ひとり井戸端会議

主に政治・社会・法に関する話題を自分の視点から考察していきます。

集団的自衛権に関する議論を見ていて思うこと

2014年06月06日 | 憲法9条
後方支援の基準厳格化 政府 グレーゾーンは運用改善(産経新聞) - goo ニュース

 政府は5日、多国籍軍などに対する自衛隊の後方支援活動を拡大するため「安全保障法制整備に関する与党協議会」に提示していた4つの新たな判断基準を見直し、厳格化する方針を固めた。自衛隊の活動範囲や任務の大幅な拡大を懸念する公明党に配慮した。6日の与党協議に提案する。一方、有事に至らない「グレーゾーン事態」への対応強化では、現行法内での運用改善で与党合意する見通しとなった。
 政府は3日の与党協議会で、後方支援の新基準として(1)支援先が現に戦闘を行っている他国部隊(2)戦闘行為に直接用いられる物品や役務を提供(3)支援する他国部隊が現に戦闘を行う現場で提供(4)支援が他国部隊の個々の戦闘行為と密接に関係-の4条件を提示。全ての条件を満たすときに限って憲法が禁じる「武力行使との一体化」とみなし、後方支援を認めないとした。
 物品輸送など後方支援の一部が「戦闘地域」でも可能になるため、公明党は「戦闘地域での戦闘行為以外は何でもできるようになる」と反発していた。このため、政府は4条件を一旦撤回し、後方支援できる対象を厳格化する方針だ。
 政府内では「現に戦闘行為が行われている現場に行っている他国部隊に支援する」場合について「武力行使との一体化」とみなす案が浮上している。条件を減らし、簡略化することで「武力行使との一体化」の範囲を広げ、後方支援が可能になる範囲を狭める。
 一方、離島警備などグレーゾーン事態への対処では、自民党は「自衛隊の武器の使用基準を見直すべきだ」として自衛隊法の改正などを主張してきたが、新たな法整備を「今後の研究課題」とし、公明党が主張している自衛隊の海上警備行動の発令手続きの簡略化など運用改善で対応する。



 私は集団的自衛権行使を容認すべきとの立場ですが、近時の集団的自衛権に関する議論、とりわけ反対派ないしは慎重派の議論には非常な違和感を覚えています。以下、その違和感について考えてみたいと思います。


 まず、安倍内閣が集団的自衛権行使の一例として提示したもの(米艦船の護衛等)に対し、個別的自衛権の範囲で対処できるとする見解もあるといって、集団的自衛権行使の必要はないとして批判します。しかし、私はこうした考え方は危険であると考えます。

 というのは、有事の際に、「○○でも可能と理解されている」という解釈では現場を混乱させるだけでしょうし、また人権の保護のためにも、きちっと厳格に「やっていいこととやってはならないこと」の線引きがなされる必要がありますが、○○でも可能というのでは、厳格な自衛隊の運用を阻害し、かえって自衛権の範囲をいたずらに拡大させかねません。

 そもそも、個別的自衛権の範囲を、集団的自衛権反対のために茫漠と拡大することこそ、平和主義と相いれない考え方でしょう。したがって、ここで求められているのは、現行憲法9条の縛りの中で自衛権とは何かを考え、それから個別的自衛権で何ができるか、そして集団的自衛権を行使しないとできないことは何かを考えることでしょう。


 ところで、集団的自衛権反対派の中には、日本が今まで全く集団的自衛権を行使してこなかったかのように主張する者もいます。しかし、これは間違いです。実は、日本は既に集団的自衛権を行使しているのです。

 日米安全保障条約6条で、同条約は「極東における国際の平和及び安全の維持に寄与する」とし、そのために日本国内に米軍に基地を提供していますが、これは集団的自衛権のあらわれであり、集団的自衛権によらなければ、本来説明できないものなのです。


 もっとも解せないのが、集団的自衛権を容認すると、「日本は戦争のできる国になる」といって、まるで日本が平和国家ではなくなるかのように喧伝している者たちです。

 そもそも、戦争が「できる」ということは、それが直ちに戦争勃発と結びつくのでしょうか。「できる」という言葉には、「(できるけど)やらない」という意味も当然に包摂されています。たとえば、私は人を殺すことが「できる」。これは紛れもない事実です。しかし、私はそれを「しない」。なぜでしょうか。

 理由は簡単です。その意味も必要性もないからです。ただしこれは「現在のところ」必要がないのであって、たとえば私が暴漢に襲われたとき、その場を凌ぐために、この手や足を使って暴漢に攻撃を加えることもありえます。最悪、その暴漢を殺してしまうかも知れないでしょう。しかし、もし暴漢が私を殺す気でかかってくれば、私のした行為は必ずしも「平和」に反した行為とはいえません。国家の行う戦争もこれと同じことではないでしょうか。

 つまり、戦争をできる状態にしておくことで、自国の安全と生存を守るための最終手段を担保しておく必要があるのです。したがって、戦争を「できない」状態にする憲法9条は早々に改正されねばならないことになります。よって、今回の集団的自衛権行使容認は、あくまでも憲法改正までの弥縫策であって、その先の憲法改正も見据えて議論する必要があるでしょう。

 それにしても護憲派というものは、どうして常に「戦争」というと、日本がふっかけるのを前提としてしか考えられないのでしょう。改憲派は憲法9条を改正して日本の防衛力を確固たるものにして、常に「いざという時」に備えろと言っているにすぎません。しかし、護憲派の想定する「戦争」とは、常に日本側がふっかけるものと理解しているから、ここに改憲派の主張を正しく理解できないことの一因があるのではないでしょうか。


 しかし、集団的自衛権行使容認を目指す安倍内閣にも問題はあります。確かに今まで最低でも50年余り日本の自衛権の解釈は問題にされてきたのに、議論が整理されていないなどという自民党内リベラル派や公明党は論外ですが、せっかく安保法制懇から報告書が提出されたのだから、次の国会ぐらいまでは議論してもいいと思います。

 また、政府も日米同盟のために「も」集団的自衛権の行使を可能にするというのなら、せめて米軍駐留費(いわゆる「思いやり予算」)の軽減ぐらいアメリカに申し出すべきではないでしょうか。アメリカの要請もあって集団的自衛権の行使容認を議論しているのですから、これぐらいのことはバーターとして取引できないものかと思います。

非核三原則法制化という愚策

2009年08月10日 | 憲法9条
非核三原則の法制化検討=慎重姿勢を転換-民主代表(時事通信) - goo ニュース

 民主党の鳩山由紀夫代表は9日、長崎市内のホテルで被爆者団体代表者と懇談し、非核三原則について「唯一の被爆国として守っていくことが重要で、その一つに法制化という考え方もある。しっかり検討したい」と述べ、法制化を検討する考えを表明した。
 鳩山氏はこれまで「逆に法律が変えられる危険性も持つ」として法制化に慎重な姿勢を示していた。しかし、衆院選後の連立相手に想定する社民党が法制化を求めていることから、「鳩山政権」が誕生した場合の政権運営を考え、軌道修正したものとみられる。
 鳩山氏は懇談終了後、記者団に「法律よりも強い『国是』の方が守られると思ったが、法治国家として法制化が必要だと皆さんが判断されるなら一考する十分な価値がある」と説明した。



近年、これ以上の愚策はあったろうか。それは非核三原則の法制化である。

 非核三原則の法制化には、当然反対である。核武装論者である私としては、日本が自前で核戦力を保持することに賛成であるが、それはNPT体制、日米原子力協定、国内世論等によって実質的に不可能であると思うので、そこまでは主張しない。

 しかし、せいぜい非核三原則は「つくらず」以外は全て撤廃すべきである。もちろん、非核三原則が有効な現在でも、暗黙裡のうちに在日米軍が核戦力を日本国内に入れているが。


 では、どうして非核三原則の法制化に反対かと言うと、法制化してしまうと、それは現在の宣言程度の非核三原則に比べ、国家を拘束する力が増し、日本の安全保障政策の変更が非常に難しくなってしまうからだ。

 しかも法制化したということは、「日本は核はどんなときでも持たないし使いませんよ」と宣言してしまうことになり、これは安全保障政策上、極めてデメリットの多いことである。

 自衛権は、「いざという時になったら容赦しないぞ」という事前の軍事力による威嚇力もその中に含まれるべきで、それをみすみす放棄し、自分の手の内を公開してしまうようなことは、愚策としか言いようがない。


 国家を強盗にとられかねない非常に不適切な喩えだが、ピストルを振りかざして強迫する強盗が、「このピストルには弾が入ってしませんよ」と言ってしまえば、その強盗の計画は失敗するだろう。

 しかし、たとえ弾が入っていなくとも、「撃たれる可能性がある」と相手方に認識させることが、強盗成功への重要なファクターである。この喩えを先ほどの非核三原則法制化に当て嵌めたら、日本が蒙る不利益が分かるはずだ。



 日本が非核三原則という、「おりこうさん」のポーズをとっても、それによって日本にとって直接的脅威である中国や北朝鮮、ロシアが、「ならばうちも核戦力を放棄しよう」といつ言ったか。日本だけが馬鹿を見る政策である非核三原則を、法制化によって更に強化しようなどとは、正気の沙汰ではない。

 今日の産経新聞「正論」の渡辺利夫氏ではないが、「核兵器を保有していないベルギー、ドイツ、イタリア、オランダなどが米国との核シェアリング(共有)の下、自国内に米国の核兵器を備蓄し、自国軍隊が核戦略に参加しているではないか、日本にはなぜこの程度のことができないのか」ということだ。



 ただでさえ、非核三原則など亡国思想甚だしいのにもかかわらず、それを法制化することなど、断固反対である。民主の社民との連立を睨んだご機嫌取りであって、本気の発言でないことを祈る。

護憲派に問う。「平和」とはどういう状態か?

