はぐれ雲のつれつ゛れ日記

還暦が過ぎ、そろそろ人生を振り返る歳、日々の出来事や思ったことを、思いつくままに・・・。

無題

2022-05-25 22:20:35 | 映画

我が家は築46年、純日本家屋です。畳も昔からの藁の入った純畳、黄色くなってきて張り替えたほうがいいかなと思って一階の二部屋8畳と6畳の部屋だけ張り替えました。畳屋さんに聞くと一度表裏の張り替えは行っているそうだ。将来、大阪にいる息子が帰ってきて住むかどうかもわからないが、93歳の母も帰ってきたときは新品畳で寝かせてあげたい。

同地区の畳屋さんの奥様の出身が新潟だそうで地酒をいただきました。癖のない、我が家にある他の日本酒と飲み比べてみて一番おいしかった。どっちかというと日本酒はあまり好んで飲まないが(だからいつまでも家にある)そういう人はこういったさっぱりとした飲み口の日本酒が向いているかもしれない。

ネット画像より

コメ袋に入れたまま保存してください。というのであわててごみ箱から取り出した。

天気のいい休日、デッキにペンキを塗りました。今までは防腐剤のみだったが初めて油性ペンキを塗りました。光沢があって汚れも取りやすい。色はチョコレート色

久しぶりの表彰状が郵送で送られてきた。永年勤続以来か・・・16歳になってすぐに自動二輪免許を取得、以来、物損事故や交通違反もあったが(昔は飲酒運転もしたし)大事に至ることなく今は安全運転に努めています。景品は津市の「おぼろタオル」2つ、

30年表彰の時は財布だったと思うが安全協会も貧乏になりましたね。 勤め先の健康保険組合も前は無償で医療品ももらえたが今は無し。負のスパイラル現象かな。

 

 

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雨乞岳

2022-05-17 20:40:24 | 山、サイクル、ウオーキング、

鈴鹿セブンマウンテンのひとつ、雨乞岳に山友と登ってきました。

雨乞岳は、山頂に小池“大峠ノ沢”があり、雨乞信仰の対象とされてきた。それが山名の由来である。また小池は、モリアオガエルが生息することでも知られる。
 登山道は滋賀県側の甲津畑から杉峠を経て山頂に至るコースと、武平峠から沢谷、七人山コル経由で登るコースなどがある。北のコルにあたる杉峠は、信長はじめ多くの武人が越えた峠道として有名。下った甲津畑(こうづはた)は永源寺町の中心地から愛知川の支流に入った山麓にある静かな山村。ここにも信長が泊まったという陣屋跡がある。

                                         <ヤマケイオンラインより>

滋賀県側の武平峠西駐車場から8時半スタート、反対側にも駐車場があるが平日にもかかわらず、かろうじて最後の一台目で止めることができた。

下は崖なんだが・・・

沢谷歩きが多かった。

東雨乞岳から雨乞岳に向かう。

向こうに見える山は右が鎌ヶ岳、左が御在所岳

11時すぎに登頂、天候は曇りで視界は良くなかった。琵琶湖も見えるそうだが見えなかった。伊吹山は見えた。

スマホの万歩計は3万1300歩だった。午後3時頃駐車場に到着、新名神、名神から伊勢道で帰りました。

途中、新名神鈴鹿SAに初めて立ち寄った。

鈴鹿にあるウエストレーシングカーズという会社が作ったレーシングカー「VITA-01」が展示されてた。

販売価格は税込4125000円、エンジンは1500cc

オートバイレーサーが実際に着ていたレーシングスーツ、剥げてたり汚れてたりで臨場感がある。

(下の段左から3つ目はワインガードナーのスーツ)

 

ついでに

脱皮したばかりのトンボ・・・(職場で・・)

 

 

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畑の様子

2022-05-14 12:32:17 | 畑・庭・花

今年のこの時期、暑くなったり寒くなったり、沖縄・奄美は早、梅雨入りをした。畑も順調なものもあれば失敗したのもある。何がいけないのか、玉ネギ・ニンニク・ネギ・カブはさっぱりダメだった。大きくならない。雑草ばかりが元気だ。

