電波報国隊によるレーダー関係記録の考察について
電波報國隊/昭十九会「本稿は東京大学第一・第二工学部電気工学科、昭和19年9月卒業のクラス会「昭十九会」が平成16年に編纂した、昭和18年9月から19年3月までの学徒勤労動員の記録です。」はネットで公開されています。
セピア色の三号館 電気系同窓会・歴史アーカイブ http://todaidenki.jp/hist/?cat=11
今回はこの電波報国隊の貴重な記録をもとに敗戦末期のある特定のレーダー開発の全体像を手持ち資料とネットの力で整理してみました。
以下、電波報国隊の記録からレーダー開発関連資料を抽出します。
3号電探/矢部五郎
電波兵器の検査を3ヵ月経験したことは、新米の海軍技術中尉として呉海軍工廠電気部外業工場に配属され、潜水艦の無線蟻装を担当したとき、熟練した工員などからも評価された。
戦争最後の段階で、厚木と伊丹に秋水(液体燃料[ヒドラジン・過酸化水素]コロケット戦闘機)の配備が予定され、その誘導装置の工事が進められていた時期に、伊丹航空隊の設備工事を担当した。詳しい説明は何もなく現地工事の実務だけベテランの技術大尉から指導を受けたが、電探そのものは百も承知として準備をしていた。考えてみると、おかしな話で、呉の山の上に3号2型は1台あったが、3号1型を知っている技術士官は誰もいなかった。なんの抵抗もなく、この仕事を引き受けたが、潜水艦と水上特攻を担当中の僕が突然、伊丹に行けと言われたのは、勤労動員の経歴が関係したのかも知れない。
秋水誘導装置は2台の電探で味方の秋水戦闘機と敵B29爆撃機の高度と位置を時々刻々求め未来位置高度を計算し、敵を攻撃するために秋水が飛行する方向(方位角と目標高度)を操縦士に伝える装置である。当時の計算機はアナログ方式であったが、電探から送られたデータを計算することができた。秋水戦闘機は非常に高速で飛び航続時間も短いので、操縦士が敵を目視で捕らえて接近することは無理だから、地上から敵の飛行する方向と速度を測定して、操縦士に方向を指示する必要があった。
結局、伊丹に行く準備中に戦争が終わり、この仕事も幻になった。なお、厚木の秋水誘導装置については内田敦美君(第二工学部電気同期生)が浜名風(海軍技術浜名会編、1994年5月)の35ぺ一ジに述べている。
K-装置の開発/矢部五郎
K―装置とはなにかというと、簡易型電波探信儀の開発コードで航空機搭載用になるべく軽量小型にすることが目標であった。プロジェクトリーダーは大阪大学の原子物理学の菊地正士教授であった。僕らの任務はK―装置のCRT表示装置を2台試作することで、軽量小型にするために真空管を使わず、磁気回路で、同期信号と、CRTの横軸偏向電圧、輝度信号、陽極加速電圧を発生する装置とCRTを一つの箱に収める設計であった。
雑用とは3号1型電波探信儀(フィリピンで捕獲した米国のレーダーのコピーで高角砲の照準用)の部品を川崎の富士電機の工場から茅ヶ崎の砲台まで運搬する仕事であった。
受像機研究部で研究する電探の技術は、ブラウン管を使った表示装置(モニター)である。電気の学生といっても、1年半しか勉強していないのだから、先ずビデオアンプの回路から勉強しないと、何も分からない。それで、しばらく、図書室に籠もって参考書を読むことにした。
しばらくして、城見技師からK装置の表示装置を設計、製作することを命じられた。このことはK―装置に記載した。
12月ごろになって、矢部だけが住友通信工業(日本電気)の玉川向工場にある海軍技術研究所の出張所(小さなプレハブ小屋、現在のNEC技術学校がある場所)に転属になった。そこで、3号2型電波探信儀の出荷検査を手伝うことになった。3号2型はシンガポールで分捕った英国のSLC(サーチライトコントロール)をデッドコピーしたものである。これを25台まとめて生産した。
抽出した文章の中から重要なキーワードと文面を整理します。
□呉の山の上に3号2型は1台あった
3号2型電波探信儀の出荷検査を手伝うことになった。3号2型はシンガポールで分捕った英国のSLC(サーチライトコントロール)をデッドコピーしたものである。
■解説→3号2型電波探信儀とあるが海軍の呼称区分では3号:艦船装備対水上射撃用であり、関連文書で英国のSLCのコピーとあるので、実際は4号電波探信儀2型のようである。
