はぐれ雲のつれつ゛れ日記

還暦が過ぎ、そろそろ人生を振り返る歳、日々の出来事や思ったことを、思いつくままに・・・。

東京観光

2023-04-29 21:59:00 | 旅行、お出かけ

日本百名城巡りの旅をメインに、東京に行ってきたが初日は一日中雨。城巡りは翌日にしました。

新幹線のぞみは平日だが立ってる人がいたので次の各駅停車の「こだま」に乗りました。自由席はガラガラ、のぞみなら1時間半ぐらいで到着するが2時間以上かかった。雨降りだし予定は未定だしのんびり行くのもいい。

昼2時前ぐらいに東京に着いただろうか?松坂を朝9時過ぎ出発したから・・・・

御朱印帳持参したので湯島天神へ行った。

社名は湯島天満宮、菅原道真を祀る。受験シーズンは参拝客であふれる。今日は数人だけ。

講談高座発祥の地

湯島聖堂(徳川綱吉によって建てられた孔子廟)

神田明神

正式名称は神田神社、東京の中心・神田・日本橋・秋葉原・大手丸の内・旧神田市場-豊洲魚市場・108町会の氏神様です。<ネットより>

江戸神社

末廣稲荷神社

江戸の総鎮守なのでいろんな神様が祀ってある。

もう、足元がべちゃべちゃなので本日のメイン、野球殿堂博物館に向かう。

この日は試合もイベントも何もないので空いてたが中には入れない。

王選手のゲート(ドーム正面横の3塁側階段に長嶋ゲート・1塁側階段に王ゲート)

真ん中には日本シリーズ優勝トロフィー

顔写真のある撮影はNGだが色々撮ってきた。

2009年WBC優勝トロフィー

玉城町出身の村山龍平(むらやまりょうへい)

伊勢市出身の沢村栄治

国民栄誉賞表彰で着たユニフォームと記念品の金のバット、始球式ボール

大谷翔平使用のスパイク・バット・ユニフォーム・グローブとプロ初先発第一球ボールと最終登板使用球

王貞治756号ホームランボールと800号ホームランバット(右側)

今年のWBCトロフィーは残念ながら展示終わってた。

今夜の宿泊はスパ・ラクーアですぐそこだが、わざわざ新橋まで出かけて吉田類の酒場放浪記をまねてきました。

ニュー新橋ビル地下とガード下へ・・・どちらも応対は日本人じゃなかった。胃袋が皆と同じならなあ   

 

東京ドームにもどってきました。

3件目はラクーアで揚げナスとじゃこおろしソバ、焼酎ロックで締めました。

やっぱり風呂上りで館内着でくつろいで呑むのが最高だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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江戸城跡

2023-04-28 20:31:41 | お城巡り

ゴールデンウイーク突入前の平日、皇居の東御苑にある江戸城本丸・二の丸・三の丸に行ってきました。

中学の修学旅行以来の皇居です。東京も久しぶり、初日に行く予定だったがあいにくの雨で翌日に行った。前日とは打って変わって雲ひとつない上天気、最高の城巡りとなりました。

7時すぎ、東京ドーム近くのスパラクーアを出て水道橋駅から大手町へ・・皇居東御苑には9時からしか入れないので東京駅に向かう、

駅の正面はまだ閉まっている。丸の内口から構内に入り、おにぎり専門店「ほんのり屋」で朝食、海老天と焼き鮭のおにぎりと貝出しみそ汁で710円はちと高い。(一個は持ち帰りだが)・・その後、帰りの新幹線切符を事前に購入、日本橋まで足をのばした。

昔の江戸の町は水路が発達していて、多摩川や井の頭などからわずかの高低差を利用して水路が張り巡らされたそうだ。城の堀土で埋め立て地も出来て、八百八町といわれる大江戸の町が出来た。

日本橋の上は首都高速

獅子像や麒麟像がシンボルだ。

日本橋魚河岸跡(魚市場発祥の地)

旧街道の起点はここから

日本橋駅から大手町駅へ・・まだ入れないので大手門から北はね橋門まで歩く。

大手濠緑地にある「和気清麻呂像」

関東大震災で焼け野原から生き残った「震災イチョウ」ここに移植された。

 

