はぐれ雲のつれつ゛れ日記

還暦が過ぎ、そろそろ人生を振り返る歳、日々の出来事や思ったことを、思いつくままに・・・。

第29回・全国山城サミット恵那大会

2022-10-24 20:14:49 | お城巡り

四国の百名城巡りに行ったとき、チラシをもらいました。城好きが集まるイベントが岩村城下と明知城下で開催された。

明知城跡はまだ行ったことがないので、明智町の大正村でのイベント会場に行った。

9時半に着くと臨時駐車場に案内され、県外ナンバーの車もたくさん、なかには四国ナンバーの車も・・・地元の秋祭りも同時開催されているので出店もいっぱい、高山ラーメンの店もありました。

土岐高山城戦国武将隊

愛知県古銃研究会による火縄銃の演武隊が出番待ちをしている。実演の時、私は明知城にいました。音だけが響いてくる。

両会場あわせて23の山城が紹介されてました。明智会場には竹田城や米子城のブースも・・

うちわやクリアファイル、マスク、ティッシュなどがパンフレットと共にくれるが、竹田城ブースではVRメガネもくれました。なかには御城印も・・・

お城好きの落語家、春風亭昇太師匠のトークも、左は考古学者、城郭研究会の中井均教授

明知城と岩村城に登るので普段着でした。

祭り会場よりもまず明知城跡へ・・・

鎧兜の髭付き面頬を模したマスクをつけてみた。付けてる人はたくさんいたけど直ぐ外しました。

明知城は別名、白鷹城(しらたかじょう)とも言います。(はくたかじょう)かと思った。

本丸跡

当時の明知城下の様子、周りには砦もたくさんあった。

城跡を下りてから、旧三宅家へ

当日は大正ロマン館も無料だった。

高峰三枝子展

衣裳やレコード、勲章などが展示してありました。

栃錦展

東京駅

帝国ホテル

大河ドラマ「麒麟がくる」光秀役の長谷川博己が着てたものと牧役の石川さゆりが着てた着物

土岐家ゆかり(明智光秀)の鎧兜・・・・(複製)

明知城コーナー

大正村歴代村長・・・現在は3代目、竹下景子

ロマン館を出ると着物姿の家族がいたので一緒に撮ってもらいました。

大正路地

「おはか」と書いてあるが、身に付けてたもの、らしい。

龍護寺は遠山家の菩提寺であり明智光秀の供養塔もある。

八王子神社

50段ぐらいの石段を上がったさらに奥にありました。平安時代に創建された千年以上の歴史をもつ、神社には明智光秀が建立したといわれる柿本人麻呂社と光秀が手植えしたという楓が残されています。・・ネットより

始めて行った「山城サミット」、百名城は遠い所ばかりになったが、近くにはまだ知らない山城がたくさんある。

中井均教授の本に「三重の山城ベスト50を歩く」というのをネットでみた。5つぐらいは登ったが買ってみたい本だ。でも土塁や堀切だけではつまらないしなあ。石垣ぐらいないと・・・このサミットでもらったたくさんのパンフレットの山城には行ってみたい気がする。

 

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大洲城下・町あるきと臥龍山荘

2022-10-14 23:06:20 | お城巡り

今回の城巡り旅は大洲城で終わり、また松山市に戻って同じところで一泊して帰る。時間に余裕があるので大洲の町を歩きました。

2014年、ノーベル物理学賞を受賞した中村修二博士は小学2年のときに大洲市に来て、大洲高校を卒業している。この場所は三の丸南隅櫓だが、大洲高校もすぐそこだ。

外堀は埋められてグランドになっているが、大きな城だったことがわかる。

旧大洲藩主の加藤家が大正14年に建築した住宅。映画「男はつらいよ・寅次郎と殿様」の舞台になった。

ニッポニアホテルの暖簾がかかっている。

大洲は全国で数少ない古民家ホテルのニッポニアホテルがたくさんある。

大洲高校内にある「中江藤樹邸跡」 体育館では女子バスケ部が練習していてたくさんの「こんにちは!」の声がきて恥ずかしかった。

<ウイキペディアより>

中江 藤樹(なかえ とうじゅ、1608年4月21日慶長13年3月7日) - 1648年10月11日慶安元年8月25日))は、近江国滋賀県)出身の江戸時代初期の陽明学者。近江聖人と称えられた。は原(はじめ)、は惟命(これなが)、通称は与右衛門、藤樹と号した

農業を営む中江吉次の長男として誕生。9歳の時に伯耆米子藩主・加藤氏の150石取りの武士である祖父・徳左衛門吉長の養子となり米子に赴く。1617年元和2年)米子藩主・加藤貞泰伊予大洲藩愛媛県)に国替えとなり祖父母とともに移住する。1622年(元和8年)祖父が死去し、家督100石を相続する。

