ひとり井戸端会議

主に政治・社会・法に関する話題を自分の視点から考察していきます。

菅谷氏は被告「人」である

2009年10月17日 | 民事法関係
足利事件:菅家さん「被告と呼ばせぬ」 21日に再審公判(毎日新聞)

 菅家さんは6月4日に無期懲役の刑が執行停止され、再審開始決定を待たずに釈放された。異例のケースだが、再審で無罪判決が出るまで「被告」の立場が続く。
 「今は自由ですよ。でも半分被告、半分自由。(刑務所から)出てますから、被告人と言われてもピンとこない。裁判では『菅家さん』と言ってもらいたい。『菅家氏』でもいい」と話す。弁護団も提出した上申書の中で「(被告と呼ぶのは)起訴状朗読の際以外には認めない。事件の呼び上げなどの際にもくれぐれも注意されたい」と求めている。
 10月に入り、足利事件に関する供述が含まれる取り調べ録音テープを聞いた。検事に君は人間性がないと迫られ、泣きながら「自白」した。菅家さんは「反省して泣いたんじゃない。悔しかったんです。いくら『やってない』と言っても分かってくれなかった。どうして自分を犯人と決めつけたんだ。自分の立場と検事の立場を逆にすれば絶対、苦しみが分かる」と強い口調で話した。



 菅谷氏は被告ではなく、被告「人」なのである。したがって、彼が「被告」と呼ばれることは、マスコミを除き、これまでも、そしてこれからもないはずなのだが。

 それでは、「被告」と「被告人」の違いは具体的に何なのかということであるが、簡単に言うと、前者は民事事件または行政事件において訴えられた者の呼称で、後者は刑事事件において訴えられた者の呼称である。

 上記の定義にしたがえば、菅谷氏は殺人罪で起訴され、刑事訴訟事件において争ってきたのだから、彼は被告ではなく被告「人」ということになる。だから冒頭で彼が「被告」と呼ばれたことは、これまでもそしてこれからもないはずだと述べたわけである。



 刑事事件についてもう少し詳しく申し上げれば、捜査段階では「被疑者」であり、公訴提起(検察官による訴えのこと。)がなされると、訴えの対象という意味で「被告人」と呼称されることになる。

 とはいうものの、この両者の間に名称以外の本質的な違いはないとされる。ちなみに、公訴提起されたが、裁判が確定していない者を被告人と呼ぶ。

 なので余談だが、この記事には、「弁護団も提出した上申書の中で『(被告と呼ぶのは)起訴状朗読の際以外には認めない。事件の呼び上げなどの際にもくれぐれも注意されたい』と求めている。」とあるが、裁判官が菅谷氏を「被告」などと呼ぶはずもなく、記事中の()の部分は完全に読者をミスリードさせる誤報である。



 ところで、これはマスコミのせいだとも思われるが、一般的に、「被告」という呼び方は、もうそのように呼ばれる者は「クロ」であり、「犯罪者確定」という印象を持っている人が多いように思われる。

 しかし、刑の確定は、検察官による立証と弁護人による反証を経て、判決がなされ、14日間の控訴提起期間を経過し(刑事訴訟法373条)、出された判決により有罪が確定することによって、はじめて「クロ」になるのである。

 菅谷氏は再審請求事件の対象となっている以上、最新のDNA鑑定等によって「シロ」という結果が出されてはいるものの、再審公判によって無罪の言い渡しを受けていない以上、法的には未だに「被告人」なのである。

 つまり本来ならば、彼は未だ「シロ」ではなく、「クロ」として扱われなければならないのである。換言すれば、たとえ再審の結果が明らかであったとしても、菅谷氏は「限りなくシロに近いクロ」ということである。