北はね橋門近くの高さ20mの石垣

北はね橋門から東御苑内へ・・・入城前に持ち物検査があった。

こちらから入るとすぐに天守台がある。

江戸城は、扇谷上杉家の重臣「太田道灌 」(おおたどうかん)によって築かれました。鎌倉時代に建てられた「江戸館」跡に築かれ、1457年(康正2年)に完成したと言われています。当時の江戸城は3つの曲輪で構成されており、多くの堀が設けられていた他、櫓や石門などで守りを固めていました。城下町も発達していましたが、太田道灌が暗殺されてしまい、江戸は寂れてしまいます。

その後、江戸城は北条氏の支城のひとつとなりますが、北条氏が滅亡したあと、1590年(天正18年)に「徳川家康」が江戸城に入城しました。

徳川家康は江戸城の改修工事を計画。天下普請(諸大名に対して城などの工事に参加することを強制した徳川幕府の命令)により全国の大名を召集し、改修工事に参加させます。このとき参加していた大名は、「加藤清正」(かとうきよまさ)や「福島正則」(ふくしままさのり)、「加藤嘉明」(かとうよしあき)など。なお、城の設計は、徳川家康の信頼が厚かった築城の名手「藤堂高虎」(とうどうたかとら)が担当したと言われています。

 

非常に大規模な改修工事のため、徳川家康の代では終わらず、二代目将軍「徳川秀忠」(とくがわひでただ)、三代目将軍「徳川家光」(とくがわいえみつ)に引き継がれました。大改修が始まってから約30年後の1636年(寛永13年)、ようやく江戸城の全容が完成。江戸城は日本最大の規模を誇る、徳川幕府の権力を示す威厳あふれるお城となったのです。

しかし、1657年(明暦3年)、江戸では「明暦の大火」(めいれきのたいか)と呼ばれる大火事が起きて、城下町の多くの建物とともに江戸城は焼失。この大火事のあと、本丸や二の丸などは再建されましたが、権威の象徴とも言える天守は再建されていません。これは、「城下町の再建で財政難の時期に、実用性に乏しい天守を再建させる必要はない」という、当時の副将軍「保科正之」(ほしなまさゆき)の進言を幕府が聞き入れたからです。

 

それからの徳川幕府は江戸城を政治の中心地として長期政権を保ちましたが、1868年(慶応4年)に起きた明治維新により、幕府成立から約270年の歴史に幕を閉じました。これにより、江戸城は明治政府に明け渡されることに。

明治時代になり、首都が京都から東京へ移ると、江戸城は天皇陛下の住居となり、「皇城」(こうじょう)、「宮城」(きゅうじょう)と呼ばれていました。現在の江戸城は、皇居であるとともに、国内外から多くの人が訪れる東京を代表する観光地となっています。<ネットより>

天守台の上から

本丸御殿の建物があったところ(表・中奥・大奥の3つに分かれていた)

石室(大奥の台所保存庫だったといわれている)

吉良上野介と浅野内匠頭の刃傷沙汰で有名な「松の廊下」

 

「富士見多門」内部

富士見櫓

門の石垣(天下普請で築かれたのでいろんな石、積み方がある)

同心番所

百人番所(今でいう警察官詰め所だ)

二の丸庭園

諏訪の茶屋

明治45年に御所内の吹上地区に建てられたもの。昭和43年に現在の場所に移設された。

 

三代将軍・徳川家光が築いた天守のモデル(寛永年間)

石垣を除いた天守の高さは45mで日本一だった。現在の大阪城再建天守は42m、名古屋城は36m

平川濠

巽櫓

坂下門

桔梗門

皇居正門

二重橋

皇居正門石橋と伏見櫓

外桜田門

日米修好通商条約に調印した大老・井伊直弼が尊王攘夷派の水戸藩士らに彦根藩の行列中にこの桜田門外で暗殺された。

 

この後、桜田門駅があったので東京駅まで地下鉄で戻り。お土産を買って昼過ぎの新幹線に乗った。そして乗ってから気が付いた。しまった!百名城スタンプを押すの忘れた!( ;∀;) 何しに行ったんだ。

