韜晦小僧のブログ 無線報国

真空管式ラジオ、軍用無線機やアマチュア無線機の修復の記録
手製本と製本教室の活動の記録
田舎暮らしの日常生活の記録

秋水用のタチ200とタキ200(特別飛翔体対飛誘導装置)に関する技術的考察について

2022年01月31日 08時22分38秒 | 03陸海軍電探開発史

秋水用のタチ200とタキ200(特別飛翔体対飛誘導装置)に関する技術的考察について(再検証版R05.10.31)、下記のURLにて整理しましたのでご参照願います。

秋水用のタチ200とタキ200(特別飛翔体対飛誘導装置)に関する技術的考察について(再検証版R05.10.31)

 

*************************************************************************************************************************

下記のブログは、旧バージョンのため情報は不適格な内容です。

 

秋水用のタチ200とタキ200(特別飛翔体対飛誘導装置)に関する技術的考察について

秋水用のタチ200とタキ200(特別飛翔体対飛誘導装置)に関しては、下記の電波報國隊の記録を契機として簡単な調査したものを既にブログにアップしていたが、今回はもう少し技術的な側面から考察を行うことにした。
<2020年6月27日掲載分>電波報国隊によるレーダー関係記録の考察についてhttps://blog.goo.ne.jp/minouta17/e/456e601b0c653e986c969412ed6aefb5

電波報國隊/昭十九会からの抜粋(再掲)
3号電探/矢部五郎
 戦争最後の段階で、厚木と伊丹に秋水(液体燃料[ヒドラジン・過酸化水素]コロケット戦闘機)の配備が予定され、その誘導装置の工事が進められていた時期に、伊丹航空隊の設備工事を担当した。詳しい説明は何もなく現地工事の実務だけベテランの技術大尉から指導を受けたが、電探そのものは百も承知として準備をしていた。考えてみると、おかしな話で、呉の山の上に3号2型は1台あったが、3号1型を知っている技術士官は誰もいなかった。なんの抵抗もなく、この仕事を引き受けたが、潜水艦と水上特攻を担当中の僕が突然、伊丹に行けと言われたのは、勤労動員の経歴が関係したのかも知れない。
 秋水誘導装置は2台の電探で味方の秋水戦闘機と敵B29爆撃機の高度と位置を時々刻々求め未来位置高度を計算し、敵を攻撃するために秋水が飛行する方向(方位角と目標高度)を操縦士に伝える装置である。当時の計算機はアナログ方式であったが、電探から送られたデータを計算することができた。秋水戦闘機は非常に高速で飛び航続時間も短いので、操縦士が敵を目視で捕らえて接近することは無理だから、地上から敵の飛行する方向と速度を測定して、操縦士に方向を指示する必要があった。
 結局、伊丹に行く準備中に戦争が終わり、この仕事も幻になった。なお、厚木の秋水誘導装置については内田敦美君(第二工学部電気同期生)が浜名風(海軍技術浜名会編、1994年5月)の35ぺ一ジに述べている。

この記録から分かることは、『ロケット機「秋水」に秋水誘導装置は2台の電探で味方の秋水戦闘機と敵B29爆撃機の高度と位置を時々刻々求め未来位置高度を計算し、敵を攻撃するために秋水が飛行する方向(方位角と目標高度)を操縦士に伝える装置である。』とのことである。
この電探に関しては、日本側の資料である日本無線史第九巻の下記の内容が該当する。
特別飛翔体対飛誘導装置
電波標定機又は特殊電波装置の等感度線に沿って特殊飛翔体を目標機に向かい半自動制御或は(航路表示による)手動的に誘導するものである。
地上部「タチ二〇〇」(改四型電波標定機の一部を改修せるもの)
周波数二〇〇Mc、尖頭出力一〇Kw、方向精度正負五度、重量二.五瓲
機上部「タキ二〇〇」
周波数二〇〇Mc、尖頭出力五〇W、重量五〇瓩
試作会社東芝電子研(三菱電機を併せて予定)
第三次兵器として基礎的研究概成、一応方式としての目途を得飛行試験計画中、また連続波(周波数三〇〇Mc、出力一〇W)方式に就ても研究中
なお、東京芝浦電気株式会社の社史には、特別飛翔体対飛誘導装置(機上用50W)を生産したとの記録が残っている。

また、戦後米軍が調査したJapanese Wartime Military Electronics and Communications, Section 6, Japanese Army Radar,の資料では下記のURLに掲載している。
Tachi200-Taki200http://minouta17.livedoor.blog/archives/18022263.html

これらの情報から全体のシステムを想定すると以下のように考えられる。
全体の仕組み
まず、陸軍のタチ31改を使用してB-29を追尾するとともに、友軍機の秋水をタチ200で追尾しておき、タチ31改でB-29を追尾したデータをタチ200から友軍機の秋水へ送信する。
秋水に搭載されたタキ200はその追尾データに基づき、B-29の追跡方向を指示メーターで表示されるので、パイロットはその方向へ飛行すればいいことになる。
これは、世界初の無線系テレメーター中継装置の考え方ではないだろうか。
タチ200については、米軍が調査したJapanese Wartime Military Electronics and Communications, Section 6, Japanese Army Radarには、単にタチ31を参照のことしか記述はなく、機能説明はないので以下の推定をすることにした。
タチ200は、送信パルスの反射波を受信する従来型のレーダーの機能ではなく、まずは、受信モードとして、味方機の秋水機に搭載されているタキ200が発信するトランスポンターもどきの送信パルスを受信して友軍機の位置を追尾したら、今度は送信モードとしてB-29の追尾用データを送信しつづける。
味方機に搭載されているタキ200は、このB-29の追尾用データから仰角と方位角を示す2つのメーターに表示するので、パイロットは2つのメーターの中央値の方向に操縦するとB-29に接敵することができる。
なお、タチ31改により、B-29を追尾しつづけると、追尾データをリアルタイムに秋水へ送信され、パイロットは適確にB-29を追尾することが可能となる。
一方、タチ200による友軍機の追尾が外れる事態となれば、タチ200を受信モードとして秋水を追尾し直し、適確に送信データが届くようにアンテナの位置調整を行う必要がある。
何故、タチ200の機能をこのように推定したのかといえば、機上のタキ200への送信データはパルス送信ではなく、連続モード(CW)の同期パルス+B-29追尾データであるので、従来のレーダーの体系での制御かできないことに起因している。

 

具体的なタチ200とタキ200の信号のインターフェースは以下の通りと推定できる。
B-29追尾用のタチ31改については、本来の索敵用レーダーの機能であることから、パルス繰返し回数は3750c/sであり、同様に同期パルスも3750c/sとなる。
しかしながら、タチ200による友軍機の追尾には、友軍機のタキ200からのビーコンを単に受信するだけなので同期パルスの概念は不要であるが、タキ200がB-29の追尾データを機上で再現するためには、タチ31改のアンテナを回転させる位相環の同期信号が必要となる。
したがって、タチ200が友軍機のタキ200へのアップデータには、移相環を回転する同期パルスとB-29の追尾データの双方がないとデータ復元できないことになる。
タチ31改では、この位相環の回転スピードや同期電動機の仕組みはあきらなでないので、今回は海軍の仮称4号電波探信儀3型の事例を下記に示す。
なお、海軍4号電波探信儀3型の位相環の使用例によると、電動機の回転数は、25回/秒である。
第九節 位相環
一. 概説 四組の受信空中線よりの信号は位相環に加えられる。
位相環に於ては受信空中線指向特性を中心軸に対して一定角度を保持して回転する。又本機回転軸には選択出力切替器を連結し空中線切換器と同時に切り替えを行う。
本機は次の三部より構成されている。
空中線切換部
選択出力切換部
電動機
二. 入力及び出力
受信信号
切換信号
三. 空中線切換部
切替器内部には直径14cmの環がある。上下左右の四点に夫々空中線を接続する。この環の内側に更に之と密接して同軸の回転する環がある。この一点より出力は中心に装置し電動機と反対側の側面より取出す。斯(か)くの如く切換に容量式を採用するのは接点より生じる雑音を防止する為である。
四. 選択出力切換部
選択出力の切換には刷子を使用する。切替接点は円周を八等分にした金属より構成する。この上を刷子が回転し出力は八接点の内一つ置きの四接点より取出す。
※刷子とは、ブラシのこと
五. 電動機
前記両切換部の回転用として、次の如き電動機を使用する。
電圧 220V(当分は100V)
馬力 1/25
極数  4
回転数 1500
図面


 例えば電動機の回転数は、25回/秒とする、この同期パルスとタチ31改のB-29の追尾データを友軍機へ送信する必要がある。
従って、タチ200の送信用の同期信号は25c/sの同期パルスとなる。
機上のタキ200の送信ビーコンは、最初は25c/sの非同期のマルチバイブレーターで発振しておき、地上局のタチ200が受信モードで友軍機を追尾し、今度は送信モードで同期パルス付きのB-29の追尾データを送信する。
機上のタキ200は、この送信データから、B-29の追尾データを復元して下記のようなメーターの指示をおこなう。


 
また、B-29の追尾データは、上下と左右の4本の空中線を電動機同による位相環という仕組みで分配器から組み立てられているので、今度は機上のタキ200では、逆に同期パルスからのこぎり波を生成し、この同期信号により電動機の同期をとりながら、B-29のデータを取出すことができる。


 電波報國隊の記録の中でもう一つ気になった記事が下記の資料です。
K-装置の開発/矢部五郎
K―装置とはなにかというと、簡易型電波探信儀の開発コードで航空機搭載用になるべく軽量小型にすることが目標であった。プロジェクトリーダーは大阪大学の原子物理学の菊地正士教授であった。僕らの任務はK―装置のCRT表示装置を2台試作することで、軽量小型にするために真空管を使わず、磁気回路で、同期信号と、CRTの横軸偏向電圧、輝度信号、陽極加速電圧を発生する装置とCRTを一つの箱に収める設計であった。
注.―航空機用の電源は400Hzの交流だから、それをそのまま使う。磁気回路を飽和させると矩形に近くなるので、それを微分して同期信号(送信機に送る)にする。当時のCRT(2インチだと記憶しているが)は静電偏向だから正弦波の直線部分の電圧を利用して時間軸(水平偏向)に使う。受信機から受け取った信号は垂直軸に入れる。輝度信号は同期信号から作る。

このK―装置なる装置のことであるが、文面の航空機搭載用になるべく軽量小型にすることが目標や開発時期を考えると、タキ200に使用する目的で開発が進められた可能性が高そうである。
本来秋水の開発計画は陸海軍共同のプロジェクトであるが、この特別飛翔体対飛誘導装置のタキ200とタチ200に就いては、陸軍が開発している。
海軍としては、この秋水を海軍側で運用することを考慮して、陸軍のこのプロジェクトの問題点を表示機にあるとみて、メーターから2インチのブラウン管へ変更できないかの基礎的検討に学生たちで試したのかも知れない。
2インチブラウン管ならば、パイロットの正面の操作盤に組み込めることも可能である。
実際、WWⅡの末期の米国の夜間戦闘機の射撃管制レーダーも同じ2インチのものを採用している。
この点では、発想も同じであるが、それを本当に実現できるかできないのかが米国との落差そのものであったようだ。
参考にWWⅡの末期の米国の夜間戦闘機の射撃管制レーダーAN/APS-6を掲示する。


 参考情報

タチ31  http://minouta17.livedoor.blog/archives/18022269.html
 

 

<秋水(しゅうすい)>
秋水(しゅうすい)は、太平洋戦争中に日本陸軍と日本海軍が共同で開発を進めたロケット局地戦闘機である。ドイツ空軍のメッサーシュミット Me163の資料を基に設計を始めたが、試作機で終わった。
正式名称は試製秋水。海軍の略符号はJ8M、陸軍のキ番号はキ200である。「十九試局地戦闘機」と称されることもあるが、1943年(昭和18年)の兵器名称付与標準の改訂に伴い、1944年(昭和19年)には年式を冠称した機体開発は行われなくなっていた。計画初期には「Me163」の名で呼ばれていた。 
航続距離が短いロケット機では自機が発進した飛行場上空しか防衛できないため、事前に敵に配備基地を迂回されてしまう他、噴射終了後は滑空機でしかないため、護衛戦闘機によって容易に撃墜されることが予想された。このように、航続距離の短さから、迎撃は敵機が行動範囲内に進入した後の待ち伏せ的な戦術が主流となるが、この方法はレーダー施設などの索敵施設との連携が不可欠であり、当時の日本の技術力ではとても望めるものではなかった。

参考資料
ME-163 KOMET ドイツ軍ロケットエンジン搭載戦闘機
https://www.youtube.com/watch?v=jG2eJdbkehw
 

参考文献
電波報國隊/昭十九会 http://todaidenki.jp/hist/?cat=11

「日本無線史」9巻 1951年 電波管理委員会
Japanese Wartime Military Electronics and Communications, Section 6, Japanese Army Radar,
東京芝浦電気株式会社八十五年史 昭和38年発行
仮称4号電波探信儀3型 取扱説明書 ⑥兵器 475 防衛省戦史資料室
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
Yahooオークション出品商品

 

 

 