 裁判員制度も始まり、司法が身近になった現在、マスコミには正確な法律用語の使用による報道が求められているはずだ。

続 外国人参政権反対論

2009年10月12日 | 外国人の人権
外国人参政権 地方に限っても禍根を残す(読売新聞) - goo ニュース

 地方選挙に限るとしても、外国人に参政権を認めることは、憲法の規定や国のあり方という観点から、問題が大きい。
 鳩山首相が、ソウルでの日韓首脳共同会見で、永住外国人への地方選挙権付与について、「私個人の意見としては、前向きに結論を出したい」と述べた。
 韓国側の記者の質問に答えたもので、首相は「国民感情は必ずしも統一されていない」とも付け加えた。日本国内の議論が割れていることを意識したのだろう。
 民主党は、1998年の結党時の基本政策に、永住外国人への地方選挙権付与の実現を掲げた。首相のほか、小沢幹事長や岡田外相など推進派が少なくない。
 選挙権付与に積極的な論者が根拠とするのは、在日韓国人が地方選挙権を求めた訴訟での95年最高裁判決だ。傍論部分で、憲法上は禁止されておらず、国の立法政策にかかわる問題としている。
 だが、判決の本論は、国民主権の原理に立って、憲法15条の公務員を選定・罷免する権利は、日本国籍を持つ「日本国民」にあると明示した。93条の地方自治体の首長・議員を選出する「住民」も日本国民を指すとしている。
 法的拘束力のない傍論だけを根拠にするのは強引過ぎる。




 日本における在日外国人の国別割合は、2008年現在、中国がトップで次いで韓国・朝鮮であり、この両国(中韓)だけで6割近くを占めている。その中でも在日韓国人のための組織である民団は、特に外国人参政権獲得に熱心で、各党の党首等を招いたパネルディスカッション等を開催してきた。したがってここでは、在日韓国人を念頭に置いて外国人参政権反対論を展開していきたい。


 しばしば外国人参政権賛成の論者は、在日外国人も日本人と同じく納税の義務を果たしているのだから参政権を付与すべきだと言う。しかし、納税の見返りは公共サービスの享受であり、これは日本人であるか外国人であるかを問わず享受できている。それどころか、納税の義務を果たしていなくても享受しようと思えばできる代物である。

 また、納税の義務の履行を参政権獲得の基準に据えることは、戦前の日本が納税額によって参政権を付与していたのと同じ発想であり、これは現行憲法の保障する参政権についての考え方とことごとく対立するものであり、反対解釈をすれば、納税の義務を果たしていない者からは参政権をはく奪することも可能ということになる。

 しかし、周知のようにわが国における憲法が保障する参政権は成人に達すれば、日本人であれば誰でも等しく行使できるものであるため、納税云々というこうした考え方は、現行憲法に反する理解であり、許されない。

 そもそも、納税の義務の履行で参政権を付与できるとするならば、どうして納税をしている未成年者には参政権が付与されないのだろうか。彼らの論理からすればこれは許されないことであり、即刻関連法規の改正をしなければならないということになるはずだ。



 次に、首都大学東京の鄭大均教授によれば、韓国では公選法が今年2月に改正され、2012年以降、韓国籍を持つ在日は韓国の国政選挙に参加することができるようになったという(平成21年10月6日産経新聞)。

 そうすると、在日韓国人は祖国(韓国)の大統領選をはじめとした国政選挙にも参政権を行使でき、かつわが国でも参政権を行使できることになり、これは鄭教授が指摘するように、在日韓国人に「特権」が与えられるに等しい結果になる。

 このことは、祖国でも参政権を行使できる状態でわが国でも参政権を行使できるということを意味し、特権を禁止する憲法14条に抵触することになりかねない(ただし、この解釈は14条に言う「国民」に在日外国人が含まれるとした上での解釈であるため、14条の「国民」とは日本国民のみを指すと解釈すればこうした議論は起こらない)。

 憲法学における支配的見解は、14条の「国民」には在日外国人も含まれるとするので、参政権賛成派の依って立つ解釈であろうこの見解にしたがえば、まず上記のような事態が果たして憲法14条の禁止する「特権」に当たらないか、判断するべきである。私からすれば、この見解にしたがって在日韓国人の参政権について考えれば、間違いなく14条の禁止する「特権の付与」に該当するように思えてならない。



 もし在日韓国人が帰化をせずにわが国の政治に参画することを望むならば、それは祖国での選挙権の行使ができる現状からいえば虫のよすぎる話であり、到底容認できるものではない。わが国において参政権を行使したいならば、帰化をするしかない。本来ならば、それが嫌ならば諦めるべき問題なのである。

