内と外

中性よりの人間から見える世界から
「境界線」の性質を探ります

競合というキリクチ

2022-11-14 20:32:15 | ビジネス境界線
ビジネスの中でよく出てくる言葉

競合


競合他社なんていう言葉で
しょっちゅう登場します


しかし私は今までこの競合という言葉に
自分のビジネス周りで
ほとんど出会わずに仕事を
してきました


それに私自身が競合という言葉から
感じる意味に余り価値を感じていない
とも感じてきました



競合とは簡単に言えばライバルです

しかし競合という言葉には
ライバルという言葉以上に
熾烈なエグさを含んでいると
私は感じます


もっといえば単純に
を指す言葉の方がしっくりきます


ライバルという言葉は
同じ世界を築いている
パートナーのような仲間意識が
含まれており
一次元上の視点から眺めている
「余裕のある」言葉です


しかし競合という言葉には
「生き死に」
「サバイバル」
「弱肉強食」
といった言葉の方が似合うと
感じています




この「競合」ですが
経営の学問の世界などでは
「必ず認識するべきもの」として
どーんと登場します

もう一度言うと
「必ず認識すべきもの」なのです
そういう教科書の雰囲気です


どこかの会社を理解する時に
色々なフレームワークが登場します

それぞれのフレームワークの誕生には
学者なりのストーリーがあり
それは価値のあるものが
今でも残っている
それは間違いのない事実です


このフレームワークにも
勿論競合を認識するというのは
当たり前のように
出てくる訳ですが



最初に書いた通り
私は仕事の中で自分が属してきた組織で
それを意識することは
今まで全くなかったのです


それは立場のせいだろう?
と言われればそういう部分も
ある時期もありますが

私自身が競合を意識するような
組織に属したくない
そんな仕事をしたくない
そう思って属する組織を
選んできたからだと
今だととても感じます


競合とは
自分の立場を脅かすほど
恐ろしく利益が対立した存在です


そんなものは誰だって
いないに越したことはないのです

私も当然そういう目で
仕事での自分のポジションを
選んできました



利害がぶつかる競合とは
これは言い換えると

お互い同じものを価値あるものとして
戦っているということです

価値観が同じ世界なのです
それを共有する組織の集まりが
競合でもあり市場でもあり業界でもある


だから
本当の意味で同じ世界観で生きている
そんな人同士の競合なら
これはライバルになります


こんな独立資本同士は
競合でありよきライバルにもなります


しかし現代のビジネス戦争というのは
残念ながらそういう関係性の
競合関係の事を「競合他社」と
呼んでいるわけではありません


どんな手を使ってでも
相手をおとしめ
自分のポジションを優位にする

その対象としただけの競合


要するに
「金という共通規格の中での
戦いによる服従」
という観点のみで
競合という世界観を作り出す


その切り口で世の中は作られている


何も現代に限った事ではないが
その切り口自体が


「「実につまらなーい」」


と私はなってしまうので
そういう組織をどうしても
避け続けて生きている



そんな組織にいるととても面白い



本当に価値を持っている
(と少なくとも独立主体は考えている)

という世界と
共感するからそこにいるわけで

一緒に働いているのだけど


会社が大きくなったり
会社が潰れそうになったり
独立資本パワーが失なわれると


とたんに社会の餌食となり
つまらないつまらない
「共通価値観=カネ基軸」

のキリクチによって
途端に支配されていくのである



本当の価値は失われていなくとも
その蝕みのパワーは凄く

なんていっても全人口の大多数を
占めるサラリーマンという
「共通軸愛」を神とした人間種が
一斉に襲ってくるのであるから
当然である








競合なんてそもそもいない



本当に自立した人には競合なんていない


何故なら自分と同じ世界軸で
生きている人などこの世にいないことを
知っているからである



人間の凄みとは
こういうところから来ると思う



私はそういう人を師匠にしたいし
私はそういう塊の組織で働きたいし
私自身がいつかそうなりたいと
ひそかに思っている



私は相対評価の試験を受けたが
一回も自分の競合なんて
意識しないで勉強してきた


相対評価の試験を
相対評価として勉強するかどうかは

その試験に対する目的が
どれだけユニークであるかだと思う


概念上や先人の有難い言葉とかとは
関係なく

敵なんていない

遇えていうなら自分との戦い


そういう事になる




経営者なんてそんな人ばっかりだ


私は経営者には向いていないが
経営者の心は少しにたものを
理解することができる




競合なんてくだらない概念は
共通軸で生きる人にしかいらない








最も価値のあるもの

2022-11-02 20:27:58 | ビジネス境界線
世の中で最も価値のあるものは
なんなのか

恐らく最も多くの人にとっての
価値のあるものは
「自我」になる





「価値がある」とは

1価値を感じる主体と
2主体のもつ基準

の2つから生まれる

1価値を感じる主体とは?
これは間違いなく自我である


人間に発生する主体は
99.99%自我である



2主体の持つ基準とは?