英機上用電探「ロッテルダム」装置の独乙情報に対する我が国の対応について

2022年01月27日 18時38分48秒 | 03陸海軍電探開発史

英機上用電探「ロッテルダム」装置の独乙情報に対する我が国の対応について

まず、表題の英機上用電探「ロッテルダム」装置とはどんな装置なのかを説明します。
この「ロッテルダム」装置とは、英国では、H2Sといい、第二次世界大戦時にイギリスで開発された、航空機用の爆撃照準レーダーである。専用の送受信アンテナから、電波を円錐状に地上に発信して走査を行い、地上から反射した電波を受信後、専用の関連機器を介して、コントロール装置にあるPPIスコープ(平面位置表示機)に走査を行った範囲の地図状の画像を表示する機上レーダー装置である。1940年に開発が始められ、1942年の末、英国はマイクロ波帯(3,300MHz)レーダーH2S(地表探索、航法・爆撃用)の開発を完了し、直ちに爆撃機への配備を始めた。1943年の1月30日から31日にかけてドイツの大港湾都市ハンブルクの夜間爆撃で初めて実戦に使用された。
1943年2月3日はオランダのロッテルダム近郊にイギリスのスターリング爆撃機が墜落した。機中に、シリアルナンバー6が記された,H2S波長9cmのレーダーがあった。
ドイツ陸軍では重要な物が見つかった地名をコードネームとして使用するのは通例であったため、H2Sレーダーをロッテルダム装置と呼称している。 
また、このロッテルダム装置の調査開始命令、可及的速やかにドイツ製9㎝波レーダーの開発を立ち上げるこことした。(コード名Berlin)
しかし、英国では初期のセットの解像度が低すぎてベルリンのような大都市では役に立たなかったことが判明した後、1943年に、3 cm(10 GHz)のXバンドで動作するバージョンのH2SMkの作業を開始し、1943年後半に運用を開始した。 
アメリカに供与したH2Sは、使用する電波をXバンド帯に変更して性能を大幅に改善したH2X(AN/APS-15)を開発した。
その後、H2Xとその他の搭載レーダーとのシステム化を図ったAN/APQ-13が開発され、B-29爆撃機に搭載されて日本本土空襲で使用された。


本報告書のとおり、「「ロッテルダム」X型(最新式機上用電探)1944年1月2日「ベルリン」空襲に際し撃墜せり「パスファインダー」機に波長3.4糎「ロッテルダム」装置を発見せるも大部分破損し其の詳細尚不明なり地形の判定は従来の9糎に比し精密となり撃墜機に搭載しありれ写真等に依るも艦船・潮・大道路・飛行場等も識別せらるももっと推進せられ爆撃に主用航法に副用せられあり。」とあるように、従来の「ロッテルダム」装置であるH2Sではなく、今回は波長3.4糎の最新型のH2Sの改良版であるとのこと及び鉱石検波器の具体的な効用などの重要な情報であった。
なお、この情報は、本国には昭和19年1月25日には本報告書として伝達されている。
※注「パスファインダー(pathfinder)は、英語で「開拓者」「先駆者」などの意味。軍事用語では、空襲の際、最初に爆弾を投下して後続機に目標を示す先導機、嚮導機(きょうどうき)のこと。
本報告書は以下の2点です。
(1)英機上用電探「ロッテルダム」X装置と独乙側の対策 昭和19年1月25日
(2)英機の対独空襲における機上電探「ロッテルダム」装置について 昭和19年2月15日 軍令第三部
本報告書の原本については、下記のURLに掲載しています。
https://drive.google.com/file/d/1BAbuYKwNilcmc8RZG7Y7voYU_BcR_bkc/view?usp=sharing

また、文字起こし版については、下記のURLに掲載しています。
https://drive.google.com/file/d/1hikBDIPoqh3e2D1i90VTyCBb3rcaJ15U/view?usp=sharing


それでは、本報告書の分析に入ります。
海軍のマグネトロン型電波探信儀の開発経過と独逸情報を時系列として示すと以下の通りです。

昭和17年(1942年)5月 仮称103号を通称「まぐろ」が完成し、軍艦日向に仮装備
その後、直径75mmの円形導波管を使用するラッパ型のアンテナに変更する。二号電波探信儀二型をとして実用化された。受信機は超再生検波方式で不安定のものであった。

1943年(昭和18年)1月 英国が開発したH2Sは、PPIスコープ(平面位置表示機)に走査を行った範囲の地図状の画像を表示する機上レーダー装置である。
1943年(昭和18年)の1月30日から31日にかけてドイツの大港湾都市ハンブルクの夜間爆撃で初めて実戦に使用された。
1943年(昭和18年)2月2日と3日の2回目の作戦任務で、H2Sはドイツ軍によってほとんど無傷で捕獲された。

昭和18年(1943年)春 ドイツ情報として英軍が9センチのレーダーを使用し始め、その受信方式はマグネトロンをローカルに鉱石検波を使用したスーパーヘテロダイン方式であるとの旨が伝えられたが、こう云った情報は一切無視された。

昭和18年(1943年)7月 海軍技術研究所に新たに電波研究部が新設された。理研から菊池正士先生、NHKから高柳健次郎先生が招聘された。

昭和18年(1943年)9月 菊池教授門下の霜田氏がマイクロ波域における鉱石に関する研究に従事

昭和18年(1943年)11月 黄鉄鉱とシリコンがマイクロ波に対して優れた特性があることが判明、この鉱石器を使用した電波探知機47号が完成
昭和19年(1944年)1月 同受信機により富津で受信実験に成功

昭和19年(1944年)1月25日 電波外資第27号 英機上用電探「ロッテルダム」X装置と独逸側の対策を本国に伝達。
昭和19年(1944年)1月2日 ドイツから日本側に提供された情報:H2SMkに関する情報
「ロッテルダム」X型(最新式機上用電探)本年1月2日「ベルリン」空襲に際し撃墜せり「パスファインダー」機に波長3.4糎「ロッテルダム」装置を発見せるも大部分破損し其の詳細尚不明なり地形の判定は従来の9糎に比し精密となり撃墜機に搭載しありれ写真等に依るも艦船・潮・大道路・飛行場等も識別せらるももっと識別せられ爆撃に主用航法に副用せられあり。
強き磁場を有する「マグネトロン」の発振式にして本機は既に大量生産せらりつつあり。約半年前より実用しありと認めらる。然し非常に難き糎波は海上偵察に際し波浪の影響にて妨害さるること大となるべし。
(3)糎波の検波は鉱石式とせり。其の利点次の如し。
(イ)受信波長範囲大
(ロ)自己発信に依る妨害なし
(ハ)受信感度大。但し衝撃又温度に対し敏感 疲労現象あるは弱点なり。

昭和19年(1944年)1月 霜田氏22号レーダーの受信機の第一検波に鉱石検波器を使用する研究に着手。中間周波を8Mcから14Mcに変更し、3月10日にスーパーヘテロダイン受信機が完成

昭和19年(1944年)3月頃 検波方式を改良し再生式検波方式とした二号電探二型受信機改一が実用化されたが、依然運用面では不安定であることの課題は残っていた。

昭和19年(1944年)4月 日本無線株式会社で優れた鉱石検波器が完成

昭和19年(1944年)4月8日 電波外資第40号 英機の対独空襲に於ける機上電探「ロッテルダム」装置に就いてを本国に伝達。
本報告は、H2Sの詳細機能の説明が主要なものである。

昭和19年(1944年)4月 横須賀工廠から桂井誠之助氏技術少佐が電波研究部に転属

昭和19年(1944年)6月「あ」號作成の結果、空母3隻と航空兵力の大半を喪失

昭和19年(1944年)7月 艦隊に22号電探が一斉整備。受信機は再生式検波方式(オートダイン)で未だ動作は不安定のままであった。

昭和19年(1944年)9月 22号レーダーは、受信機改二としてスーパーヘテロダイン方式を採用。動作は安定して完全に機能するようになった。ここまで、丸三年の歳月を経てやっと完成

昭和19年(1944年)9月27日 スーパーヘテロダイン方式の受信機改二に換装するため、シンガポールからリンガ泊地に移動しながら換装して、日本海軍最後の「捷」號作戦にはどうにか間に合わせることが出来た。
然し昭和19年(1944年)10月18日に捷一号作戦が発動されたが、「捷」號作戦の結果艦隊の大部分を失い、本土上陸に備えて体制を整備するような状態に追い込まれた。

昭和19年(1944年)11月 九州方面でB-29を撃墜し、米軍のパノラマレーダー(AN/APQ-13)を入手

昭和20年(1945年) 5月 海軍航空機用PPI方式の5号電波探信儀1型完成

大きな問題として、昭和18年(1943年)春 ドイツ情報として英軍が9センチのレーダーを使用し始め、その受信方式はマグネトロンをローカルに鉱石検波を使用したスーパーヘテロダイン方式であるとの旨が伝えられたが、こう云った情報は一切無視された。
このために、マグネトロンの開発では世界の中で先行していたものの、完全なるマイクロ波レーダーとして製品開発には至らず、あ号作戦にもこのレーダーを間に合わせることができなかった。
電波研究部の新設のおかげで、昭和19年(1944年)1月25日 電波外資第27号 英機上用電探「ロッテルダム」X装置と独逸側の対策の情報にある鉱石検波器の有効性を再検証し、やっとのことで、霜田氏によって22号レーダーの受信機の第一検波に鉱石検波器を使用する研究に着手し、昭和19年(1944年)3月10日にスーパーヘテロダイン受信機が完成。
しかしながら、昭和19年(1944年)9月27日になってからやっと、艦隊の22号レーダーを、スーパーヘテロダイン方式の受信機改二に換装できた。
このような問題を引き起こしたのは、組織長の長期的視点での開発目標の欠如が原因と言わざるを得ない。

まず、ドイツ大使館の誰がこの報告書をとりまとめたかを調査します。
独逸からの報告者について
日本海軍エレクトロニクス秘史 昭和54年10月 田丸直吉 
田丸さんの横顔 桂井誠之助氏著からの抜粋
田丸さんがドイツへ潜水艦に乗って赴任することが発令になったのは昭和18年(1943)9月で、その頃私は戎の海軍技術研究所の兼務でもあったので、よく東京へ出張し、会議の積などで田丸さんにお目にかかった。
昭和19年(1944)4月はじめ、私は横須賀工廠から技研に着任した。しばらくすると、独逸から長文の電報が続々と入ってきた。それは、それまでの電報と違って、エキスパートの発信したものである。「あッ、田丸さんが活動を開始した!」と直感した。それらの電報は、ドイツで鹵獲した米国のウェスタン・エレクトリック社製のパノラマ式レーダーに関するものであった。田丸さんは「それを見た時に<やられた!>という強い衝撃を受けた」と帰朝後話された。我々技研にいる者も、田丸さんの電報の内容がだんだん明確になってくるにつれて、これはただ事ではないと思った。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』遣独潜水艦作戦にも同様の記述があります。
第四次遣独艦 田丸直吉技術少佐(電波兵器)が便乗 1943年(昭和18年)12月17日にシンガポール出航。1944年(昭和19年)3月11日、フランス・ロリアン入港。
この結果、1944年(昭和19年)3月末頃以降の報告者は田丸直吉技術少佐となるので、その前任者であると思われます。

次に、本報告書をどのような手段により本国報告したのでしょうか。
送る手段としては、下記の3通りが考えられます。
1..暗号よる無線通信
大使館に装備した無線機についての事例を以下に示す。
(本無線機は陸軍の地1号無線機をそのまま使用しています。)

 

2..ファクシミリ(NE式写真電送装置)
1936年に開催されたベルリンオリンピックではベルリン - 東京間に敷設された短波通信回線により電送された写真が新聞紙面を飾り、それまでの飛行機便による速報写真は役目を終えていった。
1937年(昭和12年)にNE式は携帯端末となり、日中戦争の報道に使用された。NECの無線技術は高く評価され、後に日本陸軍の無線・通信設備を独占した。

3. 遣独潜水艦作戦による輸送

この2つの報告書は、(1)の報告書は昭和19年(1944年)1月2日以降に起案し、本国到着し清書したのが、昭和19年1月25日であること。
(2)の報告書は昭和19年(1944年)1月2日以降に起案し、本国到着し、昭和19年2月15日に軍令第三部が清書し、電波研究部が複写分を回覧したのが昭和19年4月8日ということである。
この事実から、3. 遣独潜水艦作戦による輸送による搬送では時期が合わず、除外せざるを得ない。
このことから、この2つの報告書の内の(1)の報告書は文字情報のみなので「1..暗号よる無線通信」による報告と思われます。
もう一つの(2)の報告書には、文字情報と各種の図形情報が含まれていることから、「2..ファクシミリ(NE式写真電送装置)」による伝送により本国報告した可能性が高い。
それでは、無線通信でドイツと本国まで短波通信が可能なのか疑問が残ります。
短波通信を利用したとしたら、本国との直接通信については大使館の通信設備では無理と思われることから、各国の日本大使館の通信網を使用し、リレー方式で本国までの通信を行ったのかもしれません。
参考に下記「戦時中の外務省と戦時外交」の資料を添付します。
なお、田丸技術少佐も独逸降伏後、昭和21年3月に中立国のスウェーデン国を経由して日本への帰国を果たしています。
戦時中の外務省と戦時外交
当時日本が外交関係を維持または樹立していた国々は、アジアでは満州国・中華民国南京国民政府(汪兆銘政権)・タイ、枢軸国であるドイツ・イタリア(後にイタリアは降伏後に対日宣戦を行います)、またドイツの同盟国だったハンガリー・ルーマニア・スロヴァキア・ブルガリア・クロアチア、そして戦時中に独立したビルマ国・フィリピンなどでした。
その他中立国として、スイス・スウェーデン・ポルトガル・バチカン・アイレ(アイルランド)・アフガニスタンの6カ国とも外交関係を継続し、ソ連も対日宣戦前までは中立国として外交関係がありました。
そしてそれ以外の国々とは、国交断絶または宣戦布告による戦争状態にあり、直接的な外交的接触は閉ざされていました。
これらの国々では、国交断絶あるいは宣戦により在外公館は閉鎖され、外交官は交換船により引き上げてきました。
そのため、英米などこれらの国々に対しては、中立国であるスイスやスウェーデンなどが日本の委託を受けて居留民や財産などの保護に努める役割を果たしました。

