内と外

中性よりの人間から見える世界から
「境界線」の性質を探ります

誰にも邪魔されない自由

2021-07-28 21:00:26 | ビジネス境界線
私の核心はオリジナリティ

そうだと思っていた

これに気づく事は
これを握りしめたその時代に
自分がタイムスリップすることと
同じだ

それは小学校だった

私のとても深く重要な部分であり
きっかけははっきりしないが

このオリジナリティというのは
あらゆる既存のヒエラルキーから
自由になるための
信念なのであった

人間社会には
どこにいっても
ヒエラルキーが存在する


私は絶望していたのであろう
小学生の私は
自分が自分の自我を自由にできる
唯一の場所として
オリジナリティを叫んだのだ



これは逆を言えば
ヒエラルキーに拘っている現象だ

ヒエラルキーとは
上下優劣である

この価値観の中で
自分が生きているからこそ

そこから自由になりたいという
基礎概念が生まれる



だからあらゆるヒエラルキーは
私の中にあり
上下優劣関係として
認識される


私は全く別の方向性から
仕事をしている中で気づいていた
ことがある

自分が一つのヒエラルキーの頂上に
いるときに気づいたのである

ひとつは下位層に対しての罪悪感

もうひとつはもともと持っていた
誰の下にもなりたくない
オリジナリティの方向性

これは
「誰かの上に立ちたいわけではない」
「でも下扱いされることは
決して許さない」

この謎の自分の価値観があることを
ずっと疑問に思っていた


下から這い上がり誰かを倒す
でも相手の上になったとたんに
そうではないあなたと私は同一にいます


これが私の人生の
繰り返しのパターン


だから勝負事にはめっぽう弱い

麻雀をしているとよくわかる

自分が負けているときは
とてもその状況が許せない
言い訳や相手の罵倒など
あらゆる心理的表現で

相手より私が下であることを
絶対に認めない

しかし自分がバカ勝ちすると
全然気力が沸いてこなくなるのだ

相手と同じ並列になりたいという
無意識が働き
リードを維持するという事が
一番精神的にきつい状態となる


ビジネスでもこれは全く一緒であり
戦闘民族には絶対なれないと
感じてきた理由である


これが何なのか
ずっと疑問であったが
今日ついにオリジナリティの信念と
結びつき謎が溶けた


「私は誰にも自分の自我を
邪魔されたくない」
「自分の自我をいつでも
自由にしていたい」
のである

これが究極の私の核心であることが
わかった

これを核とすると全ての謎が
溶けるのである


上にはたちたくないのは
相手の自我を支配したいわけではないから
そこには罪悪感を覚える
何故なら自分の自我の自由をそれだけ
重視している世界で世の中を見ているから
相手に対しても同じ尺度で
考えているからだ