1634年寛永11年)27歳で母への孝行と健康上の理由によりに対し辞職願いを提出するが拒絶される。脱藩に潜伏の後、近江に戻った。郷里である小川村(現在の滋賀県高島市)で私塾を開く。これが藤樹書院である。1637年(寛永14年)伊勢亀山藩士・高橋小平太の娘・久と結婚する。藤樹の屋敷に藤の巨木があったことから、門下生から「藤樹先生」と呼ばれるようになる。

この後、車で大洲町の駅「あさもや」に移動して町歩き。

おおず赤レンガ館

ポコペン横丁・・・・奥は「思ひ出倉庫」

「保湖辺神社」20円でおみくじが引ける

そのほかにNHKテレビ小説「おはなはん」のロケ地通りや明治の家並みなどを歩いて、「臥龍山荘」に行きました。ここはすごくいい所だった。

臥龍窟・・・ここは氷室として使われていた。

肱川では落ち鮎漁をしてました。

 

今回、3泊4日を計画してたが、思ったより順調にすすみ2泊3日でまわることができた。

再び、松山市に戻り、また「喜助の湯」へ

オーバーナイト利用は会員入会しないといけない、入会すれば利用料700円で駐車場代も無料だ。

今度はカウンター席へ・・天井が開放的でいい

今度はテレビを見ないのでリクライニングシートではなく個室スペース、マットが敷いてあるので痛くならない、

イヤホン持参したのでスマホで過ごす。充電器無料貸し出しでフリーWi-Fi こんなスペースでも煙探知機らしきものやスプリンクラーらしきものがついている。

旅行から帰ってから、全国旅行支援が始まった。旅行会社を通したりホテル予約をしないといけない。

私のような気まま旅では利用は無理だ。ニュースでは宿泊施設の便乗値上げが横行しているらしい。割引の意味がない。2日間とも5000円台で済んだ。高速道路代は仕方ないが・・・・・。

 

 

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宇和島城と大洲城

2022-10-13 21:01:49 | お城巡り

現存12天守のうち今度は宇和島城だ。

まだ一度も行ったことがないのは青森の弘前城だけになった。いつ行けるだろうか?仕事を完全に引退してからになるかな?ここはやはり桜の季節に行きたい。

宇和島城は、慶長20年(1615)に伊達政宗の長男、秀宗が入城後、明治を迎えるまで”西国の伊達”9代の居城でした。国の重要文化財に指定されている天守は、宇和島伊達家2代藩主の宗利が寛文6年(1666)頃に建築したものです。かつて同所には築城の名手として有名な藤堂高虎が、慶長6年(1601)に建築した天守がありました。<パンフレットより>

伊達宗利の寛文天守は層塔型の天守だが、藤堂高虎の慶長天守は望楼型天守だった。

登城口

小さい天守だが、最小は丸亀城の天守です。

万延元年に作られた天守閣模型

縮尺十分の一で柱の太さもそうらしい。

左から豊臣秀吉、伊達秀宗、伊達政宗、の甲冑・・(レプリカ)

天守より宇和島の港方面

続いて再建天守だが、木造で作られた大洲城へ向かう。

大洲城は明治21年(1888)、惜しくも天守が取り壊されてしまいましたが、4棟の櫓は解体を免れ、いずれも国の重要文化財に指定されています。4層4階の天守は、明治期の古写真や江戸期の木組模型などの資料をもとに平成16年(2004)に木造で復元されました。<パンフレットより>

 

大洲の町

 

城内にいたとき、「伊予灘ものがたり」という観光列車が橋上を通過するので旗振りの協力をお願いします、という放送があった。大洲城の思い出にのぼりを持って振ってきました。

橋の上では止まるほどのスピードで通過していきました。

伊予灘ものがたり プロモーション動画 2015 長編 ">

2022年4月の運行からは、全席が特急列車グリーン車指定席の扱いとなり、利用者は乗車区間の運賃と特急料金、グリーン料金が必要となっている。食事付が条件です。

 

大洲の町は古い町並みも残っていて、町歩きもしてきた。・・・・・つづく

 

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松山城

2022-10-12 23:11:00 | お城巡り

40数年ぶりの松山城、あまり覚えてないがロープウェイで行ったような記憶が・・・・大晦日で後輩と松山市のサウナで過ごし、道後温泉に入ったことは覚えている。坂本龍馬の銅像を見るのが目的だったから。そして船で広島に渡り、路面電車で広島駅へ・・そして元旦に電車で帰った。当時の写真は高知で撮ったものしか残ってない。高知城では土佐犬(闘犬の横綱)と写したスナップ写真もある。今でも闘犬はやっているのだろうか?