次に、本報告書の電波研究部の回覧者について調査します。
電波研究部の新設については、下記の経緯のとおりです。
海軍技術研究所 昭和62年6月 中川靖造からの抜粋
艦政本部が技研電気部の改組を発表したのは、その著後の昭和18年7月のことであった。そして艦政本部三部長の名和少々が技研に移り、新設の電波研究部長に就任、陣頭指揮に当たることになった。
これは異例のことであった。職制上格下げ人事になるからである。
技研に着任した名和少々は、手はじめに呉海軍工廠電気工場で電探装備を担当していた矢島弥太郎技術大佐を電波研究部に典座させた。矢島は伊藤と同期の技術士官で、生産管理のベテランだった。その矢島を技研に呼んだのは、伊藤の管理下にあった生産部門を分離独立させ、増産体制を確立しようと思ったからである。
また、これと平行して、いままで海軍嘱託とて協力を仰いでいた東北大学の渡辺寧教授と放送技研の高柳健次郎博士を、中将、少将待遇の技師として迎える。さらに阪大の浅野、菊池の両教授も奏任官待遇の技師に登用し、電波兵器の開発に積極的に参画してもらう方針を固めた。
さらに電気試験所、理化学研究所、放送技研、大学で活躍している若手の有能な人材を技師や嘱託に採用、開発陣の強化をはかった。鳩山道夫(理研、のち電気試験所物理部長、ソニー中央研究所初代所長)、清宮博(電試、のち電通研、富士通社長)、武田行松(旅順工大、のち電通研、原日本電気顧問)、霜田光一(東大大学院、のち東大教授、慶応大学教授)などが、その時採用された代表的な人たちだ。
この一連の組織づくりに伊藤が貢献したことは、改め言うまでもない。

まずは、昭和19年2月の海軍技術研究所・電波研究部の組織表です。


 本回覧者は電波研究部の主要幹部の中のキーマンは、伊藤技術大佐、菊池技師、新川技師の3名のようです。
戦後の本人の著述や戦時中の関連の記録を以下に紹介します。
伊藤技術大佐
機密兵器の全貌 昭和51年6月 元海軍技術大佐 伊藤庸二
第二章 電波兵器 P124
第一節 電波探信儀
三.戦争準備時代(昭和16年11月迄)
英国と独国からの情報によって日本の電波探信儀の研究は急速度に組織化された。軍令部当局の鞭撻と、海軍技術当局の奮起は高柳氏の起用、日本放送協会技術研究所、日本電気株式会社の協力と相俟って、先ず独逸情報による米波の電探が完成した。
之を11号電探と称する。之は初めは三浦半島の野比で実験された機能を発揮し、ついで兵器として作られた。その第一号機は千葉県勝浦の灯台近く、海抜80米のところに装備された。
16年(1941年)11月の末に近い頃である。
四.緒戦時代(昭和16年12月~17年7月迄)
11号電探の第一回の量産50基は何とかやりくりできた。第二回目の量産にかからねばならない。やりかけの21号電探、艦船搭載の飛行機見張電探をも完成させねばならない。急激な人員の膨張も実現しなければならない。此の「ならないづくし」の緊張の間に、ミッドウェー作戦、キスカへの進攻作戦が計画された。日本全海軍を挙げての大作戦である。時は17年4月。
出撃は6月である。その間に21号電探と22号電探とを間に合わせて、伊勢と日向に夫々装備しなければならない。
夜を日につぐ努力はすべての部門に展開された。製造会社も研究所も艦政本部も工廠も一体となっての精進である。そして出発に間近い頃にようやく装備実験が行われた。
実験の結果は
21号(1.5米)は艦上攻撃機(単発複座機)単機高度3,000米に対して55粁、戦艦に対しては(目標日向)20粁、22号(10糎)は戦艦に対して(目標伊勢)35粁、飛行機に対しては使用不能。
と云う成績を得て、此の実験委員会は
21号は装備を可とするも、22号は撤去す可し
ときまり、時期をまって22号は撤去するこことした。此の時既に出動の時期はせまり、両艦は研究所の熟練技術者2名ずつを乗り込ませて、進攻作戦に参加したのである。
一部省略
進攻作戦に際しても、後退作戦に際しても大切な時に、天空を覆う深いとばりに災いされて、艦船の行動が極度に制限され、混乱したのである。此の時に新兵器としての22号が然も1ヶ月前に撤去を決定されていた此の電探が漸く力を出したのであった。
敗戦の戦場から帰った軍艦日向の艦長松田大佐は、此の電探の必要を説きまわってくれた。艦政本部もようやく認め初めた。そして極超短波電探にも一道の光明が出て来たのである。
一部省略
敢えて、又話は前にもどるが、軍艦伊勢、日向への電探装備実験の時の事である。実験委員会の中に前述の高柳健次郎氏が居られたが、氏は此の時一つの着想を筆者にもらされた。それはPPIの考え方であったのである。
PPIと云えば今レーダーを云々する人は誰でもうなづける。併し、当時としては真に新しい着想であった。それを一口に云えば、電探を以て地形図を描かせる構想であった。此の高柳氏着想は真に基本的なものであった。之とは又無関係に軍艦日向のその時の副長馬場正治氏が同様の着想を私に示された。
それから2年余り後の事である。撃墜されたB29から取り外した飛行機用電探に高柳、馬場両氏の着想を実現する装置が発見されたのだ。そして、いまの電探と云えば民需用のものは悉くが此のPPIである。両氏の着想は真に基本的な着想であったのだ。
ところで、何故に此の発明が日本では延びなかったか。種は既に蒔かれて居たではないか。其處には遺憾な理由が多々あった。それは飛行機用見張用の21号電探も、水上見張用の22号電探も、当時のものでは直ちに「武人の蕃用」には堪え得なかったし、特に22号はそれからしばらくの間、不安定と云う本質的な疾患があった。更に射撃に用う可き各種電探の急速完成等。その日その日の戦闘に対する対策に昼夜も分たず努力せざるを得なかった電波兵器研究陣には、此の着想は猫に小判、豚に真珠であったのである。思えば不甲斐ない極みではあった。
戦いは終わった。平和は再び帰って来た。日本の文献にも特許にも現れてをならぬ此の両氏の着想が今は新しい文明の利器として平和産業に用いられつつあるのである。此の事実を思う時、筆者は限りない責任感におそわれるのである。今此處に敢えて事実を述べて、且つ両氏に対する贖罪の一端とし度(たくし)い。

五.最盛期より終戦へ(昭和17年8月~20年8月迄)P138
日本の海軍も直ちに此の考えで研究に着手した。それは昭和16年9~10月の間であった。そして17年の1月には鶴見の海岸で実験する迄に進歩していた。之をS1装置と呼称した。併し此のごろには既に米英両国には、完全と云えぬながらも、一通り使えるものが出来て居ったのが実情であった。シンガポールとコレヒドール(比島)に米英両国共に大規模な射撃用電探が使われて居たのである。日本の海軍も陸軍も此の事実の為に共に戦術上の困難にぶつかって行ったのは当然であった。遅れて居ったと云って之程の遅れがあろうとは思わなかった。
一部省略

ところが軍艦同士の打ち合いにも電探射撃と云う言葉が何時の間にか用いられ始めた。昭和18年に入ってからである。そして此の頃から本課題を解く為には非常な努力が払われ始めたのである。各種電探を試作すること8種、大規模な実艦装備実験8回をも数えている。昭和19年の3月だった。水上射撃用電波探信儀対策会議が東京の海軍省で開かれたのである。此の会議は非常に緊迫したものであった。「6月末(19年)迄には是が非でも本装置を整備に移し度い。此の機械を失したら、本装置を実用する機会を永久に失するのであろう 」とまで司会者は述べたのであった。そして従来の考え方を改め「重量容積に対して制限は撤廃とれ、如何に大きくとも、どんなに重くても良いから、要求性能を満たすものを間に合わせる事」が要求されたのである。
この要求により研究陣は改めて奮起した。併し厳に要求された6月の機を失してようやく8月に至り、戦艦を35粁に捕捉し、その測角精度0.25度、測距精度250米の32号電探が完成したのである。
併し此の時主力艦隊は、日本海軍最後の反抗計画が計画され、シンガポール方面に既に終結して、装備不可能な状態になって了つたのである。そして僅かに此の32号電探は本土防衛の為に用いられたにすぎない。
日本海軍の最後の奮闘はレイテ作戦であった。之には22号電探の方向性を改善して用いた事は先に述べた通りである。
飛行機用の電波探信儀は陸上或は艦船用の電探に比してまさるとも劣らぬ必要な兵器であることは、電探の存在を知った初めから誰しも考えついた事であった。ところが、日本のこの研究は之亦遺憾乍ら甚だ遅れて出発した。之は技術担当者のみの責ではない。当時の制度の然らしめたところでもあるのである。
飛行機の事は飛行機屋が。之が空軍兵力を確立する為にとった海軍の方針だったのである。此の方針はたしかに効果的である。殊に飛行機自体の事、機体の事、機関の事等は正に此の方法によって積極的な推進力を得る。處が無線機は飛行機以外の部門に於て良く発達し、飛行機はその応用の一部門にずぎなかったものである。少なくとも戦争前迄はそうであった。特に新しい電波兵器の如きは、所謂無線通信屋の技術でもない。新しい技術を強力に吸収し、生み出さねばならない。此の見地に立つ時に、飛行機関係は飛行機関係屋でと限る場合には、余程研究行政に意を用いないと、かえって足踏みのもとになる。之は日本ばかりの事ではなかったのだ。
一部省略
飛行機用電探に制式に手をそめたのは、陸上用と水上用の電探の研究が始められてから数ヶ月以上も遅れた後の事であった。
飛行機用としはH6と称する電探が比較的順調に成立した。之はあと2年程の間に2,000基製作して実用されたもので、波長は2米であった。その後小型機用として昭和19年の秋、N-6、FK-3等の型式のものが出来たが、何れも本格的には実用されず終戦に至った。
飛行機に搭載して射撃に用いようとする電探はFD-2と玉-3との2種が出来上がった。共に夜間戦闘機用として設計されたものである。併しその完成時期が19年の秋であり、何れも試験的に用いたに過ぎなかった。
22号電探が一応の落付きを得た頃に、潜水艦がこれを攻撃用に用いようとする要望が判然して来た。昭和17年の末頃である。之が為には電場を輻射する部分の水防が問題になる。電波は波長が10糎附近にもなると比較的細いパイプの中を流せるので、それを送受信機と輻射部との間の連結に用いて居たが、水圧に耐えるそのパッキングも問題になる。本体を小型に作って潜水艦のハッチを出し入れ出来るようにしなければならない。等々。多くは背計上の問題であるが、これがようやく出来上がって呉の海で実験したのが昭和18年の4月の事であった。
その為には大事をとって予め鶴見海岸で実験した。その成績がよかったので、装備を呉に依頼して、ロ号潜水艦と称する小型の艦で実験した。ところが成績が以外に悪く、水上小型艦は7粁の近くでようやく出ると云う程度のものになってしまった。先の鶴見海岸の実験に比してあまりに悪い。
一部省略
呉工廠に分解調査依頼を依頼したところ、導波管(電波を空中線に運ぶ部分)に漏水部があり、性能が低下していることが判った。
之は一つの研究が完成する迄に経過した動きの一齣である。併し何事にせよ新しい事はすべて、あらゆる方向から同情的な支持があってこそ、その生命が延び得るのである。単なる是々非々では不可である。ましてや糎波の電探は不用なりとする先入意識が行政者の頭にあっては延びるものも止まってしまう。不幸にして本問題はその端的な一例となってしまったのである。
進めても進めても足りない技術開発が此の様な足踏みをしている間に戦局は遠慮なく経過した。而も艦政本部の要求は重量の軽減と性能の向上に固着して離れなかった。それでもその要求に基づく改善を施して実艦に装備されたのはちょうど1年を経過した19年4月、艦は伊158潜水艦(大型)であった。そして爾後すべての艦に装備実用されたのはあるが時期既に遅しの感が深かった。

