内と外

中性よりの人間から見える世界から
「境界線」の性質を探ります

評価されること

2019-10-30 22:30:58 | ビジネス境界線
評価されないよりは
やっぱり評価された方がいい

心が健康であることは間違いない


でも評価されない時というのは
自分がどんな事を大切にしているかが
よく分かる

その大事にしているものの
理解者がいないから
評価されないのである

永遠と自分の気持ちが
自分の中だけでぐるぐるする


だから自分と他人の区別が
とてもわかりやすい


行きすぎれば病気になるが
常に評価され過ぎるのも
自分が誰だかわからなくなる
可能性もある

評価されると自分と評価者は一体になる

評価者が権力を持っていれば
表面上自分はそれ以外の人からも
評価を受けることになる

本当に自分を評価している人と
表面上そうしている人との差は
わかりにくくなるものです


こんな時は幸せなのだけれど
一人の自分が弱っていることを
理解しておかなければなりません


どいつもこいつも
私と同じに見えたら要注意

とても危ない危険信号ですね

これはバブルの力を持っています
気づいたときには時遅し何てことも



評価されないことは一人の自分として
自分をみつめ見直す
そんな大切な機会でもあります

何で評価されないのか

相手を理解していないから
相手から理解してもらっていないから

単純なのですが
これに気づいて実行してもなお
効果が現れなければ
間違いなく
そこにいるべきではない

それだけが答えです


いくら考えても時間の無駄

いつか理解し合える時がくるかも
しれない

でもそれは一代じゃ無理な次元の話かも

確実に
理解できる
理解してくれる

幻想でもそんな感覚になれる他人
というのは存在します


そんな人に出会うと
今までの苦労が嘘のように
自分が評価される人に変わるのです


たったそれだけ


でも頑張ろうとする人もいる
認められない状態から
認めてもらえるようになろうと
その中で

例えば
今まで認めてくれた人が
認めてくれなくなった

こんな時はなおさら諦めずらい


それは人が変わったのです

今は一緒にいるべきではない
それだけです



人はもっともっと流動的に
なればいいと思います


感情を排除しようとする
機能の大人社会も
結局評価となれば
感情で決まるのです


ただ本当に他人なんてどうでもよい
環境なんて自分に影響を与えない
そんな人になったときだけは
評価者を見つける旅も終わります

いつかそんな自分になりたいと
思いますが相当先になりそうです






確率という視点

2019-10-30 00:13:07 | ビジネス境界線
論理には主体がつきもの


大抵は人間が主体なのだが


時には主体が人間以外の論理も存在する




科学が「観測できるできない」を
相手にすると行き詰まってしまうのは
人間主体から逃げられないもどかしさに
くすくすと笑いが込み上げてくるが



どうも確率という世界は
胡散臭いらしい


これは人間という主体を
越えている概念だから
とても眉唾なのである


私は今日30%の確率でうんこをしない

私はタバコを吸うので
ガンになる確率が1%から5%にあがる


こういうロジックを聞いて
本当に理解できる人は
存在するのだろうか


私が何かをする確率は0%か100%しか
ないのである

私が何かになる確率も0%か100%しか
ないのである


私の30%だけがうんこをしないわけが
ないのである


主体と条件が定まると
結果はいつでも一通りしかない


いやいや
10人集めたら3人が
うんこしなかったから
やっぱり30%じゃないか


こういう考えは屁理屈という


10人集めた自体で

この時点で主体は
この10人の塊なのである

あるいはこの10人をもっと大きな
視点で見ている神なのである

この10人の塊や神は
自分の30%がうんこをしなかったと
思うだろうか

10人のバラバラの主体を
認識しているから
30%の概念が後付けで出てくるので
あって


いつでも確率というのは
騙されている気がしてならない


平均値と偏差値の違いくらい
違うものを

一緒の土台で押し付けられるような
怪しさ


私がこれからやることは
私にこれから起こることは

100%

私がやることなのですし
私に起こることなのです


何故なら

主体が「わたし」だから





カウンセリングについて

2019-10-25 22:49:48 | ビジネス境界線
カウンセリングという言葉が
まず嫌だ


カウンセラーも
カウンセリングも

支援とか援助とか
主体が間違っている

お前が主張してどうする
お前のビジネスはどうなっている



来談者中心療法

という言葉は
とてもしっくりくるとともに
同時に違和感を伴う


この業界はどうなっているんだ?
そんな事を主張しなければいけないほど
相談という行為に
当たり前のように優位をつけてしまう
土台の環境を感じる



教えてもらうのです
あくまでカウンセラーは
自分以外の人間が
どんな環境で
どんな時に
どんな事を大事にして
どんな事を感じ
どんな事を思うのか
そしてどんな感情にとらわれ
身動きがとれななるのか



