内と外

中性よりの人間から見える世界から
「境界線」の性質を探ります

意識とは何なのか

2021-11-30 23:40:04 | ビジネス境界線
この答えはまだわかりません

意識が戻る
意識を持て
意識が高い


これらの意味は
ぼんやりだが同じ意味を表している


試しにネットの辞書で調べたら
意外と十分な内容でした

1五感を知覚する「状態」
2「きづくこと」「気にかけること」
3精神状態の直観
4精神の知覚
5志向的な体験全て
6対象を総括判断分別する第6識

3~5は心理学哲学用語
6は仏教領域
としていとも簡単に説明されていて

私の問いに対して
充分この言葉はその問いの答えとしての
役割を公に担っている言葉だと
わかりました


仏教について
全く無知に等しい段階ですが

第6識の能力というのは
私が自我の能力だと思っていた能力
そのものが書かれていました


私が自我だと思っているものは
仏教の第6識でいう意識という言葉の
ことなのか?

この機能とはすなわち
・①分別する能力
・②統合する能力
・③総合的判断により
①と②を組み換える能力
(変化を生み出す能力)


これがそのままかかれていたことに
特に興味をもちました

これは更に難問と思われるため
今は諦めますが


もう少し一般的な方の「意識」
という意味については

1から5の
一般に使われる言葉も
心理学的哲学的な意味も
ほぼ一緒であると感じました


「意識」という言葉を
主体としとらえるか
動詞や現象としてとらえるか
他の対象からみた対象ととらえるか

この違いでニュアンスが違うだけで
みんな同じものを表している
と感覚的に理解ができます



1五感を知覚する「状態」

これはまさに
私=意識という立場での説明です

自分のことだから
それは自分の状態という説明になる


2「きづくこと」「気にかけること」
これは私を主体として
その中の一部の能力としての
捉え方

3精神状態の直観

2と同様に私を主体として
その中の深層の自分というような捉え方


4精神の知覚

これは自分を客観視する他の主体として
捉えた見方


5志向的な体験全て
私の全てが意識という主体
もしくは
人間を科学的に観察した客体としてみた
見方



あらゆる方面から
意識というものを説明することを
試みてはいる

それを読んで聞いても
私たちは何となくその言葉の意味が
感覚として理解はできる

しかし「それ」自体が何なのか
言葉で説明することができない
ということもよく分かる

そして

私にもなり主体にもなり客体にもなる

これが最大の意識の謎であるとも
私には感じる


この問題の1つの切り口は
意識がこの3つの立場であるときに
「私」とは何であるのか

ということである


意識はつまりあれである

ここを見ようと思い
眼球が動いて両目の焦点を合わせ
その情報を積極的に取り入れ
判断を行う
といったような一連の行為を生み出す
私の中の影の支配者のようなもの

この支配者はこれを聞こうと
ある音だけに焦点をあてることも
出来るし

右手の感覚だけに焦点をあてることも
できる

匂いや味に焦点をあてることも
勿論できる


5感を使った大量の情報の
取捨選択を行う「何か」

これが意識に対して持っている
私のぼんやりした正体だ


5感ではない思考というもので
考えてみても同じようなものだ


ボーッとしていて

あ今なに考えてたんだっけ

という事がある

これは
実は脳は動いている

しかしその脳の動きを
見失ってしまった時に

終えなくなってしまっただけだと思う



何に意識を向けるかは
私がコントロールしているかのように
思う

「私」は
「意識を向けるぞ」と思い

対象に
目を向ける
耳を傾ける
触覚を預ける
鼻を向ける
舌を差し出す

しかし意識が向いていなくても
私たちは勝手に動いている事も
同時にしっている

頭で悩みながら
同時に痒い場所を掻いている

そこを掻いたという短期記憶だか
掻かれた場所の後の感覚に意識が向いてだかわからないが

「私は今足を掻いた」という事実を
後で知る


だから意識が私たちを
行動させている訳ではない

そして
私が意識をコントロールしようとしても
うまくいかない事も
私たちはしっている


食べたいあれを忘れて
今は仕事に没頭しよう

禁煙しよう

今週は酒を飲まないようにしよう

失恋相手を思い出さないようにしよう

怒りのあいつを思い出さないように
しよう


どれもこれも私が意識をコントロール
出来ない事は実証済みだ


①私=自我=意思

②意識

③生物体としての行動


ここでこの3つが
大きく区分できる

私たちは