2009年05月05日 | 憲法9条
憲法記念日で街頭活動や集会(中国新聞) - goo ニュース

 憲法記念日の3日、広島市内で憲法をテーマにした街頭活動や集会があった。
 市民団体「第九条の会ヒロシマ」(岡本三夫世話人代表)は中区の原爆ドーム前で、九条改正の賛否を問うシール投票を実施。444人が参加し、86.9%にあたる386人が改正反対にシールを張った。
 安芸区矢野町の主婦西塔文子さん(50)は「戦争の歯止めになる九条は平和を守るのに有効だ」と主張した。
 


 戦争がない状態すなわち平和、という理解が、この記事にあるコメントからも、そして護憲派の発想からも受け取れる。しかし、彼らのテクストの中では、戦争とは日本が一方的に仕掛け、そして平和とは日本が戦争をしない状態ということに理解されているきらいがある。よって、このテクストでは「平和を回復するための戦争」というケースを想定することができない。

 しかし、本当の意味の「平和」とは、「生命・身体・財産の危機がない状態」のことを言うのではないか。銃声が響かず、ミサイルが飛んでいない状態が平和というよりも。日本に対しミサイルを撃ち込んだり、特殊部隊を潜入させる程度の能力を持つ国なら複数存在する。北朝鮮、中国などがそうだ。

 仮に上記のような事態になったら、日本は「平和」を回復するため(=目の前にある脅威を排除するために)に戦争(戦闘行為)を起こすことは、果たして「平和」に背くことなのだうか。これさえも否定し、座して死を待つのが平和なのか。



 戦争と平和を対立する概念として把握(戦争か平和)するよりも、平和を脅かされたらどうするのか、戦争と一口に言っても、平和を取り戻すための戦争もあるのではないか。こう考える必要がある。

 これは国内治安の問題に置き換えてみれば、すぐにわかる。どんなに凶悪犯が跋扈しても、それに対する実力行使を否定するのが「治安のよい状態」だという人は、まずいない。護憲派は、「警察が存在しなければ他人を罪人視することもないし、犯罪もおきない」と考えるだろうか。だがもちろん「治安回復のための実力行使」という名分を使えば何をしても許されるということはない。軍事力もそれは同じことだ。

 つまり、こちらが武器を棄てたとしても、相手もそれに倣って武器を捨てるということは必ずしも成立しないし、武器を棄てることが平和かというと、決してそうではない。そのことは、9条を持っていながら、その日本に向かってミサイルを発射して憚らない国が存在していることからして、明らかなはずなのだが。



 では、軍備がなければ他国から敵視されることもないし戦争することもない、ということになるのか。そしてこれこそが真の平和なのか。

 しかしながら、軍備がなければ敵視されないというのは、完全に因果関係を間違えた考え方である。たとえば中国や韓国は、「日本に軍備があるから」という理由で、尖閣諸島や竹島の領有権を主張しているわけではない。軍備の有無とは関係なく、利害の対立が生じることが戦争の原因なのである。

 そして、この発想を敷衍すれば、それではどうして社民党や共産党には警備員がいるのか、ということになる。彼らの発想からしてみれば、これは紛れもなく相手から敵視され、危険な行為のはずである。言っていることとやっていることがまるで矛盾しているではないか。



 こうして論理矛盾が露呈してくると彼らはこう言ってくる。「それならお前は戦争に行く用意があるのか」と。

 これに対しては、「それならお前は一方的な殺戮行為を受忍する覚悟があるのか」と問いたい。

 確かに中には、「殺すより殺される方がマシだ」と、本多勝一のようなことを言い放つ者もいるだろうが、そんなことをいう者でも、私が殴りつければおそらく怒るだろう(笑)。一方的に殴られる覚悟はなくても、一方的に殺される覚悟はあるらしい。護憲派とは不思議な人種である。

 もし仮に「殺すより殺される方がマシだ」という信念を確固として持っていても、その信念を他人(他の日本人)に押し付ける権利を、彼らがどこから引っ張り出してきたのかという問題は残る。彼らだけが嬲り殺されるだけであるなら勝手にどうぞということになるが、これを憲法9条の求める姿として、他の者に押し付けることに結果としてなっているのだから、黙っているわけにはいかない。

 彼らが自分のイデオロギーに殉じることを他者に強いるのであれば、彼らが嫌う「昭和の軍部」と何が違うのというのか。そんな「平和」を私は求めたくない。平和を得るには、それが侵害されたときには断固として武力をもって排除するという姿勢がなければならない。



 今回も、私叔する思想家である神名龍子さんのご意見を参考(というかほぼ引用!?。神名さんすみません・・・)にさせていただきました。神名さんの論考にはいつも感心しております。これからもどうかその健筆と鋭い洞察力を如何なく発揮されることを楽しみにしています。

国会での事前承認は不要

2009年04月20日 | 憲法9条
海賊法案21日修正協議入り 国会事前承認に与党難色(共同通信) - goo ニュース

 与党と民主、国民新両党は19日、ソマリア沖などでの海賊対策のため自衛隊派遣を随時可能にする海賊対処法案について、21日から修正協議に入ることを決めた。これに関連し19日のNHK番組では、民主党が自衛隊派遣をめぐり国会の事前承認を求めたのに対し、与党は応じられないとの考えを表明した。修正協議は、国会事前承認のほか、海上保安庁の位置付けなどが焦点となる。



 結論から言えば、海賊対策のための自衛隊派遣について、国家での事前承認は不要でいいと思っている。この見解に対して、投げかけられる批判は「それでは文民統制が蔑ろにされかねない」というものであろう。なので以下、この批判について応えていくことにする。



 まず、文民統制(シビリアン・コントロール)とは一言でいえば、軍事組織を議会に責任を負う文民たる大臣によってコントロールし、軍の独走を防ぐ原則のことである。民主主義国家において軍事力を有する場合、須らくどこの国もこの文民統制の原則によって、軍人ではない文民が軍の統制を行っている。

 文民統制とはこのように、文民たる大臣が軍事の統制権を掌握できていれば、基本的には作用しているといえる。したがって、自衛隊の海賊対策にあたり、内閣が国会による事前承認を経てから派遣しなくとも、文民統制の原則には何の影響も及ぼすことはない。

 だいたい、ソマリア沖の海賊対策のために自衛隊を派遣するにせよ、インド洋での補給活動のために派遣するにせよ、自衛隊のほうから内閣に頼み込んで派遣を要請することはできないし、仮にそのようなことがあっても、これを決定するのは文民で組織される内閣である。内閣がノーと言えば自衛隊がどう懇願しようと、海賊対策も給油活動もできない。この意味においても文民統制が作用していると言える。

 文民で組織される内閣が自衛隊の行動について指揮して統制する権限を有している以上、内閣の決定のみで、国会に通さず自衛隊を派遣しても、文民統制の原則からして問題になることはない。

 そして、文民統制の憲法上の根拠とされる66条2項には、「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない。」と規定されているだけで、国会までも文民統制の原則に従って自衛隊を統制せよとは書いていない。あくまでも憲法が想定している文民統制とは、内閣による自衛隊の統制である。

 したがって、文民統制の主体は文民で組織される内閣であって、国会はそれを補強するに過ぎないとも読める。よって、内閣が自衛隊を派遣すると決定すれば、その決定が文民統制に反することにはならない。しかも内閣は行政権の行使について、国会に対して連帯して責任を追っている(憲法66条3項)ので、内閣の決定で自衛隊を海外派遣しても、国会も自衛隊派遣について間接的に文民統制を行えている。

 以上のことから、文民統制上、海賊対策のための自衛隊派遣は、内閣による国会での事後報告のみで足りると考える。



 次に文民統制から離れて、政治的観点から海賊対策法案への国会の事前承認盛り込みについて考えてみる。

 これについては、公明党の山口那津男政調会長が、「ねじれ国会の下、国会の事前承認に委ねられると、非常に不安定な制度になる」と懸念を示したというが、私も同感だ。「ねじれ」が解消されない状態で事前承認条項を設けても、国益のため、迅速かつ適切に自衛隊を派遣できるだろうか。

