経験は初めてだがホーム案内板は11時台に9時台の時刻表示が出てて遅れ120分以上と表示してる。乗り場ホームも変更になったり快速が各駅停車になったり、スマホの乗換案内アプリもチンプンカンプン、結局、再開までストップした電車優先で後の電車は運休になるんですね。そして徐々に戻していく。

雨は止んでいたが寒かったので駅からタクシーに乗った。660円だった。

不織布と布マスクの二重マスクを不織布だけにして赤穂城跡に向かう。携帯用アルコールも持参しました。

大手門・・(門前の店で塩饅頭を仏壇用に買う)

先ずは大石神社で御朱印を・・・

赤穂四十七士の像が鳥居まで建ってる。

義士宝物殿

神社の御神木(樹齢300年以上の大楠)

大石邸長屋門と大石邸庭園

大石邸長屋門(国史跡)

赤穂城本丸と天守台(天守は作られなかった)

天守台から本丸御門

本丸庭園

堀と櫓門

赤穂城は海城だった。塩作りが盛んだった。

姫路駅を出発した時刻は5時26分の快速米原行(大阪まで各駅停車)近鉄特急で伊勢に着いたのは9時5分でした。

電車時間が長かったのになぜかよく遊んだなと思った一日でした。

後の情報では亡くなったのは42歳の男性、神戸線や京都線などで40本を運休、計91本が最大2時間50分遅れ

38500人が影響しました。 飛び込んだ原因はわかりませんが人生いろいろですね。

 

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桶狭間古戦場と有松散策

2021-02-23 18:59:26 | 旅行、お出かけ

先週の木曜日、平日休みで桶狭間の戦いの跡に行ってきました。今川義元軍二万五千人に対して織田信長軍はわずか三千人にもかかわらず勝利しました。この活躍で一躍名をあげ天下統一を目指すも本能寺で断たれた。今川亡きあと松平元康、後の徳川家康が岡崎城から名をあげ、やがて江戸幕府を開くことになる。

先ず、「桶狭間古戦場伝説地」に行った。車を止めるところがないので高徳院の近くに止める。葬儀会館だった。

高徳院は今川義元の本陣だったらしい。

今川義元の墓、この近くで戦死したという碑が建っている。

古戦場がどこであったかは異説があるがここは豊明市で歩いて15分くらいのところには「桶狭間古戦場公園」というところがある。そこは緑区桶狭間という地名だ。両軍で二万八千もの兵がいたのだからどちらも正しいだろう。もっと広い場所を想像してたがどっちも小公園ほどの広さだ。都会の中だから仕方ない。

こちらは「桶狭間古戦場公園」

途中欠けてはいるが近くの川から発見された江戸時代の「桶狭間古戦場碑」

大池の近くに「古戦場観光案内所」があり15分ほどのビデオをみせてもらった。(車5台ほど止めれたな)

この後、日本遺産である「有松絞り」の産地である古い町並みを散策した。「鳴海・有松絞り会館」に車を止める。

 

 

この時期、コロナで観光客は少ないが雛飾りで楽しませてくれる。

有松天満社

菅原道真公が祀ってある。

祇園寺という寺だが幼稚園になってて柵があり中へ入れない。

有松絞りのハンカチを2枚買いました。少し凹凸があるのがいい。

 

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鳥羽城跡と扇野

2021-02-14 23:23:27 | お城巡り

自宅の白梅は今満開、ウグイスではなくメジロが蜜を吸いにやってくる。

今日も暖かい日で午前中は昭和年代のトラクターや耕運機で畑を耕しました。ジャガイモの植え付け準備だ。

菜花、白菜、キャベツ、大根のところにも籾殻、石灰を入れて耕した。ジャガイモも霜にやられて枯れてしまったが掘り起こしてみると小さいがいくつか収穫できた。赤じゃがも卵大ぐらいになってた。

昼から鳥羽城跡に久しぶりに行ってきた。

日本でも数少ない海城だった。織田信長につかえた水軍武将「九鬼嘉隆」が開城した。

第一次木津川口の戦いで毛利水軍(村上海賊)に敗れた信長は九鬼嘉隆に鉄甲船を作るよう命じ第二次木津川口の戦いで毛利軍を破り、信長から鳥羽の地を賜った。

地図を見ると鳥羽水族館のところまで城域だった。

三の丸広場より本丸(左上)方面

本丸より安楽島方面

本丸より答志島方面(九鬼嘉隆が切腹したところで首塚、胴塚がある)

本丸には三層の天守と本丸御殿があった。廃城令の後は鳥羽小学校の運動場に利用された。

手前は大井戸跡

本丸より近鉄電車と水族館と伊勢湾フェリー乗り場、遠くは菅島

昭和4年にできた旧鳥羽小学校跡

旧鳥羽小学校裏より本丸へ

大山祇(おおやまずみ)神社近くの旧鳥羽幼稚園

大山祇神社

城への陸の玄関口「相橋」と妙慶川(伊勢と志摩の境だった)