第二部 電子技術兵器の実態
第三節 電波応用兵器 P152
一. 味方識別装置
昭和16年の夏伊太利海軍からの情報で、英国では味方識別装置とも称す可きものが使用されて居ることが判った。
一部省略
ところが、電探の出現によって、敵味方識別の方法に急に曙光がさした。電探との併用が今迄色々提案されたものの内の最も積極的な解法であるらしく見えたのである。海軍技術研究所は極めて簡単であったが伊太利情報を基として電探と組合せ、16年末には既に之が具体的計画を進めたが、或る目標が電探の電波に曝された場合にそれに応えて全く同じ波長の電波を送り返す技術が未解決であった等、色々の問題が残されたままに17年5月の伊勢、日向の電探実験に望んだ。そして此の実験の時にようやく技術上の一案が提起され、直ちに之を試作した。併し関係者が審議した結果は
(a)応答率が100%でないから応答しない場合は味方を攻撃してしまう。
(b)各電探に一様に応えることが困難である。
との理由で、兵器採用は見合せられた。これは英国では夙(しゅ)くこれを使って居るとの情報を耳にしたあとの判断である。
一部省略
味方識別装置は自己を曝露する恐れが多い。軽々には用いてならないと云う自重論である。
一部省略
處が19年秋の情報は敵が此の味方識別装置を盛んに使用して居ることを続々報じたのである。かくなると又問題がせわしくなる。研究再開が命じられた。そして追いかけ50基の兵器生産が緊急命令として発令されたのである。如何にも泥縄式である。此の場合斯(か)くなるには研究者側にも相当の責任があるにはあった。併しその本質は用兵者に技術の見透しがあまりに欠けて居た為である。尚日本人の考え方の特徴である他のものを兼ねさせる。所謂一石二鳥を善なりとする考えが此の場合に基調となって居たことも見逃せない。此の処置は折柄熾烈に展開することになっていた。比島方面の戦闘に単座戦闘機を偵察に用いる為、味方識別機をして電信機をも兼用せしめようとするものであった。
本来充分な準備なく、直ちに量産に移ることは技術者の決してとる可き道ではない。併し切羽つまった用兵上の要求は、遂にそれを邁進せざるを得なくした。幸に実験も順調に進み、翌20年1月には地上試験を行い、予期の性能が得られたので、更に次の実験にうつったが、一部要求性能をみたし得ず、而も比島方面の戦況も一変して、渡洋爆撃の機会も少なくなり、遂に試用の形で終戦に至ったのである。
味方識別装置は用兵者と技術者の物の考え方に不一致を来し、実現す可くして実現されなかった最も顕著な例の一つである。初めは用兵者が非常に厳格な条件を固持してゆずらず、戦力化に協力せず、必要に迫られて、用兵者が一歩譲った時には戦局が緊迫化して兵器製作が後手、後手となり、何等戦力に寄与し得なかったものである。
味方識別装置は戦術上の要求から陸海軍共通のものを是非用いたかったものであるが、両者は遂に一致し得なかった。それは電探発達の経緯が夫々異なり、その上に立つ味方識別装置は自ら違わざるを得ない為であつたのである。此の事については陸海軍電波技術委員会は極めて慎重に協議した。そして、何れ第二段の階程に於て一致させようと決めたのであった。併し運命は第一段をも完了させることなく、すべてを終わらせたのである。之程の利器に技術研究陣としては真の斧銊を加えることもせず、用兵者としては先見を失い。遂に敗退し去ったのである。かっての国防責任者の動きとして実にも慚愧の極みである。

 

第四節 物理懇談会とは(原子爆弾と強力電場の真相) P160
二.強力電波の始末記
物理懇談会の示唆により、海軍技術研究所の強力磁電管研究の方針は一段と進展した。極めて強力な極超短波を発生して、之が活用を期す可きであると考えたのである。
一部省略
其の後海軍研究の主力は橘型磁電管の実用研究に進んだ。その結果新しい研究は一応止まったが、磁電管の出力はまだまだ増大し得るものであるとの目安は明瞭になって来た。
そして同時に波長10センチ附近の電波を強力に発生した場合に、どの様な現象が起こるかについては、興味をもつに至ったのである。
そこへ物理懇談会の示唆が出てきた。一大決意をもって大勢力磁電管の研究を実施す可きを定め、17年10月その第一期研究として、東京都三鷹町に海軍技術研究所三鷹分室を作って研究に着手した。その後18年6月には静岡県島田市に地をトして、実験所建設に着手し、19年6月制式に開所、20年8月の終戦迄引き続いて研究を実施したのである。
一部省略
国防技術として本研究を強引に推し進めようと海軍が企画し、決意したその責任の大部分は筆者(伊藤庸二)にあった。
今静かに戦争の当時をかへりみる。果たして本質的に非なりしや、時間的に非なりしやと。
科学の未来は何人にも予見し得るものではない。併し電子技術の趨勢から推せば、本研究は磁電管の当然歩む可き道を歩んだことになるのであり、怪しむに足らない。之は何人も認めるところであろう。只問題は「此の時機に此の目標で」と云う話にあった。面も之が国防技術としては本質問題なのである。
古人曰く、「時務を知るは只俊傑にあり※」と。痛烈な此の話の教訓が容赦なく今筆者(伊藤庸二)を鞭打つのである。
※十八史略:七巻 この時代の流れを把握し、為(な)すべき事を知っているのは俊傑(しゅんけつ)しかいない。

 

電波報國隊/平野忠男
小生は海軍委託学生でしたので皆さんと異なり別行動となりました。恵比寿の海軍技術研究所に配属になり吉野淳一、三上一郎両君が一緒でした。我々の勤務は監督は業務課長、矢島技術大佐でしたが非常に厳しい方で、一般工員に対し恥ずかしくない行動をするよう言われた記憶が有ります。なお宿舎は当初工員寮でしたが、問題も有り途中から自宅通勤が認められました。所長は徳川技術中将で颯爽たる姿で挨拶をされたのを聞いた記憶があります。また毎朝朝礼の後伊藤庸二技術大佐が「論語」の一節を朗読、説明され、なかなかの名講義でしたが、これは職員、一般工員に対する道徳教育の意味が有ったと思います。戦後伊藤氏は「光電製作所」を設立され、電波応用機器部門で色々活躍されたようです。


新川技師
敗れ去った日本海軍の電波兵器 『無線と実験』1946 年 2 月号 新川 浩
☆はしがき☆
今迄所謂軍事上の秘密と銘うって一般国民に知らしめられなかった我国の兵器技術が終戦と共に続々と発表されたが,航空機と共に国家的に重大点として数えられていた電波兵器はどんな状態であったろうか。
そして又どんな成果を挙げていたか。
それらを検討することはこれからの平和日本の科学技術を進歩せしめる上に何がしかの参考となるであろう。
以下各々の兵器が如何なる経路を経て進歩されたかを簡単に申し述べよう。

☆陸上対空見張用☆
電探として日本海軍に於て一番最初に完成されたのは此の種のものであった。
即ち太平洋戦争の直前に完成されたものは波長 3メートル米 送信出力約 5kW で約 10µsecのイムパルスを発射するものであったが,これで最大 150km 遠方の飛行機を発見することが出来た。
これは開戦と略 同時に南洋群島其の他の第一線に相当数装備せられたが,故障多く且動作も安定を欠く点があり余り効果を挙げ得られなかった様である。 
そ其の后能力の増大に対する要求を満す為に送信出力を約 30kWに増大したものが製作せられ,これに依って約 300km 遠方の飛行機が探知し得る様になり且動作の安定性も亦大いに改善せられ相当の成績を挙げ得られた。
一方戦局の変転と共に装備工事並に運搬等の容易なものが要求せられ,これに応じて波長 2m 送信出力約 10kW のものが製作せられた。
これは極めて小型の機器を持ち更に空中線も亦極めて小型簡単であって全装置を中型の輸送機一機で運搬可能であり且 装備も兵員数名の手で 2~3 時間で完成する事が出来た。
この装置は以上の様に軽便なものであるにも拘らずその性能も相当よく約 200km 位の飛行機を探知し得られたので非常に広く用いられた。
終戦時迄幾百と云う大量生産が行われた。
又空襲の激しくなるにつれ電探を扱う兵員の安全を計る意味で空中線を除く他の部分を耐弾式トーチカに収めたものも作られたが大体機器としては前記の軽便式のものが流用せられた。
硫黄島その他の前進基地を失ってから少しでも早く探知する目的で波長 6m 送2信出力約 100kW の超遠距離用の電探が計画され終戦前には内地の 2~3 ケ所に装置されその偉力を発揮しつつあった。
この装置を用うると最大約 500km 遠方の飛行機が探知出来る。
これ等の見張用電探はその有効距離に於ては大体満足し得られたが,角度の精度の悪いこと,周囲の地形に依る乱反射との区別の附けにくい事等の欠点があった。

☆陸上対空射撃用☆
海軍ではこの目的に使用するものとして,直接高角砲の射撃を管制する目的のものと,対空探照灯を管制して目標を捕促して高角砲の射撃又は防空戦闘機の活動を援助する目的のものと各 2~3 種の兵器を製作した。 
何れも波長は 1.5m 送信出力約 10~20kW のもので 20km 以内の目標に対してその位置を正確に求め得るものであった。
その精度は距離に於て約 50m 角度に於て約 0.5 度乃至 1.0 度であって、必ずしも高性能のものとはいい得ないが海軍に於ける陸上対空戦闘の重要度から判断して右の様なもので大体満足していた様である。 
然し内地の様に山嶽の多い地形ではそれ等の地物からの反射電波の防害が多く実用上の障害となった事が多い。

☆艦船対水上見張及射撃☆
海面すれすれの目標を電波に依って探知する為には,対飛行機の場合と異って使用波長が相当短い事が要求される。
海軍ではその目的に応ずる為に十数年前から極超短波の研究に力を入れていたが電探として初めて軍艦に装備されたのは開戦の翌年であった。
磁電管を使用した波長 10cm 送信出力約 2kW のこの電探は当時として他の列強に比し遅れていたとはいえない様である。 
然し実戦に於てはやはり故障の多い事,取扱いのやや困難なこと等のため余り実用せられなかった。
その後主として研究の主力は受信方式並に空中線装備に向けられた。受信機は最初超再生式のもので極めて不安定で取扱困難であったが,その後オートダイン式となり,更に磁電管を局部発振管とし鉱石検波器を混合管としたスーバーヘテロダイン式となって普通の短波受信機と同程度の安定性を得られる様になり,実戦に於ても安定に使用し得るに至った。
空中線装置としては最初パラボラ反射鏡が用いられたが,空中線と機器との分割が困難であって重量が過大なる為に,導波管を用いて空中線と機器とを分離する様になり,輻射部としては導波管との結合の便利な電磁ラッパが使用される様になった。
最後には角度を測定する精度を向上せしむる為に導波管の先にパラボラ反射鏡を使用するものが再び製作せられた。
これは直径 1.8m の反射鏡を送受信両用に使うもので,確度測定の精度もよく距離に対する能力も充分であって,艦船用として略満足し得るものであったけれども,その出現の時期既に遅く海軍艦艇にこれを装備して実戦に参加出来るものがなく,遂に陸上用として海岸防衛用に用いられるのみとなった。
又潜水艦に於てもこの波長 10cm の電探並に陸上用として述べた波長 2m の電探が広く用いられた。これに依って潜水艦の安全性を保ち得たと云い得る。
波長 10cm 以外に於ても艦船用として色々研究試作せられたが何れも利害相半ばして遂に実用されたものは無かった。

☆航空機用☆
航空機に装備される電探としては波長 2m 送信出力約 5kW のものが戦争の初期に既に出来上って居たが,故障多く調整困難なるために仲々実用されず,その後の数次に亘る改良により戦争の後半に於てやつと実用される様になった。
これは中形機以上に搭載可能のものであって約 100km 先の船団を発見することが出来た。
その後海軍の空軍化の傾向が明らかになると共に海軍に於ける研究の主力が航空機用電探に向けられたので,各種の用途のものが相次いで研究試作され,これ等が段々と実用されんとした時に終戦となった。
これ等試作電探の主なるものを挙げると次の如きものがある。
第一に小型機用の電探,これは前述の波長 2m のものを小型機に塔載可能なる如く設計変えをしたもので,能力も大型のものの約 70%位であった。
次に夜間戦闘機の接敵用電探,これは夜間暗黒の中を敵の飛行機を発見,これに接近する為に用いられるもので,波長 2m 送信出力約2kW,約 5km 位の距離から 500m 位の近距離迄使用出来る。
又ブラウン管の上に表われる指示方式も全く独特のものであって操縦者が一目見て極めて容易に接敵出来,角度の精度は約 5 度であった。
この他 所謂 電波暗視機がある。これは大型機に装備せられるもので波長 10cm 酸化陰性をもつ磁電管を使用して,送信出力約 6kW で機体の下面で廻転するパラボラ式反射鏡付の空中線を持ち機上にいながらにして地形が判別出来て航法,爆撃等に利用できるものであった。
ただこれは機上に於ける所要電力(約 1.5kW を要する)の点で困難を感じた。

☆電波兵器の検討☆
以上海軍電探の発達の経過を極めて概念的に述べたのであるが,一見すれば各種の目的に対する兵器が一応は揃って居た様に見える。 
然も実際に於ては米英等のものに比して技術的に劣っていることは勿論であるが,更にこれが実戦に使用された有効さに於てはかなりの差があったのでは無いかと考えられる。
この原因は何処にあったであろうか。
問題は極めて広範囲に亘り一々此処で論ずる事は出来ないが,大要次の如き事であろう。
第一に挙げられるべき事は,完成の時期が作戦用兵の面からする所要の時期に比して余りに遅いこととである。
この事実のために,完成した兵器に対する技術的検討も不充分となり,その結果は故障の続出又は動作の不安定となる。
結論としてその兵器が元来有する性能を実戦上に発揮することが不可能となるである。
然らば何故に研究試作の完成の時期が遅れるのであろうか。
勿論元々研究に許容される期間そのものが短か過ぎる事もあろうし,試作機関の能力不足もあろうが研究者自身として考えなければならぬ事は,研究又は設計に当る者の思考の範囲が狭い事である。
初めに極めて慎重に万全を期して考察をはらえば当然避け得らるべき事を一々実地にぶつかってから“発見” しては対策を考え,その間に貴重なる時間を空費した場合が非常に多いと考えられる。
これを解決する為には研究者が万能の士である事が望ましいがそれが望めないときは,不明の点に関しては予め幾つかの手を平行に打つ事をしなければならない。 
徒らに重点主義の題目の下に唯一つの方法のみに依存する様なやりかたは間違いの元であると考えられる。
第二に挙げられることは,研究者の相互依存が不足していた事である。一人の研究者は何か一つの問題に対して特長を持っている場合が普通であるが,多くの場合唯一つの特長のみでは完成し得ない。
多くの技術的問題を平等に,且よくバランスした程度に組合せて完成されたものが最もよきものになるといえよう。
戦前我々は真に自分等の研究を製品化しこれを一般化した経験にはなはだ乏しい。
従って今迄の我国の研究者はそれを実行する必要に直面せず従ってそれを実行する方法を知らなかったのではないだろうか。
戦争中の苦しい研究生活を通じてこの貴重なる体験を得た研究者はこれからの平和日本のための研究にその教訓を大いに活かして行くものと期待する次第である。