①>②>③
この力関係で世の中をいきていると
何故か思ってしまうのだが

先の礼の通り
①<②<③

であることが反例によって
確実に実証されている


この相対関係の中での
②意識の正体とは何なのか

というのが私の問題である


全くもってわからないが
分かることもある


まず意識というのは有限である
ということだ

仏教でいう意識は
よく分からないが

私たちが一般に使っている意味での
意識は有限である

疲労によって減少する


逆に疲労というの1つの意味は
持っている意識の器が
枯渇することで起きる減少とも言える


意識が枯渇すると
私は自分の行動を追えることができなくなる

行動と私を繋ぐ媒体だからだ

私は自分の脳にアクセスできなくなり
私は自分の知覚にアクセスできなくなり
ただの仕事も生活もできないへたれに
なる



しっかり休養をとると
意識は完全復活する


私は睡眠というのは
この意識をたっぷりと復活させるための
営みだと思っている

というか自分の体がそうだから

意識を俊敏に切り替えて行うような
仕事は朝が適しているのは
そのせいだと思う

眠さとか体の疲労とかとは別問題だ


私は自我の能力だと思っていたものは
もしかしたら意識の能力なのかもしれない

仏教のヒントがまた1つ体験を
教えてくれた

これが正しければ
私という自我すなわち意思
というものには
何の能力ももはや残されていない

与えられた世界を
私のお陰だと自分勝手に
ただ思い込む
変なやつなのである

私という存在は


私は意識を操作できない
意識は行動を操作できない

だとしたら
行動は誰が行っているのか

理論ではわかる
誰も行っていない

ただ何かがおきているだけ


生活体と生活体ではない
ものとして特徴の差から
シンプルに意識が分別を行い

その結果を私たちは
私と私じゃないものに
分けて捉える

その結果が
私が行ったことという
イリュージョンの感覚を
引き起こさせているのである

心理学でいう
意識と無意識という概念は

あくまで
「私」という箱主体で
この摩訶不思議を捉えたものである

私だけど私の知らない私

という表現がふさわしい


しかしこれはおこがましいと
言わざるをえない


ここでいっている無意識という領域は

意識という存在がまず
お皿に取り分けてくれた一部の料理を

「私」が私のエサだと認識している
だけの「私」が

取り分ける前の料理や
その料理素材の源まで

「全部私のエサだが
私の知らない私のエサであるだけ」

といっているに等しい


こう考えてみると

意識というのは

私というおバカさんの
母親代わりをやってくれているような
そんな存在なのだろう


これは区別しておくからね
あなたの分だと思うんだねー
そうだねーあなたのエサなんだねー


といった具合に
「私」がこの世の中を勘違いするための
土台をせっせと準備してくれ
勘違いしても特に文句を言わない

そうして「私」はすくすくと育ち
勘違いした「立派な大人」に
なるのである


意識の正体に少しだけ
近づけたような気がする





























意識というものを客体として捉えたとき










表現とは

2021-11-27 12:13:32 | ビジネス境界線
夢を見る

起きた瞬間に
それを言語化しようと
試みようと繰り返していると

100の夢の10も表せないことが
よく分かる


この一連の流れには
大きく分けて2段階がある


夢の中で感じた何かの感覚

起きたときに
これをまず内的な心の中で
記憶として思い出す段階

次にこれを言語化する段階
の二つだ


この第一段階は
意識的に繰り返す事で
随分と瞬間的には復元出来るようになる


しかし
この段階で既に100の要素のうち
80くらいの要素が抜け落ちてしまう
こともその過程でよく分かる


言語化される前の段階
すなわち

イメージ
概念
5感の感覚

このようなものでさえも
高度な符号化のひとつであり

記憶として保存する事ができるための
大きな重要な変換作業と言える

内的な第一次符号化とでも呼ぶ
この作業は
実に人間という生物にとって
世界を作りだしている
基本的かつ最重要な機能といっていい

この一次符号化は
他人に伝えることができないが
自分が自分の世界の中で
交流するためには
充分な保存記号として機能する


しかしこの一次符号化は
長期的に保存することができない

長期的な記憶として保存するためには
更にシンプルな二次的な変換が
必要となり
ここで言語が登場する
あるいは
ある一定の記憶の塊
エピソード記憶や
カテゴライズされた概念知識

