内と外

中性よりの人間から見える世界から
「境界線」の性質を探ります

対極があると理解できる

2022-01-27 21:08:21 | ビジネス境界線
新しい自我で
勉強というものに向き合うと
勉強過程に対して
たくさんの学びがある

それは学生の頃に
勉強が嫌になる理由と
密接に関係している

大人の視点から
子供の頃の視点を
追体験できるような
今の経験は非常に貴重だ



落ちこぼれ

これは間違いなく
理解が追い付かない時に生じる

自分の理解のスピードと
全体の講義のスピードが
折り合わないとジエンドだ


この落ちこぼれた時に
起こっている状況は混乱である


たくさんの情報を
記憶できないというよりは
「配置できない」
といった方が正しい

この知識は右上とか
この知識は前のこの知識と仲良し
といった関係性

人間社会性でいえば
人脈図みたいなものが
頭の中で整理できると
とたんに脳のキャパシティは
余裕を取り戻す


この整理に使っている時間というのが
人それぞれ固有のやり方があり
スピードの違いに表れてくるのである


この新しい知識の
位置関係と関係性整理は
やはり人間社会のそれと似ている


記憶力というのは
私は感情と結び付いていると
考えている

だから感情が動く要素を
新しい知識に付加してあげることが
記憶の定着には不可欠と
考えている


その中の1つの要素が
単独での分類分けである

私の中の世界のどこに
そいつが位置しているのか

「個の始点の決定」
とでも呼ぼうか


次に関係性である

そいつの位置が決まったら
そいつと今までのやつの関係性を
探っていく訳である

これは
「個 対 既存社会 の
関係性の決定」である


最後に
新しい知識を含んだ
「個の属する社会」
それと
「別の社会」
との関係性の決定である

「社会 対 社会 の決定」
といえる


新入社員に対して
このような識別の過程を
してはいないだろうか?


知識も人間も
新しい情報という意味で
一人の人間の中で起こるメカニズムは
随分似ているのだ

新人と接する事は
いわば勉強と全く同じである


この過程を学習と呼ぶのであれば

学習にとって
強力な要素となるものはある


優秀な指導 講師 先生 などは
間違いなくその要素を使って
勉強を教えることができる


私は今日その大きな1要素についての
考えがまとまった


それは
「社会 対 社会」の理解段階要素である

「対になる存在」である


この世の中は不思議なことに
あらゆるものが二極化して
分類されている


間に確固たる境界線が
引かれることで
その両極対極が誕生する



二元論のようなこの話は
人間の性質という意味で
この二極化が生まれる理由についての
説明のためのものだ


なぜ人間は二極化させるのか
その理由を

この学習から考えると

「最も理解しやすいから」

に他ならない


私はマクロ経済学を一気に学んだら

生産
分配
消費
投資
政府支出
輸出輸入
国民所得
貯蓄
税金
貨幣需要
貨幣供給
金利

この個の位置関係を統合的に理解できず
頭がパンクし落ちこぼれた


そして
それぞれの要素を
グルーピング(個が属する社会の決定)
関係性(社会同士の関係)