なお、呉の防空のため、このレーダーが配置された事実がこれで確認できた。
□3号1型を知っている技術士官は誰もいなかった
3号1型電波探信儀(フィリピンで捕獲した米国のレーダーのコピーで高角砲の照準用)の部品を川崎の富士電機の工場から茅ヶ崎の砲台まで運搬する仕事
■解説→3号1型電波探信儀とあるが海軍の呼称区分では3号:艦船装備対水上射撃用であり、関連文書で米国のレーダーのコピーとあるので、実際は4号電波探信儀1型のようである。
ここで問題なのは、「伊丹航空隊の設備工事を担当したが、3号1型を知っている技術士官は誰もいなかった。」という文面ですが、4号電波探信儀1型のことを知らなかったのか、それとも、ほんとうに当時に3号1型といったことを知らなかったのかということです。
実はここでいう設備工事のレーダーは、陸軍のタチ31のことなのです。
□秋水 誘導装置の工事 伊丹航空隊
秋水誘導装置は2台の電探で味方の秋水戦闘機と敵B29爆撃機の高度と位置を時々刻々求め未来位置高度を計算し、敵を攻撃するために秋水が飛行する方向(方位角と目標高度)を操縦士に伝える装置である。当時の計算機はアナログ方式であったが、電探から送られたデータを計算することができた。秋水戦闘機は非常に高速で飛び航続時間も短いので、操縦士が敵を目視で捕らえて接近することは無理だから、地上から敵の飛行する方向と速度を測定して、操縦士に方向を指示する必要があった。
■解説→文中の秋水誘導装置とあるのは、実は陸軍が開発担当している「タチ200とタキ200他名称:特別飛翔体対飛誘導装置(Loader of special flyer)」のことです。
地上からの秋水を追尾するレーダーとして開発された地上設置のタチ200は、実際は陸軍タチ31を一部機能追加したものをそのまま採用しています。
なお、タキ200は飛行機搭載用では自蔵トランスポンダもどきで電波を常時発信しているのでこの電波を追尾しています。
もう一台の地上セットのタチ200をB29追尾用のレーダーとして使用します。
※敵機と友軍機をレーダーで追尾して現在の距離、方位、高度から邀撃する秋水に会合位置を予測するための計算機が必要ですが、現代のデジタル計算機はありませんから、歯車で構成したアナログ計算機を使用しますが、本資料で、「電探から送られたデータを計算することができた。」という証言を確認することができました。
タチ31の外観
※疑問点
B29追尾用の測定データは、「受信用アンテナの四組は左右上下に配列して、これを位相環に接続し、位相変換により指向性をベクトル式に回転させ、方位角と高角を測定するものであった。」とのことで、このB29追尾用データを今度は友軍機追尾用レーダーの搬送波に変調して送信します。
では、計算機による会合点の未来予測データの扱いが抜けることになります。
秋水などの高速のロケット機では、計算機は必要なかったのか、開発の余裕がなかったのか今では分かりません。
※R02.06.30追記 B29追尾用のデータは逐次友軍機追尾用レーダーを通して、航空機搭載用タキ200送信されるため会合点はリアルタイムに把握できることになります。したがって、記録にある計算機の記述は不用であると思われます。
□K―装置とはなにかというと、簡易型電波探信儀の開発コードで航空機搭載用になるべく軽量小型にすることが目標であった。プロジェクトリーダーは大阪大学の原子物理学の菊地正士教授であった。僕らの任務はK―装置のCRT表示装置を2台試作することで、軽量小型にするために真空管を使わず、磁気回路で、同期信号と、CRTの横軸偏向電圧、輝度信号、陽極加速電圧を発生する装置とCRTを一つの箱に収める設計であった。
■解説→文中K―装置なる装置のことですが、文面の航空機搭載用になるべく軽量小型にすることが目標や開発時期を考えると、タキ200に使用する目的で開発が進められたものかもしれません。
だたし、最終ブロックダイヤグラムでは、CRT表示ではなく、単なる電圧計メータを方向、高度の指示計として使用する仕様に変更となっている。
K―装置はボツとなった可能性が高そうです。
なお、K―装置のKは菊地正士教授のKなのでしょうか。
気付き
敗戦末期の昭和20年初頭ともなると陸軍と海軍の組織防衛・対立どころではなく、やっと日本空軍として一致協力する姿勢が認められます。