人間の仕組みを教えていただく

建前はビジネスでも

本音は逆転している

当たり前のようにお客様



建前はお客様なのに

本音はビジネス

これでは成り立ちません





もう一つ




「言葉を使う」という既成概念

確かにカウンセラーは
言葉を巧みに使って導くことが必要

でもその理由は

相談者は「言葉が苦手」で
悩むところまで来ている状況を
忘れてはならない


言葉が巧みな人は
自分で解決できるのだ


なぜなら今の自分自身を
的確に自分に対して
表現してあげる事が
頭の中で行えるからだ


私は言葉がとても苦手で
障害と感じるレベルでもある


だから追い詰められると
ギターを弾く

自分自身を表現できるものは
言葉よりも3歳から一緒の
音楽の方がしっくりくるからだ


でもそれは相手には伝えられない



だから自分の中で堂々巡りを
してしまう


自分自身を表現できないと
体に異変が現れる


自己概念が崩れるからだ


自己概念と
身体症状には
とても深い関わりがある


自分が分裂してしまうのである

自分の肉体が
自分の自己概念から
離れてしまうのである


自己一致という言葉に
私は本当に救われた


これは自分を守る最後の砦だと
考えた方がいい



ここで

「自己一致」が相談者の目的だと
したら

使う道具は「言葉」だけで本当に
よいのか



私はとても感心したことがあって

私が通ったところでは

紙に書いて説明してくれるところだった

相談側も
受け止める側も

焦点が第三者になるという
心理的負担を考えた上での
事だとも思うが

私にとっては

言葉よりも
紙に書いてくれる図や記号の方が
言葉よりもずっと意志疎通に
適していたという点だ


その時話すことが出来なかった自分も
絵や図でなら相談できたんではないか


そんな気づきを与えてもらった





話を戻すと

カウンセリングと言われている行為は

相談者が全ての決定権をもって
自身が自己一致するために行う行為
である

そしてそのための手段は
法やビジネスのルールに触れない限り
自由である


悩んでいる人に
話せというのは酷である



こういう時こそ
自分が持っている
マイノリティな自己表現方法が
その人にとって安心して
活用できるものであること


言葉なんて使う必要はない

特に相談者は
自分を表現したいものを
自由に表現するために
そこにくるべきなのである



そんな行動について今は言葉がない


とても悲しい事である







一人の自分が出来ること

2019-10-25 21:46:19 | ビジネス境界線
組織の自分が出来ること

私の人生は
ずっとこれを頑張ってきました

嫌いじゃない
やっぱりみんなと力を合わせては
とても好きです


でもずっと置き去りになっていた
もう一つの自分

一つの生命としての自分が出来ること


随分年をくいましたが
ここにようやく
自分が自分を求めてきた気がします


そんな自分に気づき始めたきっかけは
野宿でした



昔から一人ですることに関しては
何でそんな事我慢できるの?

ということを私は全然
平気で出来るのです


普通の人はお金なくても
宿を借ります

私はどうしてと思いました
とても料金が高いと感じるからでした

だから私は野宿を平気で出来ました

いいおじさんが町中のベンチで
寝れもしないのに
宿に金払いたくないという理由で
夜をあかそうとしたのです


何でこんな選択をするのかといったら
野外で夜を明かすことが
本当にきつい事を
体で知らないからです


何度かやってみて
生命の自分が本当に危機を感じるくらい
きつい事であることがわかりました

家が何のために存在しているのか
おじさんになってやっとわかりました



野宿はほんの一例で
私は頭で知っただけだと
理解が出来ないタイプのようです

体で知る事で少しづつ
自分の生命の境界がどこにあるのかを
手探りすることが出来るのです


自分の生命の境界を知ると
今までの判断基準は
少しづつ変わってきます

経営者の立場に汚染され
サービス残業
(という概念さえ不潔と思っていた)
をして組織に尽くすこと
は自分の誇れる美学でしたが

もう今の自分は全く違います

自分の命が会社から脅かされる経験をし
「私の生命を脅かそうとするもの」
は全て敵とみなす判断が
自動的に出来るようになりました



自分が飲める酒の量の限界を知る


自分の命についても
これと同じことが言えるのだと
わかり始めてきました

自分の命の限界を超える経験が
自分の命を大事にする境界を
作ってくれるのだと思います


自分の命の境界線がはっきりし始めると
不思議と自分の原始的な
やりたいことがみえてきます


そして何より大事なのは
その一つの生命としての自分の役割が
何かで果たされると
一つの生命はとても喜ぶという事です


いい悪いの問題ではなく
安心する
落ち着く
安堵する
というのは
この役割を果たしてあげるときに
うまれるんだと思います



目的が

幸せに安心して行きたい

みたいなことであれば

一人の自分の命を中心に
行動規準を整えてあげれば
よいわけです


でもでも

それが全て良いわけでもないと
私は思います

いつだって片方だけなのです


命が喜んでも

それが主体でなければ

その反対も存在するのです





個人主義の成れの果て

2019-10-23 22:09:52 | ビジネス境界線
個人個人個人

こんな時代の流れは未だ
衰えません

情報社会の影響が
それを促していることは
否定できないと思いますが

個人に目が向くということ自体が
何故起こるのかを真剣に考えてみる
必要がありそうだと感じます


一つの理由に
人間の命に関わる問題が
ジリジリゆっくり起こること


なんだか満足な食事ができないほど
貧しくなってきている

なんだか仕事を奪われてきている

なんだか何のために生きているか
本当にわからないほどつまらない

不安を感じるような
やってはいけないことを
少しずつやらされ続ける

何年たっても将来年取ってから
生きていける目処がたたない


人間の命が重いとされるのは
人間の命を重いと感じた人がいるからです


少しづつ死に近づかされる人間は
実際死にはしない状況で
脳も正常な状態で
不安や恐怖を感じます

こういう人間が個人主義を作る
ある一つの原動力にはなっている
と思います


一気に生命の危機に達した人間とは
また少し反応が違うような気がします




それはさておき


個人主義の流れはどんどん進み

ついに分解は
個人をさらに分解し始める時代に
突入している

10年20年で
個人が維持できなくなった疾患者は倍増


人間の命は

外側から脅かされるのではなく

内側から脅かされる時代になったのです




ただこの世界の仕組みは単純


どこかで折り返しが必ずくる



また統合の時代がくるまで

人間の生命は

あらゆる感情というマシンを使って

進み続けるのでしょう