 思うに、ここには在日韓国人独自の宙ぶらりんなアイデンティティが見てとれる。これは以前鄭教授も指摘していたが、在日韓国人は日本への帰属意識も、祖国韓国への帰属意識もともに曖昧で、アイデンティティの面において宙ぶらりんな在日韓国人が多いという。

 もし宙ぶらりんなアイデンティティがゆえに日韓両国で参政権を行使したいというのであれば、問題は立法の不備とか相互主義の不徹底とか良き隣人としとかではなく、彼らが自己を何人か定義できないがゆえの問題であり、それを参政権の問題にするのはおかしな話である。



 ところで、以前、外国人参政権は「付与される」ものなのだから、逆にはく奪することも可能であるから、後に外国人参政権廃止法を成立させればいいという指摘を受けたが、これには賛成できない。

 というのは、確かに外国人参政権は「付与される」ものであるが、これは社会保障における諸手当等の付与とは権利の性質上異なり、したがって一度付与してしまえば、母子加算のようにその時々の社会情勢等を考慮して廃止したりすることは非常に難しいと思われるからだ。



 最後に、外国人参政権付与の拠りどころとなっている最高裁平成7年判決についての私なりの見解を述べておきたい。

 外国人参政権賛成派は平成7年判決は外国人に対して選挙権を付与しても憲法上違憲ではないとするが、平成7年判決が引用したマクリーン事件判決では、「政治活動の自由についても、わが国の政治的意思決定又はその実施に影響を及ぼす活動等外国人の地位にかんがみこれを認めることが相当でないと解されるものを除き、その保障が及ぶものと解するのが、相当である。」としている。

 現在でも判例としての地位を失っていないこの文言を反対解釈すれば、外国人参政権は違憲であり、到底認められないものという結論に至るのではないだろうか。

 また、平成7年判決でも、「主権が「日本国民」に存するものとする憲法前文及び一条の規定に照らせば、憲法の国民主権の原理における国民とは、日本国民すなわち我が国の国籍を有する者を意味することは明らかである。そうとすれば、公務員を選定罷免する権利を保障した憲法一五条一項の規定は、権利の性質上日本国民のみをその対象とし、右規定による権利の保障は、我が国に在留する外国人には及ばないものと解するのが相当である。」と述べている。

 このように先の文言が、参政権は「住民」すなわち「日本国民のみに」保障されていると解釈していたにもかかわらず、こう解釈した「住民」について、日本国民以外の「住民」に参政権を付与することが違憲ではないとする園部裁判官の解釈はこれに矛盾するものではないかと思う。したがって、そもそもこの平成7年判決それ自体が矛盾を孕んだものであり、先例としての意味を有さないとしたほうが妥当ではないかと考える。

千葉景子不要論

2009年10月03日 | 国政事情考察
時効見直しに前向き=被害者団体が撤廃要望-千葉法相(時事通信) - goo ニュース

 犯罪被害者の家族らで組織する「全国犯罪被害者の会」の岡村勲代表幹事らは2日、千葉景子法相と法務省で面会し、凶悪犯罪の公訴時効撤廃を求める要望書を提出した。これに対し、法相は「皆さんのお気持ちを踏まえ、できる限り解決に取り組みたい」と述べ、時効の在り方の見直しに前向きな姿勢を示した。
 時効をめぐっては、2004年の刑事訴訟法改正で、死刑に相当する罪について15年から25年に延長されるなどの見直しが行われた。しかし、同団体は「被害者の苦しみに時効はない。時効は逃げ得を許す反倫理的制度だ」として、撤廃とともに過去の凶悪事件にもさかのぼって適用することを求めた。 



 私は、この千葉という法相は不要な人だと思う。法相としての(それ以上に政治家としての)資質に全く欠けた不適格者だからだ。

 北朝鮮による日本人拉致問題の容疑者である辛光洙の釈放請求、戦時性的強制被害者問題の解決の促進に関する法律案提出、入国管理局の不法滞在外国人通報システム批判、カルデロン一家滞在許可要求、改正児ポ法、人権擁護法案、死刑廃止、外国人参政権付与推進等、千葉がこれまで行ってきた数々の悪行は、どれも法の支配に悖り、国益に反するものばかりだ。この時点で法相としての適正を欠くと断言できる。

