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電波報国隊によるレーダー関係記録の考察について

2020年06月27日 08時27分22秒 | 03陸海軍電探開発史

電波報国隊によるレーダー関係記録の考察について
電波報國隊/昭十九会「本稿は東京大学第一・第二工学部電気工学科、昭和19年9月卒業のクラス会「昭十九会」が平成16年に編纂した、昭和18年9月から19年3月までの学徒勤労動員の記録です。」はネットで公開されています。
セピア色の三号館 電気系同窓会・歴史アーカイブ http://todaidenki.jp/hist/?cat=11
今回はこの電波報国隊の貴重な記録をもとに敗戦末期のある特定のレーダー開発の全体像を手持ち資料とネットの力で整理してみました。

以下、電波報国隊の記録からレーダー開発関連資料を抽出します。

3号電探/矢部五郎
電波兵器の検査を3ヵ月経験したことは、新米の海軍技術中尉として呉海軍工廠電気部外業工場に配属され、潜水艦の無線蟻装を担当したとき、熟練した工員などからも評価された。
戦争最後の段階で、厚木と伊丹に秋水(液体燃料[ヒドラジン・過酸化水素]コロケット戦闘機)の配備が予定され、その誘導装置の工事が進められていた時期に、伊丹航空隊の設備工事を担当した。詳しい説明は何もなく現地工事の実務だけベテランの技術大尉から指導を受けたが、電探そのものは百も承知として準備をしていた。考えてみると、おかしな話で、呉の山の上に3号2型は1台あったが、3号1型を知っている技術士官は誰もいなかった。なんの抵抗もなく、この仕事を引き受けたが、潜水艦と水上特攻を担当中の僕が突然、伊丹に行けと言われたのは、勤労動員の経歴が関係したのかも知れない。
秋水誘導装置は2台の電探で味方の秋水戦闘機と敵B29爆撃機の高度と位置を時々刻々求め未来位置高度を計算し、敵を攻撃するために秋水が飛行する方向(方位角と目標高度)を操縦士に伝える装置である。当時の計算機はアナログ方式であったが、電探から送られたデータを計算することができた。秋水戦闘機は非常に高速で飛び航続時間も短いので、操縦士が敵を目視で捕らえて接近することは無理だから、地上から敵の飛行する方向と速度を測定して、操縦士に方向を指示する必要があった。
結局、伊丹に行く準備中に戦争が終わり、この仕事も幻になった。なお、厚木の秋水誘導装置については内田敦美君(第二工学部電気同期生)が浜名風(海軍技術浜名会編、1994年5月)の35ぺ一ジに述べている。

K-装置の開発/矢部五郎
K―装置とはなにかというと、簡易型電波探信儀の開発コードで航空機搭載用になるべく軽量小型にすることが目標であった。プロジェクトリーダーは大阪大学の原子物理学の菊地正士教授であった。僕らの任務はK―装置のCRT表示装置を2台試作することで、軽量小型にするために真空管を使わず、磁気回路で、同期信号と、CRTの横軸偏向電圧、輝度信号、陽極加速電圧を発生する装置とCRTを一つの箱に収める設計であった。

雑用とは3号1型電波探信儀(フィリピンで捕獲した米国のレーダーのコピーで高角砲の照準用)の部品を川崎の富士電機の工場から茅ヶ崎の砲台まで運搬する仕事であった。

受像機研究部で研究する電探の技術は、ブラウン管を使った表示装置(モニター)である。電気の学生といっても、1年半しか勉強していないのだから、先ずビデオアンプの回路から勉強しないと、何も分からない。それで、しばらく、図書室に籠もって参考書を読むことにした。
しばらくして、城見技師からK装置の表示装置を設計、製作することを命じられた。このことはK―装置に記載した。

12月ごろになって、矢部だけが住友通信工業(日本電気)の玉川向工場にある海軍技術研究所の出張所(小さなプレハブ小屋、現在のNEC技術学校がある場所)に転属になった。そこで、3号2型電波探信儀の出荷検査を手伝うことになった。3号2型はシンガポールで分捕った英国のSLC(サーチライトコントロール)をデッドコピーしたものである。これを25台まとめて生産した。