そして
あるヒエラルキーで下位になることを
全力で避けるのは
他人の自我に自分の自我の自由を
奪われるのが嫌だからだ

これは私にとっての戦争であり
「私にちょっかいをだすんじゃない」
という段階までの生命の主張である


そしてもう一つの信念
オリジナリティは

この土台を元にして生まれた
一般的なヒエラルキーの中で
私はどれも私だと思える
ヒエラルキーの中にいなかった

レヴィンは
社会の作り出す価値観やヒエラルキーの
どこにも自分を属すことができない人を
マージナルマン
(境界の人)
と読んだのに違いないという核心がある


人から見たら羨ましい立場の人が
自分自身では全く満足できず
それはそもそもその尺度が
自分の自我尺度ではないから
悩んでいる

というような話は
随分と多くある


私も勿論ずっと
マージナルマンであった

年をとるまで
ずっと自分を表現するものが
世の中にない
という事で悩んでいた


だからオリジナリティという
阿多らしい土俵で自分を表現する場を
維持しなくてはいけなかったのだ


私だけではなく
同じ考えの人は
似たような回路で
オリジナリティに行きついている人は
多く感じる

やはり既存の価値観の中で作られた
ヒエラルキーに属すことに
違和感を持った人たちが多い


私のオリジナリティ信仰は
こうして悩める小学校の中で
生まれたのであった


私の信念の一番の核は
「自我の自由」
であることは
とても当たり前の感覚がありつつ
妙に腑に落ちてしまった








政治と経済

2021-07-27 21:55:18 | ビジネス境界線
私の時代の経済と言えば
資本主義のことである

資本主義とは?
と尋ねられて
100%こうだと
言い切れる人は少ないだろう

一人の人間が味わう
社会の道理と
この資本主義の道理が
どこまで一致していて
どこからが違うものかは
一人の生命としては
非常に体感しにくい

社会主義という対比するものが
あるからくっきりと浮かび上がる部分が
あるわけで
その本質が何なのか
それを全部体感している人などいるのか


私たちの経済といえば
資本主義である

ヨーイドンっで
「儲けたい人
どんどん儲けてください!
というのが資本主義っぽいイメージ


ではこの発言をしている人は
一体誰なのか
と考えれば

それは国なのである

国という一つの生物が主体であり
主義というのは国が決めている方針
である

では方針を決める役割は誰?
となると
これは政治となる

国と政治というのは
同一視される感触があるが
これは全く別物である

政治は役割に過ぎない

そして政治という本性は
随分と純粋で
いつの時代も形を変えず
政治として存在し続けてきた


それは国という一つの生物
または人間が集まったあらゆる組織に
必然的に生まれる機能であり
政治はいつでも分かりやすく
政治として存在する

国がこの政治機能に任せて決めた方針が
経済システムである

こういう順序があるから
政治は経済を下位として扱う

自分達が決めている土俵の中の
存在だと認識している


しかし政治の機能の本質とは何なのか

これは一言で言えば
「調整」なのである

色々な決め事を作るのが政治
そしてその決め事は
今までのルールに反していようが
利害の圧力によって
塗り替えられ作られていく


この「利害の圧力」こそが
本来の国のパワーの源である

この源泉のパワーを
あらゆる手段で調整するのが
政治の役割である

個別で考えれば問題が
あるようなものを含め
非常にどろどろした世界だ

それは単純に調整役に徹している
ある意味正しい世界なのかもしれない


「利害の圧力」の大部分を
担っているのが経済界だ

ここを自由奔放にさせる
というのが
おそらく資本主義というやり方なのだろう

そして私の時代は
長らくその資本主義で
国はパワーの厳選を起こし
そこから生まれる利害調整を
政治が行うことで
国は違いなくホメオスタシスを
維持してきたのであろう