図にかいたとたんに
全部すっといったのである

そして一番効果があったのは
個⇔個
社会⇔社会

この関係性が頭で整理できた時である

それは派閥争いのようなもので

戦う相手がいることが
自分自身の存在意義に効果を生んでいる

そんな関係なのである

この人間社会の縮図のような関係を
新しい知識の中で構築できたときに

ああ
金融市場と敵対する
財市場派閥の中の
需要一派の
消費君の中の
限界消費性向の話を
今しているのね

というように
一気に整理が進むのである


人に何かを教えるというときには
間違いなくこういう要素に
気をとめなければならない

この構図で頭がしっくりくるのは
感情が理由である

位置や関係性が生まれる事で
何かしらの感情がそこに働き
その感情が
情報を脳への短期記憶として
一緒に誘うパートナーとなるのである










グラフのストレス

2022-01-25 20:22:55 | ビジネス境界線
経済学を勉強している

経済学は兎に角グラフが重要だ

勉強始める前は
微分積分的な数学恐怖があった

私が数学を投げ出したのは
微分積分からだからだ

しかし実際のストレスは
数学ではなくグラフであった


勿論グラフも数学なのだが
一次関数
二次関数
傾き
というもので
グラフがストレスなのではない


何とか記憶を探りながら
理解は充分できる


そのストレスではなく

グラフを構成している基本原理

何故縦軸に
何故横軸に
その要素を置くのか

これは本当にストレスで
ここが真髄のような気がする

この説明もなしに
利子率rが縦軸に登場されたりすると
訳がわからなくなる

縦軸はそれまで
私の中では目的の位置だったからだ


右上がり直線
右下がり直線
山形右上がり曲線
山形右下がり曲線
U字型右上がり曲線
U字型右下がり曲線
U字型放物曲線
山形放物曲線


私の言葉で表しているがこの
「線の形状」パターンを

視覚で捉えた自分の中の現象と
言葉で表した表現の紐付け

この基礎的な定義が
もやもやしているもんだから


どんな直線なのかというイメージを
素直に記憶に残す事が
非常に難解となっている


前提として
全パターンを把握していない事により
不安や信用度が最低となるのような
影響を感じ
これが1つのストレスである


全8パターンがあるよ
それ以外にも例外もあるよ
それぞれこういう呼び方をするよ

という前提があるだけで
このストレスは随分和らぐであろう



次に言葉の違和感もある
イメージを言葉で表す事自体が
難しいのだが

右上がり右下がりという言葉だけでも
相当のストレスを感じる

要するに
一旦頭の中で
「右」「下がる」
という2つの意味を分けて読み取り

「右に行くほど下がっていく」

という意味に結合し

私が見ているグラフの
「→が右であり↓が下がっていくだ」
という理解があり

→↓→↓→↓→↓
この連続をイメージすることで


私の中にあるイメージ
すなわちクオリアといっても
いいかもしれない


これと照合させることで

右下がりとは
私の中にあるこのクオリアのことである

となって
イメージと言葉が一致するのである


勉強にはよくあることだが
最初のこの結び付きの段階の多さが
兎に角ストレスなのである

これが繰り返し学習されることにより
中間の過程が省略され
次第にストレスは減っていき

最終的には
「ミギサガリキョクセン」という音!と
私の中のイメージが直接結合し
学習完了となるのである



グラフに潜んでいる
これらのストレスは
もっと理解された方がいいと思う

例えばU字型右上がり曲線の事を
「ナイキ」
という言い方で統一して
表現するだけでも
勉強によるストレスは
随分回避できるはずである