☆結語☆
最後に,研究者の立場から研究に対する要求者であり又は研究の実施を指導する立場にある人達の事に一言ふれるならば,彼等は戦争の進行に対する確固たる見通しに立ち前向に新兵器に対する要求を出す事が出来ず,徒らに目前の戦局に左右されて定見なき各種の要求を出すことは技術者をしてどの途を歩むべきかをまよわす結果となる。
これもまた日本に於て,従来新しい要求に応じて新しい物を生み出すという経験極めて少く,外国に出来たのちの採用に浮身をやつしていた事に起因するのであって,要求者は研究というもののどれだけの時間がかかるかと云う事とを従来の外国模造品の試作にどれだけの時間がかかったと云う事とを混合した結果であろう。
即ち研究は “成るの日に成るに非ず” 其の前に幾多の基礎的困難が横たわって居るのである。
如何に状勢が急迫しようとも前途のために捨石を打つ事なしに研究が一日で完成することは有り得ないと云う事を銘記すべきである。

※注 新川 浩/ 元 国際電信電話株式会社 
1959年通常無線通信主管庁会議を始め、CCITT、CCIR、インテルサット等の会議に数次に渡り参加され、特に前記主管庁会議において短波輻輳の救済を研究するために設置された「7人の専門家」の1人に選出されるなど、主に周波数に関連した諸問題の解決に尽力、貢献されました。


菊池技師
電波報国隊によるレーダー関係記録からの抜粋
K-装置の開発/矢部五郎
K―装置とはなにかというと、簡易型電波探信儀の開発コードで航空機搭載用になるべく軽量小型にすることが目標であった。プロジェクトリーダーは大阪大学の原子物理学の菊地正士教授であった。僕らの任務はK―装置のCRT表示装置を2台試作することで、軽量小型にするために真空管を使わず、磁気回路で、同期信号と、CRTの横軸偏向電圧、輝度信号、陽極加速電圧を発生する装置とCRTを一つの箱に収める設計であった。


その他
(1)報告書の疑問点
指示機には、上部にPPI表示の10センチのブラウン管と下部の高度用のブラウン管表示が図面では確かにJスコープの円形時間軸用のブラウン管表示と記載されていますが、実機正面の写真からみると、単なるAスコープ表示のようにみえます。
これは、H2SからH2SMkにバージョンアップした時に、高度計の表示にも改善を加えたのかしれない。

 


(2)電波研究部の組織図から新たな疑問点
組織図の第六科(航空機用探信兵器)第二班の担務に24号(新川)とあるが、この24号については、日本電気の下記の資料に符合する。
ただし、これ以上の情報は今のところ発見できません。
「日本電気ものがたり」からの電波兵器の関連のところを抜粋
小林正次さんの「日記」<未完の完成>から、研究所生田分所の解説から終戦にいたる経緯を辿ってみます。
昭和18年12月20日
真鶴に行き25センチの対空試験を行う。15粁まで中型攻撃機が追跡できる。空二四号として飛行機搭載を決める。

 

参考文献
英機上用電探「ロッテルダム」X装置と独乙側の対策 海軍技術研究所電波研究部 防衛省戦史資料室
英機の対独空襲における機上電探「ロッテルダム」装置について 海軍技術研究所電波研究部(複写)防衛省戦史資料室
日本海軍エレクトロニクス秘史 昭和54年10月 田丸直吉
日本電気ものがたり 昭和55年2月
海軍技術研究所 昭和62年6月 中川靖造
戦時中の外務省と戦時外交
https://www.jacar.go.jp/glossary/tochikiko-henten/column/column2.html
機密兵器の全貌 昭和51年6月 元海軍技術大佐 伊藤庸二
敗れ去った日本海軍の電波兵器 『無線と実験』1946 年 2 月号 新川 浩
https://www.radiodesign.net/PDF/MusenJikken/1946-2/kaigun-denpaheiki.pdf
電波報國隊/昭十九会  http://todaidenki.jp/hist/?cat=11
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』パスファインダー、遣独潜水艦作戦

 

 


仮称四號電波探信儀三型・取扱説明書(案)の解説について

2022年01月10日 08時28分33秒 | 03陸海軍電探開発史

仮称四號電波探信儀三型・取扱説明書(案)の解説について

はじめに
本説明書は旧海軍の資料であるため、カタカナ表記の旧軍隊用語で記述されており、分かりにくいことから現代文に改めています。
また、電気専門用語も海軍特有のものとして、電源系では「翼板」といえば「陽極」のことを意味したり、「夛調波発振管」といったような用語は直接的現代訳することが困難な用語もあります。
また、海軍では、「高角」といった用語がありますが、「仰角」のことを意味します。
なお、サーチライトのことを陸軍では「照空灯」といい、海軍では「探照灯」といいます。
極力、特殊な用語については注釈をつけて説明するこことします。
本資料である仮称四號電波探信儀三型・取扱説明書(案)については、原理や理論については基本的には原文を提示し、更にその補足説明や解説を行い、当時の海軍技術研究所の技術士官や日本電気(当時の住友通信工業)の技術者がどのようなアプローチで問題を解決したか明らかにします。
更に、本書は仮称四號電波探信儀三型の原型機(43号L-1)の資料であり、敗戦後米軍に提出した取りまとめられたReports of the U.S. Naval Technical Mission to Japan, 1945-1946に最終バージョンである四號電波探信儀三型改二(43号L-3)のブロックダイヤグラムが掲載されているので、原型機との比較を行い、どのような性能改善が行われたかを最後に概観するこことします。

仮称四號電波探信儀三型・取扱説明書(案)の原書については下記のアドレスでPDF化していますので参考にしてください。https://drive.google.com/file/d/1JBG3rFgZ6LzloG0tJMZMkfn-LIOzaxbw/view


仮称四號電波探信儀三型 取扱説明書(案)
第一章 概説
本電波探信儀は完成探照灯指向用として設計したものにして、小型、軽量、取扱簡単なるを特徴とする。特に空中線は大きさに大なる制限を加え、受信空中線は探照灯前面に、送信空中線は管制器の上部に取付け、現用探照灯及び管制器を、本探信儀空中線架台に使用し得るようにした。尚追尾用の指示機は管制器の眼鏡上に設け、眼鏡と並用して探照灯の管制を行う。
本機は見張用電波探信儀と異なり有効距離は左程大きくないけれども、方向角及び高角の測定精度並びに測距精度の向上を計っている。即ち空中線は旋廻を行った共に俯仰も可能となり高角を測定すると同時に空中線の指向特性を、左右上下に振り、振幅比較方式を採用しているため、方向、高角の精度、極めて良好にして且つ移動方向をも探知することができる長所があり、又距離の測定には追尾式新測定方式を採用しているため、連続的に正確なる距離を求めることができる。航空機等多数来襲せる場合、其の一機を分離照準する必要があり、之の為本機には選択回路を設け、目標を分離追尾し得ることができる。
本機は主として対航空機用なるも其の他、対水上艦艇用にも使用することができ、又艦艇装備に適する如く小型に設計しているので、之を陸上探照灯指向用に使用するも、十分其の性能を発揮することができる。
本機は前述の通り探照灯指向用であるが、之を利用して射撃を実施する場合、距離は本機より直接求める方向高角に関しては先ず本機により目標物を追尾し、其の方向、高角を利用することを原則とする。但し探照灯照射による追尾不能の場合には本機により追尾する方向高角により直接射撃を実施するも相当の効果があるものと思われる。

第二章  要旨
第一節 構造及び能力の概要
一 用途 探照灯指向対空射撃指揮用
二 型式 艦船装備ベクトル追尾式
三 使用波長 1.5m(周波数200MC) 
四 本機の較正
3. 電源
電圧 3相交流 220V
電力 5KVA
周波数 50c/s又は60c/s
六. 操作人員 照射機員共 6名
管制機員           1名
灯  員          2名
電探員           2名
伝令員           1名
七. 能力
探信可能最大距離      40km
追尾可能最大距離      20km
追尾可能最小距離       1km 
測距精度          100m
方向角測角精度      ±1°
高角測角精度(15°以上) ±1°
同上    (10°)   ±3°

第二節 機器の概要
一. 送信機
重量  送信機  70kg
    電源   120kg
発振方式 プッシュプル自励式
変調方式 格子変調方式
インパルス幅  3μs
インパルス同期 2,000c/s
二. 受信機
重量  受信機  34kg
    電源   34kg
受信方式  超ヘテロダイン自動利得調整器付
全利得      約120db
中間周波数     20MC
局部発振周波数  180MC
周波数帯域    ±1.5MC

三. 選択機
重量  選択機  38kg
    電源   60kg
方式  輝点追尾方式
選択可能距離範囲  1km乃至40km

四. 測距機
重量       45kg
方式       像移動基線合致式
測距可能範囲   0乃至22km

五. 指示機
重量  指示機   〇kg
    電源    30kg
方式  等感度整流比較式
指示機 ベクトル式基準点表示方式

六. 同期発振機
重量  20kg
方式 マルチバイブレーター発振
インパルス周波数  2,000c/s
インパルス幅    約5μs

七. 空中線
(1)送信空中線
大きさ 2400×1900×1350
重量  70kg
構成  1段1列八木空中線(導波器2本、反射板附)4組
切換  位相切換

八. 位相環
重量    〇kg
切換法  空中線切換   容量式
     選択出力切換  接点式
切換周波数  25c/s

第三章  原理
本機は「インパルス」を使用せる超短波探信儀の一つにして電気的に目標物の方向並びに高角及び距離を測定するものである。
目標物探知の一般原理は一號一型、一號二型、二號一型および二號二型等と同様なので之を省略し以下目標物の選択方、方向、高角の測定及び距離測定法について説明する。
第一節 目標選択法
本機に対する目標物が多数存在する場合は各々よりの反射波が同時に受信してしまう。 従って之等の反射波の中より追尾しようとすると目標の反射波を選択分離する必要がある。本機に於ては送信電波の「インパルス」同期に同期した位相可変の選択用「インパルス」信号を発生し選択管に加え選択用信号の存在する期間のみ作動する仕組みである。
第二節 方向高角測定法
見張用電波探信儀のような最大感度法を使用する時は測角精度不十分であるため、本機には振幅比較方式を採用し精度は向上を計っている。即ち受信機空中線の指向特性を左右(又は上下)に振り両者は受信感度を比較し之が同一となるように追尾すると目標物は其の光点の方向に位置することになる。
受信感度の比較には前記選出出力を空中線と同時に切り替えへ指示用ブラウン管の偏向版に加え輝点を左右(又は上下)に移動させる。従って左右(又は上下)の受信感度同一になる場合は輝点は基準点に合致するが、一方が感度大なれば輝点はその方向に移動する。なお本機に於ては方向及び高度の指示に同一「ブラウン」管を使用することにより輝点は左右及び上下に同時に移動するような「ベクトル」指示として現れることになる。
第三節  距離測定法
見張用電波探信儀のような目盛方を使用する時は測距精度良好なることは期待できず、又距離の偏差も求めるのも困難となることから、像移動基線合致法を使用して、即ち測距には測距用「ブラウン」管面に基準線を装備して直接波の立ち上がりを之に合致するようにして電位差計式により波形を移動し反射波の立ち上がりが基線に合致するまでの移動量を計測することとする。

第四章 系統
第一節 送信
同期発振機により2,000c/sの「インパルス」信号を発生させて、之を送信機に装置し送信電波の輻射とする。
第二節 受信
目標に反射した電波は受信空中線より受信し位相環を通り受信機に入り低周波信号に変換され選択機に送られる。なお受信空中線の指向特性は位相環により上下左右に回転することは前述の通りである。
第三節 選択
選択機に於ては同期発振機より供給された同期信号により選択信号を発生し本機「ブラウン」管上の輝点指示に使用すると共に目標反射波の選択を行い選出した反射波は整流の上位相環付属の切換器に導く。
第四節 指示
位相環に於て切換えた低周波出力は指示機の「ブラウン」管に加えられる。指示機電源に於ては指示機「ブラウン」管の各種電源を供給すると共に指示機「ブラウン」管上の基準点指示を行う。
第五節 測距
同期発振機より送信「インパルス」に同期した矩形信号を供給し本機「ブラウン」管の偏向を行う、一方選択機より受信信号を受け「ブラウン」管の縦軸に加える。
第六節 電源
三相交流220V、5KVAの供給を受け各機器の電源とする。

仮称四號電波探信儀三型の原型機(43号L-1)の全体のブロックダイヤグラムを以下に示す。

 

第五章 一般構造
第一節 電源部  省略
第二節 送信機
一. 概説 送信機は送信部及び電源部の二筐体よりなる。
何れも防滴覆を付属し次の諸部を収納する。
電源部
変調部
送信部
二. 入力及び出力
(1)入力
単相交流220V
本送信機の電源部は単相220V又は単相100Vにて使用可能になるように設計している。電源電圧の切換は端子板上に装置した“切替器”により切替えられる(上方に倒せば220V、下へ倒せば100V)附図第20参照
同期インパルス
(2)出力
発振出力
三.電源部 省略
外観写真

回路図


 