抽出した文章の中から重要なキーワードと文面を整理します。

□呉の山の上に3号2型は1台あった
3号2型電波探信儀の出荷検査を手伝うことになった。3号2型はシンガポールで分捕った英国のSLC(サーチライトコントロール)をデッドコピーしたものである。
■解説→3号2型電波探信儀とあるが海軍の呼称区分では3号:艦船装備対水上射撃用であり、関連文書で英国のSLCのコピーとあるので、実際は4号電波探信儀2型のようである。
なお、呉の防空のため、このレーダーが配置された事実がこれで確認できた。

□3号1型を知っている技術士官は誰もいなかった
3号1型電波探信儀(フィリピンで捕獲した米国のレーダーのコピーで高角砲の照準用)の部品を川崎の富士電機の工場から茅ヶ崎の砲台まで運搬する仕事
■解説→3号1型電波探信儀とあるが海軍の呼称区分では3号:艦船装備対水上射撃用であり、関連文書で米国のレーダーのコピーとあるので、実際は4号電波探信儀1型のようである。
ここで問題なのは、「伊丹航空隊の設備工事を担当したが、3号1型を知っている技術士官は誰もいなかった。」という文面ですが、4号電波探信儀1型のことを知らなかったのか、それとも、ほんとうに当時に3号1型といったことを知らなかったのかということです。
実はここでいう設備工事のレーダーは、陸軍のタチ31のことなのです。

□秋水 誘導装置の工事 伊丹航空隊
秋水誘導装置は2台の電探で味方の秋水戦闘機と敵B29爆撃機の高度と位置を時々刻々求め未来位置高度を計算し、敵を攻撃するために秋水が飛行する方向(方位角と目標高度)を操縦士に伝える装置である。当時の計算機はアナログ方式であったが、電探から送られたデータを計算することができた。秋水戦闘機は非常に高速で飛び航続時間も短いので、操縦士が敵を目視で捕らえて接近することは無理だから、地上から敵の飛行する方向と速度を測定して、操縦士に方向を指示する必要があった。
■解説→文中の秋水誘導装置とあるのは、実は陸軍が開発担当している「タチ200とタキ200他名称:特別飛翔体対飛誘導装置(Loader of special flyer)」のことです。
地上からの秋水を追尾するレーダーとして開発された地上設置のタチ200は、実際は陸軍タチ31を一部機能追加したものをそのまま採用しています。
なお、タキ200は飛行機搭載用では自蔵トランスポンダもどきで電波を常時発信しているのでこの電波を追尾しています。
もう一台の地上セットのタチ200をB29追尾用のレーダーとして使用します。
※敵機と友軍機をレーダーで追尾して現在の距離、方位、高度から邀撃する秋水に会合位置を予測するための計算機が必要ですが、現代のデジタル計算機はありませんから、歯車で構成したアナログ計算機を使用しますが、本資料で、「電探から送られたデータを計算することができた。」という証言を確認することができました。
タチ31の外観

※疑問点
B29追尾用の測定データは、「受信用アンテナの四組は左右上下に配列して、これを位相環に接続し、位相変換により指向性をベクトル式に回転させ、方位角と高角を測定するものであった。」とのことで、このB29追尾用データを今度は友軍機追尾用レーダーの搬送波に変調して送信します。
では、計算機による会合点の未来予測データの扱いが抜けることになります。
秋水などの高速のロケット機では、計算機は必要なかったのか、開発の余裕がなかったのか今では分かりません。

※R02.06.30追記 B29追尾用のデータは逐次友軍機追尾用レーダーを通して、航空機搭載用タキ200送信されるため会合点はリアルタイムに把握できることになります。したがって、記録にある計算機の記述は不用であると思われます。

□K―装置とはなにかというと、簡易型電波探信儀の開発コードで航空機搭載用になるべく軽量小型にすることが目標であった。プロジェクトリーダーは大阪大学の原子物理学の菊地正士教授であった。僕らの任務はK―装置のCRT表示装置を2台試作することで、軽量小型にするために真空管を使わず、磁気回路で、同期信号と、CRTの横軸偏向電圧、輝度信号、陽極加速電圧を発生する装置とCRTを一つの箱に収める設計であった。
■解説→文中K―装置なる装置のことですが、文面の航空機搭載用になるべく軽量小型にすることが目標や開発時期を考えると、タキ200に使用する目的で開発が進められたものかもしれません。
だたし、最終ブロックダイヤグラムでは、CRT表示ではなく、単なる電圧計メータを方向、高度の指示計として使用する仕様に変更となっている。
K―装置はボツとなった可能性が高そうです。
なお、K―装置のKは菊地正士教授のKなのでしょうか。