悲しいゲーミフィケーション

2022-01-20 21:13:39 | ビジネス境界線
ひと昔前に少し流行った
新しい組織制度

何が悲しいのかと言えば


社会視点と個人視点の解離の現実感


それをまざまざと見せつけられたムーブ

というところである


このムーブの背景に

既存世代vsゆとり世代

のような構図が間違いなく存在した


何も欲しがらない世代だとか
怒ると我慢もせずにキレるとか

散々な言われようをされた
ゆとり世代


欲しいものがないのは
あんた達みたいなスキーヤー世代の
欲しいと価値観が違うだけ

であって

キレる理由も間違いなく同じ類い


その理解が不可能なもんだから
ゆとり教育を受けたからという
わかりやすい世代境界を
ひいた被害者がゆとりである


そんな中で
「ゆとりでわかることがある
それはゲームが好きなことだ!」

という乗りで生まれたのが
ゲーミフィケーションである


これはゲームやアニメというものを
そういう色眼鏡で見ている世代からの
わかりやすい「区分け」であり

既存世代から見た
「ゆとり世代のいなしかた」
という非常に残酷で哀れな政策である


こんなものを
分かりやすいPRにのせて
人材系業界が発信しまくるもんだから
デフォルメされた更に訳のわからない
ものに仕上がった


ゲーミフィケーション自体が
悪いものとは言わない

ただその本質を理解されず
ただ社会が運用することが
ただただ被害であり
悲しいのである


これだけ社会と個人の隔たりが
日本社会においては
確固たる存在として
未だに健在している

それが悲しいのである


ゲーミフィケーションの本質は
間違いなく

個人の私
生命の私

要するにパーソナル私に対して
褒美を与える仕組みを
仕事の中に取り入れましょう

という事だと思う


慣用句
ことわざ
生活の知恵

など先人の言葉はたくさんあるが
そのなかの言葉を使うなら

「遊びを取り入れる」
「どんな時も遊び心をもつ」
「子供の心を忘れるな」

こんな言葉が適している


クリエイティブな世界や
自分自信が考える仕事の中で
こういう言葉の重要性を知ることは
多いが


これは言い換えれば

「パーソナルな視点を忘れるな」

ということにつきるだろう


子供の心とはパーソナルな心である

大人の心とはソーシャルな心である

ビジネスにおいて
この2つの自我のバランスが
非常に大事であり

モチベーションや動機付け
といった
生命主体に焦点をあてた考え方には
とても強力な理論となるのである


ゲーミフィケーションを
取り入れるとは

パーソナルのワクワク感を
可能な限り仕事の中で感じられるように

という試みであり
本来素晴らしいものである



しかし世代間における
ソーシャルとパーソナルの
バランス
もしくは
捉え方そのものに
大きな隔たりがある中で

パーソナルワクワクを
ガチガチソーシャル馬鹿世代が
新世代に与えられる訳がないのである


事実年をとった若者といえるほど
モデルチェンジを繰り返す
変化柔軟な経営者は

ごく自然にこのゲーミフィケーションを
実現していた



肉体労働を頑張った後には
食べきれないほどのピザを全員
食べられる

興味があろうがなかろうが
誕生日月に高級ホテルで会食する

従業員同士が投票しあう
1年のMVPに対して会社が賞金を払う

ガチ営業部長も内勤OLも平等に
売上増加レースをして賞金を払う



ゲームの前提には平等がまずある
その架空世界の前提と現実リアルの間を
交錯するところに
ゲームの面白さの重要部分がある

そして
世代の価値観などを越えた
誰もがちょっとやってみたくなる
という条件
もしかしたらそれは
自分以外の人が同時に幸せになる
という安心感も重要な要素かもしれない