しかし経済も政治も
建前上の仕組みである

時代が変われば
国の本質と合わなくなることもある


日本の場合には随分と
「条件つき」の資本主義であったが
今まではそれでも
本質とうまく噛み合ってきた時代
だろうと思う


本質とは人間の本質である
そして人間が集まった組織としての
本質でもある

この本質とうまい具合に
国という一つの組織が噛み合う方法を
模索し続けた結果の手段が
国の採用する一つのシステムである



人間の本質
組織の本質
この源は誰でも感覚的に分かる

生命と家元のようなものが
その根元にある

この
個人性や
集団性の基礎は

利害がぶつかると戦争になる

そこで登場するのが政治である


資本主義においては
この本質を

頭をちょんぎったり
体をめった刺しにして
物理的に息の根を止めるのではなく
その舞台を金の世界でやりあおうぜ

という生命重要視の観点もあいまり
戦争を経済の舞台に移した試み
と言えると思う


この経済界でうまく利用されてきたのは
「株式会社」であることを
疑いの余地も感じないくらい
私たちの時代は
この法人組織のルールに従っている


今までこれが問題になることは
あまりなかった

株式会社の素養は
ひっそりと身を隠していたのだ


人間の本質とも
株式会社は特に問題なく
融合し現代の社会に根付いてきた


個人や
家元という概念や主体は

法律上の組織主体へ
移行されてきたのだ


この大きな流れは
あらゆる角度から圧力となって
続いていく


個人事業なら
メリットを謳われての法人成り

基盤のある組織であれば
危機が起こったときの支援条件として
株式会社であることが
暗黙に強制される


この流れに携わっている人達自体も
分からず進めている事も多かったのだろう


そして
直接的に人間が支配される時代から
間接的に人間が支配される時代へと
変渡する

それは
直接的に人間を殺す時代から
間接的に人間を殺す時代へと変わった事
と同じメカニズムであり
良い悪いの問題ではない


戦争はいつでも起きているが
水面下で起きている時代になっただけだ


そして私の時代は
資本主義の限界が言われるようになった

それは貧しくなったから
それだけの理由である


しかし
このシステムの本質を考えてみれば
資本主義の限界がきたのではなく

今まさに資本主義の恩恵をうける時が
やって来た人が別にいるだけのこと
である

1放任する
2育つ
3摘み取る

この一連の流れが
資本主義の本質である


これは
相反する社会主義と比べるような
話ではなく

資本主義圏内の中での立ち位置が
変わっただけの話である


そういう役目を追った中での
調整役の政治と
一生懸命に育てる経済との関係性は
今までと違った動きを見せるだろう

本来放任がルールだったのに
みんな苦しいので
保身が元になれば
お互いがお互いに干渉し始める

それは資本主義の持っていた
自由ないイメージに反しているため
自由のないイメージと結び付くことも
出てくる


こうなると
もともと政治が経済に介入しまくり
の国は強い

保身レベルの経験値で言えば
10歩くらい先を行っているからだ

全く違う考え方なのに
同じ土俵で闘いが起こっている
というのが今の情勢なのだと思う

政治というのはいつでも変化がない
しかし経済は戦場として
色々な意味が時代によって
移り変わっている

経済の場を
どう定義し何に使っていくのか
その主導権があればの話だが
これが政治のセンスなのであるかも
しれない


















戦争と平和

2021-07-21 20:12:59 | ビジネス境界線
戦争の恐さは
命の重要度が低くなること

この「恐さ」とは
今生きている私という生命の命が
感じている感情である

生命にとって命というのは
共通して一番大事にされる価値観だ

なぜなら自分自身だからである

しかし生命でも
死に対して恐怖を持っていない生命は
いくらでもいる

小さな虫
蟻や蜂のような大群系生命
もっとミクロな有機体

あくまでもそうみえるだけだが
恐怖という感情とは無縁に死んでいく
そう見える


この違いはなんなのか
と言えば


主体である

主体とはすなわち自我のことである


この違いは
生命という生活体と
自我という変幻自在な化け物

この両者ががっちり一致団結すると
生と死という概念が生まれるのである

生理学生物学上の生活体と
生と死という心理的概念は
本来全くべつのものである

これがぽピターっと合わさった生き物が
分類で言えば哺乳類が該当するのだと
思う


くじらやいるかは魚じゃない

この意見に私は
激しく同意する

何故なら
「味」が違うから

鯨肉の刺身は間違いなく
魚の刺身ではなく
馬の刺身に近い

しかし多分クジライルカを
研究している人は
味の観点ではなく
いかに人間っぽいか
という観点でもそれを感じている
のではないか

人間っぽさとは
この生命=自我による世界観の動物
なのである

この両者が一致しているから
心や感情という世界が
生まれるのである

自我とは本来
ただ単なる境界をひく能力
違いを認識し
何かと何かを分別する能力

しかしこれと有機体の生命が
手を組むと
ここに優劣が生まれるのです


+と-
善と悪
損と得

全てのこの違いを言及作っているのは
「生命である有機体」
の基準から生まれている



また自我は単独では血からを持たない単なる協会を能力だからだ

自我の能力を使っている犯人は
「意識」である

意識が何かに目を向けると
自我の能力により分別が起こる

そして有機体の生命とそれが一致すると
自分の命を基準に
全ての世界に色がつく
要するに境界が引かれた
対象同士の関係性が生まれ
世界が出来上がるのだ


・意識
・自我
・生命

人間が人間である特徴とは
この3つが仲良く連携している現象

と私は考える


これにどれだけ
他の有機体が近いか
によって

人間っぽい生物と
そうでない生物がわかれ

これが猿やクジラとイルカだと思う



人間だけが戦争する
人間だけが自殺する
というような考え方をよく聞く

人間以外で同じような生物がいるのか
正直全く知らないが

これは正にこの
意識
自我
生命
この3要素同盟による世界観から
みた世界観であるといえよう


自我と生命が一致していない生物は
簡単に生命体が自滅(するようにみえる)
行動をとるであろう

だって重要度を決める自我が
生命とずれているのだから
当たり前である

しかしこれは人間では
精神病として現れる

これは「生命」という要素が
「自我」に対して単独で攻撃を
している結果だ


簡単に死ぬ動物は
精神病になるだろうか?