補足説明
送信機は一般的な構成であり、特にコメントも必要ないが、初段増幅用の真空管に最新型のRH-2がここだけに1本のみ採用されている。
今回は試験的に採用したのだろうか。
このH管については、東京芝浦電気では、昭和18年(1943)頃から既に真空管「Hシリーズ」のメタル・ガラス管(M-G管)を陸海軍向けに開発して納入をしていました。この真空管「Hシリーズ」は、真空管自体の小型化と堅牢化を目的に、ステムにはバンタム・ステムを、ベースには8本ピンのオクタル・ベースを採用しており、寸法は全長が約80mm程度、最大直径が30mmφ程度の真空管でした。真空管の名称「H」は当時の研究所所長の濱田成徳氏のイニシャルから取ったものだと言われていました。


第三節 受信機
一. 概要
本受信機は方向及び高角用一個にして装置は受信部及び電源部の二筐体より構成されており、其の内容は下記に示す。
電源部
高周波増幅部
局部発振部
第一検波部
中間増幅部
第二検波部
結合増幅部
二.入力及び出力
(1)入力
空中線入力
自動利得制御信号
単相交流100V
(2)出力
受信出力
三. 電源部
交流100Vの供給を受け整流菅KX-523により直流電圧250Vを発生し各真空管の翼板電源及び遮蔽格子電源とする。別繊條電源変圧器を設け繊條電源6.3Vを供給する。
四. 高周波増幅部
空中線よりの入力信号は結合回路(260)、(2)を経て高周波増幅菅の格子に加えられる。高周波増幅は二段で、増幅菅は各段UN954を使用する。
五. 局部発振部
発振管にはUN955(44)を用い180Mc/sを発振し結合蓄電器(56)を経て、第一検波菅の陰極に加えられる。
六. 第一検波部
第一検波菅にはUN954(28)を用い本管の制御格子に加えた200Mc/sの受信信号と陰極抵抗(30)に加えた180Mc/sの局部発振信号とは本器により混合され20Mc/sの中間周波に変換される。
七. 中間周波増幅部
本中間周波増幅器は其の周波数帯域20Mc/s±1.5Mc/sとして各段共同調回路に抵抗(2kΩ)を挿入し所要の帯域を確保している。増幅段数は六段にして使用真空管は何れもUZ6302である。第一乃至第五増幅段の遮蔽格子回路に手動利得調整装置を設け、第一乃至第六増幅段の全般の格子回路には自動利得制御信号を加えている。本自動利得制御信号は選択機内で発生したもので、受信機は目標反射波を常に一定に保つように作動することになる。
八. 第二検波部
中間周波出力をUZ6302(170)により検波し低周波出力が得られる。検波回路には二極管検波を使用する。
九. 結合増幅部
第二検波器出力は負極性にしてUZ6302(173)の陰極結合増幅器により極性は負のまま“インピーダンス”を下げ選択機に送致する。
外観写真

図面

 
回路図

 
補足説明
受信機についても一般的な構成で、特筆するものはない。
ただし、自動利得制御回路を採用している機種は少ないが、採用の是非についてはメーカーの判断によるものかもしれない。


第四節 選択機
一. 概説
選択機は選択部と電源部とに分かれる。目標の選択には輝点追尾式をもいい次の各部より構成される。
電源部
受信信号増幅部
選択信号発生部
選択部
出力整流部
自動利得制御信号発生部
指示部
二. 入力及び出力
(1)入力
単相交流  100V
受信信号
同期信号
(2)出力
受信信号
選択信号
自動利得調整部
選出出力信号
三. 電源  省略
四. 受信信号増幅部
受信機よりの受信信号はUZ6302(4)(16)により二段増幅し陽極及び陰極より各々出力を取出す。陽極側よりの出力は選択機「ブラウン」管の縦軸の偏向を与え陰極側よりの出力は切換器(99)を経て選択機の制御格子に加える。
五. 選択信号発生部
同期発振機より矩形の同期信号を受けUZ42(63)の出力を鋸歯状波としてUZ6302(77)の格子特性により、この頭を切る。可変抵抗(81)は鋸歯状波の切る位置を変化する波状にして選択信号の位相調整用の抵抗となる。UZ6302(77)及び(88)により「インパルス」波に変形しUZ6302(96)の陰極側より選択信号を取出す。この選択信号は選択管の遮蔽格子に加えると共に一部は選択機の「ブラウン」管の制御格子に加え「ブラウン」管上に選択信号の位置を明示させる。
六. 選択部
選択管Ut6L7G(23)は制御格子に受信信号を遮蔽格子に選択信号を加え、選択信号の「インパルス」を加えた期間のみ、本真空管が作動する如くに陰極電圧を抵抗(27)により調整する。従って本器出力には選択した反射波の出力のみが得られる。
七. 出力整流部
選択管の出力は大きさの変化する「インパルス」の連続する波形となっているがUZ6C6(36)で整流し之の直流の変化に変換し、UZ6L6A(41)にて直流増幅し位相環に附属する分配機に送致する。
八. 自動利得制御信号発生部
前記整流出力は抵抗(45)及び蓄電器(46)よりなる時定数回路を経てUZ6302(48)により増幅し受信機の自動利得制御信号出力とする。
九. 指示部
真空管(63)の陽極に挿入した変圧器(69)により平衡型の鋸歯状出力を得て「ブラウン」管の横軸偏向に使用する。「ブラウン」管の各極電圧は電源装置より供給する。(-)500V及び(+)380Vを利用し、焦点調整、輝度調整及び位置調整等を行う。
外観写真


回路図

 
補足説明及び解説
説明書の第一節 構造及び能力の概要の中に、下記の記述がある。
七. 能力
探信可能最大距離    40km
追尾可能最大距離    20km
この前提条件には、パルス繰返し回数を如何に設定することが重要なファクターである。
本機には、パルス繰返し回数は2,000c/sが設定されている。
この2,000c/sの周波数の波長は150kmとなり、レーダー波は反射して戻った距離となるから、理論値な最大探針可能距離はその半分である75kmとなる。
実際の距離は、ブラウン管の表示上で帰線時間分(約15%程度)表示できないことや送信電力不足と受信機能力などを考慮し、本機の仕様では、実用的な探信可能最大距離を40kmと規定している。
それでは、追尾可能最大距離はその半分の20kmとしたのは何故なのであろうか。
勿論、探照灯の照射範囲の物理的制限があるのは理解できるが40kmとしてもいいのではないか。
この疑問に本説明書での回答はないが、この選択機の回路の水平掃引用の鋸波の発生回路をみると、まず同期信号を発生させる同期発振機の出力は通常は2,000c/sの同期パルスを使用しているが、この選択機用の同期信号だけは、矩形波を選択機の同期信号としている。
水平軸掃引用の初段のUZ-42で図のように、この矩形波を積分回路を通し、2,000c/sの掃引用鋸波を生成する。
次段のUZ-6302ではグリッドバイアス電圧を、カットオフ点を越えた状態でかつ陰極側に可変抵抗器で電圧調整するようにし、プレート検波すれば整流するとともに、歪として鋸歯の頭がカットした状態の変形した矩形波ができる。
これを微分回路に通すと、位相を遅らせた輝点パルスを生成することができる。
このような巧みな回路設計により、見かけ上パルス繰返し回数を4,000c/sとした鋸波ができることになる。
選定機ではこのパルス繰返し回数を4,000c/sを利用するため、理論的な測距距離は37.5kmとなり、実用的な仕様として、追尾可能最大距離を20kmとして設定したことが分かる。
なお、位相調整器のみの機能であれば、ゴニオメーターやツーロン回路が使用されるが、本機では、パルス繰返し回数を意図的に倍にする機能を付加しているため特殊回路を考案したようだ。

次に、縦軸の受信信号の表示用での特殊処理は選択部の項の説明書でも詳しく説明されているが、この背景を説明する。
この選択管には受信機の周波数混合部で通常使用されるUt-6L7Gの7極管を使用し、選択信号(輝度パルス)をゲート信号として受信信号をパルスと一致した時のみ通過させている。
選択機の操作パネルでは、ブラウン管表示用に分離と選択の切換SWがあるが、通常は選択にしておき、目標物を選択するが、分離にしたら選択パルス信号の通過した時の波形が現れるがその波形を拡大するなどの機能ではない。
何故このような選択部を設けたのかと言えば、選択信号パルス時間のみで通過した受信信号は探照灯の上下・左右の方向の管制をするための指示器の情報源となる。
この情報に自送信パルス波の直接波や目標物以外の反射波がかさなると指示機の表示は輝点表示が出来ないことになる。
このため、この選択部での不要波の除去は重要な意味を持っていることになる。

第五節 測距機
一. 概説 本機は電位差計式測距機にして仮称四式一型電波探信儀と同様影像を移動し反射波を基線に合致することにより測距するものであり全装置は一つの筐体よりなり次の諸部を含む。
電源部
矩形波電圧発生部
鋸歯状波発生部
受信信号増幅部
指示部
二. 入力及び出力
(1)入力
単相交流 100V
同期信号
選択信号
受信信号
(2)出力
無し
三. 電源部  省略
四. 矩形波電圧発生部 同期発振機より2,000c/sの「インパルス」電圧はUZ-6C6(59により増幅し之を夛(た、おおい)調波(高調波のこと)発振管UZ-79(14)に供給し矩形電圧を得る。
五. 鋸歯状波発生部 夛調波(高調波)発振管(14)の格子側抵抗(16)には矩形波電圧が発生し、これをUZ-6C6(27)の陽極側に鋸歯状電圧を作りブラウン管横振りように用いる。尚抵抗(29)に生じる矩形波電圧は帰線消去信号として利用する。
※夛調波(高調波)発振管とはマルチバイブレーターのこと
六. 受信信号増幅部 本機の受信信号入力はUZ-6L6A(56)により更に一段増幅し縦軸の偏向に使用する。
七. 指示部 「ブラウン」管にはSSE120-Gを使用し焦点調整、輝度調整及び上下左右の調整等を有することは一般ブラウン管波形観察器と同様である。
八. 測距抵抗 横軸偏向の反対側偏光板には電位差測定抵抗(43)(44)を経て直流電圧が加えられる。この抵抗の加減に依り像を左右に移動し測距を行い得る。
外観写真

 回路図

 

補足説明及び解説
同期信号は同期発振機から同期パルスを供給して、選択機と同様にマルチ・バイブレーターによる矩形波を作り、これを積分することで鋸歯を生成する。
説明書にある「抵抗(29)に生じる矩形波電圧は帰線消去信号として利用する。」から分かることは、選択機同様に見かけ上パルス繰返し回数を4,000c/sとした鋸波で水平軸の掃引を行っている。
したがって、探信可能最大距離は40kmとしつつも、測距機も最大距離は20kmということになる。
測距方法については、本来な位相調整器を使用してカーソルを移動するのが正攻法であるが、本機は説明書のとおり電位差測定法が採用されている。
この方法はとても簡単で通常のオシロスープではスポット調整するため、上下と左右の可変抵抗器を使用するが、この左右のスポット調整を逆に電位差を設けて像自体を左右に移動し、その移動量(電位差)を距離換算するという仕組みである。
基本的には、対の偏向板がどちらも零電位であれば、スポットは真ん中に位置することになる。
実際の回路図を見ると、まずブラウン管がシングルエンドとなっており、水平偏向版の一方は零電位となっている。
逆の偏向版に固定抵抗器と可変抵抗器があり、その中間に基本電源(ここでは制御用真空管のB電源)接続して置く。
可変抵抗器に今度はブラウン管の制御用の高圧電源を接続して可変抵抗器の端子はアースしておく。
この状態で可変抵抗器を調整し、基準電圧である基本電源(ここでは制御用真空管のB電源)と同一の電位となれば、零電位となり、スポットである輝点は真ん中に位置することになる。
この時の電位差を距離換算すればよく、具体的には1km換算の抵抗器×20個と切換用のロータリーSWと1km換算の可変抵抗器の2つからなり、零点調整した時の抵抗値をデジタル的に読み取ることが出来る。
ただし、この方法では測定精度には期待できないが、探照灯による目標物の距離測定程度であれば問題がないのかもしれない。


第六節 指示機
一. 概説 本機は特に探照灯用管制器に附いて旋廻及び俯仰の追尾を一人にて行う必要があることから等感度整流比較を用い且つベクトル式指示法を採用する。本器は指示器用ブラウン管部と其の他の装置との二筐体であり、つぎの諸部より構成される。
電源部
切換信号回路
基準点標示部
指示ブラウン管部
二. 入力及び出力
(1)入力
切換信号
単相交流 100V
(2)出力
無し
三. 電源部  省略
四. 切換信号回路
位相環にて切換を行う四出力は本機に送致され入力抵抗(9)(10)及び蓄電器(5)(6)等よりから、高い時定数回路に入り出力電圧が接点を離れてより次に接触するまで各一定に保持することができる。この電圧はブラウン管の左右上下の各偏向板に加え輝点を偏向する。
五. 基準点標示部
真空管(25)(26)(27)(28)は基準点標示用真空管にして何れもUZ-6C6を使用する。本真空管は格子に交流電圧が加えられ一秒間に50回づつ作動するようし、作動時の左右上下の偏向版を短絡させる。即ち(42)端子の11と12に加える電位差により「ブラウン」管の輝点が移動する場合を考えて偏向板短絡により一時輝点は原点に戻り基準点を標示する。
六. 指示「ブラウン」管部
本機は「ブラウン」管BG-75-A一個よりなり各電極電圧は指示機電源より供給される。
外観写真