気付き
敗戦末期の昭和20年初頭ともなると陸軍と海軍の組織防衛・対立どころではなく、やっと日本空軍として一致協力する姿勢が認められます。
ただし、あまりにも遅いといわざるを得ません。

 


海軍 4号電波探信儀1型 (Mark 4,Model 1) (S3)
http://minouta17.livedoor.blog/archives/18022321.html

海軍 4号電波探信儀2型 (Mark 4,Model 2) (S24)
http://minouta17.livedoor.blog/archives/18022322.html

陸軍 タチ200とタキ200他名称:特別飛翔体対飛誘導装置(Loader of special flyer)
http://minouta17.livedoor.blog/archives/18022263.html

陸軍 タチ31:その他の名称:電波標定機、4型改(Modified Model 4)
http://minouta17.livedoor.blog/archives/18022269.html


<秋水(しゅうすい)>
秋水(しゅうすい)は、太平洋戦争中に日本陸軍と日本海軍が共同で開発を進めたロケット局地戦闘機である。ドイツ空軍のメッサーシュミット Me163の資料を基に設計を始めたが、試作機で終わった。
正式名称は試製秋水。海軍の略符号はJ8M、陸軍のキ番号はキ200である。「十九試局地戦闘機」と称されることもあるが、1943年(昭和18年)の兵器名称付与標準の改訂に伴い、1944年(昭和19年)には年式を冠称した機体開発は行われなくなっていた。計画初期には「Me163」の名で呼ばれていた。 
秋水の名称は、岡野勝敏海軍少尉の『秋水(利剣)三尺露を払う』という短歌に由来する。1944年12月、飛行試験成功後の搭乗員・開発者交えた宴会で横須賀海軍航空隊百里派遣隊から短歌が提出され、満場一致で「Me163」から変更された。この名称は陸軍、海軍の戦闘機の命名規則には沿っていない(軍用機の命名規則を参照)。
運用計画
航続距離が短いロケット機では自機が発進した飛行場上空しか防衛できないため、事前に敵に配備基地を迂回されてしまう他、噴射終了後は滑空機でしかないため、護衛戦闘機によって容易に撃墜されることが予想された。このように、航続距離の短さから、迎撃は敵機が行動範囲内に進入した後の待ち伏せ的な戦術が主流となるが、この方法はレーダー施設などの索敵施設との連携が不可欠であり、当時の日本の技術力ではとても望めるものではなかった。


<伊丹飛行場の概要>
伊丹飛行場は兵庫縣川邊郡伊丹町、同神津村(ともに現、伊丹市)、現在の県道99号線以北の大阪国際空港の範囲とほぼ同じ敷地に所在しました。
同飛行場は昭和14(1939)年1月17日、逓信省により純民間の大阪第二飛行場として開場しますが、完成直後に発展する飛行業界に対応すべく拡張を開始、昭和16(1941)年12月8日、大東亜戦争開戦に伴い陸軍の防空飛行場として転用され伊丹飛行場に改称します。
昭和19(1944)年末、敵機の空襲が激化、周辺に掩体壕、横穴式格納壕の設定が開始され、昭和20(1945)年3月、海軍機が進出、共同で本土防空にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。


参考文献
セピア色の三号館 電気系同窓会・歴史アーカイブ
http://todaidenki.jp/hist/?cat=11
大日本者神國也 伊丹飛行場
http://shinkokunippon.blog122.fc2.com/blog-entry-718.html
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
秋水 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E6%B0%B4
[a1]  Japanese Wartime Military Electronics and Communications, Section 6, Japanese Army
[a1]  Reports of the U.S. Naval Technical Mission to Japan, 1945-1946
[f2] 一億人の昭和史 千葉陸軍高射学校(昭和20年11月29日)
[a4] 「元軍令部通信課長の回想」昭和56年 鮫島素直

 


アクションカメラの購入と壮大な浪費(安物買いの銭失い)について (令和2年6月21日)