精神病は生命体の内部で起こる現象だが
外部からも用意にそれを観測できる

簡単に生命が死ぬのに
精神病にならない生命は
自我機能がないと思われる

生命と自我との闘いが
精神病だからである

もしかしたら意識はあるかもしれない
これは過程だが

意識と生命が一致している生命がいる
としたら
自我がなければ精神病はおこらない

したがって
ただただ大事と思っている命自身が
嫌だーと思っている有機体を
ただただ眺めている意識がある

ということになる

自我がないのだから
区別はできない

区別ができない世界だが
生命体の力は理解した上で
ただ眺めているだけの意識がいる世界
そうなる


生まれたての赤ちゃんは
この仮定にぴったりくる

自我による分別はできないが
ただ眺めている

人間を目で追う

これは人間という生命体と
意識が手を組んでいるから起こる現象


そして自我が育ち
世界の分別が無限に増え
心が出来感情が生まれる


そして
その最後に参加した自我が
人間の死を強烈に拒む作用を担当する

争いによる自分の生命維持に意識がいく

戦争を拒むのも
自分が悲惨に死ぬからだ

自我がない赤ちゃんは
悲惨に死ぬだろうか

意識はただその生活体が
色々な形を経て失われるという経過を
ただただながめているだけでは
ないであろうか


全ての意味は幻であるということは

自我がない状態にしか
理解できないことであろう


それを経験することは難しい

赤ちゃんに戻ることはほとんど不可能だ


しかし何かの偶然で
そういう状態

意識=生命

の2要素同盟を経験する人間も
なかにはいる

少なくとも私は
そういう人と一緒に暮らし
その体験がもたらした不思議な世界を
生きた人間を体で知っている

程度の差はあれ
私自身も不思議な経験をした


生命にとっては絶対悪である戦争も
基準が変われば必要なものである
そういう認識が起こっても
不思議ではない

私はもちろん嫌だが









電子マネーのデメリット

2021-07-20 20:47:58 | ビジネス境界線
お金というものには
数えきれない人間の命の数だけ
同じ量の価値観が生まれ
その体験談や教訓など
様々なものが
人間社会の中でじっくりと
お金に対する考え方として
育まれてきました


私は幽霊というものは
誰かの観念の重なりの結果だと
思っています

世の中で意識や観念の対象として
一番誰もが共通して考えを持っているもの

これは命の次に
お金なんじゃないかと思います


だからお金に対する考えは
自分自身の考えの他にも
歴史上のあらゆる他人の壮大な数の
人間が作ってきた観念が
自分の中にも影響をしてきます


ここでパッと
電子マネーという謎のお金ができました

仮想通貨でも何でも良いです



しかし頭の中の計算では
結局「お金」が基準になる

これはネイティブでない人が
母国語に頭の中で
変換して理解する作業に近い

通貨自体の信頼性
発行元の担保問題など
言われますが

核心はそこではない

感覚と直接結び付いている母国通貨に
どの新しい通貨もなれない

というところが一番の問題なのです


結局この感覚の取り合いのゲームが
メディア 広告という業界であり
ブランドという世界であり

ここが本格的にマジョリティ化
したものだけが

社会の「感覚」として流通する
それだけの話である

価値の担保何てものは
その後からついてくる話である



一人の消費者として
決定的にデメリットと感じるのは
電子マネーにしろ
仮想通貨にしろ
外貨にしろ

お金に対する価値観が
一切リセットされてしまうことである


例えば

連帯保証人になると大変!

