内と外

中性よりの人間から見える世界から
「境界線」の性質を探ります

2020/11/26

2020-11-26 23:29:04 | ビジネス境界線
「脳はなぜ心を作ったのか」
という本を読んでいる


今まで頭で理解しようとしても
体は全く理解していなかった
自我は幻なんだという世界観が
自分の体験や
本当に幻であると信じるしかないような
生き方をしている生身の人間と
出会ったことで
自分の中で徐々に大きくなってきていた

ネットで同じような内容を探していたら
この著者の記事をたまたま読み
興味がわいてすぐ本を買ってみた


この人はロボット科学のような
研究をされている人のようで
どうやったら人間の心を
ロボットで作れるか
というアプローチの仕事が生業


こういう科学の世界の人が
自論として
「意志を持って自分を動かしていると思っている"私"は幻である」
という事を科学的なアプローチから
説明していることがとても面白い


精神世界を追及しているような人達
からすれば
もはや当たり前のように扱われている
こういう類いの話は

もともと自分が自分のために
追及していっている
という目的のせいもあり

自分が経験したことを
自分に説明する以外においては
他人に証明する必要性が
もともとないため
科学的なアプローチとは無縁と
なりがちな気がするし
証明というような
疑いを晴らしていくアプローチ自体が
どうやら馴染まない

そもそも人間の内的なものを
説明をするための共通の言語は
極端に存在せず
この手の事を誰でも理解できるような
理論的な説明を試みているものには
あったことがなかった



この著者の場合
基本的には
人間の心をロボットで作る事が
目的であり
精神世界の追及ではないからこそ
純粋に科学的アプローチから
自我や心といったつかみどころのない
対象を他人に証明できる形で
研究されているのであるが

全く違う分野から
同じような結論が導かれていることが
とても面白い


一方で心を専門とする心理学や精神医学の世界からすると
異端でありトンデモのような論理で
恐らく扱われてしまうだろうとも思う

人間の心 感情 一つの命
そういったものに対して
絶対的な尊厳を持たせる立場の
学問も多いため
真っ向から否定することにも
なりかねない


この著者は
自分の持論に対して
絶対そうなんだ
だって私は感覚として知っているから
というような
自分の実体験があるわけではない

あくまでも
実験結果をもとにした上で
「意志が動く前に体はいつも動いている」というような様々な
心関連の謎現象を
全て説明がつく仮説を
見つけてしまった!
というスタンスであり