 もし現在のような議院の政党構成において事前承認条項を設けてしまったならば、社民・共産との協調を重視する民主は昔の社会党のように「反対のための反対」闘争を行うに決まっている。社民・共産などお話にならない売国政党だから(売国度でいえば、公明も変わらないが)、このような「諸悪」との協調を試みる民主と自衛隊派遣についてコンセンサスが得られるわけがなく、徒に時間が浪費され、国益が毀損されていく。

 必要なのは速やかな意思決定である。安全保障は国家の最重要課題かつ不可欠の仕事であるにもかかわらず、これにおいてでさえも党内に巣食う旧社会党系議員らに配慮して共通した認識を持てない民主が、自衛隊の海外派遣について速やかな意思決定ができるわけがない。民主が海賊対策法案において国会の事前承認をどうしても入れたいのであれば、最低でも前原氏レベルの認識を持った者で党執行部を組織することだ。



 ところで、ソマリア沖に自衛隊を派遣することに反対論を主張する人たちは、自衛隊の派遣よりもソマリアの治安改善のほうが先だという。

 しかし、現在のソマリアは、あのタリバーンと同じように過激なイスラム主義を住民に強制し、国際社会から人権侵害を再三指摘されている原理主義組織の「イスラム法廷会議」の支配下にあり、ソマリアの暫定政府を支えていた頼みのエチオピア軍も撤退している。

 しかも現在のソマリアは、1998年7月にソマリア北東部の氏族が自治宣言をし、ガローウェを首都として樹立した自治政府であるプントランドという自治政府が存在し、ここがソマリア沖の海賊の拠点となっていると言われる。国内がこのような状態のソマリアの治安改善は当面の間、望めないのではないだろうか。

 しかし、日本にとってソマリアの治安回復によってソマリア沖の船舶の航行の安全が向上するのであれば、国益に適うことである。よって、ソマリアに存在する現在の脅威から船舶を守るために自衛隊を派遣しつつ、ソマリアの治安改善のためにも行動をする。これはどちらかニ者択一の問題ではなく、並行して可能なことだ。したがって、ソマリア沖への自衛隊派遣反対のためにこのことを持ち出したところで意味はない。



 話が逸れてしまったが、文民統制の観点からも、現在の政情からも、海賊対策法に国会の事前承認条項を設ける必要はないと思われる。

北朝鮮よ、ありがとう

2009年04月06日 | 憲法9条
北朝鮮が「衛星」名目のミサイル発射(読売新聞) - goo ニュース

 北朝鮮は5日午前11時30分ごろ、「人工衛星」と主張して準備を進めていた弾道ミサイル1発を発射した。
 同37分ごろ、1段目のブースターは秋田県西方約280キロの日本海に落下した。ミサイルは日本本土上空を通過し、自衛隊は日本の東方約2100キロで追尾を終了した。米軍の早期警戒衛星の情報などをもとに、日本政府が確認した。日本国内への落下物や被害は報告されていないが、政府は船舶などの安全の確認を急いでいる。
 北朝鮮の長距離弾道ミサイル発射は2006年7月以来。日本上空を越えるのは1998年8月以来だが、米本土に迫る長射程化に成功した可能性がある。ミサイルが日本のはるか上空を通過したことから、自衛隊はミサイル防衛(MD)システムによる迎撃措置は取らなかった。



 MDによる迎撃はどうせなされることはないだろうと最初から踏んでいたので、予想通りの結果となったが、いつもはならず者国家として忌み嫌われる存在の北朝鮮を、今日だけは感謝したいと思う。

 まず、北朝鮮は今まで実戦モードに入ったことのない政府ならびに自衛隊が、目の前にある危機に対してどこまで対応できるのか白日の下にしてくれた。そして、多かれ少なかれ、国民が戦争というものを、テレビやネットを通じて知るヴァーチャルなものから、「今そこにあるもの」として認識するようになれた。対岸の火事感覚の戦争(軍事衝突)から、自分のこととしての戦争として捉え直すきかっけにはなっただろう。

 前者について、北朝鮮のミサイル発射騒動は、これまで世界でも有数の最新兵器を備えているとされる自衛隊が、実際に有事になった場合、適切な行動ができ、他国からの攻撃に迅速に対応できるか、そして政府が国民保護のために同じく適切かつ迅速な行動ができるかの両者を試す絶好の機会となった。

 今回の騒動を体験し、国民への情報伝達体制の不備等、改善すべき個所を如実に浮かび上がらせることができたのはある意味よかったと思う。政府もミサイル発射の誤報に踊らされ失態を演じたが、私個人の感想としては、これはいわば本番(有事)に向けての練習みたいなもので、練習段階で欠陥が発見できたのだから、政府や自衛隊のミスをここぞとばかりに批判するのではなく、いつ来るか分からない本番に向けての検討課題として、これを冷静に受け止めることこそ必要なのではないか。

 後者について、これもいい意味で危機感を共有できたものとして積極的に評価していいと思う。実際に迎撃ミサイルを配備するシーンなどがテレビや新聞で連日報道されることにより、平和というものがいかに壊れやすく、脆いものなのか、実感できたのではないか。

 以前もここで書いたが、石原都知事の言ったように、「変なものが例えば間近に落ちるようなことがあった方が、むしろ日本人ってのはある危機感というか、緊張感を持つんじゃないかな」ということは、まさにこのことである。北朝鮮の今回の暴挙は、危機意識が欠如し、平和ボケをかまし、「自分だけは大丈夫」と心のどこかで思っている、(私自身を含めての)日本人全員に対する北朝鮮からの「警告」として受け止めたいところだ。



 何よりの成果は、憲法9条がいかに無力な存在かということを、リアルな事象を通じて知り、実感できたことだろう。

 護憲派は憲法9条を持っていれば日本が戦争に巻き込まれることはないと言っていた。しかしご存じのとおり、こうなった。曲がりなりにも、今回は一歩間違えれば戦争になっていただろう。このことは憲法9条の敗北ということを明確にあらわしている。平和主義を唱える憲法9条を有する日本に、武力攻撃を仕掛けようとしている国があることが証明されたのだ。

 そこで護憲派はこう反論するかも知れない。日本が戦争に使える武力を持っているから北朝鮮もそれに張り合うかたちになり、事態がエスカレートしていったのだ、と。しかし、これは大間違いな主張なのである。

 北朝鮮の「瀬戸際外交」の目的は何か。それは外貨を獲得し、自国の存命を図ることである。そのためには自国にとって不利な交渉材料を相手に持たれたとしても、それをもって譲歩してしまうことは自国の弱体化を招き、国家存亡の危機に立つことを意味する。だから北朝鮮は拉致問題で一歩も引こうとしないのだ。

 しかし、拉致問題は国家の主権にかかわる問題である以上、これを放置することはできない。したがって当然に、日本としては拉致被害者の全員の帰国を求めることになる。そのために武力によらない経済制裁等をかけ、北朝鮮に圧力をかけているのだ。しかし、これに対してかの国は一歩も譲歩できないために今回のように、相手を恫喝することによって交渉を自分に有利な方向に進める瀬戸際外交を展開することになる。よって、日本が非武装であっても北朝鮮が同じ行動に出る可能性は十分に考えられ、上記仮説は否定されることになる。



 私は殴りません。日本は憲法9条によってこう宣言した。しかし今回の一件によって、相手も同じように、「あなたが殴らないなら私も殴りません」ということにはならないということが明らかになった。こちらが崇高な平和主義に酔って武力を放棄したところで、諸外国がこれに追随することはないし、それどころかそんなのはお構いなしにぶん殴ろうとしてくる国があるという、当たり前のことがようやく証明された。

 ではそれはなぜか。答えは非常に簡単である。戦争は政治の延長だからである。プロイセンの軍人であったクラウゼヴィッツは「戦争は手段を替えた政治である」と述べた有名な言葉を遺しているが、まさにそうなのである。政治(今回はこれを外交に置き換えてもいい。)の目的とは国益の最大化であると定義すれば、そのためには国家はいかなる選択肢も考慮に入れ、行動するであろうことは容易に理解できる。

 国益の最大化を志向する国家が、そこから戦争という選択肢を排除することなど、普通に考えればあり得ないことなのである。自身で選択肢の幅を狭めることは、それだけ国益の最大化が望めなくなり、外交においては戦わず(戦争の意味ではない。)して敗北することを意味することになりかねない。国益の最大化のためには戦争であろうと、常に選択肢の一つに入れて行動することが望まれる。



 そもそも今回の政府ならびに自衛隊の不手際、そして過剰な不安の拡大は、これまで安全保障、殊軍事というと腫れ物に触るようにしてきたり、これに関する議論は戦前の日本を彷彿とさせるといってタブー視してきた(旧社会党などは、憲法9条を守るために自衛隊機の燃料タンクに対し、敵国まで行って来れるだけの量が入るものは違憲などと、聞いて呆れるような低俗な議論をしてきた。)サヨク勢力が大きな原因になっているのだ。