回路図


 補足説明及び解説
本方式である位相環による受信信号の分配は、機械式スイッチングのため時間差が発生する。このため指示機に入る受信信号には遅延回路で補正する必要があり、本機では、1MΩの抵抗器と0.1μFのコンデンサーによる充電回路機能により、多少の信号の時間遅延を補正している。
なお、ブラウン管の水平、垂直の偏向版への信号の注入の処理方式を説明する。
2本の真空管を反転し、かつ並列に接続し、カソード・陽極には電圧を加えてない。
ようは最初の段階では、カソードとプレートとも電位差は0ということである。
この目的は、真空管を信号増幅用としてではなく、電子スイッチとして機能するような回路設計のためである。
このため、高圧の交流をトランスで生成し、両真空管のグリッドに接続し、交流が‘+’の時、カソードとグリッド間は2極管として動作し、カソードとグリットは短絡することになり受信信号は消滅し、偏向版は0電位となる。
勿論陽極側は0電位であるので陽極側への信号は阻止される。
同時に、隣の逆向きに接続された真空管でのグリッドには、交流が‘-’に印加されるので、真空管は電子スイッチとして機能せず、ブラウン管の該当の偏向版へ信号を注入することになる。
このように、この交流信号の+と-により真空管は交互に電子スイッチして機能することで該当のブラウン管の該当の偏向版に信号を正確に注入するこことなる。
なお、無信号の時には、熱雑音の信号を表示することから、実際の波形は中央で焦点ボケをおこしたような表示となり、無信号の判定にも利用できる。
実際のこの表示器の入力インターフェースは以下のとおりと推定される。
入力端子1には、右アンテナの受信機出力
入力端子2には、左アンテナの受信機出力
入力端子3には、上アンテナの受信機出力
入力端子4には、下アンテナの受信機出力
大変考えられた回路設計に、唯々、感心するばかりであるが、「ニューマン文書のSLC理論」の説明書にある方位角と仰角制御装置(表示機)の項の内容をそのまま具現化した指示機に見受けられるのは、それは単なる偶然なのか。
ニューマン文書のSLCの理論 https://drive.google.com/file/d/1IpiUw8ymUL2mBdYaVKpKOf1PalZSBfo2/view


第七節 同期発振機
一. 概説 本機は夛調波(高調波)発振回路を用いた同期発振機にして次の各部から構成される。
二.  入力及び出力
電源部
夛調波(高調波)発振部
インパルス発生部
矩形波発生部
二. 入力及び出力
(1)入力
単相交流 100V
(2)出力
送信機同期信号
測距機同期信号
選択機同期信号
三. 電源部  省略
四.  夛調波(高調波)発振部 真空管(12)及び(19)は夛調波(高調波)発振管にしてUZ-6C6を用いる。周波数調整は抵抗(18)に於て行い2,000c/sに調整する。
五. インパルス発生部 夛調管の一方の陽極側の塞流線輪(9)には「インパルス」波を生じる。UZ-6C6(6)により増幅して送信機及び測距機の同期信号に使用する。
六. 矩形波発生部 夛調管の一方の陽極には抵抗(21)を挿入して矩形波を発生させる。此の信号はUZ-6C6にて増幅し選択機の同期に用いる。
外観写真

回路図


 第八節 空中線
一. 概説 本機の空中線の送信用及び受信用の二組よりなり送信用は探照灯管制器に、受信用は探照灯前面に取付ける。
二. 入力及び出力
(1)入力
送信出力
(2)出力
受信信号
三. 送信空中線 送信空中線は半波タイポールの導波器二本及び反射器一本を取付けた八木空中線にして空中線素子の中央を切り離し長さ1/4波長の平行線よりなる整合器を取付けて平行線の適当なる点より二線式饋電線を使用して送信機に接続する。 
四. 受信空中線 受信空中線は左右上下の四組よりなり左右上下の空中線は夫々一波長の間隔を有している。
角空中線の構成は反射器に四組共用の金網を使用する以外は送信空中線と同一である。
饋電線は空中線中央より少し離れた点を選び高周波「ケーブル」よりなる長さ1/4波長の整合器を使用する。整合器出力は同心管よりなる外套管に加え非平衡出力変換し高周波同心ケーブルにより位相環に送致する。
外観写真

図面


 第九節 位相環
一. 概説 四組の受信空中線よりの信号は位相環に加えられる。
位相環に於ては受信空中線指向特性を中心軸に対して一定角度を保持して回転する。又本機回転軸には選択出力切替器を連結し空中線切換器と同時に切り替えを行う。
本機は次の三部より構成されている。
空中線切換部
選択出力切換部
電動機
二. 入力及び出力
受信信号
切換信号
三. 空中線切換部
切替器内部には直径14cmの環がある。上下左右の四点に夫々空中線を接続する。この環の内側に更に之と密接して同軸の回転する環がある。この一点より出力は中心に装置し電動機と反対側の側面より取出す。斯(か)くの如く切換に容量式を採用するのは接点より生じる雑音を防止する為である。
四. 選択出力切換部
選択出力の切換には刷子を使用する。切替接点は円周を八等分にした金属より構成する。この上を刷子が回転し出力は八接点の内一つ置きの四接点より取出す。
※刷子とは、ブラシのこと
五. 電動機
前記両切換部の回転用として、次の如き電動機を使用する。
電圧 220V(当分は100V)
馬力 1/25
極数  4
回転数 1500
図面


本機に使用した真空管の紹介
送信機用

 
受信機用高周波増幅菅(エーコン管)

 
受信機、選択機、測距機、同期発振器機に使用したST管の事例

選択機、測距機、指示機のブラウン管


四號電波探信儀三型改二(43号 L-3)について
四號電波探信儀三型の最終バージョンのブロックダイヤグラムを下記に示す。

 

 資料はこのブロックダイヤグラムで、初期バージョンの仮称四號電波探信儀三型(43号 L-1)と比較して如何に性能改善を図ったのか検証する。
なお、以下の参考資料を示す。
「元軍令部通信課長の回想」昭和56年 鮫島素直
(四号電探三型)
その一号機は昭和十八年八月戦艦山城に装備し、艦船用としの実用実験を行ったが、艦の動揺および変針によって、追尾が甚だしく乱調となるなど、種々解決を要する問題が多いことが指摘された。
一方、対水上射撃用電探が立ち遅れていたため、艦船部隊の夜間戦斗はむしろ回避される傾向にあったので、この種電探に対する要望も次第に薄らいできた。
このような情況で、この型の電探も陸上用に転用されることになり、装着対象となる探照灯も一二〇センチメートルのものから、一五〇センチメートルのものに改め、アンテナも大型化し、測距装置などの改良を加えて、四号電探三型改一が試作された。
次いで送信電力を二倍に増大し、精密測距装置を付加して、四号電探三型改二が完成された。
改二の性能は照射用としては十分なものであり、照射実験においても殆んど照射毎に目標を捕捉しうる程度に改善されていた。
この型の電探は改一、改二を合わせて、計二五〇基製造された。

補足説明及び解説
この2点の資料から、まず送信機の真空管がT-311のプッシュプルから送信菅TA-1504の4本を使用したリング発振にパワーアップしている。

 
更に、使用真空管がST管からH管に全面変更されている。

同期発振機も、使用真空管が4本から7本に増えており、同期信号のための発振方式もマルチバイブレーター方式から正弦波発振方式に変更になっており、パルス繰返し回数も1,000c/sに下げられている。
指示機のブラウン管も上下と左右に2本に分けられており、方位角と高角の調整を2人で対応するように変更したようだ。
「元軍令部通信課長の回想」の中で「送信電力を二倍に増大し、精密測距装置を付加して、四号電探三型改二が完成された」とあるように、原型機の簡易測距機から精密測距機に作り替えられているようだが、ブロックダイヤグラムを見るかぎりでは原型機と変わらないように思われる。
なお、ブラウン管は大型の120mmのものは廃止され、全て75mmの小型のブラウン管に変更されているが、少し観測には不便を生じるだろう。


参考文献
仮称4号電波探信儀3型 取扱説明書 ⑥兵器 475 防衛省戦史資料室
Reports of the U.S. Naval Technical Mission to Japan, 1945-1946
「日本無線史」10巻 1951年 電波管理委員会
「元軍令部通信課長の回想」昭和56年 鮫島素直
機密兵器の全貌 昭和51年6月 原書房
「ケンさんのホームページ」 真空管「Hシリーズ」 http://kawoyama.la.coocan.jp/tubestoryhsiries.htm

 


オークションウォッチ「中古のエーコン管6本(3本は少しジャンボな新種?)」について

2022年01月09日 10時21分40秒 | 10オークションウォッチ

オークションウォッチ「中古のエーコン管6本(3本は少しジャンボな新種?)」について

断捨離中につき入札ご法度の身でありますので、入札に参戦せず下記Yahooオークションの推移を見守り、記録するだけとしました。

エーコン管 6本 ジャンク
商品情報
個数:1
開始日時:2020.11.23(月)00:46
終了日時:2020.11.26(木)23:46
自動延長:あり
早期終了:あり
返品:返品不可
入札者評価制限:あり
入札者認証制限:あり
落札者:7*9*g*** / 評価 1452
開始価格:100 円
オークションID:h520028560
入札件数  6入札履歴
残り時間  終了 詳細 
現在価格  2,500円(税 0 円) 
出品者情報
落札率が高い 
直近3ヶ月に出品した商品の
70%以上が落札されています。
yasuka102002さん フォロー 
総合評価: 243 
良い評価 100% 
出品地域:愛知県
商品説明
カテゴリ 家電、AV、カメラ オーディオ機器アンプ 真空管アンプ 真空管
状態 全体的に状態が悪い 
詳細不明のエーコン管 6本を出品いたします。
写真上段、左から UN-954(住友)、UN-955(マツダ)、UN-955(マツダ)、
写真下段3本は表示が不鮮明のため型番の読み取りが困難ですが、一部は日立のロゴが読めます。
UN954を除いてヒーターの導通あり、UN-955(上段、中央)はクラックがあり、空気が入っています。
その他詳細は不明のためジャンク品です。
よろしくお願いいたします。

入札者の順位   すべての入札履歴
1ページ中 1ページ目を表示 (入札合計:3件)
入札者 / 評価   入札額 個数 最後に手動入札した時間
 7*9*g*** / 評価:1452 最高額入札者  2,500 円 1 11月 26日 0時 19分
 t*s*t*** / 評価:1338   2,400 円 1 11月 26日 23時 40分
 P*M*z*** / 評価:342   1,601 円 1 11月 23日 16時 41分
1ページ中 1ページ目を表示 (入札合計:3件)

商品画像(写真は1枚しか添付されていない)

 

*******************************************************************************
商品説明を再掲します。
詳細不明のエーコン管 6本を出品いたします。
写真上段、左から UN-954(住友)、UN-955(マツダ)、UN-955(マツダ)、
写真下段3本は表示が不鮮明のため型番の読み取りが困難ですが、一部は日立のロゴが読めます。
UN954を除いてヒーターの導通あり、UN-955(上段、中央)はクラックがあり、空気が入っています。
その他詳細は不明のためジャンク品です。
よろしくお願いいたします。

写真上段、左から UN-954(住友)、UN-955(マツダ)、UN-955(マツダ)は、明白に戦時中レーダーのために製造されたエーコン管です。
特に、日本電気ではなく、住友通信の戦時名称がその証拠です。
問題は、写真下段3本は、通常のエーコン管の規格より少しジャンボなエーコン管で、しかも、「表示が不鮮明のため型番の読み取りが困難ですが、一部は日立のロゴが読めます」とのことです。
この少しジャンボなエーコン管は、あきらかに既存の戦時規格エーコン管ではなく、戦時製造の新型エーコン管と思われます。
新型のエーコン管が使用した機種としては、使用周波数が200Mhz以上の海軍用の艦船用の射撃管制レーダーの2号電波探信儀3型 (S8,S8A)と航空機搭載の射撃管制レーダー18試空6号無線電信機(FD-2) などの機種で、全て東京芝浦電気株式会社が開発・製造しています。
何れも、使用周波数が500Mhz帯と高く、既設のエーコン管では200Mhzが限界のため、新型のエーコン管が使用されています。
高周波増幅部では、2400、局部発振部ではUN-955Bか既存のUN-955のエーコン管が使用されています。

 
この高周波増幅部では、2400、局部発振部ではUN-955Bの2本については、文献やネットを検索してもヒットしません。
もしかして、今回のオークションに出品された「中古のエーコン管6本(3本は少しジャンボな新種?)」の少しジャンボなエーコン管が該当しているのかを検証するこことします。

ジャンボなエーコン管といえば、下記の資料が該当します。
ジャンボな”エーコン管” VT-128(1630 orbital-beam hexode)http://kawoyama.la.coocan.jp/tubestoryacorn.html

右の写真は、RCA VT-128(左)とRCA 955(右)に示すように、”エーコン管”という常識から言えば、途轍もない大きな”エーコン管”です。ガラス管壁には、”VT-128”と印字されていますが、”1630 orbital-beam hexode”(1630 軌道ビーム6極管)が正式な名称です。


 1630 軌道ビーム6極管は、12ピンで全長が55mm、最大径が50mmφです。 右の写真では、外側ホーカシング電極J2の切れ目からG1,G2およびヒター電極が見えます。 下のダイヤグラムと合わせて参照してください。

 
下の表は、1630 orbitalーbeam hexode(1630 軌道ビーム6極管)動作状態を示すものです。
 項 目  定 格
ヒーター電圧          6.3 V 
プレート電圧          0.3 A
2次電子エミッタ電圧 370 V 
外側ホーカシング電圧  240 V
内側ホーカシング電圧   0 V 
第2グリット電圧        45 V 
第1グリット電圧         -1 V
プレート電流         12 mA 
2次電子エミッタ電流  9.5 mA 
カソード電流          3.5 mA 
相互コンダクタンス     15,000 μ? 
入力容量         6.5 pF 
出力容量          3.5 pF