もしかすると
その理論がいわゆる悟った人達が
当たり前のように言っている類いの事と
同じであることにも
気づいていないようにも見える
だからこそ面白い


マインドフルネスのように
最近は精神世界と科学の
自然なすりよりが
多くなってきている

それは同時に
謎めいた精神世界に対しての
ハードルが下がり
科学信仰が基本の現代人にとっては
身近に興味を持ちやすくなってきた
とも言えるかもしれない


とはいっても科学では
絶対にこの分野の全てを
解き明かすことは
出来ないのは明白だと思う


どんなに文明が発達して
色々な知識や科学が生まれても
水中や宇宙空間で息が出来ないと同じで

内的な世界は観測不能な分野である

観測不能であることを
観測して証明しようとしているような
ものだから
どこまでいっても科学や哲学が
心の先にあるものにたどりつくことは
永遠にない気がする


主体が存在しないということを
観測できるのは
幻である主体の自我だけという矛盾

もう理屈ではどうにも出来ない世界
だと思う



感情は今起こっている

2020-11-26 22:42:29 | ビジネス境界線
カウンセリング講座で
その時の自分に
物凄く響いた言葉に

過去の話でも
未来の話でも
そこに起こったクライアントの感情は
常に今この瞬間に起こっている
だからその感情を捉える必要がある

という教えでした

随分と目からうろこだったことを
覚えています


過去に囚われていても
未来を悩んでいても
その感情は常に今起こっている

なかなか言われなければ
気づきませんでした


だから感情をとらえることは
いつでも今をとらえることになります


過去の記憶だろうが
未来の想像だろうが
感情が対象であれば
今その時の自分を
とらえることになる

ここに前に進むための
全てのスタートのきっかけが
隠れている


目を向けられる
意識をされると
それは次第に昇華されていく

そしてセミの脱け殻のように
意味のない記号としての
記憶だけが残る

もうそこには強い感情は残らない

そして優先度が下がる事で
意識が別の軸で向くようになり
色々な事に気づくことになる

その気づきは
手にいれた脱け殻の記憶があるからこそ
新しい気づきが生まれる

それは一歩引いた
客観視であることがとても多い

その脱け殻の記憶と
今までの自分の持っている記憶や概念が
統合されるといっても良い気がする


この過程を経て
平常に治るのではなく
自分が再構築されることで
結果的に平常に戻るのである












自分の変化をまとめる

2020-11-18 20:30:27 | ビジネス境界線
大きな衝撃を経験した

大きな情動が起きた

大きな体の変化が起きた

耐えられないレベルの苦痛により
精神病になった

そんな状況でも
心のような世界に対する探求心の方が
勝った

その探求心がギリギリのところまで
背中を押し
そしてゆっくりゆっくり帰ってきた


あんな辛い経験は二度としたくないと
思う

でも何かを経験するために
自分のどこかはそれをじっくり観察し
その状況から得られるものを
全て持ち帰るんだ
という
二重構造の自分がいつもいた


ようやくその収穫物が
何だったのか
余裕を持って考えられるように
なったが

一番のこと

それは

「一つの命」

という思い込みの解除かもしれない

この思い込みが外れることで
自分の中の複雑な心
他人の複雑の心
それを理解することが出来る
すなわち
そのまま受け入れられることが
出来るようになった

自分と相手の
矛盾しているものを
受け入れられることは
同時に

自分と他人の区別が
しっかりつくことにも
深く関係している

自分と他人の境界線がうまくない人は

自分の矛盾を受け入れることが
出来ていない状況であること

そして
他人の矛盾を受け入れることができない

だから自分と他人という
矛盾を抱えた一つの集合体を
認識することができない

少なからず関係していると思う


矛盾しているから
他人を認められないことは
よくあることだろう


自分の価値基準から考えたときに
矛盾しているのである


でも同時に自分が
とんでもなく矛盾している集合体
であることに気づくこと

一つの命
一人の自我

そんな思い込みが消え
自分が何かの要素の集合体であること

それに気がつくと
自分という命や自我が
ただ色んな要素が広がっている何かの
一部を切り取ったと仮定した
矛盾した存在であることに気づく


他人も同じ原理で見ることが
出来るようになる


この視点になると
人間の変化による矛盾に
随分と寛容になってくる


あの人は昔こういったのに
今は真逆の事をいっている

よく人間の評価が下がる要素として
登場するが

当たり前であると感じるようになる

色々な色の砂が散らばっている
画用紙の上を
万華鏡を少しづつ動かすと
一部の画面が様々な色形に
変化していく

この画面こそが
一人の人間
一人の命