 よって私は、こうした危機を招いた原因は、実は平和主義を吹聴するサヨク勢力にあるものと考えている(もちろん、保守派にも原因はあるが)。平和主義を主張しながらそれがかえって平和を脅かすことになるとは、皮肉なことこの上ない。

「国家あっての人権」を理解できないのか

2009年03月30日 | 憲法9条
対ミサイル誘導弾、首都圏で展開開始 反対運動も(朝日新聞)

 首都圏でPAC3が展開するのは、空自市ケ谷基地(東京都)と陸上自衛隊朝霞駐屯地(同)、同習志野演習場(千葉県)。
 入間基地からは午後8時過ぎ、レーダー装置や発射機を積んだ深緑色の大型車両、電源車、燃料タンク車、「危」マークが入った小型車など約30台の車列が出た。基地内の道路脇では約50人の隊員らが並び、敬礼で見送る中、関越道で東京方面に向かった。
 習志野演習場には、市民団体「パトリオットミサイルはいらない!習志野基地行動実行委員会」のメンバーが駆けつけた。吉沢弘志代表は「今後、防衛省などに抗議していきたい」と話した。



 まぁ、こういう「市民団体(いや、「人民団体」か」)が出てくるであろうことは最初から想像はついていたので別にこれといって驚くことはないが、毎度のことながらお気の毒にと思う。要らないのはパトリオットミサイル(以下、簡単に「パトリ」と表記する。)ではなく、この胡散臭い「市民団体」だろうに。

 かくいう私も一方的に彼らを断罪するつもりはないので(笑)、一応、彼らがどういう理由でパトリに反対しているのか、知れる範囲で調べてみた。そこで彼らが言っていることを要約すると以下のようになる。


1、パトリの配備は自衛隊が米軍の先制攻撃中心の世界戦略に、積極的に組み込まれていく
2、パトリは政府機能や基地機能の中枢を「守る」ために配備されるもので、市民を守らない
3、パトリの配備は先制攻撃をしかければ、当然にも反撃されるので、それを封じ込める体制を作ろうというもの
4、パトリの配備の裏には戦争と戦争国家づくりをする国と自衛隊の思惑がある
5、要するに、パトリの配備は戦争への道


 まず、1についてだが、国際法上自衛のための先制攻撃は完全に違法とは言えない。日本は日米同盟を結んでいる以上、アメリカの軍事戦略に追従するのは仕方ない。しかし日米同盟は憲法9条の制約がある日本において、安全保障の命綱であり、破棄はできない。結局、アメリカ軍の世界戦略に飲み込まれてしまうのは、彼ら市民団体の固守しようとしている憲法9条のせいなのだ。

 そもそも、パトリの配備が1とどう関係しているのか具体的な根拠が一切見つからない。むしろパトリを製造しているアメリカの軍事会社からは、今回迎撃に失敗した場合、MDの見直し論が日本で噴出し、パトリをはじめとした迎撃ミサイルが売れなくなるのではないかという懸念も出ているという。

 2は、今回破片が落下すると予想される岩手県の滝沢村にある陸上自衛隊岩手山演習場に配備されたことから破綻。もっとも、パトリの数には限りがあることからして、優先順位を決めて配備するのは至極当然。そうであれば、国家の機能が集中する箇所に優先的に配備するのは戦略上当たり前。これに対して「市民を守らない」とは言いがかりもいいところだ。

 3は、今回北朝鮮のほうから一方的に外交のカードとしてミサイル発射を計画している以上、日米が北朝鮮に先制攻撃を仕掛ける意図がないどころか、それこそ万一の事態に備えて配備しているだけなので論理破綻。4は論外。5はいつもの妄想なので相手にするだけ時間の無駄。よって、彼らの主張はいつもながらの妄言と、お花畑からこんにちはの発想からきているものなのだ。

 余談だが、こういう「市民団体」にはいかなるグループが関与しているのか調べてみたところ、中核派が関与している「とめよう戦争への道!百万人署名運動 」、反戦自衛官、9条の会、ノーモア南京、日の丸・君が代の強制を考える会、などといった、ああなるほどなと納得のいく結果が出た。つまり、いつもの人たちが、いつもの仲間と一緒に、いつもどおりに、いつものマスコミによって、いつもどおり小規模に取り上げられていたにすぎないということだ。



 こういう騒ぎを起こす分子は、だいたい「人権」というものをすぐに持ち出すのだが、その人権も国家あっての人権であるということが分からないのだろうか。

 彼らは平和的生存権が侵害されたといって裁判所に駆け込む。宗教的人格権が侵害されたといって裁判所に駆け込む。国会の前で「雇用を守れ」と訴える。行政に対し監査請求を起こす。国家に対して人権を確保せよ、人権を守れと言う。

 だが、ただ人権人権と絶叫したところで人権が確保されるのか。されないだろう。その人権を実効性あるものにし、人権の効力を担保しているのがほかならぬ国家ではないのか。つまり、国家がなくなってしまえばお得意の人権論を唱えたところで、それは全くの無力なのだ。力なき正義は無力なのと同じように。平和で秩序ある独立した国家の存在が人権の確保、保障には不可欠なのだ。

 今回のような武力攻撃事態において国家が自己の独立を守り、国民の生命と財産を不正の侵害から保護するために、万一の場合に備えてパトリを配備することは、実は最大の公共の福祉であって、これこそがまさに国家の第一の責務ではあるはずだ。以前、西村真悟氏が言っていたが、国防こそが最大の福祉なのである。国家に危険が生じたら、その国家に所属する国民全員が不幸になるのだから。



 パトリ配備とは、日本が戦争への道を進むための一里塚ではなく、災害に備えて保険に入るのと同じように、いざというときに備えて準備することにすぎない。にもかかわらず、これに反対しようというのは、北朝鮮のスパイかただのお気の毒な人のどちらかであろう。

「戦争のできる国」のどこが悪い

2008年12月07日 | 憲法9条
 しばしばカルト的な「護憲派」(誤憲派、と表現したほうが適切か。)は、われわれ憲法9条改正派に対して、「日本を戦争のできる国にしようとしている」などと言うが、では一体「戦争のできる国」であることの一体何がいけないのか、訊いてみたい。

 そもそも、戦争が「できる」ということは、それが直ちに戦争勃発と結びつくのか。「できる」という言葉には、「(できるけど)やらない」ということも当然に想定されている。たとえば、私は人を殺すことが「できる」。これは紛れもない事実である。私には手も足もある。この手で首を絞めることもできるし、この足で人を蹴り殺すこともできる。

 だが、私はそれら行為を「やらない」。理由は簡単。やる必要も意味もないからだ。ただしこれは「現在のところ」やる必要がないのであって、たとえば私が暴漢に襲われたとき、その場を凌ぐために、この手や足を使って暴漢に攻撃を加えることもありうる。最悪、その暴漢を殺してしまうかも知れない。しかし、もし暴漢が私を殺す気でかかってくれば、それは必ずしも平和に反した行為とはいえない。国家の行う戦争もこれと同じことではないのか。

 もしカルトな「護憲派」の言うように、憲法9条を守るということは、それはさきの暴漢のたとえに置き換えるならば、暴漢に襲われたときに、自分の手足を縛り、暴漢にされるがままにされろ、ということだ。彼らにとってはこれが「平和」なのである。

 護憲派の言う憲法9条を守るということは、日本の手足を縛り、他国から侵略されたとしてもされるがままに辱められろということだ。それならば、護憲派の諸君はまず手始めに、自分の手足でも縛って生活を送ってみればどうだろうか(冷笑)。そのような下での生活で、自身の「安全」が保てるかどうか、試してみればいい。



 蛇足だが、「侵略してくる国などあるものか」などという反論は無意味であるし、無力であるということを言っておく。それでは逆に訊きたい。今後未来永劫一切日本が侵略される「可能性」はないのか、と。国家の至上命題は国民の生命と安全、財産を守ることである。そのためにはあらゆる可能性を考慮し、ゼロと断言できない限り、戦争も辞さないという「最終選択肢」を残しておかねばならないのは言うまでもないはずだ。認めたくないとかいう感情論の次元の話ではない。

 蛇足ついでにもう一つ言っておくが、さきの暴漢のたとえで、「それならば助けを呼べばいいじゃないか」と思われるかもしれないが、護憲派は日米同盟という「助け」も否定しているのだから、助けは期待できない。結局蹂躙されるがままである(まぁ、彼らにとってはこれが平和なのだからいいのかも知れないが)。



 戦争はできるが、それは自国の安全を生存を守るための絶対の最終手段である。したがって、戦争を「できない」状態にする憲法9条は早々に改正されねばならない。これこそが健全な安全保障についての理解ではなかろうか。