ただし、あまりにも遅いといわざるを得ません。
海軍 4号電波探信儀1型 (Mark 4,Model 1) (S3)
http://minouta17.livedoor.blog/archives/18022321.html
海軍 4号電波探信儀2型 (Mark 4,Model 2) (S24)
http://minouta17.livedoor.blog/archives/18022322.html
陸軍 タチ200とタキ200他名称:特別飛翔体対飛誘導装置(Loader of special flyer)
http://minouta17.livedoor.blog/archives/18022263.html
陸軍 タチ31:その他の名称:電波標定機、4型改(Modified Model 4)
http://minouta17.livedoor.blog/archives/18022269.html
<秋水(しゅうすい)>
秋水(しゅうすい)は、太平洋戦争中に日本陸軍と日本海軍が共同で開発を進めたロケット局地戦闘機である。ドイツ空軍のメッサーシュミット Me163の資料を基に設計を始めたが、試作機で終わった。
正式名称は試製秋水。海軍の略符号はJ8M、陸軍のキ番号はキ200である。「十九試局地戦闘機」と称されることもあるが、1943年(昭和18年)の兵器名称付与標準の改訂に伴い、1944年(昭和19年)には年式を冠称した機体開発は行われなくなっていた。計画初期には「Me163」の名で呼ばれていた。
秋水の名称は、岡野勝敏海軍少尉の『秋水(利剣)三尺露を払う』という短歌に由来する。1944年12月、飛行試験成功後の搭乗員・開発者交えた宴会で横須賀海軍航空隊百里派遣隊から短歌が提出され、満場一致で「Me163」から変更された。この名称は陸軍、海軍の戦闘機の命名規則には沿っていない(軍用機の命名規則を参照)。
運用計画
航続距離が短いロケット機では自機が発進した飛行場上空しか防衛できないため、事前に敵に配備基地を迂回されてしまう他、噴射終了後は滑空機でしかないため、護衛戦闘機によって容易に撃墜されることが予想された。このように、航続距離の短さから、迎撃は敵機が行動範囲内に進入した後の待ち伏せ的な戦術が主流となるが、この方法はレーダー施設などの索敵施設との連携が不可欠であり、当時の日本の技術力ではとても望めるものではなかった。
<伊丹飛行場の概要>
伊丹飛行場は兵庫縣川邊郡伊丹町、同神津村(ともに現、伊丹市)、現在の県道99号線以北の大阪国際空港の範囲とほぼ同じ敷地に所在しました。
同飛行場は昭和14(1939)年1月17日、逓信省により純民間の大阪第二飛行場として開場しますが、完成直後に発展する飛行業界に対応すべく拡張を開始、昭和16(1941)年12月8日、大東亜戦争開戦に伴い陸軍の防空飛行場として転用され伊丹飛行場に改称します。
昭和19(1944)年末、敵機の空襲が激化、周辺に掩体壕、横穴式格納壕の設定が開始され、昭和20(1945)年3月、海軍機が進出、共同で本土防空にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
参考文献
セピア色の三号館 電気系同窓会・歴史アーカイブ
http://todaidenki.jp/hist/?cat=11
大日本者神國也 伊丹飛行場
http://shinkokunippon.blog122.fc2.com/blog-entry-718.html
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
秋水 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E6%B0%B4
[a1] Japanese Wartime Military Electronics and Communications, Section 6, Japanese Army
[a1] Reports of the U.S. Naval Technical Mission to Japan, 1945-1946
[f2] 一億人の昭和史 千葉陸軍高射学校(昭和20年11月29日)
[a4] 「元軍令部通信課長の回想」昭和56年 鮫島素直