という
人間が人間に対して考えている
自我由来の幻である

それはどんどん変化していく

緑が多いときもあれば
赤が多くなる時もある

丸い形になるときもあれば
尖った形になるときもある


その対象の人間は果たして
本当に人間なのか



という文字をずっとみていると
判別できなくなる

ゲシュタルト崩壊

と同じだ

これは自我による幻で
人間は人間を認識して
一つの命も認識している


でもよく観察すれば
全然そんなことにはなっていない


一人の中に
2人いることもあれば
8人いることもある

そう捉えた瞬間その幻は
現実になるのである


人間はこの幻を
ある程度共有することができる

自分と他人の自我が
境界線を共有すると
幻の世界では
正式に実在することになる


政治やビジネスの世界でも
この原理は同じである


自分が引いた境界と
誰かが引いた境界が一致すれば
それはより濃く
事実
として証明されていく

この濃さを
人間社会では
事実と呼んでいるのである


一つの命という思い込みが溶けることは
事実なんて無限に存在するし
実は一度も存在したことはない
という矛盾に気づく
とも言えるかもしれない














境界線をひくセンス

2020-11-16 20:11:12 | ビジネス境界線
人間が与えられた道具

それは自我であり

何かを認識する能力


自分を認識する

他人を認識する

ありとあらゆるものを認識し実在させる


この自我の能力は何をやっているかと
いえば

ある一定の場所に境界線をひき
その内と外を別のものと認識する

ということをやっている



全ての自我を持った人間に
備わっているこの能力の使われ方

そのつかわれ方で
その人は
自分にとっての事実を造りだし
同時に他人にとっての事実にも
影響を与えているのである


境界線をひく能力には
自分に備わっているものと
自分以外から学んだ知識の
2つがある


優秀な経営者の条件を
一つ答えるとすれば
私は真っ先に
「境界線をひくセンス」
とこたえる

M&A
パートナーとの付き合い
社内の組織づくり
損益感覚の主体

この視点から考えると
経営がやっていることは
とても理解がしやすい

根本を考えれば
自我の能力の延長なのだから
自我・・・・・・経営
を繋ぐ要素に

もともと持っている生命としての性質
実体験からの信念や価値観)
そこから派生して起こる感情

こんなものが経営を司る中核で
あることは想像に容易い

形式上
ビジョン
ミッション

といった名称で呼ばれ
中期計画や戦略を作り上げる
屋台骨となっている



価値観や信念というものは
その人間の自我が産み出した
境界線の集合体である



人となり
という言葉も全く同意義と感じる

どんな時に
どんな経験をし
どんな風に考えて
どんな風に行動してきた人か

これは言い換えれば

どんな時に
どんな経験をし
どんな事に
どんな境界線を引き
どんな信念をつくり
どんな感情を感じ
どんな行動をしているのか

となるだろう



私が
この人は面白い
と思うのは

この境界線をひくセンスが
人と違う人である

経験が違うのか
もともとの性質が違うのか

それが分からなくても
そんな人に私は面白さを感じ
一緒にいたいと思う


これは私が単純に
そういう性質だからなのだが
私が面白いと感じる人は
常人と違うだけあって
物凄いものを秘めている人が多い


ただ
境界線をひくセンスが人と違う人

という要件は
決して近付きたくない人

も含んでいる


面白いと思って近づきたい
境界線のセンスがある人

近付きたくない
むしろ危険を感じる
境界線のセンスがない人




この差はなんだろうと考えてみたら
わかった


自我が歪であるかそうでないか
ただそれだけである


自分の性質に沿った自我を持っている人
すなわちそれは自分にただ素直に
生きている人である

そんな人のもっている
人と変わった境界線というのは
自分に素直にいるだけで
かなりのパワーを持っている
それが面白いのである



自分の性質に沿った自我を持っていない
自我が歪な人は
ただただ自分の性質に気づいておらず
知識やテクニックで
自分の自我を作ってきた人である

そういう人は常に無理をしている
本人は勿論気づいていない
自分の性質に目を向けて
いないのだから当たり前だ

問題は
そういった歪んだ自我からは
歪んだ感情が
勝手に生まれてしまう
ということだ

それがその人の行動に影響し
その周りの他人や環境にも
影響を与えるのである


境界線をひくセンスを
突き詰めて行けば

それは自我の境界線をひくセンス

ここに集約されるのでは
ないかと思う

まとまるという感覚

2020-11-12 20:18:00 | ビジネス境界線
色々雑多に乱れているものが
整理整頓されスッキリした

こんな感覚は誰でも経験することです

纏まってスッキリする

というのは
何が起こっているのかといえば