川には何万匹もの「ボラの稚魚?」がさざ波をたてている。

そのあと久しぶりに「扇野」へ

ホテル扇芳閣から金刀比羅宮へ行く途中にある「めだかの学校」

ここには「音楽人形館」がある。人の気配はないが音楽が流れている。(この時はとなりのトトロ)

ネットで見てみると3000体を超える「音楽を奏でる楽器を持つ人形」が飾ってあるという。

ゆっくり時間をかけて見てたらどれくらいかかるだろう?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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長原城跡と五ヶ所城跡

2021-02-07 20:32:58 | お城巡り

我が町では長原城と一ノ瀬城があったことが知られている。そのうちの長原城跡に初めて行ってみた。

城というより砦の館みたいなものだろうが、城の定義は敵に攻め込まれた際の防御拠点としての構造物で土や石で囲まれ堀や堀切が作られたものがあれば「城郭」と言える。

城跡は長原神社の裏山にある。

眼下に長原の集落

城主だった大崎玄蕃(げんば)の墓碑はあるが菩提寺だった「長命寺」という寺はもうなかった。

隣の公民館が仮寺になっている。

続いて南伊勢町の「五ヶ所城跡」に行った。城山の下には「愛洲の里資料館」があるので入ってみた。

ここは剣術の祖「愛洲移香斎」が生まれた土地だ。

愛洲移香 1452‐1538(享徳1‐天文7)
 剣術流派愛洲陰(かげ)流(単に陰流とも)の祖。名は久忠,日向守また惟孝ともいう。伊勢(一説に日向)の豪族の子孫。刀法の修行で各地を回り,36歳のとき日向鵜戸の岩屋に参籠して神託を得,陰の流を開いたと伝えられる。また移香は水軍と関係があり,明国にも渡航したらしく,明の武術書《武備志》に陰流目録の一部,猿によって刀法を示した図が載っている。陰流は上泉秀綱に伝わり,新陰流として確立され発展した。
参照:世界大百科事典

城跡に向かう階段

愛洲氏墓所

久しぶりに南伊勢町に来たので足を延ばしました。東宮の河村瑞賢像があるところの河津桜が開花してきました。

鵜倉園地にある恋人の聖地

ハート型にみえる「かさらぎ池」

行ってない百名城で一番近いのは「赤穂城」いつ行けるだろう。

 

 

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大和郡山城跡と石上神宮

2021-02-06 22:43:52 | お城巡り

続日本百名城の大和郡山城跡に行ってきた。ここは日本桜百選にも選ばれているから桜の時期にまた訪れてみたいところだ。城跡もきれいに整備されている。また、二の丸跡に建つ郡山高校も奈良の公立高校で最も古い歴史を持つ学校だそうだ。

追手門

極楽橋は現在工事中

柳沢神社

水戸黄門では黒幕、敵役として出てくる柳沢吉保が祀ってある神社、

天守台(2013年から2017年にかけて石垣が修復され展望施設が作られた。)

左の大きな楠は柳沢神社

 

資料がなく天守は作られたか謎だったが、礎石や金箔瓦が発掘され、付け櫓があった天守閣が立証された。

天守台から若草山、薬師寺の塔が見える。

天守石垣は地蔵石、石塔などの転用石がたくさん用いられた。

追手門向櫓

城跡会館(旧奈良県立図書館・明治41年築・昭和45年城内移築)

建物内見学できる。説明してもらえた。

柳沢文庫

これより奥は撮影できない

2月6日~3月10日まで盆梅展が開催されている。初日だったので梅はまだちらほら、知ってたらもう少し後で来たのに。65歳以上は無料だった。

盆梅展をでると猿回しが・・・・この日は春の陽気でした。

帰りに「石上(いそのかみ)神宮」に寄ってきました。

当神宮は、日本最古の神社の一つで、武門の棟梁たる物部氏の総氏神として古代信仰の中でも特に異彩を放ち、健康長寿・病気平癒・除災招福・百事成就の守護神として信仰されてきました。
 
総称して石上大神(いそのかみのおおかみ)と仰がれる御祭神は、第10代崇神天皇7年に現地、石上布留(ふる)の高庭(たかにわ)に祀られました。古典には「石上神宮」「石上振神宮(いそのかみふるじんぐう)」「石上坐布都御魂神社(いそのかみにますふつのみたまじんじゃ)」等と記され、この他「石上社」「布留社」とも呼ばれていました。
 
平安時代後期、白河天皇は当神宮を殊に崇敬され、現在の拝殿(国宝)は天皇が宮中の神嘉殿(しんかでん)を寄進されたものと伝えています。  (公式サイトより)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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