 それにしても護憲派というものは、どうして常に「戦争」というと、日本がふっかけるのを前提としてしか考えられないのだろうか。私は憲法9条を改正して日本の防衛力を確固たるものにして、常に「いざという時」に備えろと言っているにすぎないし、これが改正派の大多数の考えだろう。しかし、護憲派の想定する「戦争」とは、常に日本側がふっかけるものと理解しているから、ここにわれわれの主張を正しく理解できないことの一因があるのではなかろうか。

私の憲法9条改正論(その2)

2008年07月13日 | 憲法9条
 以前の「その1」を書いてから大分時間が経ってしまったが、尻切れトンボで終わらせるのでは中途半端であるし、ましてや変な誤解を与えかねないと思うので、引き続き「私の憲法9条改正論」について述べていきたいと思う。



 私が憲法9条の改正をすべきと考える理由の第二は、現在の9条を普通の人が読めば、明らかに軍隊は憲法違反ということになるからである。それこそが2項の「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」という箇所である。9条制定の経緯などは、西修先生の多くの著書に詳しく書かれているため、ここでは触れないが、この箇所が存在している限り、自衛隊の合憲論争という、もはや神学論争にも等しい無益な議論に終止符が打てない。

 9条の解釈をめぐる(私から見れば)不毛な論争が、戦後日本の安全保障政策において影を落としていたのは否定できない。現に卑近な事例を取ってみても、湾岸戦争時、非武装中立を唱える旧社会党が野党第一党の座にあったため、クウェートに自衛隊を派遣できず、日本は世界の顰蹙を買った。その後、今では考えられないような紆余曲折を経て、漸くPKO協力法が制定された。このような政治の不要な混乱に、憲法9条の解釈をめぐる対立があったことは明らかだ。

 慶応大学の小林節先生ではないが、これでは「憲法守って国滅ぶ」と揶揄されても、それは強ち的外れではない。いや、そればかりか、本当にそのような事態になりかねない。これこそ本当に憂慮すべき問題である。



 ところで、独立国家であれば当然に自国を防衛するための自衛権がある。個別的自衛権、集団的自衛権ともに国連憲章51条において認められている、国家固有の権利である。つまり、当然に日本も個別的自衛権、集団的自衛権ともに有してはいるが、集団的自衛権に関しては、その1で述べたような解釈を取っている。

 集団的自衛権に関しては、国際司法裁判所はニカラグア事件判決において、集団的自衛権が行使可能な要件として、自国と連帯関係のある国家が、第三国から武力攻撃を受けたことを宣言し、かつ、攻撃を受けた国家が、支援・援助を要請していることを挙げ、集団的自衛権を国際慣習上確立された権利であるとしている。

 先日、報告書を提出した柳井俊二前駐米大使を座長とする「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」で検討された集団的自衛権行使のパターンは、(1)米国を狙った弾道ミサイルをミサイル防衛システムで迎撃、(2)公海上で並走中の米軍艦船が攻撃された際の海上自衛隊艦隊による反撃、(3)一緒に活動する多国籍軍への攻撃に対する反撃(4)国連平和維持活動で妨害を排除するための武器使用-の4類型であったが、これらはいずれも円滑な日米同盟運営のためにも容認すべき範囲の集団的自衛権であろう。

 ここで「容認すべき範囲」という表現を用いているように、私は無制限に自衛権の範囲を拡大しようとするものではない。そこには一定の限界があるし、一定の限界があるべきである。その意味で、だからこそ憲法9条を改正し、自衛権の範囲を明確にし、そこに一定の歯止めをかけるべきなのである。憲法9条下で自衛隊、自衛権をグレーゾーンのまま置いておくほうが、逆に有事となった際に無制限に軍事力の範囲が拡大し、おかしな方向へ向かうのではないかと考えている。

 それならば日本が他国から武力侵攻しないという確約を取り付けてくればいいと批判されそうだが、そのような確約が一定の状況下では無意味なものになることは歴史が証明している。たとえば、日本は戦前ソ連の南下を恐れて1940年、「日ソ中立条約」を結んだが、1945年8月、日本が降伏する直前になって火事場泥棒的に一方的に同条約を無視して対日宣戦布告をし、北方領土を占領したではないか。日ソ中立条約を締結した当時、ソ連側はスターリン自身が日本側代表松岡洋右を駅まで送迎し、条約締結を熱烈に歓迎したにもかかわらずに、だ。

 この史実が証明しているのは、たとえ武力侵攻しないという確約を取り付けても、国際情勢やその後の国内事情の変化によって、そんなものは容易に反故されかねないということだ。当時の軍国主義的な日本政府ですらソ連が条約を無視し、対日宣戦布告をしたということは衝撃的であったのだ。

 そもそも、現在の日本政府に対日宣戦布告は絶対にしないという確約を取り付けるほど外交力があうとは思えないが(外交力も結局は軍事力が決定的な影響を持っている)、仮にそのような確約を取り付けても、決して非武装に甘んじることは許されないのだ。いや、むしろ、そのような確約を取り付けたからには、相手方に確約を反故させないよう、強力な軍事力をもって常に威嚇する必要すらあろう。なぜなら、相手方はたとえ日本に武力侵攻しないと「口先で」明言しても、日本に武力侵攻するメリットありと判断すれば、攻撃を仕掛けてくるのであるから(戦前のソ連がいい例だ)。逆に、そのときに非武装でいたほうが、無駄な被害を出すはずだ。



 そして、趣旨が若干ずれてしまうが、非核三原則の法制化にも反対である。核武装論者である私としては、日本が自前で核戦力を保持することに賛成であるが、それはNPT体制、日米原子力協定、国内世論等によって実質的に不可能であると思うので、そこまでは主張しないが、非核三原則は「つくらず」以外は全て撤廃すべきである。もちろん、非核三原則が有効な現在でも、暗黙裡のうちに在日米軍が核戦力を日本国内に入れているだろうが。

 では、どうして非核三原則の法制化に反対かと言うと、法制化してしまうと、それは現在の宣言程度の非核三原則に比べ、国家を拘束する力が増し、日本の安全保障政策の変更が非常に難しくなってしまうからだ。しかも法制化したということは、「日本は核はどんなときでも持たないし使いませんよ」と宣言してしまうことになり、これは安全保障政策上、極めてデメリットの多いことである。

 自衛権は、「いざという時になったら容赦しないぞ」という事前の軍事力による威嚇力もその中に含まれるべきで、それをみすみす放棄し、自分の手の内を公開してしまうようなことは、愚策としか言いようがない。
 国家を強盗にとられかねない非常に不適切な喩えだが、ピストルを振りかざして強迫する強盗が、「このピストルには弾が入ってしませんよ」と言ってしまえば、その強盗の計画は失敗するだろう。しかし、たとえ弾が入っていなくとも、「撃たれる可能性がある」と相手方に認識させることが、強盗成功への重要なファクターである。この喩えを先ほどの非核三原則法制化に当て嵌めたら、日本が蒙る不利益が分かるはずだ。

 核武装論に関してついでに言えば、日本が唯一の被爆国だから核を持ってはならないという理屈は、全く説得力がない。むしろ私は、唯一の被爆国だからこそ、そのような惨禍が二度と起こらぬよう、あらゆる軍事力をもって、日本を防衛すべきであると思う。日本が核を持ちませんと言ったところで、周辺国も「そうですね、核はいけないですね」となっているか?それどころか、北朝鮮など堂々と日本を敵国視し、核実験に勤しんでいるではないか。というか、核はいけないと言っておきながら、電力の多くを原子力で賄うことに矛盾を感じないのか。しかも、核反対派の多くは「エコ論者」であると思われるが、原子力が地球環境にやさしいクリーンな電力供給手段というこの矛盾。



 話を元に戻して最後に。私が言いたいことは、所詮憲法9条を守ったところで、周辺国はこれに同調しないし、そうである以上、日本がこれからも平和裏にやっていける可能性はない。憲法9条を守り、自衛権を否定しても、それはその時だけ味わえる、まるで薬物によってハイ状態になるような一時的な自己満足にすぎない。国家は国民の生命と財産、領土と主権を守るために、天災に備えて非常食を備えておくように、常に「いざ」という時のために、準備を怠ってはならないのだ。それが自衛権行使のための軍事力であり、憲法9条の改正であるのだ。

イラク派遣違憲「判断」について 番外編

2008年07月06日 | 憲法9条
 当ブログにおいて以前から批判を繰り返してきた、イラク派遣違憲訴訟名古屋高裁判決だが、先日、この訴訟の原告側弁護団の方の講演会があった。自分も当初、この講演会に行く予定であったが、急用が入ってしまったため行けなかった。そこで、今回ここに掲載する情報は、あくまでも講演会に出席した人から聞いた講演会の内容ではあるが、これを基に、この訴訟を改めて考えてみたい。



 まず、自分が講演会に行っていたら質疑応答のところで訊こうと思っていた質問を、以下で挙げてみる。

①、原告側は敗訴したにもかかわらず、どうして「勝訴だ」と喜んだのか?

