平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



平安時代、天皇即位の後、大嘗会翌年に吉日を選び、
難波の津で国家の繁栄を祈った八十(やそ)島祭が行われました。
当初、その祭場となった熊河尻(くまかわしり)は、
『栄華物語』長元4年9月25日の上東門院石清水住吉御参詣の条や
藤原頼通の『宇治関白高野山御参詣記』永承3年(1048)10月の条によって、
淀川の下流、江口を過ぎ、長柄橋(ながらばし)を過ぎた
河尻の辺りと推定されています。

古代、大阪湾に淀川、旧大和川などが運んできた土砂が河口に
堆積して洲をつくり、次第に幾つもの島となり難波八十島が生まれました。
八十島は淀川河口に浮かぶ沢山の島々をいい、現在、西淀川区に
佃島・出来島・姫島・御幣(みて)島・歌島・柴(くに)島・中島・
百島(ひゃくしま)・西島などといった島のつく地名が多いのはその名残です。

ところで八十島祭の行われた熊河尻は、大阪湾に注ぐ淀川の
川尻一帯を指しているとされていますが、鎌倉時代の後堀川天皇の
元仁元年(1224)12月を最後にこの神事は断絶し、
再興されなかったため、確かな場所は定かではありません。

生国魂(いくくにたま)神社(天王寺区生玉町)は、かつて
玉造にありましたが、秀吉が大阪城築城の際現在地に移しました。
生島神・足島(たるしま)神を主神とし神武天皇の頃、
国の鎮魂八柱神と一緒に島を護る神を祀っているので
熊河尻はここではないかと推察されています。


『摂津名所図会大成』には、八十島祭の祭場は
御幣嶋村(現、御幣島)と思われるとし、産土神に住吉大神を祀っている。
また近所の佃島にも住吉大神が祀られていることから、
この一帯が八十島の神の祭場だったのだろう。と記されています。
ちなみに佃の地は古くは田蓑(たみの)島とよんでいました


平安時代後期の有職故実書大江匡房(おおえのまさふさ)の
『江家次第(ごうけしだい)』にも、
八十島祭は難波の津で、宮中の神事をつかさどった職員である
宮主(みやじ)が壇を築き、幣帛(へいはく)を揃え、
住吉の神や大依羅(おおよさみ)の神、海(わだつみ)の神等を勧請し、
祓いをしたのち祭物を海に投げ込むとあり、八十島祭に用いる
幣(ぬさ)の名をとどめた御幣島(みてじま)辺りであろうとしています。

また熊河を現在の木津川(大阪市内を流れる淀川分流の一つ)
別名とみて、その下流にある田蓑島付近とみる説もあります。


田中卓氏は、「各説とも住吉大社と密接な関係をもつ地である。
御幣島(幣帛浜)には、住吉の姫神が祀られもともと住吉社の
神領であったらしいこと。
次の生国魂神社の旧社地であったという玉造説は、
古くより生国魂神社は住吉神社の末社であり、
室町時代の末になっても同様であった。

また『住吉大神宮年中行事』に見える記事から、昔、
難波津の島々はすべて住吉の神領であるか、
住吉の統治下にある
地域であった。」と述べておられます。(『神社と祭祀』) 

八十島祭が田蓑嶋で行われたと思われる和歌が
『新後撰和歌集』 に載せられています。

後鳥羽院御時八十島祭によみ侍ける津守経国 
 ♪天の下のどけかるべし 難波潟 田蓑(たみの)の島に 御祓しつれば
(これからは国家安泰に違いないぞ。
難波潟にある田蓑の島でみそぎをしたのだから)

詞書にある「後鳥羽院御時」というのは、建久2年(1191)11月の
八十島祭と思われますが、津守経国は『津守氏古系図』によると
文治元年(1185)出生、建久2年当時にはわずか7歳です。
神主となったのは承久2年(1220)のことですから、
「後鳥羽院御時」というのは、後鳥羽天皇のことか上皇としての
御代のことか明らかではありませんが、いずれにしても
八十島祭にしたがった津守経国が「田蓑の嶋にみそぎしつれば」と
詠んでいるので祭場は田蓑の嶋、御幣島の南、
田蓑神社付近と見るのが妥当だと思われます。

長暦元年(1037)以後、八十島祭の祭場は熊河尻から
住吉代家浜に移っていますから、
この時はたまたま
熊河尻で行われたようですが、それ以外はおおむね
住吉社(現、住吉大社)近くの浜が祭場だったと考えられています。
田蓑神社(八十島祭の祭場)  清盛の財力奉仕で行われた二条天皇の八十島祭   
『参考資料』
田中卓「神社と祭祀 (八十島祭の祭場と祭神)」国書刊行会、平成6年
三善貞司編「大阪史蹟辞典(八十島祭)」清文堂、昭和61年
奥田尚・加地宏江他「関西の文化と歴史(動乱期の津守氏)」松籟社、1987年
大阪市西淀川区HP(地名の由来)大阪市史編纂所編「大阪市の歴史」創元社、1999年

 



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