乱れている状態をいっしょくたに
表現できる言葉を見つけた時に

スッキリ

が起きることが最も多いのでは
ないでしょうか


言葉は
あくまでその張本人
にしか分からない感覚やニュアンスを
含んでいる事が多く

他人がたまたまその言葉を
言い当てたとしても
その張本人がどうして
その言葉で「まとまった」
のかは知るよしもありません


でも間違いなく
人間は言葉を使って
自分自身のために
表現することが出来るという
一つの証明でもあります


カウンセラーは
この一つの効果が
「偶然」起こることを願って
相手の発する言葉を
そのまま使うことを心がけます

一般に同意語として扱われる言葉も
張本人からすると全く違う意味に
なってしまうこともよくあります


でも適切な言葉が存在しない時には
言葉以外が必要になることも
当然あるでしょう


あくまで張本人が何かを感じ
今の状況の説明がつくことが
大事なのです


何かをしている時に
自動的に起こった連想によって
過去の記憶に基づいた感情が
現在に蘇り
今の状況に納得がいき
「まとまってしまう」ことや


今新しく経験した何かによって
今までまとまらなかったものが
とたんにまとまってしまうことも
あります



ではまとまるというのは
一体なんなのか

ということですが


一言で言ってしまえば
言葉通り

散らかっているたくさんのものを
まとめる道具を見つけた


ということです



この道具が
もともと自分の中に持っているもの

今まで持っていなかったけど
今手に入れたもの


という違いはありますが

「道具を見つけた」

という感覚こそ

「まとまってスッキリした」

という気持ちの正体なのです



ではこの道具とはなんなのかというと
ある一つの視点」
だと思えます


視点を手に入れると
まとまってスッキリするのです

視点というのは
主体が存在します


私という生命にとっての
主体とはただ一つの私である

と思うことは当たり前だと思います


この前提をほとんどの人は崩さず
私という存在の視点をもって
私以外の存在の視点を想像します

どんなに相手の事を考えても
自分が経験して知っている要素を
もとにしてしか
他人の事を想像することはできません

だたし相手の視点を考えることで
自分一人の視点よりは
随分と色々な視点があることは
想像ができます

「相手の気持ちになって考えよう」

というのは
自分自身にとっての道具を
より多彩にするという意味で
やはり大事なことだと思います


ただどこまでこれを努力しても
自分の知っている要素でしか
想像は出来ないところに
限界が常に生じます


しかし人間生きていると
この限界を超えたことが
自分に起こることがそれなりに
起こります


自分に理解できないこと
すなわち
自分の中にそれをまとめる要素が
ないものが現れると
人間はとんでもない不安や恐怖を感じ
ストレスを感じます

そこで自分がもともと持っている要素で
何とか説明できないだろうか
と模索していくのです

不安や恐怖が余りにも強い時には
場合によっては
強引に自分に対して
自分が知っている要素で説明をし
思い込むことを核心的に
することもあります


「現実を見ようとしない」
「逃避している」
と他人から見える状態は
どうやらこの状態だと思います


不安や葛藤がそこまででもない場合には
「悩む」状態になるでしょう

この不安や葛藤が逃避までいかない
状態というのは
実際のところ
答え
すなわち「道具」が既に自分の中に
ある程度埋もれていることが
多い気がします


誰かに相談したり
ゆっくり話しているうちに
ひとりでに自分で
「あっまとまった」
となることが多い


自分の中に全く道具の欠片もない場合は
自分がその事を実は一番わかっている

だから不安恐怖は
とんでもないものになり
そこから逃げる
見ないようにする
という最上級の退避策を
とるのです



何はともあれ
どんな状態であっても

「要するに道具が見つからない」
状態が「スッキリ」を妨げる原因です




では道具である視点を多く手に入れれば
入れるほど
心はスッキリし安定すると言えるでしょうか

ところがたくさんの視点を持っていても
結局は自分の中の要素に基づいている
という制約はなくならないため
悩みがすくなることも余りありません


本当にたくさんのあらゆるものを
理解できる視点を手に入れることが
出来れば安定は訪れるでしょう

でもそれは視点の主体が
生命の自分
自我
というものにフィックスされている限り
無理なんだと思います

余りにも狭い視点なんだと思います

自我が安定する道具としての視点
というのはいわば境界線です

何かをまとめるというのは
道具=視点を使って境界線をひくと
いうことです


これは自我が主体ではなくなった時点で
境界線がないと不安定になる自我自体の
境界線がなくなるわけですから
安定させるための道具すら
入らなくなる可能性もあります