②、①の光景を見る限り、当訴訟は「政治的パフォーマンス」であったように思われるが、どうか?

③、今回の訴訟について「出来試合であった」という意見が聞かれるが、これについての真相はいかなるものなのか?



 まず①についてだが、やはりこちらが思っていたとおり、今回の訴訟をはじめとした一連のイラク派遣違憲訴訟は、最初から負けることは承知で起こした訴訟であり、一連の訴訟の中で「違憲の疑いがある」「違憲の可能性がある」といった文句を、判決文の中に掲載させることが目的であったのだ。

 つまり、原告らが主張した平和的生存権等は彼ら自身、最初から認められるものとは考えておらず、「法律上の争訟」にするための、いわば「道具」として使用した程度のものであったと見てよい(「法律上の争訟」については、警察予備隊違憲訴訟判決を参照のこと)。

 ということは、原告らは自衛隊がイラクに派遣されたことにより精神的苦痛を蒙ったと主張していたが、これも自身らの政治的パフォーマンスのための口実であり、よって実際は、自衛隊が派遣されたことによって彼らに何の損害も生じていないのである。このことは、彼らが損害賠償額として一人あたり1万円しか求めていないことからも推測できよう。したがって、①が肯定された以上、②も肯定されたことになる。



 ③については、更に悪質である。彼らは、違憲「判断」をしてくれそうな裁判官を選んで、訴訟をしていたとのことである。これはもはや確信犯である。そこで案の定、違憲「判断」をしてくれる裁判官に訴訟を担当してもらい、万事(実質上の)勝訴を勝ち取ったわけである。当該判決を報じた4月18日の産経新聞にも「原告側の承認申請は積極的に認められ、法廷は違憲主張の『独壇場』となった」とあるが、そのようになった背景には、左翼によって綿密に練り上げられたこのようなシナリオがあったからである。

 イラク派遣違憲訴訟が最高裁まで行けば、原告側は(実質的な)敗訴をすることは分かりきっていたとのことである。だからこそ、敗訴をしたのにもかかわらず、上告をしなかったのだ。せっかく違憲「判断」が出たのに上告をしてしまえば、これが取消されることになるので、請求は認められなくても上告をしないということだ。よって、国側の「上告封じ」をしたという批判も正当であったと証明できた。



 しかしながら、本来ならば、自分の権利や損害の回復のために裁判を起こすのであって、権利や損害の回復をまっとうさせるために三審制が敷かれているのであるという大前提に立って考えてみれば、原告側は上告をして、平和的生存権侵害による損害の回復のために闘うのが筋だ。まさにイェーリングの言う「権利のための闘争」を行うのが、本当に怒れる左翼のやるべきことではないのか。このような姑息な手口によって自分たちの政治的主張を行うことに、良心は痛まないのか?

 最初から出来上がったシナリオに則って裁判を行っておきながら、そこで出た判決を錦の御旗にして、「自衛隊はイラクから撤退せよ」などと、よくも言えたものだ。これが彼らにとっての正義なのかも知れないが、このような事実が白日の下に晒された場合、それでも自分たちの主張が正しいと、胸を張って言えるか?

 自身の主張を通すためなら筋を曲げても構わないとしているところが、私が左翼が嫌いな理由の一つだ。もし何らかのケースで国側が敗訴をしたものの、自衛隊は合憲と裁判所が認めた(判断した)ので、国側が上告せずに訴訟を終わらせたら、いの一番に批判をするのはどこのどなただろうか。この如何ともし難い矛盾を、どう説明してくれるのだろうか。



 よって、国側がこの判決を黙殺し、イラクから自衛隊を撤退させないとした判断は極めて妥当であり、かつ、その判断こそが正義に適ったものである。このような茶番は、いずれ化けの皮が剥がされるものなのだ。

私の憲法9条改正論(その1)

2008年05月03日 | 憲法9条
 61回目の憲法記念日(この憲法の一体何を記念するに値するのか分からないが)に、私の憲法9条改正論として、改めて9条改正の意義を考えてみたいと思う。



 私の憲法9条改正はシンプルである。9条1項は残し、2項を削除する。これだけである。同じような提案は、確か西尾幹二先生もされていたと思う(少し内容は異なっていると思うが)し、改憲派の百地章先生も、「憲法第9条の改正はあくまで2項のみにとどめ、1項の平和主義つまり侵略戦争の放棄はそのまま維持すべきであろう」とし、「1項による歯止めは必要である」と述べている(『憲法の常識 常識の憲法』129頁)。では、どうしてこの結論なのか。

 まず、世論の賛成を得るという点でこの案は適切だと思う。最近、マスコミが相次いで行った世論調査などによれば、そこでの9条改正に関する聞き方は、この見解に立てば、おかしな(故意に?)聞き方である。

 9条改正と言っても、他国を侵略する意図であったり、好き勝手に戦争をはじめるための布石のためであったり、ましてや徴兵制を敷くための一歩でもない。9条改正の必要性は、日本が「いざという時」に、国民の生命と財産を護り、日本という国を護れるようにするというのが、その目的であって、思うに、世論の多くは9条改正の意図を勘違いしているのではないか(サヨク護憲マスコミによる故意の世論ミスリードである。だから朝日新聞の行った世論調査の結果で、9条改正反対の主な理由が「日本の平和に役立っているから」などというものが多数を占めてしまうのではないか。この認識が誤ったものであるということは、シーレーン上で日本籍の船舶が海賊に襲撃されたにもかかわらず、何の対処もできなかったという最近の事例からも明らかである)。

 よって、「平和主義を定めた9条の改正を・・・」などという聞き方は論外であって、これでは反対が増えるに決まっているし、以前から述べているように、9条の改正の是非を本当に知りたいのならば、1項と2項を分けて聞く必要があろう。

 サヨク護憲マスコミが世論を誤解させている証左として、以前琉球新報が「世論は9条改正反対」と喜び勇んで書いた社説の論拠であった共同通信社による9条に関するアンケートは、以下のようなものだった。


問7 憲法9条は戦争を放棄し、戦力を持たないことを定めています。あなたは、憲法9条を改正する必要があると思いますか、そうは思いませんか。


 これでは改正反対が増えるのは、作成者でなくとも分かりそうなものであって、このような質問事項の作成は、世論を自身にとって都合のいいような結果に導こうとするやり方であって、改正派の趣旨を無視したものである。政府・与党の行おうとしている9条改正とはいっても、1項の戦争放棄の理念は継承し、2項の戦力不保持を見直そうというものであって、このようなアンケートをいくら繰り返し行って同じような結果を出したところで、この結果は護憲派の主張の正当性の論拠たりえないのは言うまでもなく、ましてや世論を誤解させているという意味では、罪ですらある。

 したがって世論は、戦争放棄の理念は守り抜くが、現実にそぐわない戦力の不保持には反対という意見が、本当ならば多数を占めていいのではないか。世論の多数がこの国際情勢の中、日本が非武装中立であるべきなどと考えるだろうか。サヨクのバイアスのかかった姑息な世論調査の結果になど惑わされずに、毅然とその改正の必要性を説くべきだ。なお、砂川事件最高裁判決において、最高裁は「わが憲法の平和主義も決して無防備、無抵抗を定めたものではない」と述べている。



 この案を支持する理由の第二は、現在の9条を普通の人が読めば、明らかに軍隊は憲法違反ということになるからである。それこそが2項の「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」という箇所である。9条制定の経緯などは、西修先生の多くの著書に詳しく書かれているため、ここでは触れないが、この箇所が存在している限り、自衛隊の合憲論争という、もはや神学論争にも等しい無益な議論に終止符が打てない。

 その2に続く。

名古屋高裁判決から「イラク派兵は違憲」という結論を導き出せるのか?