この江戸城は東御苑の外(外苑)に3か所あり、一番近い和田倉休憩所で押すつもりだった。向かってたのに道路の反対側だったので先に桜田門まで行ったのが間違い。しかも桜田門駅入り口を見つけたのも間違い。今日も大分歩いたので楽して東京駅まで行こうと思い、すっかり忘れてた。

歳のせいでもあるんですかね。まあ、まだ千葉の佐倉城や茨城の水戸城にも行ってないからその時ですね。東京駅に近いから・・・・。

お土産は東京駅限定のレンガぱん1個360円 テレビのワイド番組でみてスマホにメモしてた。

120円のあんぱんとクリームパンを3個ぎゅっと固めたみたいなものだからこんなものか

帰りは富士山がくっきりと見えました。『去年は剣が峰まで行ったなあ』と心でつぶやく。いつでも見れる人はいいね。

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伊勢亀山城跡と伊勢上野城跡

2023-04-17 22:49:06 | お城巡り

伊勢亀山城は、文永二年(1265)亀山市若山町に関実忠が最初に築城し、元亀四年(1537)織田信長により関盛信が追放されるまで、関氏十六代の居城であった.

天正十八年(1590)岡本宗憲が入城後、新たに築城したとされ、この城については『九々五集』に本丸・二之丸・三之丸からなり、天守も建てられたと記される。
 また、三宅氏が城主の時、丹波亀山城の天守を解体するように命じられた堀尾忠晴が間違えて伊勢亀山城の天守を取り壊したた伝えられるが真偽のほどは定かでではない。
 寛永一三年(1636)本多俊次が城主になると亀山城の大改修に着手し、東西700㍍・南北500㍍に及ぶ縄張りが確定する。城の外周は堀が廻り、一部は谷をせき止めて水堀とした。城内には本丸、二之丸、東三之丸、西之丸、東出丸の曲輪があり、本丸には将軍家旅館として整備された本丸御殿、二之丸には城主居館と藩庁を兼ねた二之丸御殿が設けられた。

城主は八家がめまぐるしく入れ替わったが、延了享元年(1744)石川総慶が城主となると、以後は石川家十一代で明治維新を迎えることとなる。
 明治六年の廃城令によりほとんどの建造物は取り壊され、現在は多聞櫓と石垣、土塁、堀の一部が残されているに過ぎない。多聞櫓は、県下で原位置のまま遺存する唯一の城郭建築とした昭和二八年(1953)に三重県指定文化財に指定された。 

 

前に来た時は漆喰にもひびが入っていたがきれいに塗り直されていた。

唯一残る多聞櫓内

古写真には三重櫓、二の丸御殿、大手門、京口門が写っている。

本丸周りはきれいに整備されている。

二の丸、三の丸などは学校が建っており、SL機関車も展示されている。どこも同じだね。

帰路、津市河芸町の伊勢上野城跡にも寄りました。

地元にとっては残念な記事がウイキペディアに出ていた。

歴史[編集]

元亀元年(1570年)、織田信包津城(安濃津城)の仮城として分部光嘉に築城させた天正8年(1580年)、津城の完成により、信包が居城を移したため、分部光嘉が城代となり、文禄3年(1594年)に信包が近江へ改易になると、光嘉が城主に任ぜられて独立した城となった元和5年(1619年)、光嘉の養嗣子光信近江国大溝藩へ移封となったため、廃城となった

なお浅井長政が滅亡の後、長政の妻であるお市の方と娘の茶々は信包に預けられ、一時この城で過ごしたと言われてきた。しかし、近年の研究によると、当初、お市の方と三姉妹を保護したのは信包ではなく、信長、信包、お市達の叔父である織田信次であることが明らかとなっており、上野城に滞在していたとされるのは誤りで、守山城(尾張国)で過ごしていたのが正しいとされる(『溪心院文』)

本丸跡に建つ展望台と資料館、(資料館は3時までで入れなかった)

本丸広場にある相撲場

二の丸にあるアスレチック

関宿方面

伊勢湾に近い。新緑がきれいでした。

 

 