特に今年はスズメのテッポウとスイバが繁殖している。去年はマツバウンラン、

スイカとプリンスメロン、ポツンと2つあるのはカボチャと金太郎ウリ、スイカ2苗とメロン2苗、カボチャと金太郎ウリは枯らしてしまったので2回目の苗です。スイカとメロンはポットをかぶせてた時の暑さで・・カボチャとウリはウリハムシに葉を食われてしまいました。仕事をしてるので自由に畑に行けない。土壌はやせ地なので培養土を入れて育てている。 作物を育てるのは天候やら虫、病気、肥料の影響で難しいが楽しみでもある。

手前の畝からトウモロコシ・キュウリ・ゴーヤ・エンドウは時期はずれ・ソラマメ・ラッキョウ・ジャガイモ

左からサツマイモ・ヤーコン・落花生・えだまめ・あんどんの中にオクラ・ししとう・ピーマン・茄子

真ん中のマルチにサトイモとショウガ、右のマルチは空いている。

始めてヤーコンを6つ植えてみた。過去に食べたことがなかったが、野菜炒めやサラダで食べてみて気に入ったので今年は作ってみよう。畑の梨と言われていてオリゴ糖、食物繊維が豊富で健康食品と言われています。

ぶどう棚の下にトマト、陽当たりは良くないが雨にあたらないので・・

イチゴはもう終わり、

しおれたと思ったスイカ苗が復活してきた。ネットでの吊り栽培に挑戦だ。

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平山郁夫・遥かな道

2022-05-09 19:32:17 | 旅行、お出かけ

私は洋画よりも日本画が好きです。

特に過去、平山郁夫展を見てからいいなぁと思い、平山郁夫自伝的画文集「道遥か」という本を買いました。

その本に載ってるスケッチとかの特別企画展が菰野町のパラミタミュージアムであったので見に行ってきた。

本を買ったのは発行日をみると6年前、6年後、生のスケッチ画を見ることができました。

他に<薬師寺・玄奘三蔵院の大唐西域壁画>の下図(原寸)や京都を描いた洛中洛外シリーズ、しまなみ海道シリーズも展示してありました。

平成洛中洛外シリーズ・・・・・・・二条城本丸御殿・二の丸御殿・左下方に東寺の五重塔がある

平成洛中洛外シリーズ・・・・・・・・・・京都御所・左下方に本願寺

しまなみ海道シリーズ

≪平山郁夫美術館HPより≫

平山郁夫
平山郁夫Hirayama Ikuo

昭和5(1930)年6月15日、広島県瀬戸田町(現・尾道市)生まれ。
東京美術学校(現在の東京藝術大学)日本画科卒業。昭和28(1953)年、「家路」で院展初入選。昭和39(1964)年日本美術院同人、平成8(1996)年日本美術院理事長に就任。平成10年(1998)文化勲章を受章。
ほかに、ユネスコ親善大使・世界遺産担当特別顧問、東京国立博物館特任館長、文化財赤十字活動を提唱する文化財保護・芸術研究助成財団の理事長などをつとめた。
平成21年12月2日永眠(満79歳)。

 

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和歌山城と紀州東照宮

2022-05-06 23:27:37 | お城巡り

岡山県の旅から一旦、帰宅してから次の日友人と和歌山城に行ってきました。

和歌山城は3回目、スタンプ帳をみると前回は令和元年10月29日、約2年半ぶりだ。新しい発見がある。わかやま歴史館は行ってなかったし、和歌山に行って思ったこと、なかなか食事するところがなかった。どこでもそうだろうけどちょっと中心から離れた大きな幹線道路に集中してしまってる感じだ。歴史館で聞くと市役所の14階にレストランがあるそうだ。平日なので行ってみたが、時間が遅かったのか、パンケーキしかなかった。しかしここから城がよく見える。

まあ行ってみてよかった。食事はしなかったが・・・

鯉のぼりもあがっている。

このあと紀州東照宮に行った。

 