2020年06月21日 19時17分02秒 | 96無線コラム

アクションカメラの購入と壮大な浪費(安物買いの銭失い)について (令和2年6月21日)
小型カメラか欲しいと思っていた時、たまたまあるリサイクル店を訪問していたら小型カメラを発見しました。
アクションカメラでケースにはGOのマークが入っていて、しかも新古品で700円とのことです。
アクションカメラには全く知識はありませんが、GOProと勘違いして即購入してしまいました。
更にメモリーカードが必要なので16GBのものを1,098円で追加購入しまた。
これで準備OKで早速起動すると、バッテリィ不足で起動しません。
パソコンからUSBケーブル経由で充電すると、どうも充電不足です。
しかたなく、ダイソーでUSB充電器を330円で追加購入して、更に充電を開始します。
どうも充電不足が解消しなく、アクションカメラ本体のバッテリィに問題がありそうです。
USB充電器経由ではケーブルを接続した状態ではカメラ本体は正常に起動することは確認しましたが、画像が荒く実用性は低そうです。
しかもこの状態では固定カメラとなり、移動はできません。
それでも、再度ダイソーでモバイルバッテリィを550円で購入して、なんとかポータブルの機能の確保するように考えました。
たまたまダイソーの帰宅途中に、ブックオフに立ち寄ったら、なんとアクションカメラのフル装備の新古品が1,900円とあったので、また即買いしてしまいました。
早速自宅が起動確認すると機能も問題なく、しかも画像も大変綺麗です。
しかも、Webカメラの機能もあります。
あれだけ4月から5月にかけて国内の大型家電量販店にはWebカメラはなかったのに、アクションカメラだけは高額でしたが当時も在庫はありました。
Webカメラのかわりに、中古のアクションカメラを買うのが正解だったようです。
よくよく考えると、アクションカメラの利用機会はないので、当面はビデオ通信用のWebカメラとして活用するこことしました。

 

 


航空母艦葛城の電波兵器について

2020年06月10日 19時44分18秒 | 03陸海軍電探開発史

航空母艦葛城の電波兵器について
皆さんは航空母艦「葛城」のことをご存じですか。
時既に遅く、中型制式空母として竣工した時には、艦載機もパイロットも手当できず、一度も戦地で戦うこともなく、温存処置としてただ内地で係留され続け、度々の米軍艦載機の空襲で損傷するも、終戦時まで空母として航行可能な状態で残存した。
活躍できたのは戦後の復員輸送艦として南方の戦地からの引揚げに従事したことでした。
資料収集の過程で葛城のYouTubeの動画も発見しましたが、復員兵は復員の喜びの様子は外見ではみせず、坦々としつつも内地に帰還できことへの安堵感を動画から読み取ることができました。
なお、復員兵は今日の新型コロナと同様に防疫のため全員マスク姿が印象に残りました。
今回は空母葛城に関する情報を手持ち資料とネットの力で整理してみました。

YouTube戦後の帰還兵 空母「葛城」でラバウルから帰国  
https://www.youtube.com/watch?v=NCwXiVvGbm0
(1946年 空母葛城と装甲巡洋艦八雲)
雲龍型航空母艦三番艦。1944年竣工。第一航空戦隊で活躍。小破したものの航行可能な状態で終戦。武装解除後、特別輸送艦(復員輸送船)として使用。
1946年3月に広島県大竹港沖に空母「葛城」と旧式巡洋艦「八雲」が帰還者を乗せて到着。
空母「葛城」は大型高速艦で、終戦後に復員輸送艦として改造され、本土より遠い南洋方面の復員兵輸送を行い、1回で約5千人を輸送したという。
約1年の間に8航海、計49,390名の復員者を輸送。
1947年 日立造船桜島工場で解体完了。
大竹港は地方引揚援護局の一つで、帰還者輸送船は1947年1月までに約200隻の色々な船舶が入港し、約41万人が帰還したという。
内訳は軍の復員兵が約三分の二と多く、残り約15万人は民間人であったという。
地域別では台湾やインドネシア等の東南アジア諸国や南部、中部太平洋諸島の他に朝鮮、満州等各方面にわたり、特に南方方面からの復員兵が多かったという。