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初馬寺・密蔵院・府南寺・蓮光寺

2023-04-16 22:53:30 | 伊勢西国三十三か所

久しぶりの投稿です。4月から区の役員、しかも区民のお金を預かる会計を任されるので大変です。何年か前に書記をしてもういいと思ってたのに、経験者としてまた声がかかりました。昔の組制度がまだあるのでこれからの時代、新しく区民になった世帯は誰も組内に入ろうとしません。何の得もないからです。隣り近所と仲良くしても区民としてはかかわりたくない。これも時代の流れだから仕方ない。早く防災班のような自治会制度に移行してみんな平等に区の行事にかかわらないと・・・これから誰も区長になりたがらないだろう。報酬金額が多いと別だが・・・区費の徴収件数を調べてたら450件ほどあった。これから家が建つたびに増え続ける。組外が増え続ける。若い世代の人よ、なんとかしてくれ<(_ _)>

さて、落ち着いたので久しぶりに伊勢西国巡りを再開しました。

公民館掃除が終わって10時過ぎから津市の第17番、初馬寺へ・・

津駅前にある蓮光院、通称初馬寺(はつうまでら)・創建614年。御本尊は聖徳太子42歳の厄年に自ら刻んだと伝わる馬頭観世音菩薩。 重文の大日如来・阿弥陀如来との三尊は3月初午の日に御開廟され、厄除け祈願の参拝者で賑わいます。

ご本尊にお供えしたおさがりの、苦を離れ楽を願うという栗らくがん。をいただきました。

水掛魚籃観音、伊勢津の七福神巡りの場所でもある。

若かりし頃、津駅前の営業所で6年半働いたことがある。当時の飲み屋はまだあるのだろうかと少し散策した。「おつかれさま」という居酒屋はすでに無いが「鳥佐」という焼き鳥屋はまだあった。昼間なので閉まってたが40年前になるだろうか?警察に努めてた幼馴染と一緒に飲みに行き、連れてきた同僚が「陽なたグソの順ちゃん」なぜかというと表面は固いが中身は柔らかい。いい人間だということだ。この言葉はよく覚えている。食べた串の数で清算、飲み物はビールの焼酎割だ。懐かしいな。カレー焼きの看板がまだあった。買ってみようと近くまでいったが閉まってた。棒状の小麦粉でくるんだ饅頭のような、たい焼きのような。カスタード入りもあったな。懐かしい、もう40年にもなるか・・・・

次に第16番・白山蜜蔵院へ・・

その昔、当寺領を一帯を白山といい、津藩二代藩主藤堂高次(在職1630~69)が白山妙理大権現祈願所としていた。寛文年中(1661~73)高次が病魔に冒され苦しんだ時、阿闍梨朴心に病気平癒の祈祷を命ぜられた。朴心は三密加持の秘法を修し祈祷を続けたところ、病は忽ちにして平癒したので高次は大いに喜び、朴心に白山の土地を与え、この寺を創立させ念持仏を祀ったといわれる。
 これが当山の始まりである。明治初年に本堂裏山境内に四国八十八ヵ所霊場(小堂)が造立された。本尊は千手観世音菩薩。<HPより>

境内に八十八か所霊場もある。ここが津駅を眼下にするところにあるとは・・・

ここでも飴玉が4つ入った袋をいただきました。神饌のおさがりか。

次に鈴鹿市の府南寺(ふなんじ)に行った。

狛犬がいる。

当山は、聖徳太子(574~622)の開創(物部守屋討伐のため皇大神宮への戦勝祈願地)と伝えられ、推古天皇(554~628)の勅願所となり、その後行基(668~749)により修栄され聖武天皇(701~756)の勅願所にもなる。

    弘法大師(774~835)が諸国巡錫の折りに当山に立ち寄り本尊に感嘆し、それ以降真言の教えを受け継ぐ寺院となる。天正の兵災後、泰平山無量寿寺(本尊は国府阿弥陀如来)と補陀落山府南寺(本尊は国府千手観世音菩薩)が合併して泰平山府南寺となる。<HPより>

昔は立派な仁王門だったろうが今はコンクリートだ。

運慶作といわれる国の重要文化財なので大事にされている。

もう一か所、亀山市に近かったので、元19番「蓮光寺」へ・・

榊宮山(しんぐうさん)とあるが、昔は神仏習合の寺で伊勢神宮内宮とゆかりがあってその名残りだ。

 

山門のとなりに切支丹灯篭が建っていた。キリスト教も受け入れていたのかな?

せっかく亀山まで来たのでこの後、伊勢亀山城跡にも行ってきました。

 

 

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