こういうソーシャルの中で
パーソナルの心理を
考慮したものを仕事の中で
取り入れようという試みこそが
ゲーミフィケーションの本来の核で
あると本当に思う


知識や情報に頼った仕事をする人は
間違いなく間違った人事を行う

心という中心に直接触れることを
最初から諦めているからである


この考え方からすれば
どの会社にも勝手に固有の
オリジナル制度は
勝手に出来上がっていくのである

何故ならば
評判がよければのこるし
評判が悪ければ淘汰される

その循環が風通しの良さによって
担保されるからである


ゲーミフィケーションなんて
言葉が登場する時点で
その組織の問題は浮き彫りになっている
















死ぬという緊張感

2022-01-18 19:39:07 | ビジネス境界線
日常で起きる緊張は
どうして起こるか

緊張というのは
見方を変えて
視点を広げると

何かの全体からの分離の
一現象と言えるでしょう

分離現象の細かい1単位の方を
主体として見たときに
それは収縮であり緊張であります


では
人間で言う緊張というのは
何と何からの分離なのでしょうか


それは
死という世界と
生という世界との分離だと言えます


生きている生物と呼ばれるものは
ホメオタシス
恒常性と呼ばれる言葉で
説明されます


生物の"境界"は
物質的な緊張 =細胞
心理的な緊張 =自我
から成り立ち

この2つのベースを繋いでいる機能として
五感と思考が
備わっているように思えます


生命とは
この身体的細胞的な緊張境界を差し

心臓が動くのも
臓器がたくさんあるのも
息が吸えるのも
この緊張を維持するためにある


一方で
自我という心理的緊張は
この身体的緊張とは別に存在する

アイデンティティーというものは
実に自由だ

本来
私は鳥だ
私は掃除機だ
私は日本だ
私は信濃川だ

いくらでも何でも自由なのである

だから
いつでもどこでも何にもなれる

すなわち
心理的緊張を作り出すことにより
私を定義することは勿論
あらゆる概念やカテゴリーを生み出し

何かに息吹を与え
何かに終焉を与え続ける


心理的緊張が作り出す社会性とは
身体的緊張よりも
大きい心理的緊張によって
形作られる

あの人の痛みが自分事のように感じる
という拡張自我は
この原理で作られるものだ

とにかくその能力は
呆れるくらいに無限だ


しかしその中で
自分というアイデンティティー
については一定の制約がある


このラインを越えたら
身体的緊張が謀反を起こす
というのがあるのだ


それが精神病である

精神病は
身体的緊張=生命=命
による
心理的緊張=自我=アイデンティティー
に対しての
ストライキみたいなものである


境界というワードを
緊張というワードに置き換えると
とてもしっくりくる


そんな事のきっかけは

「知らない他人」
「知らない言葉」
「知らない世界」
に私が出会ったときに
とんでもなく

「喉」が緊張するからである


私の喉の緊張は
心理的緊張によって起きている

身体的緊張=生命とは
一致していない

間違った認識で
私の緊張は起きている

その事に意識が向いて
気づいたからである





猫の偉大さ

2022-01-06 00:27:40 | ビジネス境界線
猫の本当の凄さはどこにあるのか

マイペースとか
媚びを売らないとか
人間が飼われているとか
人間の感情に遠くから寄り添ってくれる
とか

色んな言い方で猫のいいところを
猫好きは言います


一言で思いつきました


「誰にも所有されない」

根源にあるのは
これではないかと
ふと気づきました


人間は猫を飼っていると
思っているけども

猫は確実に絶対に飼われてはいない

私の家で飼っていた猫は
隣の家で別の名前で呼ばれ
エサをもらっていました


イエネコより野良猫の方が
よりその傾向が強いだけで
本来猫は誰にも所有されていない

という点では同じです


これが犬だとどうもそう思えない

犬はどう考えても
人間の作り出した概念の一部を
間違いなく理解して
一部ではありますが
その世界線上で生きているのです


だから本当の意味で家族だと思います

だからこそ面倒も多い


しかし猫はどう考えても違う

勿論人間の概念世界を理解していない
訳ではない

ある一定の世界は共通認識しているが

基本的にパラレルターンワールドの中を

うまくお互いに利用して生きあっている
感じがするのです


猫がどれだけ好きで
どれだけ抱き締めても
猫に近づいた感じはしません

仲良しにもならなければ
非常に遠い存在である感覚が
残ります


抱き締められた猫は基本的に
嫌がりますし
猫が人によってくるときは
寒いときや
体を撫でて欲しい
遊びを手伝って欲しい
飯がほしい

とてつもなくシンプルであり
人間とのパラレルワールドが
交わることは少ない

でも人間は猫に近づきたい

だから
猫の世界を理解したい
そういう気持ちを抱きつつ
少しでも理解できることがあると

自分の世界と猫の世界とが
重なった

すなわち仲良くなれた

そういう概念を持つのである


一方で猫からの世界からはどうか
というと

とにかくシンプルで
他の動物にも言えるが

飯飯飯

とにかく飯が最強であり

飯のためだったら
人間に寄り添いをみせる

飯のためには
禁止されることや
何かの制限も耐えることができる

これは自分の世界のルールではなく
自分以外の他人の世界

ここに寄り添いをみせる
猫の行動の大きな1つの行動である

勿論餌以外にも
そういう行動はするにはするが
それは
「わかっているけど自分を曲げない」
のである

とにかく猫は自分を曲げない

他人のルールなんてものには
ケンカで負けない限り
従うことはまずない


そんな生き物は当然だが
人間の作り出した所有など
一ミリもされたことが
今までに一度もないのである



ここから生み出されるあらゆる
要素が人間を魅了する

最初にあげたいくつかの
猫の好かれる特性は

決して近づくことのできない
この猫ワールドから生み出される
人間からみた派生概念である


猫は猫同士であれば
共通の世界を見つける

決してその中では
マイペースではなく
人間と同じ社会性の動きを見せ
餌意外の理由でも活動的に動く

しかし人間を
完全に認識した上で
完全無視を貫くところに
憎い魅力が生まれるのである


猫好きは
猫と全く同じように
人間にも対象をずらす

理想の組織像や
家族論
男女関係においても

憧れの猫の姿を
自分の理想として
世界を作り出す