言い換えると
自我が持つ基準とは?
となるが

自我そのものが基準でもある

自我という一つの彫刻は
産み出された瞬間に
価値を図るものさしとしても機能する


主体と基準の機能を併せ持つのが
自我の重要な特徴だ



ではこの特徴はどんな事を生み出すのか?


自分自身の存在と
自分自身の持つものさしが一致している

それは当然
自分自身を守る行為というのは
自分の基準を守る行為と一緒
という事だ



価値があるというのは
究極的に言えば

私か
私でないか

その判断のものさしで評価する
ということだ


ここでいう私は勿論自我の事である


自我にとって不都合な事は
価値がないものになる



現代人の私はほぼ自我と同義だ


自我こそ私であり
生命と一致していない事もざらである


例えば
私は
(生命として)死ぬことよりも
(自我として)操られ苦しむ事の方が
絶対的に恐怖がある

私の自我は
「自由でいたい」
という事が最も重要なものさしであり
それ自体が自分自身でもあるのだ


ここを一次的な核として
私の世界は出来上がる

二次的になると
1私にとって大事な所属組織
が拡張的な私になり

2その所属組織そのものが価値基準
となり

価値あるものと
価値のないものの世界が
広がっていく


自我が壊れなくなることは
最も恐いことの一つである


死ぬことが恐い人というのは
突き詰めていくと
生命が死ぬことではなく
自我がなくなる苦しみを
想像しての恐怖であることは多い



しかし自我は勿論なくなるのだが
変形も自由自在だ

人間は自我がどんどん変形している
どの変化には以外と気づきにくい


何故かといえば
いつでも
私(自我)=私の基準そのもの
だから当然である

他人から変わったよねと言われないと
本人は気付くことは難しい


自分でもし気付くことが出来る人は
複数の自我が混在している人であり
劣勢の自我から見て
優勢全体の自我の変化に気付く
そういう他人と同じ機能のメカニズムが
自分自身の中で起こる人だけだろう



自我が変化するということは
価値基準自体が変化する
ということだ


しかし生命は変化しない

人間は生まれたときから
生命としての営みが続き
いつか死ぬ


自我が幻である由縁は
生命と比較することで
少し輪郭を捉えることができる


自我は変化も自由自在であるので
勿論ピッタリと生命と一致させることも
可能である


この状態をロジャーズは
「自己一致」
と呼んでいるのであろう

生命と一致した自我は
とても強いパワーを生む
生命を自我の主体が一致すると
何が起こるかといえば

人間の持つ感覚機能と脳を
最大限に
「捉える事が出来るようになる」
ということだ


五感に鋭くなり
脳主導による感覚ではなく
感覚主導での脳後続
というイメージとなる


私はこの状態を
「生命の奴隷」
と読んでいるが

人間の幸福度という観点でいうと
この状態が最も幸福感を
得られるのだと考えられる


ロジャースはそれを「経験」という
言葉で読んでいるようだが


「五感で感じている現実」の方が
「自我で感じている現実」よりも
圧倒的に快感なのである


価値を感じているはずなのに
それを手にいれても満足いかない

だからいつまでも乾いていて
永遠に同じ価値を求め続けてしまう


そんな話しはこの世の中で
実にありふれた話だ


これは
「生命の奴隷=自己一致」
の状態から遠いポジションで
自我が形成されてしまっているから
なのである


だからこそ
病んでしまった人には
マインドフルネスがいいとか
タッピングが効くとか
自然を味わうとか
スポーツをしろとか

そういう対処法がよく使われるのである


差はあるが自我は簡単には変化しない
とても頑固なものである


だからすぐに変化は望めないが
価値のあるものというのは

自我は変化するのだから
もともと幻であること

たとえ
生命の奴隷の状態になり
幸せをとても感じるようになっても
自我によって価値が生まれていること
その価値が生命と一致しているから
今幸せなだけであること
結局幻であること


この現実はよく理解した方がよい

本当のところは
自我も価値も幻だし
幸せも不幸も幻で
主人となった生命でさえ
自我の作り出した擬似主体である事実は

根本的な原理は
全く変わらないのである