これは養老先生の言葉です
養老先生をyoutubeで知り
言っている事が
コトバガ違うが同じ対象を
話しているなあと
勉強になるので
よく見させて頂いているのですが
同じと違う
というのがありました
動物は
違うが得意
同じが苦手
違いは《感覚》から生まれる
人間は同じと捉えるのが得意
そこから言葉が生まれた
こういう意見でした
まずこの問題に着目していることに
激しく同意するのですが
違いは感覚である
ここに私は違和感を覚えました
私も同じ題材を
随分考えてきましたが
違いを認識する主体は
自我だと思っているからです
それは感覚ではない
とここまで書いて
嫌?と疑いもある
今日私はよっていて
散歩して少し休んで
スマホをいじって
ラインをみた
一通り終わって
歩き始めた時に
今7時50分くらいだと
無意識に知っていた
私の自我はスマホの画面の
時間を一回も捉えていなかったが
私の自我の意識が時間に向いた時に
恐らくスマホを立ち上げた時に
一瞬表示されたであろう時刻を
無意識に記憶から呼び出し
理解したのだ
これには私はびっくりしてしまった
本当に自分で意識していないものを
視覚に入っていれば
能が記憶していることが
証明されたからだ
その経験を踏まえれば
養老先生の違いは感覚だ
という話は納得できてしまう
視覚と能の記憶は
自我とは別次元で
7時50分を認識区別したからだ
意識と自我について同じ意味のような
形で今は話している
私は自我そのものが違いを認識する
ものだと思っていたので
なかなか面白い
養老先生は
同じ
それが言葉を産み出した
と言っている
私は違いと同じ両方とも
もしくは違いの方がどちらかというと
言葉を生み出す要因だと
思っていたが
養老先生は
同じ
すなわち統合
それこそが言葉の本質だと捉えている
ようだ
私の世界ではそれを踏まえると
同じ
という能力こそが自我の能力で
言葉の正体こそ
自我の本質の現れであると
翻訳して理解した
養老先生は猫の例を出した
猫は違いが鋭くわかるが
同じは苦手
ここに私は反論がある
私は動物にも自我があると
思っている
私の同じと違い理論は
ひろがる力と
ちじまる力
そのものであり
それを人間の世界で例え話とするなら
どこまで自分なのか
これが一番よく表している問題だと思う
動物にも自我があると思うのは
動物にも拡張自我があるからだ
養老先生自ら
猫の話の中で
猫にとって人間の家族を
はっきり見分けている
というのがあった
これは猫の生命の形から一歩はみ出した
より自分に近い生物を
拡張自我として
捉えた結果であろう
私も猫にペロペロなめてもらうことが
よくあった
猫は自分の体をよくなめる
そして親しい間の生き物も
ペロペロなめる
好きとか嫌いとかの話ではなく
近い遠い
そういう感覚でそれをしている感じを
感じる
猫は自分の生命とそれ以外の生命を
同じとしてくくっていることになる
これは統合である
決して動物も同じ
を苦手とはしていない
違いは確かに感覚なのかもしれない
同じも感覚なのかもしれない
それを意識上に認識させるのが
自我なのかもしれない
しかし人間だけが言葉を使う
というような論調での
人間だけが自我がある
それは私は違っていると思う