今回は歩いて松山城に登った。現存12天守のひとつで四国には4つもある。日曜日で混むといけないので早めに市役所近くの地下駐車場に車を止める。ほんとは無料の二の丸庭園駐車場に止めたいが、9時からなのでしかたない。

8時頃、県庁裏の二の丸庭園から登城スタート、庭園も9時開園なのでパス。

しかし登っていくと少し二の丸庭園が見える。

戸無門(重文)

筒井門と隠門(重文)

筒井門・隠門(重文)の裏

太鼓櫓と巽櫓

松山城420周年記念の牛乳パックで作ったランタンが木にもぶら下がっている。おもに幼稚園児の作品。

一の門(重文)

筋鉄門東塀(重文)

天守入り口

北隅櫓(有形文化財)と十間廊下(有形文化財)

小天守(有形文化財)より天守(重文)を見る

天守から本丸を見る

小天守より一の門、二の門

三の門(重文)

乾櫓(重文)と野原櫓(重文)

瀬戸内方面

蛇口から出るみかんジュース(350円)で休憩

本丸で一番高い石垣(17m)

松山城の石垣は初代城主の加藤嘉明によりほとんどが築かれている。(打込ハギ・切込ハギ)

やっぱりいた。

鬼門(北東隅)に建つ天神櫓・・久松松平氏の祖先神である天神(菅原道真)が祀ってある。

帰りは「登り石垣」があるルートから下りる。

やっぱり現存天守はいいですね。コンクリートの城とは違って。黒ずんだ柱をつい触ってしまう。

このあと、もうひとつの現存天守の宇和島城に向かいました。

 

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今治城と湯築城跡

2022-10-11 17:50:40 | お城巡り

今治城は日本百名城のひとつで、高松城・中津城とともに日本三大水城のひとつでもあります。

<パンフレットより>

今治城の地は瀬戸内海に面し、「吹揚げの浜」と呼ばれた砂丘地帯でした。築城の名手として名高い藤堂高虎は、関ヶ原の戦功で伊予半国20万石を領し、慶長7年(1602)にこの地に築城を開始しました。のちに高虎は伊勢、伊賀に移り、今治城には養子の高吉が在城します。寛永12年(1635)に徳川将軍家の家門である久松松平氏が3万石で城主となり、海側の郭の大改修を実施、最終的な今治城の完成をみました。

天守は史上初の層塔型天守で、現在の天守は本丸跡の北隅に昭和55年(1980)に再建した模擬天守です。

現在は内堀のみだが当時は中堀、外堀の三重の水堀で囲う広大な城でした。内堀も50~70mもあり、弓矢の射程距離を上回る広さでした。

石垣の下には地盤を強化するため「犬走り」があった。

鉄御門(くろがねごもん)

天守より来島海峡大橋が見える。

城内の「吹揚神社(ふきあげじんじゃ)」

 

その後、松山市内の湯築城跡へ・・

ここは何もないが、100名城のひとつだ。

中世の城郭である湯築城は、近世の城郭が持つ石垣や天守が無く、地形を利用して作られた平山城です。

中世の伊予国の守護であった河野氏が南北朝期から戦国期まで約250年間にわたって居城としていました。

今は道後公園として日本の歴史公園100選にも選ばれている。

ザクロが生っている木を初めて見た。

展望台から道後地区を見る。

公園に車を止めたまま、近くに道後温泉があるので、せっかくなので入って来ようと思った。

24歳頃に本館に入ったことがあるが、「道後温泉別館・飛鳥乃湯泉」が近いのでこちらにした。

今年の春に写真家の蜷川実花(にながわみか)が撮影した花の写真230点が設置されていて華やかだった。

3D技術でプリントされているらしい。

すごく混雑しててコロナ禍でもあり、45分ぐらいの待ち時間だった。受付を済ますとスマホに電話がかかってくるのでそれまで買い物したり散策できる。QRコードで順番も確認できるので助かる。

風呂から出ると明かりが点灯してた。

松山と言えば「坊ちゃん列車」 土日祝日のみ運行してるらしい。

 

今夜は松山駅前にある「伊予の湯治場・喜助の湯」でオーバーナイト

駐車場は前に1000台以上止めれる立体駐車場があって、喜助の湯利用者は4時間無料、オーバーナイトは朝9時まで無料だ。

風呂上りはここで食事、天井がむき出しなのがいい。

湯は1700mからくみ上げた源泉かけ流しです

もうすぐハロウィン、あちこちにカボチャが置いてありました。

クリスマス前に来ればよかったかな。電飾飾りできれいかも・・・・。

 

 

 

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四国・城巡りの旅

2022-10-11 17:43:21 | お城巡り

連休を利用して、四国の100名城は残り5か所残ってたので行ってきた。

行きは、しまなみ海道から因島水軍城と村上海賊ミュージアムに寄って四国に入った。

しまなみ海道は初めて通る。うれしくて車中からスマホでパチリ、これは因島大橋か?