航空母艦葛城の戦歴について
雲竜型の3番艦で、最後の空母として19年10月15日に呉工廠で竣工したが、すでに戦局の悪化により空母として使用することなく、呉に待機していた。
20年3月19日、呉に敵艦載機の空襲がより直撃弾1発をうけ、右舷艦首に直径2メートルの大穴をあけて、戦死11名の被害をだした。
7月24日の第二回の空襲で、左舷中部に1発命中したが、これは上面をふきとばされただけで、大した被害はなかったが、戦死13名をだした。
7月28日に第三回目の空襲をうけ、爆弾2発をうけたが、被害は飛行甲板だけで水線下には異状なく、沈みも傾きもしないで最後まで残存した。
そして、終戦後は復員艦として働き、南方各地から多く人びとを内地にはこんだ。

 まずは、Reports of the U.S. Naval Technical Mission to Japan, 1945-1946に記載れている空母葛城の関連項目を抽出します。

機器の設置 B.設備の整備
WDC(NavTechJap Document No.ND21-6276)に提出された艦上設置マニュアルには、終戦時に使用されている艦船レーダー装備および電波探知機の設置ノートと相互接続配線図が記載されている。
降伏時点でも、電子妨害装置は艦船に設置されていなかった。
最短の距離でアンテナ動作することと、電子機器を収容するのに十分な容積の区画を選定する必要があるが、これら各装置は通常、充分な区画を占有していた。
可能な限り最適なダメージコントロールを行うために、重複機器の分散が行われている。
この実例は、2つの対空見張用レーダーが艦橋塔の構造物に設置されているが、可能な限り分離され、空母葛城(CV KATSURAGE)において記載されており、フライトデッキの右舷中央に位置する格納プラットフォームに第3目の対空見張用レーダーを設置していた。
区画内の機器の実際の配置は、設置を行う海軍工廠の裁量に大きく委ねられていた。
その結果、ほとんど標準化が行われなかった。
図1は、標準的な2号2型改4(Mark 2 Model 2 Modification 4)の射撃管制と対水上見張用レーダーの設置に関する問題点を示している。

 

葛城におけるこのような配置は、2人の操作員による同時に探信距離(ranges)と方位角測定(bearings)の操作上の運用に問題を生じさせた。
複雑なコントロールを調整しているレーダーオペレーターの業務をほとんど困難にさせた。
満杯の運転スペースでの送信機と整流器の設置位置では、通常、換気システムが不十分のため処理できるよりも大きな放熱をもたらしたことになる。
この問題の対処についは、連続的な運転操作を避けることによってしかなかった。
日本の艦船のレーダーコンパートメントにはプロット施設(レーダーによる目標情報をプロットするためのクリアボード)は見られなかった。
別添(B)(C)、(D)には、2号2型改4(Mark 2 Model 2 Modification 4)、2式2号1型改2(Type 2 Mark 2 Model 1 Modification 2)、及び空母葛城(CV Katsurage)に設置された2組の3式1号3型(Type 3 Mark 1 Model 3)レーダーの写真と索引スケッチが含まれる。
スケッチは、これらの区画の一般的な配置を示している。
電波探知機はレーダーと同じ区画に設置され、通常は運用中に連続的に人が常駐していたため、通常はある程度の好みの位置に設置されていた。
別添(B) 2号2型改4(Mark 2 Model 2 Modification 4)

別添(C) 2式2号1型改2(Type 2 Mark 2 Model 1 Modification 2)

別添(D)3式1号3型(Type 3 Mark 1 Model 3)

C.電源供給とケーブル
10センチメートルの対水上見張用および射撃管制装置は、特殊な電動交流発電機で作動する。
射撃管制装置の場合、このユニットからの出力は、非常に安定した電源を生成する電圧安定器に供給された。
終戦時に健在で最も現代的な戦闘船のひとつであった空母葛城(CV KATSURAGI)は、主発電機からの直流電流のみを生成し、すべてのレーダー機器は個々の電動交流発電機から作動させた。
電動交流発電機は通常、主電源配電盤に接続されていた。
相互接続配線は一般的に貧弱で、図2に示すような接続は珍しくなかった。 

 

使用されたケーブルのほとんどは外装を施されていましたが、多くの場合、ケーブルは腐食に対して保護されずにデッキとバルクヘッドを通過することが許されていた。 
ケーブルシールドのボンディングはほとんど行われておらず、多くの場合、元の設置の一部としてではなく、装置からトラブルを取り除くために行われていた。 
多くの場合、ケーブルクランプを容易にするために隔壁に木材を使用していた。