上のダイヤグラムは、1630 orbital-beam Hexodeの内部構造図を示す図です。電子ビームは、内側ホーカシング電極 J1によりAAと記された軌道を進行します。AA軌道を進行した電子ビームは、1次電子の5倍の2次電子を放出する2次電子エミッタ電極に突き当たります。これらの2次電子は、アノードに引き寄せられます。外側ホーカスイング電極J2の電位を変えることにより、BBと記された軌道を進行した電子ビームは、内部にあるホーカシング電極(ダイノード電極)に衝突します。
この様な構造は、グリットとアノード管の電子の走行距離を見かけ上長くすることが出来ます。このため真空管の相互コンダクタンスを大きくすると同時に雑音指数を改善することが出来ます。
しかし、BB軌道を進行した多量の電子ビームが、ダイノードの表面に衝突して、急速に損傷を与えるため通常の真空管に比較して寿命が短いと言う欠点がありました。最終的には、3極管 6J4を使用した装置と取り替えられました。(註;ダイノード(Dynode)とは、光電子増倍管内でその機能を果たしたり、光電子により刺激されると二次電子放出や振幅などの上昇に寄与する補助的電極のこと言います。)
この1630 orbital-beam Hexodeは、1939年にRCAにより製造され、第二次世界大戦の緒戦となった日本軍の機動隊によるハワイ(パール・ハーバー)攻撃の時(1941年12月7日)に実用されていた初期のSCRー270レーダー装置に使用されていました。日本軍の艦載機の突然の空襲は,発見されていたのですが、不幸にして(日本軍の艦載機には天佑?)この発見は操作ミスにより無視され報告されませんでした。

更に、このVT-128(1630 orbital-beam hexode)については、昭和18年7月の日本の無線雑誌に掲載されており、既知の内容でこのVT-128を二次電子逓倍管として紹介しています。
「比島にて押収せる米軍・超短波警戒機(SCR-271)の原理と構造」無線と実験 昭和18年7月号 陸軍兵技中尉 友納典人からの抜粋
受信部
受信部は目標物よりの反射波と送信機よりの直接波とを受信し、これをオシログラフ上に標示せしめる装置で、受信機と陰極管オシログラフ及び空中線方向表示器とより成っている。第5図(A)は各装置の配置を示すもので、(B)図はその略図である。
図中の①は受信機、②は陰極線オシログラフ、③は移相調整用ハンドル、➃は空中線方向表示器、⑤は空中線方向伝達用回転軸、⑥は空中線回転調整器、⑦は送信機高圧電源用押釦、⑧は空中線回転用電動機スイッチである。
受信機は高周波2段、中間周波4段のスーパー・ヘテロダインで、その構造を略示すれば第6図の通りになる。ここで興味のあるのは受信機入力端に放電管を使用し、第一段の高周波増幅菅には小型送信菅を用い、次段の増幅菅には二次電子逓倍管を用いていることである。

 
この2点の資料から、今回出品された不明の3本のエーコン管と比較すると、形は酷似していますが、米国のVT-128(1630 orbital-beam hexode)ほうが少し大型に見えます。
しかも、「不明の3本のエーコン管には一部は日立のロゴが読めます。」とのなので、製造は日立製作所と断定できます。
問題の500Mhz対応の高周波増幅菅2400については、東芝製のレーダーに搭載されており、基本的には東芝製の真空管が搭載されるはずです。
したがって、高周波増幅菅2400が今回出品された不明の3本のエーコン管と断定するまでの根拠には至りませんでしたが、可能性もなくはないとう結論となりました。


次に、UN-955Bについての調査については、下記にUN-955Aの資料があり、UN-955Bはこの系列下にあるものと思われます。
このため、UN-955Bについては、発掘に至っておりません。
UN-955A -Medium mu Triode
日本のレーダー用受信管 -エーコン管と高周波増幅5極管
https://radiomann.sakura.ne.jp/HomePageVT/Radio_tube_2_Rader.html
日本の古いラジオから
[Updated in 1998.8.16]
規格にないUN-955A。戦時中,UN-954が100MHz以上で満足に増幅しないことが問題となり,電気試験所の清宮博氏らがエーコン管の改良研究を行い,実際は東芝電子工業で昭和20年1月に改良を行ったという記録がある。これはUN-954のゲッタ膜に関するもので,上部にフラッシュさせる際に,(1)リード線をガラス管で巻く,(2)熟練工がリード線の左右に指向性を付けてフラッシュする,(3)リード線にマイカ板で遮蔽する,の3通りを試み,(3)でようやく性能が確保できた,という研究である。ここに示すUN-955Aは,カタログにない規格の球であるが,ゲッタ・フラッシュと関係している。

Front and Back Views of Matsuda UN-955A
UN-955Aの表と裏。カメラの焦点距離を無視して撮影したので,これ以上は良く見えない。表は管名がうっすらと見える。裏は戦時中末期のマツダのロゴ(丸で囲った2枚羽のプロペラ・マーク)が見える。他に,良く分からないマークが1つある。
UN-955Aの特徴は電極上部にプレートと繋がる箱とコイルがあり,コイルはトップ端子に繋がっている。何だかわからない。ゲッタ加熱用のコイルなのだろうか?詳しく言うと,電極上部にプレートと同電位のシールド箱(上面と横の1面だけ解放)があり,この中に直径1mm程度,6回巻き位のコイルが横に寝ている。コイルの端はシールド箱に,もう1方はトップ端子に繋がっている。プレートは電極下部にも引き出されている。したがって,下部のプレート端子とトップ端子に高周波を通電するとコイルが加熱して,ゲッタが上面にフラッシュするというような感じである。シールド箱はゲッターフラッシュの範囲を決めるのだろう。
このサンプルはヒータが切れており実は死んでいる球。今,改めて調べてみると,下部のグリッド引き出し線(ジュメット線)部分のガラス接合部分が一部剥離しており,少し真空漏れもあるかもしれない。ガラス面のゲッタはほとんど残っておらず,うっすらと見えるだけ。
「がーさん」から試作品という指摘を受けました。確かにトップ電極は,いかにも不器用だ。上部はかなり細い銅線がひょろりと引き出されているように見え,私が金属板を不器用にハサミで切って巻き付けましたという出来ばえである。


参考情報
日本陸海軍のレーダー開発を概観すると、大部分のレーダーが超短波帯(50Mhzから200Mhz)で使用するものが多いことが分かります。
ただし、日本無線株式会社による磁電管(マグネトロン)による極超短波帯のレーダー開発は例外です。
この根本的な原因は、欧米に比較して日本の工業会での高周波技術の未熟にあることはあきらかです、
特に、戦時においてレーダーを構成する重要なデバイスである真空管の高周波対応、特に受信管の革新が行われなかった。
このため、超短波帯のレーダーから極超短波帯への移行ができなかったことにあります。
超短波帯のレーダーでは電波警戒機(海軍では、見張用電波探信儀)の使用は可能ですが、電波標定機(海軍では、射撃・探照灯管制用電波探信儀)では満足な測定精度を発揮することができません。
200Mhz以上の陸海軍のレーダー(試作研究中のものも含む)は以下のとおりです。

陸軍 タキ2   375Mhz    住友通信  送信管SN-7、受信MIX955、OSC955
   タキ14  1111Mhz   東芝    送信管T-327(板極管かも?)
   タキ24  3000Mhz   住友通信  磁電管(マグネトロンM314,M60S)
   タキ34  6000Mhz   住友通信  磁電管(マグネトロン型式不明)
   タチ24  600Mhz   日本無線   送信菅LS-180
   タセ2  1910Mhz   日本無線と東芝 磁電管(マグネトロンMP15,ML15)
海軍 FD-2    500Mhz   東芝     送信菅T-321、受信MIX2400、OSC955
   51    3000Mhz   日本無線   磁電管(マグネトロンM314,M60S)
   2号2型  3000Mhz   日本無線、日立   磁電管(マグネトロンM312,M60A)
   2号3型  500Mhz    東芝    送信管RT-321、受信MIX2400、OSC955B
   3号1型  3000Mhz   日本無線、日立   磁電管(マグネトロンM312,M60A)
   3号2型  3000Mhz   日本無線、日立   磁電管(マグネトロンM312,M60A)
   61    500Mhz   東芝   送信管RT-321、受信MIX5020(?),OSC955B
この中で磁電管(マグネトロン)を使用したレーダー開発は技術を有していたのは、日本無線株式会社のみで、この理由は以下の社史のとおり、日本無線(貴社には敬意を表しますが)以外の当時のメーカーでの基本的に今次大戦にはマグネトロンの実用化は無理であろうとする認識が背景にあったものと思われる。

東京芝浦電気株式会社八十五年史 昭和38年発行からの抜粋
以上のごとく電探用送信機としては多くの種類を製作したが、これらの大半は三極管方式によったものである。
これは機器内に使用する真空管は極力同一規格の三極管を用いるもので、操作保守を能率的かつ簡便にするには極めて有効な方式である。
もちろん三極管で超短波を発振することには、構造的にも周波数の限界があるが、当社では極力この方針を推進して、戦争末期に当局から磁電管の製作を要請されるまでこの方針を貫き各種の特色ある兵器を完成した。
このうちには三極管を使用した極超短波(マイクロ波)の電探がある。
これは波長30~60cm(周波数500~1000Mc)のもので、それまでの超短波を用いたものよりもはるかに分解能のすぐれたものであった。
航空機用及び船舶用として開発していたが、昭和19年春、南方の戦局非を告げるに及んでこれら新兵器を急速に完成することが強く要望された。
当社はこれに応じて当時の柳町工場、小向工場を主体として、数千人に及ぶ従業員を動員し完成に努力した。
このことは太平洋戦争の全期間を通じて国内軍需産業面におけるもっとも大きな努力の一つであったと思われるが、そのころすでに総合的な組織力を欠いた戦況下にあっては実効をあげることができず、かえって当時の責任者であった今岡技師長を失うという不運な結果となった。

日本電気株式会社百年史 2001年12月25日 日本電気社史編纂室からの抜粋 
「板極管」の開発と生産が生田を中心に行われた。しかし、従来の三極管では有効利用の波長の限界は1.5mであったが、レーダの精度向上のために数10cmの電波を用いる必要かあり、1944年4月に、ドイツからシャイベンレーレといわれる三極管の使用の情報を得た。これを推測しながら試製してできたのが、JRBという板極管であったが、「成績ハ良カッタガ試作管ガ出来上ガッタノミデ、終戦トナッタ」のである。
純技術的にいうと、メートル波とセンチ波の相違、システムエンジニアリングの欠如、正確な測定技術にもとづく定量的設計の欠如など、技術開発の遅れは否めないが、マイクロ波通信がレーダの延長上にあったから、無線誘導機、無線誘導爆弾の開発を含めて、自力開発の経験は貴重であった。
しかし、戦局の悪化とともに、研究開発も軍部が直接「統制」するようになった。1943年7月には、陸軍は陸軍技術研究所や航空技術研究所に分散している電波関係の研究部局、人員を集約して、電波兵器開発を促進するため、多摩陸軍技術研究所を設立した。多摩技研は「研究室」制度を採用し、参与・嘱託制を併用して大学や民間企業の研究機構も動員した。東京芝浦電気の電子工業研究所が川崎研究室とされたのと同様、住友通信工業研究所生田分所は生田研究室とされ、小林が嘱託に任命された。44年12月には研究所の主力は生田に集結して、研究を進めようとしたが、戦争末期には、空襲、実験機材・人員などの不足で研究が行えない状況にたちいっていた。
技術開発面で、日本がアメリカに及ばなかった理由の一つは、森田正典が指摘しているように、オープンな協力体制のもとで技術開発を進めたアメリカとは違って、日本では陸・海軍のセクショナリズムがついに解けず、オープンな協力体制が欠如していたことにあったのである。

「日本電気ものがたり」からの抜粋
小林正次さんの「日記」<未完の完成>から、研究所生田分所の解説から終戦にいたる経緯を辿ってみます。
昭和18年12月20日
真鶴に行き25センチの対空試験を行う。15粁まで中型攻撃機が追跡できる。空二四号として飛行機搭載を決める。
昭和19年5月2日
犬吠埼にタチ二〇の実験、三〇〇〇メートルの飛行機を50帰路まで高度を正確に追いかけることが出来た。
昭和19年7月8日
タチ二〇は急速整備をすることとなった。一〇〇キロまで高度が測定できるものは世界に類がないので大いにやることになる。
昭和19年8月15日
タチ二〇は最重点兵器となった。伊藤大佐同行、横須賀-野比に行き二四号の対艦試験を行う。対駆逐艦二六キロの成績を得た。二四号も重点兵器となる可能性あり。 
昭和19年12月6日
昨日イ号が熱海の玉の井旅館に命中して火事を起こしたという。B二九の電波暗視機を見る。波長三センチ、受信管は金属管を用いた導波管を使いこなしてある。大変参考になる。
昭和20年7月9日
原島君から波長五センチの受信管の完成報告を受ける。外国にも例のない立派なものが出来上がった。大変愉快である。これによって重要兵器が出来上がるであろう。
昭和20年8月15日
我が国は、あまりにも科学技術を軽んじた。今後の行きかたは科学技術の育成ということを第一にかんがえなければならぬ。各人の仕事に改めて目標を至急着けてやる必要がある。新しい日本への具体的な仕事の目標を示してやる必要がある。


参考文献
真空管「エーコン管」物語 http://kawoyama.la.coocan.jp/tubestoryacorn.html
無線と実験 昭和18年7月号
日本のレーダー用受信管 https://radiomann.sakura.ne.jp/HomePageVT/Radio_tube_2_Rader.html
東京芝浦電気株式会社八十五年史 昭和38年発行
日本電気株式会社百年史 2001年12月25日 日本電気社史編纂室
日本電気ものがたり 昭和55年2月