という価値観


電子マネーの連帯保証人
といわれると

何かシリアス度が減ってしまう気がする

今まで社会が気付きあげた金銭感覚が
リセットされる事が
とても危険なことである

しかしこれは同時に
メリットをととらえる見方も
もちろん出来る


感覚がフラットな新しい世界を
人類の自我は幻なので
無限に宗雪出来る
という証でもある



会社が社名を変える
市町村が名前を変える
離婚して名字を戻す


どれもこれも人間は
違う言葉の概念が登場すると
どういうわけか
同じものなのに
まっさらな世界を作ることができる

不思議ものである













電子マネーの機能性を受け入れました

2021-07-20 20:24:31 | ビジネス境界線
キャッシュレスとか

ポイントとか

好きではなくて
ずっと避けてきましたが
老害もあるなあという
感覚を持った時に

キャッシュレスやってみたい
という感覚が同時に起こりました

これは好奇心です

凄く早く駅のコンビニで
決済を済ます人を見て
これありじゃん
と思ったのです

この感覚と同時に
とにかく避けてきた自分の老いを
認識したという流れであります


でも何でキャッシュレスが嫌いなのか
これを考えてみると
すぐに思い付くのは

金融サービスであること
すなわち手数料がどこかで発生し
誰かが負担しているということ

消費者が負担しないなら事業者です
クレジットカードと同じ原理

相手目線に立つと
嫌だろうなと感じてしまう

これが大きな理由のひとつです


次に消費者メリットとしてあげられる
ポイント的なやつです

これがとにかく嫌いで
バカにされている感をいつも感じる

私はポイントを貯めた事は
大学生の時にパソコンという
大きな買い物と
プレステという少し値のはるものを
一緒に買おうと思ったときに

結果的にポイントという割引制度を
使うしか方法がないと分かり
貯めてすぐに消化する

という経験しかポイントを使った事が
ありません


要するに得した感を感じないのです

どうしてかというと
そのポイントが使えるための条件も
そうなのですが

ポイントを管理するという行為自体を
強制される事が
堪らなく受け入れられない

俺の生活タスクを
お前が増やすんじゃねえ

これがポイント嫌いの核心です

お金での損得にこれが勝るから
そうなるのでしょう



話を戻すと
キャッシュレスの新規獲得
セールスポイントは
正にここが確信だと思います

何かが増えてオトクですよ
というのがセールスポイント


キャッシュレスの手数料負担も
ポイントも
消費者ではない誰かが負担している

正直ポイントについては
かなりの割合で失効するので
これは消費者負担であるが
(ポイント消滅益
のような会計認識がバカにならない金額)


無条件に利益を得る人を
たくさん増やすことで
損失を被る人達を黙らせる

これがこういう類いのサービスの
ビジネスモデルの実態だと考えると
うーん
としり込みしてしまうことが
大きな理由でした



でも単純に
「煩わしい支払いが簡単で早い」
というキャッシュレスの利点

これは本物です

機能性を追及する人にとっては
これはないがしろにはできないはず


結果的に煩わしいケースが
生まれてしまうリスクがある限り
機能性タイプの人でも
なんだかなーと思うかも知れませんが

とにかく用途や金額範囲を
絞って使う分には
本来の利点を楽しむことが
出来るんじゃないかと
思ったのです


広告業界のモデルと
金融業界のモデルは
似ていると感じます

コストを負担する人と
メリットを教授する人が
別であるというところです

そして何故それが成り立つかといえば
コストを負担する人が
もっと大きなメリットを教授できるから

そしてその胴元である小世界の番人が
実は一番儲けを一人占め

という商売です


人間一人の損得感情
組織の損得感情
これらを巧みにバランスさせた結果の
胴元一人占めですが

一つの人間とか組織の主体を
分解して得ているモデルであるところに
腹が立つ

要するに
この小宇宙に参加している事が
個人も組織も
魂を売るという行為に近いのである

そしてそれに気づいていない
というところが一番の味噌でもある


ここが金融にしろYoutubeにしろ
いけすかないですが
その参加者である
個人感情へのサービス
組織感情へのサービス

この技術革新は
儲かる胴元が実現するからこそ
どんどん発展し
そのサービスはいよいよ本物になる


音楽業界や
芸能業界も
同じようなものかもしれない

利益を得る消費者
コストを払う事業者
その小宇宙を取り仕切る胴元

この詐欺のようなシステムが
実はあまたの参加者を産み
結果的に業界を熟成させる要因と
なっておることは
歴史上何度でも証明できる


どんなに胴元が悪どくても
そこで大きな文化が生成されるだけの
参加者を呼び込む胴元は

オリジナリティ思想においても
「真」であると感じる

キャッシュレスは
「単純に便利かも」
と老害男に思わせるだけの
技術革新があるのであろう

単純に素晴らしいサービスが
文化として既に育っているのであろう