しまなみ海道をロードバイクで走る若者がたくさんいて、コンビニにも休憩してる人がたくさんいた。

因島水軍城は史料館です。ここに城はなかったが島にはいくつかの城があった。

<パンフレットより>・・・村上海賊(村上水軍)

室町時代から戦国時代にかけて、芸予諸島を中心に活動した海賊(水軍)です。
現在の尾道市の因島、今治市の能島、来島を本拠地とした三家に分かれ、時には結束し、時には互いに戦いながら、瀬戸内のほぼ全域の海を支配していました。

「海賊」という言葉は、現在では海上を航行する船や沿岸地域から強引に物資等を奪う人々を指します。因島村上氏が活躍していた頃は、海で活動し、通行料が払われなければ強奪することもありますが、普段は札浦(関所)で通行料を徴収し、水先案内人として、瀬戸内海の各地域との交渉もしていました。また、中国などの海外諸国とも交易をしたり、平時は漁業者として活動もしていました。まさに 「海とともに生きる人々」だったのです。ですから、現在の海賊という言葉と当時の海賊は意味が違っていました。「海賊」という言葉は戦国時代当時から使われていて、織田信長に仕えた宣教師ルイス ・ フロイスは、村上海賊を 「 日本最大の海賊」 と呼んでいます。

江戸時代から水軍と呼ばれた。

因島村上家の家紋は能島村上家と少し違う。

因島村上家、現23代当主は映画監督の「村上典吏子」

ホタテ貝の兜と海戦に使われた焙烙玉(ほうろくだま)(現物は無し)

因島村上一族の墓地

続いて、大島にある「村上海賊ミュージアム」へ

小早船と繋船石

第一次木津川口合戦(毛利水軍とともに大阪本願寺へと兵糧を運んだ村上海賊は、大阪湾で織田水軍を破った。

「村上海賊の娘」本屋大賞受賞記念レリーフ

能島城と鯛崎島(能島村上氏の本拠地)

ミュージアム前から能島城が見える。ユーチューブに空からの映像があったので確認する。

その後、100名城の今治城へ・・

 

 

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新美南吉記念館と常滑やきもの散歩道

2022-10-06 20:34:01 | 旅行、お出かけ

今日は誕生日、運転免許証の更新のため、津市の免許センターに行ってきた。優良更新なので講習は30分、9時45分には新しい免許証に変わった。

せっかくなので事前に津市の友人と会う約束をし、知多の半田市に300万本の彼岸花を見に行こうと思ったが、すでに遅し、ほとんど枯れていた。見頃は10月上旬までと出てたが9月終わりでも遅かったくらいだ。

車を止めた新美南吉記念館に入る。

  • 新美南吉(にいみなんきち)・・・・・公式HPより

    1913年(大正2)7月30日~
    1943年(昭和18)3月22日
    愛知県知多郡半田町(現在の半田市)出身
    児童文学者
    東京外国語学校英語部文科卒業
    本名:新美正八(にいみしょうはち)
    代表作:「ごんぎつね」「手袋を買いに」「おじいさんのランプ」「牛をつないだ椿の木」「花のき村と盗人たち」「久助君の話」「でんでんむしのかなしみ」他

名前は知らなかったが、「ごんぎつね」は聞いたことがあった。

日記とか書いていたので生い立ち等々、新美南吉のすべてがわかる記念館だ。

「南吉の昭和17年」という特別展が催されていた。17年だけでもたくさんの資料がある。戦争の真っただ中だが病気を患っていたため、死は覚悟をしてたみたいだ。昭和18年3月に29歳で亡くなった。

童話絵本が立体絵本として紹介されている。

旬彩美食「てん」

昼は贅沢に1680円のランチ、鮎の塩焼き、エビフライ、白身フライ、茶碗蒸し、味噌汁、あなごの甘露煮、ご飯お代わり自由

この後、常滑市の「やきもの散歩道」に行きました。昨日から涼しくなって暑くもなく寒くもなく快適な散歩でした。

陶磁器会館の駐車場は満車だったので近くの店「侘助」所有の駐車場に止めて500円払う。

とこにゃん

廻船問屋「瀧田屋」

 

土管坂

両面焚き倒焔式角窯

窯内部(3つの壺は硫酸壺、焼酎壺)

登り窯

登り窯の焚口

窯跡

個人宅の石垣代わりの土管垣

今はパン屋さん

煙突のある風景、(煙突の中から木が生えている)

平日であったが、女性の観光客が多かった。 なんとなくわかる気がする。

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