2008年04月21日 | 憲法9条
 かの判決から数日が過ぎ、この判決が「自衛隊のイラク派兵は違憲」という結論を示したものだという解釈がまかり通ろうとしているので、その解釈に待ったをかけたい。



 何度も繰り返すが、そもそも今回の判決は、「イラク派兵は憲法9条に反する」と、主文で宣言したものではなく、蛇足部分でそう「判断」したにすぎず、法的拘束力は生じていない。よって、本判決は、政府にイラクから自衛隊を撤退させる何よう請求したものでもなく、ましてや自衛隊の海外活動を禁じたものでもない。そこはしっかりと押さえておきたい。

 本判決の「違憲判断」の位置づけは、あくまでも「一裁判官である青山はこう考える」という程度のものであり、今回の判決を受けて政府が改めて対応を迫られることは、自衛隊のイラク派遣の大前提となる「非戦闘地域」の概念と定義を、今一度明確にかつ詳細に国民に説明することぐらいだ。しかもそれも「必要性が出てきた」という程度のものである(義務ではない。なのでこの判決に従う必要もない)。その理由はこれまで述べてきたとおりである。



 ただ、確かに今までの政府の「戦闘地域」に関する答弁は、あまりにお粗末であったことは否定できない。小泉元首相の「自衛隊の活動している地域が非戦闘地域だ」という答弁では、せっかく現場で自衛隊が頑張っているのに、これでは国民の間に疑心暗鬼が広まるだけである。今回の判決を受けて、もう一度、今度は丁寧に国民にイラク派遣の必要性と、その活動地域の安全性を説く必要はあると思う。



 しかし、本判決を受けて自衛隊がイラクから撤退する必要は全くないということは、再度強調したい。判決でも、違憲判断をする前に、「イラク特措法を合憲としても」と述べていることでも、これは分かりそうなものだ。当然のことながら、自衛隊のイラク派遣は、イラク特措法に基づいて行われている。

 本判決は、「空自の活動は、武装した兵員を輸送を輸送するものであり、それは戦闘行為と一体化したものであり、イラク特措法に反し、かつ憲法9条に抵触するものも含んでいる」と判断したものであって、これは、イラク特措法を違憲と判断したものではないし、せいぜいイラクに派遣するならもっと穏便にせよ、と訴えたにすぎない。だが、この訴えも、以前のエントリーで述べたように、憲法9条制定者の考えに照らし、不適切であることは明白だ(この裁判官の判断からは、日本が戦争になっても、自衛隊の行使は憲法9条に反するから、座して死を待つべしという結論しか出てこない)。



 今回の判決は、裁判所の考えに合うように解釈しても、自衛隊のイラク派遣によりイラクの安定に寄与し、ひいては国際平和に貢献するという「目的」は否定しておらず、その目的に向けた「手段」の違法性を指摘したにとどまり、サヨクがはしゃいで言っているような「自衛隊は今すぐイラクから撤退しろ!」という結論とは、必ずしも結びつかないことは明らかである。活動内容の見直しが必要ではないかという程度のものだ。ちなみに、私はそれすらも不要だと思うのだが。

イラク派遣違憲「判断」について その2

2008年04月19日 | 憲法9条
 今回の判決はなかなか尾を引きそうなので、負の連鎖を断ち切るためにも、引き続き名古屋高裁自衛隊イラク派遣違憲「判断」判決を検証していきたい。



 今回の判決の問題点は「蛇足」で傍論ならぬ「暴論」を述べたことにとどまらず、立憲国家の大原則である権力分立に反するものである点も重大な問題である。今までの判例の流れからして、今回の判決には「統治行為論」で臨むべきであった。

 「統治行為論」とは、「法律上の争訟」として裁判所による司法判断は可能であるが、その対象が「直接国家統治の基本に関わる高度に政治性のある国家行為」は、その事柄の性質上、司法審査の対象とはせず、政治の決定を優先させる、というものである。

 その理由は、裁判官は国民の選挙によって選出された者ではないので、政治的な問題について責任を負うことがないので、裁判官に高度な政治的判断を許すことは、権力を三権に分立させた憲法の要請に反し、そして政治的な問題の決定は、終局的には国民が選挙権を行使して決定するのが民主的であるからである。よって、高度に政治性を有する問題は、裁判所は権力分立を尊重するために、その判断を自制することが求められるのである。



 統治行為論は苫米地事件最高裁判決において、「直接国家統治の基本に関する高度に政治性のある国家行為のごときはたとえそれが法律上の争訟となり、これに対する有効無効の判断が法律上可能である場合であっても、かかる国家行為は裁判所の審査権の外にあり、その判断は主権者たる国民に対して政治的責任を負うところの政府、国会等の政治部門の判断に委され、最終的には国民の政治判断に委ねられているもの」であるとし、統治行為の成立を認めている。

 そして、明確に統治行為が肯定できるものとして、戦争状態の認定や自衛の用件の認定など国家の外交的・対外的行為が挙げられる。これに関する判例として、砂川事件最高裁判決では、日米安保条約について司法審査権は及ばないと判示している。



 以上の理解を踏まえて今回の判決を検討すると、やはり今回の判決には違和感を感じてしまう。

 まず、ここで裁判所が自衛隊のイラクの首都バグダッドへの派遣を違憲と「判断」しても、その判断がたとえ誤っていたとしてもそう判示した裁判官は何ら責任を追及されることはない。しかし、これが政治家の判断だったらどうだろう。場合によってはその政治家の政治生命にすら関わってくる重大事である。

 仮に、今回の判決を受けて政府が自衛隊を撤退させたことにより、日本の国際社会からの評価が下がったら、政治家はその批判の矢面に立たされるが、この判決を作成した裁判官は何のお咎めもない。政治に容喙しておきながら、自身は一切政治上の責任を負わないのだから、これでは「司法」というバリアに守られて、政治活動ができているに等しいことになり、司法の中立性を損ね、ひいては司法への国民の信頼も失墜させることになってしまうのではないか。

 やはり、安全保障という高度に政治的な判断が求められる問題には、「どうしても」というとき以外、司法審査という伝家の宝刀は抜かず、その判断は三権分立を尊重し、政治部門の判断に委ねるのが、民主主義国家における司法のあるべき姿ではないだろうか。



 よって、自衛隊のイラク派遣の当否という高度な政治性を帯びる問題は、政治的責任を負わない裁判所が最終的な判断をするのではなく、国会や内閣に委ねるべきであるので、今回の判決には統治行為論を用いるのが適切であったと思われるのである。

 この意味でも、高度な政治性を有する自衛隊のイラク派遣について、国側の上告を封じるかたちで国側を勝訴させておきながら、その勝訴の原因となった法的事実とは全く関係のないところで「違憲判断」をした今回の判決は、司法の政治への重大な介入であり、国民主権の原理にも背くものである。

 このような司法審査が許されるならば、司法のお墨付きを得て自身のイデオロギーを強化させようとする「政治運動屋」に、司法が利用されることにもなる。これは「画期的な判決」でも「平和を勝ち取った結果」でもなく、司法という国家機関を司法自身が貶めたのである。

続 イラク派遣違憲「判断」について

2008年04月18日 | 憲法9条
 今回の名古屋高裁判決は、原告らの請求をあくまでも「棄却」しており、その「蛇足」部分で「違憲」と「判断」したのみである。しかも、イラク特措法を「合憲」と解釈した上で、派遣先が「戦闘地域」であって許されない、という判断をしたまでだ。よって、実際は原告らにとって今回の判決は何ら恩恵をもたらすものではない。



 本件訴訟が提起されるにあたり、訴訟を「法律上の争訟」とするために原告らが用意した「平和的生存権」も、それに基づく「派遣差し止め請求」も、本件判決においていずれも認められていない。

 このことを法律論に基づいて言えば、訴訟を提起するには、訴訟を起こし法律を適用し裁判による判決を得ることによって終局的に原因・問題が解決・除去されるものでなくてはならない。これに該当しないと訴訟は「却下」される。これを「法律上の争訟」と言うのだが、そのためには何か原告にとって「侵害されたもの」がなくてはならない。

 しかしながら、常識的に考えれば、イラクへの自衛隊派遣によって原告ら(もっと広く言えば国民)にとって何か不都合が生じたり、問題が起こっていることはない。これはつまり「損害は生じていない」ということになり、訴訟を起こす前提条件である「具体的な権利・利益の損害ないしは損失」は認められないということになる。

 とはいえ、政府の政策によって国民が不快感を味わったり、精神的に嫌な思いをすることはある。しかし、それはあくまで個々人の主観的な領域にとどまるのであって、それをもって訴訟を提起できるものではない(内心的感情は法的保護に値しない)。訴訟を起こし裁判所に訴えることによって、終局的な解決が可能な問題のみ、訴訟たりうるのだ。



 翻って今回の原告らの主張を見てみると、原告らは「平和的生存権」の侵害があったという。しかし、この権利を容認した裁判例は存在せず、原告らが「平和的生存権」の法的根拠とした憲法前文も、法規範性はあっても、裁判規範性までは認められないというのが、通説・判例である。

 この訴訟はそもそもとして、(その意図はともあれ)「平和的生存権の侵害」を主張して起こされたものである。ということは、裁判所は判決の主文で原告らの控訴を棄却し請求を認めないという姿勢をとった以上、訴訟を起こした法的根拠はこの時点で既に瓦解しており、よって主文を導き出すものではない、イラク派遣云々という件を述べる必要は全くないのだ。

 したがって、今回の高裁の「蛇足」は百害あって一利なしであり、しかも国側は判決に不服があるにもかかわらず、勝訴しているため控訴できないという、憲法上の「裁判を受ける権利」という視点から見て、これの侵害とも受け取れる判決であって、極めて問題である。



 裁判所は「憲法の番人」と言われる。しかし、それならばこのような上告封じとも受け取られかねない姑息な手段でその役割を果たすのではなく、正々堂々と主文に関連する件で述べるのが筋である。