D  耐震マウント
耐震マウントは、送信機や指示装置などの最も重要な区画でのみ使用され、残りのユニットは木製のテーブルにボルトで固定されているか、デッキに溶接されたブラケットに取り付けられていた。 
使用されたマウントは一般的に標準的なロードマウントと同様に設置された。
 図3は、受信機(3)と電圧コントローラ(4)が木製のプラットフォームとデッキに直接ボルト止めされた耐震マウントの2号2型改4(Mark 2 Model 2 Modification 4)送信機(1)を示している。 
真空管にはかなりのトラブルがあったが、その原因は、発砲の衝撃よりもむしろ生産の不均一性の結果であると言われている。

E 高周波伝送線(.R.F伝送ライナー)およびアンテナ
10センチメートル波装置のための75ミリメートルの円形導波管の設置は、標準的なフランジ接続を使用して従来の方法で行われていた。
ライン内の水分にはほとんど問題はなく、亜鉛めっきはうまく処理されていると日本側は主張していたが、駆逐艦から取り外された1回の検査でめっきが悪い状態であることが判明した。
単純な2本の平行線は、全ての対水見張用レーダーを設置するために艦船上部で使用された。
同軸ケーブル線は、潜水艦の設置に用いられた。
図4は、3式1号3型(Type 3Mark 1 Model 3)装置の二重化の標準的な設置方法を示している。

様々なタイプの柔軟性および剛性の同軸線が相互接続配線および潜水艦設備に使用されていた。
これらのラインの仕様および構成に関する詳細は、NavTechJap Report、 "日本の高周波伝送ライン、導波管、導波管継手、および誘電材料"、索引番号E-20から入手できる。
図5と図6は、照月(TERUTSUKI)クラス駆逐艦の2号2型改4(Mark 2 Model 2 Modification 4)と3式1号3型(Type 3 Mark 1 Model 3)アンテナの標準的な設置を示している。

改3(メーター波)逆探受信機アンテナは、通常、桁端(yardarm)に固定された無指向性メトックス(metox)アンテナと、対空見張用アンテナのすぐ上にある小さなプラットフォームに取り付けられた指向性ラケット型アンテナとが設置された。
図8は、航空母艦の典型的な設置を示している。

 

この場合、2組のメトックスとラケットアンテナを見ることができ、1つはアイランド構造に設置された各対空見張用レーダーに対して設定される。
3型(Model 3)(センチメートル波)の電波探知機は、手持ちのパラボラアンテナを利用しており、固定設置は潜水艦でのみ行われたようである。
※メトックスとは電波探知機のこと

機器に関する技術データ
対水上見張のための改417と、対水上見張と射撃管制管理のための改4が艦上に設置された。
表Ⅲには、終戦時に使用中で開発中のすべてのRCM装備がリストされている。
メーター波(E27)とセンチメーター波(3型)受信機の両方が事実上全ての戦闘艦に設置されていた。
電子妨害装置は設置されていなかったし、海軍艦船での開発計画もなかった。
※RCMとは「radar countermeasures」レーダー妨害のこと


本文


参考文献
[a1]  Reports of the U.S. Naval Technical Mission to Japan, 1945-1946
[y2] 米国国立公文書館
写真集・日本の空母 昭和47年3月 「丸」編集部 光人社
空母入門 1997年10月 佐藤和正 光人社
YouTube戦後の帰還兵 空母「葛城」でラバウルから帰国  
https://www.youtube.com/watch?v=NCwXiVvGbm0
YouTube【戦後73年 決して忘れない】帝国海軍 航空母艦「葛城」による復員輸送 カラー映像(1946年 空母葛城と装甲巡洋艦八雲)
https://www.youtube.com/watch?v=gXZU_P2cwCs
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』葛城 (空母)
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%9B%E5%9F%8E_(%E7%A9%BA%E6%AF%8D)
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』隼鷹 (空母)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%BC%E9%B7%B9_(%E7%A9%BA%E6%AF%8D)

北鎮海軍工廠
http://blog.livedoor.jp/hokutinkaigun/archives/55668311.html