ここからは撮影禁止   最近、松平東照宮に行ってきた。全国にどれだけあるのか調べてみた。

<ウイキペディア>より

東照宮(とうしょうぐう)とは、東照大権現たる徳川家康を祀る神社である。

元和2年4月17日(1616年6月1日)、家康は駿府城で死去。柩は久能山に運ばれ、遺言に従って江戸幕府は同年12月(翌1617年1月)に久能山に東照社を創建した。これに伴い、朝廷は翌元和3年2月21日(1617年3月28日)、神社としての東照社に「東照大権現」の神号を宣下するとともに正一位を贈位、さらに、神格化された家康本人に対しても同年3月9日(4月14日)正一位を贈位している。幕府は日光にも建設を進め、家康死去から1周忌にあたる同年4月17日(5月21日)に遷座祭を挙行し、2つの東照大権現が並立した。

しかしその後も各地の徳川松平一門大名家、また3代将軍徳川家光による諸大名への造営の進言もあって譜代大名や徳川家と縁戚関係がある外様大名家も競って建立し、全国で500社を超える東照宮が造られた(廃絶されたものを含めると約700社が確認されている[1])。

正保2年(1645)に宮号の宣下があり、東照大権現は東照宮と称するようになった。

しかし明治維新以後の廃仏毀釈と相まって廃社や合祀が相次ぎ、現存するのは約130社とされる。

これらの東照宮のうち本宮である日光東照宮、御遺体を祀る久能山東照宮に、自社を加えて「日本三大東照宮」とする東照宮は多いが、規模・華麗さで劣る南禅寺塔頭金地院東照宮が幕府の正史に遺言が残り家康の遺髪及び持念佛を祀っている。

結局、食事は帰路、サイゼリアで遅めのハンバーグを食べました。

今年のGWは3年ぶりにコロナ規制なしでテレビでは混雑の様子が出てました。外国人はまだ来てないけど・・・

後半のGWは畑仕事が待っている。

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備中高松城

2022-05-05 22:32:59 | お城巡り

備中高松城は、かつて深い堀と沼沢地に囲まれた毛利氏の堅固な要塞でした。

天下統一を目指す織田信長の命を受けた羽柴秀吉(豊臣秀吉)の参謀・黒田官兵衛の奇策「水攻め」にあい、城主・清水宗治の自刃とともに落城しました。

毛利氏の援軍が駆けつける前に、何としても備中高松城を落とさねばならない。秀吉は参謀の黒田官兵衛を交えて軍議を重ねていた。そのとき、黒田官兵衛の進言が、膠着した戦局に変化をもたらす。
「水によって苦しめられ城が落ちないのだから、反対に水によって攻めたらよいのではないか―」

この策を受け入れた秀吉は、直ちに水攻めに向けた築堤に着手した。城の近くを流れる足守川の東・蛙ヶ鼻から全長約3km、高さ約7mの堤防を築き、そこに足守川の水を引き込むことで、備中高松城を水の中に取り残された浮城にしてしまったのだ。この築堤工事はわずか12日間で完成したと伝えられている。援軍に駆け付けた毛利氏側の武将、小早川隆景、吉川元春らは、孤立する備中高松城の状況を前に為す術もなかった。    <公式サイト>より

本丸跡に城主だった清水宗治の首塚があった

 

帰路、神戸に着いてメリケン波止場近くの「万葉倶楽部」という健康ランドに泊まって来ました。

やっとビールが飲める~という感じでした。豚肉野菜炒め・枝豆・たこ唐揚げ・キュウリ

大きなビルの中にあって9階がフロント、食事7階、11階大浴場・ロッカーで他に癒しフロア・遊びフロア・岩盤浴フロアがあって18階屋上には足湯がありました。

足湯のまわりには青いLED照明、窓からは港の夜景が見えて・・

ちょっとガラスに湯気が付いてボケて見えるのが残念でした。

翌朝は有料道路を一度も利用せずに帰路に着きました。それでも午前中に我が家に着きました。一般道でも高速道のような道路が増えている感じ、信号が少なくてスピードがでる。ちなみに大阪梅田~北九州市の国道2号線ばかりを走ったら約15時間だったというYouTubeがありました。

お土産

 

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鬼城山(きのじょうざん)・鬼ノ城(きのじょう)

2022-05-05 21:06:55 | お城巡り

岡山県最後目の百名城、鬼ノ城跡は古代山城です。

鬼ノ城の地名の由来   <公式ホームページ>より

 