またしても出た「ねじれ」判決

2008年04月18日 | 憲法9条
「空自イラク派遣は憲法9条に違反」 名古屋高裁判断

 自衛隊イラク派遣の違憲確認と派遣差し止めを求めた集団訴訟の控訴審判決が17日、名古屋高裁であり、青山邦夫裁判長は、航空自衛隊が行っている現在のイラクでの活動について「憲法9条1項に違反する活動を含んでいる」との判断を示した。首都バグダッドは「戦闘地域」に該当すると認定。多国籍軍の空輸は武力行使を禁じた同法と憲法に違反すると結論づけた。原告が求めた派遣差し止めと慰謝料支払いについては原告敗訴の一審・名古屋地裁判決を支持し、控訴をいずれも棄却した。
 全国各地で起こされたイラク派遣をめぐる訴訟は、一部は最高裁決定もすでに出ているが、違憲判断が示されたのは初めて。このため、「敗訴」したものの、原告側は上告しない方針を表明している。「勝訴」した国は上告できないため、違憲判断を示した今回の高裁判決が確定する見通しだ。
 判決はまず、現在のイラク情勢について検討。「イラク国内での戦闘は、実質的には03年3月当初のイラク攻撃の延長で、多国籍軍対武装勢力の国際的な戦闘だ」と指摘した。特にバグダッドについて「まさに国際的な武力紛争の一環として行われている人を殺傷し物を破壊する行為が現に行われている地域」として、イラク特措法の「戦闘地域」に該当すると認定した。
 そのうえで、「現代戦において輸送等の補給活動も戦闘行為の重要な要素だ」と述べ、空自の活動のうち「少なくとも多国籍軍の武装兵員を戦闘地域であるバグダッドに空輸するものは、他国による武力行使と一体化した行動で、自らも武力の行使を行ったとの評価を受けざるを得ない」と判断。「武力行使を禁じたイラク特措法に違反し、憲法9条に違反する活動を含んでいる」と結論づけた。
 さらに判決は、原告側が請求の根拠として主張した「平和的生存権」についても言及。「9条に違反するような国の行為、すなわち戦争の遂行などによって個人の生命、自由が侵害される場合や、戦争への加担・協力を強制される場合には、その違憲行為の差止請求や損害賠償請求などの方法により裁判所に救済を求めることができる場合がある」との見解を示し、平和的生存権には具体的権利性があると判示した。
 ただ一方で、今回のイラク派遣は「原告らの生命、自由が侵害されるまでの事態は生じていない」と平和的生存権の侵害を否定し、差し止め請求や違憲確認はいずれも不適法な訴えだとして退けた。





 全く別の意味で「画期的」な判決である。このニュースを見たとき、思わず自分の目を疑ってしまった。この裁判官は一体何を考えているのだろうか。もはや論理的に喝破する気にもなれない。おかしな人がいるもんだ。いや、おかしな論理にはおかしいと言うのが間違いを糾す一歩だと思うので、やはりこの狂った判決を批判せねばならない。



 まず、原告の請求を棄却しておきながら、原告の意に沿う判決をするというのは、全くもって背理しているのであり、これは国側の上告を封じるためになされた「姑息な」手法としか言いようがない。

 この記事にも書いてあるように、「一部は最高裁決定もすでに出ているが、違憲判断が示されたのは初めて」であるので、ここで国側に上告されると、高裁判決の意味が没却されかねないから、こういう手に出たのだろう。



 この判決を書いた裁判長に聞きたいのだが、この程度の自衛隊の活動で「憲法違反」なら、日本が戦争になったときに自衛隊を動かし敵を撃退するのは、紛れもなく「憲法違反」になると思うのだが、裁判長は自衛隊を一体どう定義しているのか。

 以前にも書いたが、憲法9条の起草者とされるケーディス氏は、9条は座して死を待つよう命じている規定ではなく、日本が他国から武力攻撃を受けた場合、それを武力をもって撃退することは当然可能であると述べているのである。

 はっきり言うが、自衛隊は戦争になったときのための存在であるのだが、この裁判長の論理でいけば、イラク派遣が違憲である以上、当然戦争時に自衛隊をもって日本を防衛することも憲法に反するということになる。ならば、自衛隊など税金の無駄以外のなにものでもないので、それならばいっそ自衛隊を解体してしまえばいい。使えない軍隊に多額の税金をつぎ込んでいるなんて、それでは自衛隊は軍事オタク用の「実物大のオモチャ」ではないか。この裁判長にとって「自衛隊」とは何なのか、是非聞いてみたい。



 そもそも、原告らは自分たちの主張していた「平和的生存権」とやらは認められていないので「敗訴」をしているのにもかかわらず、何故「画期的判決」という垂れ幕まで出して喜んでいるのか(平和的生存権の侵害の有無こそが、本件訴訟のメーンポイントではなかったか)。

 ということは、最初から「平和的生存権の侵害」とやらは、実は訴訟を起こすためだけの「口実」であって(訴訟は「法律上の争訟」でなければならないため)、本当は「政治運動」のために、司法をかき回しただけではないのか。したがって、恐らく、これをもってこの一連の「運動」は、見る見るうちに収束に向かっていくだろう。



 靖国参拝訴訟福岡地裁判決につづき、また司法が「政治運動屋」によって汚され、司法自身もこれに加担した事件であり、これは司法の自殺行為を意味するものである。

憲法9条に関する政治的規範説の紹介

2007年11月23日 | 憲法9条
 憲法9条の政治的規範説を述べる前に、まずは誰とは言わないが、「9条は非武装の規定」などと流布している輩の主張を退けておきたい。
 憲法9条が非武装中立を意図して作成されたことでないのは、既に多くの研究によって自明のこととなっているが、ここではその決定的な根拠を幾つか挙げておきたい。

 有名な話であるが、現憲法9条作成以前の段階(マッカーサー・ノート)では「自己の安全を保持する手段としてさえ(even for preserving its own security)」戦争を放棄するとなっていたのをケーディス大佐が削除し、マッカーサーの意図した全面的戦争放棄ではなく、部分的戦争放棄条項に修正した経緯からも明らかである。
 後にケーディス氏は上記の条項を削除した理由について、駒澤大学教授の西修氏に「『自己の安全を保持するための手段としての戦争』放棄は、日本が攻撃されても自らを守ることができないことになり、このようなことは現実的ではないと思えた」と言い、「どの国家にも、自己保存の権利がある」とし、更に「日本は、他国の軍隊に上陸された場合、自らを防衛することは当然できるはずです。ただ座して待ったり、侵略者に我が物顔でのし歩かせる必要はない」と、はっきりと語っている。
 つまり、憲法9条の本来の趣旨に従って解釈をすれば、本条は「侵略戦争のみを放棄した」部分的な戦争放棄条項であり、護憲派の言うような「全面的戦争放棄条項」ではなく、ましてや「非武装中立」を唱えたものでもないということは、誰の目からも明らかだろう。ただ、一部の者たちを除いて(苦笑)。

 さて本題に入るが、憲法9条の政治的規範説とは何かであるが、この説によれば本条は、前文で宣言された平和国家の理念を具体的な法規定として体現したものであり、それは「裁判規範」ではなく、「政治的規範」であるとする。そして何故本条を政治的規範としてみるかであるが、その理由は、本条は国土の安全保障という高度の政治性をもつ規定であり、それは直接的に国民の生命や財産の確保に直結するものであるから、国民から選ばれていない裁判官によって判断されるべきではなく、主権者たる国民の判断に委ねるべきであると考えるからである。更に、政治的規範説にたてば、安全保障に関する問題で、裁判所が無用な政治的論争に巻き込まれることを防ぐことができ、ひいては裁判所の中立性も担保できることになる。

 この政治的規範説にたちつつ、上記のケーディス修正等を踏まえて憲法9条を解釈すれば、当然に日本国にも自衛権の行使は許され、日米安全保障条約は憲法違反だというような亡国的な主張も排斥できるというわけだ。しかしながら、ハナッから安全保障に関する事項はすべて統治行為的なものであって違憲審査は及ばないとすると、これもまた問題がありそうだ。

 そこで、今まで日本政府がとりつづけてきた軍事力の「必要最低限」論と、侵略戦争の放棄という原則を踏まえ、9条が政治的規範であっても一定の裁判所による関与という道も開けておく必要があると思われる。すなわち、一見明白に上記の原則に反する行動を政府がとった場合、そこには違憲審査が及ぶと解するべきだろう。しかし、その基準は普遍的にどの時代にも当てはまるものではなく、あくまでもそれが問題となるときの国際情勢、時代背景などの諸要素を考慮して決定するべきだろう。
 憲法が改正されるまでは、このような政治的規範説に依拠しつつ、本条の解釈にあたり厳格な文理解釈に固執するのではなく、柔軟に解釈することによって、政府には安全保障政策において臨機応変に対応できる運営をしていくことが求められる。