この答えはまだわかりません
意識が戻る
意識を持て
意識が高い
これらの意味は
ぼんやりだが同じ意味を表している
試しにネットの辞書で調べたら
意外と十分な内容でした
1五感を知覚する「状態」
2「きづくこと」「気にかけること」
3精神状態の直観
4精神の知覚
5志向的な体験全て
6対象を総括判断分別する第6識
3~5は心理学哲学用語
6は仏教領域
としていとも簡単に説明されていて
私の問いに対して
充分この言葉はその問いの答えとしての
役割を公に担っている言葉だと
わかりました
仏教について
全く無知に等しい段階ですが
第6識の能力というのは
私が自我の能力だと思っていた能力
そのものが書かれていました
私が自我だと思っているものは
仏教の第6識でいう意識という言葉の
ことなのか?
この機能とはすなわち
・①分別する能力
・②統合する能力
・③総合的判断により
①と②を組み換える能力
(変化を生み出す能力)
これがそのままかかれていたことに
特に興味をもちました
これは更に難問と思われるため
今は諦めますが
もう少し一般的な方の「意識」
という意味については
1から5の
一般に使われる言葉も
心理学的哲学的な意味も
ほぼ一緒であると感じました
「意識」という言葉を
主体としとらえるか
動詞や現象としてとらえるか
他の対象からみた対象ととらえるか
この違いでニュアンスが違うだけで
みんな同じものを表している
と感覚的に理解ができます
1五感を知覚する「状態」
これはまさに
私=意識という立場での説明です
自分のことだから
それは自分の状態という説明になる
2「きづくこと」「気にかけること」
これは私を主体として
その中の一部の能力としての
捉え方
3精神状態の直観
2と同様に私を主体として
その中の深層の自分というような捉え方
4精神の知覚
これは自分を客観視する他の主体として
捉えた見方
5志向的な体験全て
私の全てが意識という主体
もしくは
人間を科学的に観察した客体としてみた
見方
あらゆる方面から
意識というものを説明することを
試みてはいる
それを読んで聞いても
私たちは何となくその言葉の意味が
感覚として理解はできる
しかし「それ」自体が何なのか
言葉で説明することができない
ということもよく分かる
そして
私にもなり主体にもなり客体にもなる
これが最大の意識の謎であるとも
私には感じる
この問題の1つの切り口は
意識がこの3つの立場であるときに
「私」とは何であるのか
ということである
意識はつまりあれである
ここを見ようと思い
眼球が動いて両目の焦点を合わせ
その情報を積極的に取り入れ
判断を行う
といったような一連の行為を生み出す
私の中の影の支配者のようなもの
この支配者はこれを聞こうと
ある音だけに焦点をあてることも
出来るし
右手の感覚だけに焦点をあてることも
できる
匂いや味に焦点をあてることも
勿論できる
5感を使った大量の情報の
取捨選択を行う「何か」
これが意識に対して持っている
私のぼんやりした正体だ
5感ではない思考というもので
考えてみても同じようなものだ
ボーッとしていて
あ今なに考えてたんだっけ
という事がある
これは
実は脳は動いている
しかしその脳の動きを
見失ってしまった時に
終えなくなってしまっただけだと思う
何に意識を向けるかは
私がコントロールしているかのように
思う
「私」は
「意識を向けるぞ」と思い
対象に
目を向ける
耳を傾ける
触覚を預ける
鼻を向ける
舌を差し出す
しかし意識が向いていなくても
私たちは勝手に動いている事も
同時にしっている
頭で悩みながら
同時に痒い場所を掻いている
そこを掻いたという短期記憶だか
掻かれた場所の後の感覚に意識が向いてだかわからないが
「私は今足を掻いた」という事実を
後で知る
だから意識が私たちを
行動させている訳ではない
そして
私が意識をコントロールしようとしても
うまくいかない事も
私たちはしっている
食べたいあれを忘れて
今は仕事に没頭しよう
禁煙しよう
今週は酒を飲まないようにしよう
失恋相手を思い出さないようにしよう
怒りのあいつを思い出さないように
しよう
どれもこれも私が意識をコントロール
出来ない事は実証済みだ
①私=自我=意思
②意識
③生物体としての行動
ここでこの3つが
大きく区分できる
私たちは
①>②>③
この力関係で世の中をいきていると
何故か思ってしまうのだが
先の礼の通り
①<②<③
であることが反例によって
確実に実証されている
この相対関係の中での
②意識の正体とは何なのか
というのが私の問題である
全くもってわからないが
分かることもある
まず意識というのは有限である
ということだ
仏教でいう意識は
よく分からないが
私たちが一般に使っている意味での
意識は有限である
疲労によって減少する
逆に疲労というの1つの意味は
持っている意識の器が
枯渇することで起きる減少とも言える
意識が枯渇すると
私は自分の行動を追えることができなくなる
行動と私を繋ぐ媒体だからだ
私は自分の脳にアクセスできなくなり
私は自分の知覚にアクセスできなくなり
ただの仕事も生活もできないへたれに
なる
しっかり休養をとると
意識は完全復活する
私は睡眠というのは
この意識をたっぷりと復活させるための
営みだと思っている
というか自分の体がそうだから
意識を俊敏に切り替えて行うような
仕事は朝が適しているのは
そのせいだと思う
眠さとか体の疲労とかとは別問題だ
私は自我の能力だと思っていたものは
もしかしたら意識の能力なのかもしれない
仏教のヒントがまた1つ体験を
教えてくれた
これが正しければ
私という自我すなわち意思
というものには
何の能力ももはや残されていない
与えられた世界を
私のお陰だと自分勝手に
ただ思い込む
変なやつなのである
私という存在は
私は意識を操作できない
意識は行動を操作できない
だとしたら
行動は誰が行っているのか
理論ではわかる
誰も行っていない
ただ何かがおきているだけ
生活体と生活体ではない
ものとして特徴の差から
シンプルに意識が分別を行い
その結果を私たちは
私と私じゃないものに
分けて捉える
その結果が
私が行ったことという
イリュージョンの感覚を
引き起こさせているのである
心理学でいう
意識と無意識という概念は
あくまで
「私」という箱主体で
この摩訶不思議を捉えたものである
私だけど私の知らない私
という表現がふさわしい
しかしこれはおこがましいと
言わざるをえない
ここでいっている無意識という領域は
意識という存在がまず
お皿に取り分けてくれた一部の料理を
「私」が私のエサだと認識している
だけの「私」が
取り分ける前の料理や
その料理素材の源まで
「全部私のエサだが
私の知らない私のエサであるだけ」
といっているに等しい
こう考えてみると
意識というのは
私というおバカさんの
母親代わりをやってくれているような
そんな存在なのだろう
これは区別しておくからね
あなたの分だと思うんだねー
そうだねーあなたのエサなんだねー
といった具合に
「私」がこの世の中を勘違いするための
土台をせっせと準備してくれ
勘違いしても特に文句を言わない
そうして「私」はすくすくと育ち
勘違いした「立派な大人」に
なるのである
意識の正体に少しだけ
近づけたような気がする
意識というものを客体として捉えたとき