によって置き換えることで
自分の内的世界の中でも
長期的に保存が可能な記憶として
定着させることができる


ここまでがとても重要な符号化の
流れになるが


社会生活を考えたときには
この次の段階の
第三次符号化
と呼べる作業

いわゆる「表現」と呼ばれるものが

重要視されてくる


内的な符号化を
客観的な符号化へと
更に推し進める行為である

自分にしか伝わらないものから
他人に伝達可能なものへと
変換させることが

社会を中心に考えた場合には
最も大事なコミュニケーションとなる
事は明白な事実だ


しかし
一人の生物個人として考えた場合には
この二次〜三次間ではなく

1次〜2次間の符号化こそ
最も基本的な符号化と言えるだろう

自分という概念を作りだしているのも
この二次符号化の記憶の集合体であり
自分の持つ世界観についても
同様である


社会性のしつけが厳しい育ちをしてきた人は

この0~1~2次の自分の内的世界内での
符号化変換による表現が
わからないままになっている人が多い

反対に3次の符号化は問題なかったりするのだが
その理由は
2から3次という流れではなく
3~2次へという逆流の符号化によって
鍛えられていることに
由来するだろう


自分の定義が
社会のルールの定義によって決まる
という流れである


社会からすると私は真面目らしい
社会からすると私は今裕福らしい
社会からすると私は今悲しいらしい

こういった3次から2次への符号化の記憶
により
自分と世界が出来上がっていくのである

しかしこれはやはり
表現という言葉は合わないだろう

表現というのは
自分の生命由来の源から
社会や世界に対して
という方向性で符号化を行う行為であり

表現によって作られる
自分や世界の記憶というのは
所謂幸せな状態を生みやすい

なぜなら
生命にとって一番喜ばしいことだからだ

生命とは何かと言えば
ホメオスタシスのことである

まずそういう現象がそこにあり
その現象が私たちが私だと思っているもの(自我)を一生操っているのである

生命のホメオスタシスからすれば
自我に対して自分自身をより正しく
捉えてもらいそれをずれなく私だと
捉えてもらう事を喜びとする

胃の中に何もなくなる
ビタミンbが必要となれば
ホメオスタシスは
外部から該当の食料を取り入れ
栄養を補給する動きが始まる

自我がホメオスタシスに正しく操られた
状態であれば

「お腹が減った」
「今私は豚肉を食べたい」
と思い
仕事の途中でも肉を食べるだろう

これは非常に原始的な動きのようにも
見えるが

一次二次三次符号化の流れを
考えてみれば
結構複雑な事をやっているのである

何しろ
夢の100要素のうち10も最終的に
認識できないのであるから

ホメオスタシスの動きから
肉を食べる行動までは
かなり真剣に自分の内的な世界と
向き合っていなければ
生命からのメッセージは
取りこぼしてしまうのである


しかしホメオスタシスの奴隷となり
表現作業に徹していると
生命にとっては最も理想的な
私と世界が作られていくため

幸せ

になっていく


自分自身がホメオスタシスを持った
生命体であることを否定する人は
いないであろう

しかし自分自身のホメオスタシスに
直に向き合って
自分は生命だ
と感じているのか

あるいは
生物学のような科学知識の集合によって
私は生命だ
と感じているのかによって

先に述べた自己と世界の定義の源は
180度違う世界となる

本当の意味で
生物にとっての幸せと不幸せとは
全てホメオスタシス由来で
決まるといっていいと思う


生命由来の表現は
ホメオスタシスに従う行為なのだから
一番手っ取り早い幸せを掴む行為
なのである


























嫌がる事をわざとする意味

2021-11-25 22:40:32 | ビジネス境界線
私は昔から人が嫌がることをするのが
好きだ

嫌がっている姿をみるのも好きだ

サゾではないし
人が苦しんでいたら嫌だ

これは何だろうと考えてみて
一分くらいでわかる今の自分が
恐ろしい


何で嫌がっているのが面白いのか

嫌がっている姿が面白い

何でその姿が面白いと思うのか

嫌という感情が分かりやすく見えるから

何で感情が見えると面白いのか

素の状態をみることができるから

何で素の状態を見たいと思うのか

その対象が好きだから知りたいから



という訳で

幼稚園児が好きな子のスカートめくりを
する心理が
ほぼ説明いくわけです



怒るか怒らないかのギリギリのラインを
私は楽しむことが好きで
嫌われるのだが

心底その対象に興味があるから

これは間違いない






心理学と経営理論

2021-11-25 21:33:01 | ビジネス境界線
心理系での勉強の中で出会った
産業心理学
組織開発

自分が今まで考えて続けてきたことが