 鬼ノ城は、古代の正規の歴史書には登場しないが、後世の文献である鬼ノ城縁起などにでてくる。それによると「異国の鬼神が吉備国にやって来た。彼は百済の王子で名を温羅(うら)という。彼はやがて備中国の新山(にいやま)に居城を構え、しばしば西国から都へ送る物資を奪ったり、婦女子を掠奪したので、人々は恐れおののいて「鬼ノ城」と呼び、都へ行ってその暴状を訴えた・・・」。これが、一般に温羅伝承と呼ばれる説話で、地名もこれに由来している。

 

鬼ノ城の構造と規模

 鬼ノ城は、すり鉢を伏せたような形の山で、斜面は急峻だが頂部は平坦である。この山の八合目から九合目にかけて、城壁が2.8kmにわたって鉢巻状に巡っている。
 城壁は、一段一列に並べ置いた列石の上に、土を少しづつ入れてつき固めた版築土塁で、平均幅約7m、推定高は約6mもある。要所には堅固な高い石垣を築いており、その威圧感は天然要害の地であることとあわせ、圧倒的な迫力をもっている。このように、版築土塁や高い石垣で築かれた城壁は、数m~数十mの直線を単位とし、地形に応じて城内外へ「折れ」ていることに特徴がある。

 城壁で囲まれた城内は比較的平坦で約30ヘクタールという広大なもので、4つの谷を含んでいるため、谷部には排水の必要から水門が6ヶ所に設けられており、また、出入り口となる城門が4ヶ所にある。城内には、食品貯蔵庫と考えられる礎石建物跡やのろし場、溜井(水汲み場)もある。
 この他に城内には貯水池とみられる湿地が数ヶ所ある。さらに兵舎、各種の作業場なども予測されるが未発見である。

西門

第0水門あたりから総社市を望む、遠くは瀬戸内海・四国方面

城壁

角楼

鬼ノ城をぐるっと一周すると約4.5キロ・2時間近くかかるので1.5キロぐらいでやめた。鬼城山ビジターセンターでスタンプを押す。

その後は神戸あたりまでのんびりと帰ろうと思ったが、途中、備中高松城の看板があったので寄ってみた。

 

 

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吹屋ふるさと村

2022-05-04 23:04:17 | 旅行、お出かけ

地元の人に教えてもらった観光地、「吹屋ふるさと村」初めて聞く場所だ。「べんがら」という言葉や家のことは知っていたが、こんな町並があることは知らなかった。

吹屋(ふきや)は、岡山県高梁市成羽町にある地区である。金属を精錬・鋳造する職業や職人、およびその細工場を吹屋と呼ばれていた。

石州瓦ベンガラ漆喰壁の赤い町並みで知られ、歴史的町並みの残る6.4ヘクタールの範囲が重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。                          <ウイキペディアより>

屋根瓦は赤銅色の石州瓦

あとで知ったことだが3キロ離れたところに「広兼邸」というベンガラの原料で富をなした家があって、八つ墓村や最近では燃えよ剣のロケ地にもなった場所もあったが立ち寄らずに残念でした。

旧吹屋小学校(今年の4月21日にオープンしたばかりです)

<パンフレットより>

平成24年3月まで現役の木造校舎として国内最古とされていた、旧吹屋小学校(県指定重要文化財)。

明治6年(1873)に開校し、同32年(1899)に吹屋尋常高等小学校と改称して、現在の場所に移転、同33年(1900)には木造平屋建の東校舎・西校舎が落成しました。 

平成24年3月末まで現役最古の木造校舎として使用していました「旧吹屋小学校校舎(岡山県指定重要文化財)」は、文化財として後世に伝えていくために、保存修理工事を実施し、令和4年4月21日に再公開できることとなりました。

三間廊下

講堂の天井

校長室

吹屋小学校東西校舎の古瓦・(鯱鉾・鬼瓦・丸瓦)

 

 

旧片山家(国の重要文化財)

片山家は、屋号を「胡屋(えびすや)」といい、江戸時代中期から弁柄の製造・販売を手掛け、吹屋を代表する商家としての地位を確立しました。

二階の女中部屋

 

