高知の坂本龍馬記念館に行ったとき、地元三重の松阪生まれの探検家「松浦武四郎」の特別展が開催されてました。ちょうどその頃は地元の「松浦武四郎記念館」の改修工事中でした。そして今年の4月に新しくリニューアルオープンされました。思い出して暑い畑仕事をやめて見に行ってきた。
<パンフレットより>
江戸時代はるか北方をめざし真摯なまなざしで真実を見つめた男がいた。幕末から明治維新に活躍した松浦武四郎は、生涯にわたり全国を歩き続ける。旅行家・探検家、作家、出版者、学者・・・たぐいまれなる知識欲と冒険心で、多芸多才ぶりを発揮したが、数々の業績の中で人びとの記憶に刻み込まれているのは、「北海道の名付け親」であること。
記念館では重要文化財1505点、三重県有形文化財223点を収蔵しており、2か月に一度展示資料を入れ替え、さまざまな顔をもつ武四郎の姿を紹介しています。
70歳のとき、東京の自宅に建てた畳一畳の書斎は全国からの古寺社から古材を取り寄せた。現在、三鷹市の国際基督教大学に現存している。
武四郎の身長は148センチだった。奥の銅像は原寸大か・・?
晩年は古物を収集し、天神信仰をおこなった。68歳から70歳にかけては、大台ケ原に登り、70歳で富士山に登って、71歳で旅に生きた生涯を閉じた。
ヒスイ、めのう、水晶から作られた勾玉、管玉をつなぎあわせた「大首飾り」
使用した部材は243点にのぼり、重さは約3K、長さは145cmにも達する。
近くに生家があるので寄ってみた。
前の道は伊勢街道で「おかげ参り」の旅人がたくさん行き交い、旅人に刺激をうけ、旅を志すようになったと伝えられている。
土蔵がふたつと奥は納屋
所々修復されているが当時のままだ。
かんぬき付の門
鬼瓦は布袋さんだが、前は梶の葉の家紋瓦だった(離れに展示してある)
離れは実家を訪ねてきた客をおもてなしする場所として、慶応3年頃に完成した。
13歳で藩塾で学び、16歳で江戸に行き、17歳で全国を巡る旅に出て、19歳で四国八十八カすべてをまわり、22歳、長崎で出家して僧侶になり、28歳から41歳まで6度に及ぶ蝦夷地の探査をし、北方領土にも行き、42歳で結婚してその後,蝦夷地の繊細地図や紀行文、アイヌ文化などの本を出版、51歳から函館判事や開拓判官になり(この頃北海道名の案を考える)68歳以降は各地を旅し、古物収集や天神信仰をおこない、大台ケ原や富士山に登ったり、一畳の書斎に籠ったり・・旅と趣味に生きた充実した人生だったでしょうね。
ひとつ気になること、記念館でも生家でもわからなかったこと、旅の費用はどうしてまかなったのだろう?宿賃や食事代は・・・これは脱藩して日本を奔走し、海援隊を作った坂本龍馬らにも言えること、今の時代すぐ現実的なことを思ってしまう。旅に出るには先立つものがいる。タダで行ける人は限られてしまう。その限られた人たちだったのか?金持ちだったのか? 自分はせこい人間なのか・・私も旅ざんまいしたい・・・・・現時点では無理です。