学問によってこれだと感じるとは
思わなかった

随分自分が常に興味をもって
仕事をしているものがわかったのだが


今中小企業診断士を勉強しはじめ
組織論に入ったところで
同じ体験をした

物凄く好きな分野だ
物凄く自分の価値観が
育ちすぎている分野で
かつ
それを過去の研究歴史の中で
私が体験してきたものが
きれいに説明されている

そういう感覚である

また
心理系でまなんだ学問と
丸かぶりなのがまた面白い

同じ研究に対しての
違う研究畑からの視点の違いも感じ
なるほどと思う


ここで大事なのは
それだけ心理と組織というものが
密接で重要な繋がりをもっている
事である


組織の内部は殊更だが
組織の外部に対してのマネジメントでも
心理を軸に持ってくる必要性は
嫌というほど感じる


組織を理解するコツは
と問われれば

私は間違いなく
感情を理解することと
即答するであろう


結構勘違いしやすいものとして

感情と理性

というものがある


この理性
この人間の合理的要素

私がここでいう心理とか感情というのは
この理性も含んでいる話である


理性的で合理的である
人間のいち要素やいち機能は
それ自体も人間の
「理性的で合理的でありたいなあ」
という心理感情の一部だとして
捉えた言葉の意味である
(本来は自我機能の事をいっている)


人間の自我から発生する様々な現象が
組織を理解してマネジメントするという
経営分野においても

至極重要である

これを学問間での繋がりから
強く感じることができた


生活が苦しいと余裕があるの境界線

2021-11-06 01:08:52 | ビジネス境界線
私は離婚を経験してから
一人で
自分の収入を
自分の生活にあて
その結果どうなるという

収入と生活のバランスに
随分と真剣に挑んでみた


まずビックリしたのは

自分が必要とするお金は
自分の仕事のプライドとする金額とは
一切離れたレベルで充分だ
ということだ


おじさんになって
新卒1年目よりも
収入が減った時には
さすがに腹がたった

それがどんなに私を
バカにした行為なのか色んな人に
訴え続けた

とにかく信じられないと思う報酬

それは私のプライドという
大人人格がどうしても
受け入る事が出来ないこと


絶対的の観点からも
相対的な観点からも

この不一致問題を
何とかしなければならない
という強烈な力が働く


しかし
ある一定の収入補完処置が
与えられたとたんに
随分と心が静かになった

最低限のラインではあるが
最低限の生活が
脅かされない安心感のある金額となると


収入が低いけど
まっいいか

そこには恐怖から逃れることができた
餓死はもとより
自由でいたい自分へのコストであり

「生活」

という舞台で
おおよそ満足を与えられるライン
というものが
そこにはある


このラインが満たされないと
人にとっては大きな反発力が生まれる

反対にこのラインを超えた後の世界は
こうしたいああしたい
といったような
目的とセットになった要求となる


つまりこれは
「衛生要因」と「動機づけ要因」
といわれるものの間の境界であり
マネジメントや組織論などの立場からも
非常に重要なものとなる

個人によってこのラインは
勿論様々である

しかし世の中はデータとして集まると
それなりのラインに平均がよってくる
ものである

集団へ与える環境の平均値を
すなわちベースとなる給与などを
どこに設定するべきか


これは組織として非常に重要で
低すぎても高すぎても
うまくいかなくなる

給与の支給項目一つをとっても
一人の人間の生き方をベースに
設定していく事が大事である



新卒は正社員であっても苦しい

この苦しさというのは
生活の苦しさではない

手取15~20万前後というのは
生活は勿論できるが
自分のやりたいことが
自由に出来ない苦しさである

若いからこそやりたいことが多い
だからなおさら苦しいのだ


これが手取り20~25
すなわち5万上がると
とんでもなく余裕を感じられるように
急になってくる

支給額としたら
20万から25万の間に
大きなラインがある

この間に
衛生要因と動機づけ要因は
あるといって構わないと思う

さらに手取り25~30ともなると
独り身であれば
基本的な生活するだけであれば
間違いなく使い余す

余った分は浪費されたり
貯金にまわされたりと
自分には自由が与えられている
という気持ちを感じられるだろう


一方で
独り身と家族もちの
このラインは大きく違うのも
当たり前である


こんな当たり前の事でも
採用担当者が
そんなことを考えずに
3人の子持ちをアルバイトで
平気で雇ったりすることも充分に
あるのだから恐ろしい


収入の3/1以上の返済となる
貸付を実行するような
心もとない行動


このラインは
組織にとっても
個人にとっても
大事な境目として
生命の境目として
認識すべきだ