その後、総社市にある鬼ノ城跡に向かいました。・・・・・・つづく

 

 

 

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備中松山城

2022-05-03 22:12:15 | お城巡り

大和高取城、美濃岩村城と並んで備中松山城は日本三大山城のひとつだ。しかも現存12天守のひとつでもある。

ネット情報ではシャトルバスが運行してない時は一番上のふいご峠まで車で行けるらしい。朝早く到着したのでふいご峠駐車場まで行き、大松山城跡まで行ってきた。

<パンフレットより>

市街地の北端にそびえ、「おしろやま」の愛称で市民に親しまれている「臥牛山(がぎゅうざん)」標高480mは北から「大松山」「天神の丸」「小松山」「前山」の四つの峰からなり、現在、一般に「備中松山城」と呼ばれるのはこのうちの小松山の山頂を中心に築かれた近世城郭を指し、天守の現存する山城としては国内で唯一のものです。城内には天守、二重櫓、土塀の一部が現存し、昭和25年に国の重要文化財の指定を受けています。

ふいご峠からは約20分、9時開城までたっぷり時間があるので「大松山城跡」まで行ってきた。

登り始めて最初に現れる石垣の上には瓦が・・

三の平櫓東土塀(国重文)

まだ中へは入れない。二の丸より

石で出来た猫・・本丸内には本物の猫がいた

本丸東御門(本丸の勝手口にあたる)

自然の岩を利用して石垣が積まれている。(現存二重櫓)

大松山城跡(この城の歴史は古く、鎌倉時代の延応二年に有漢郷、現在の高梁市有漢町の地頭に任ぜられた秋庭三郎重信により臥牛山のうちの大松山に砦が築かれたことに始まり、その後小松山に移った。)

一旦、ふいご峠まで戻り、開城30分前に再び登りました。

 

本丸南御門より本丸へ、天守は二層二階

付け入り口から登城

一階には囲炉裏と装束の間

二階には城の守護神を祀った御社壇

天守二階の妻に付けられている「蕪懸魚(かぶらげぎょ)」江戸時代当初のもの

百名城スタンプを押し、ふいご峠に戻った時にはシャトルバスの運行が始まり駐車場には私の車のみ、バスとタクシーが登ってくるのでそのあとで降りてくださいと警備員の指示で下りました。ゴールデンウイークだからシャトルバスの運行は当然ですね。もう一台来てた人は9時前に下りていきました。スタンプ押すため、中に入りたかったので仕方なかった。

ふいご峠まで登山に来てた地元の人と話をしていてその人は「吹屋ふるさと村」にもぜひ行ってみてくださいというので行ってみた。奥様は陶芸家でそこで陶芸館をやっているそうだ。

自由きままな旅だが結構狭い道で遠かった。でもいい所だった。・・つづく

 

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津山城跡

2022-05-03 13:46:48 | お城巡り

ゴールデンウイークの中、コロナ規制が解除してもまだまだ感染リスクが高い中、久しぶりの人の移動も多くなりました。私のアルバイトも1日挟んで10連休だ。何処かへ出かけたい、なので岡山の百名城3か所に行ってきた。

<パンフレットより>

慶長8年(1603年)、美作一国18万6千5百石の国持ち大名となった森忠政は、吉井川と宮川の合流点を見下ろす小高い「鶴山(つるやま)」を城地と決定し、翌年「鶴山」を「津山(つやま)」と改めて城と城下町の建設を開始しました。

明治38年、三の丸に藩校の修道館を移築し、「鶴山館」と改称する。

復元された備中櫓

天守跡から備中櫓を見る。

天守台(独立式層塔型4重5階の天守が建っていた)

天守台

津山市街

ハート型の石垣がここにも・・

津山城に来るまではかなりの雨が降っていた。第5回牛魔王選手権という催しが中止になったみたいであちこちでテントが設置されていた。(20店の店の名前がある)

夜はホテルも予約してないし、オールナイト営業の健康ランドも見当たらない。スーパー銭湯に行ってから道の駅で仮眠、キャンピングカー2台、乗用車6台が他にいました。朝5時すぎ、現存12天守のひとつ、備中松山城に向かって道の駅を出発しました。・・・・・・つづく

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