 千葉は、「私は人権を大事にする」と言うが、その人権を担保する法を無視しておいて、よく言えたものだ。厚顔無恥とはこの人のためにあるような言葉だ。



 千葉は死刑制度について否定的な立場を取るが、法相としてそれは許されない。法の支配のもとで下され、確定した判決を、自身の思想信条によって拒否するとすれば、最初から法相を引き受けるべきではなかった。自分のイデオロギー的に正しいことだけをしようとして法相を引き受けたならば、それは日教組が教育の現場にイデオロギーを持ち込み、国旗・国歌の斉唱・掲揚に反対しているのと同じだ。

 また、千葉が言論の自由についても偏狭であることは国籍法改正時の有名なやり取りが示している。すなわち、改正国籍法案を審議する参議院法務委員会でこの法案について意見を述べようとした丸山和也議員(自民党)に対し「座れ!」「もう帰れ!」と恫喝し、速記とマイクを止めて言論を封殺したことである。

 不法滞在者についても、「日本に長年定着し、罪を犯したりすることなく一生懸命働き、家族も日本がふるさとのようになっている人に『帰りなさい』というのはねえ。」などと未だに言う。法相で元弁護士であるにもかかわらず、「不法」の二文字の意味も分からないようだ。こんなどうしようもない「売国奴」を閣僚にした鳩山の見識を疑う。



 しかし逆に、これ(千葉が法相として入閣していること。)はプラスに働くのではないかという見方もできる。

  そのわけは、閣僚であるということは、常にマスコミを通じて国民に千葉の一挙手一投足が報道される。それによって千葉が不穏な動きをしようものなら、すぐにその動向をキャッチでき、千葉を監視することができるからだ。かえって閣僚にもならず、民主党内で一定の影響力を有しながら「暗躍」されたほうが厄介であるともいえる。

 願わくば、「サヨクってこんなに酷い人間なんですよ」ということが、千葉が表に出ることによって国民に晒されてくれればいい。千葉はサヨクのイデオロギーの塊のような存在だから。



 われわれは絶えずこの極左売国奴の言動を監視しなければならない。次回の参院選で落選することを切に願う。

マニフェストと現実との折り合いをつけろ

2009年10月03日 | 国政事情考察
八ツ場ダム、入札中止へ=本体工事で前原国交相(時事通信) - goo ニュース

 前原誠司国土交通相は1日、八ツ場ダム(群馬県)の本体工事の入札を中止する方針を明らかにした。発注者である国交省関東地方整備局が、2日にも正式決定する。
 入札は当初、9月11日から開始する予定だったが、マニフェスト(政権公約)で同ダム建設中止を掲げた民主党が衆院選で圧勝したことにより、国交省は同月3日、「新大臣の判断を仰ぐ」として延期を決めた。
 前原国交相は就任直後、マニフェスト通り同ダムの建設を中止すると明言しており、入札取りやめによって中止に向けた手続きが一歩進むことになる。



 最近の民主の言動を見ていると、選挙時に掲げたマニフェストを殊更神聖視し、マニフェストの達成に意固地になって、融通が利かなくなっているように見える。二言目には「マニフェストに書いたから」と言っているように感じられる。

 しかし、思うに、先の選挙で民主に投票した人たちというのは、民主のマニフェストに魅かれて投票したというのではなく、反自民というのがその理由で、石原都知事の言葉を借りれば、「エニワン・バッド・自民党」(産経新聞2009年9月7日「日本よ」)ということではないのか。

 そうであるならば、民主に投票した人も含め、有権者の誰もが、民主にマニフェストの達成を望んでいるということにはならないはずだ。有権者が望んでいるのは自公政権の悪政を断ち切ることのはずだ。マニフェストに拘泥するあまり、国民から融通が利かない、民意を無視していると批判が出るとすれば、それは民主が最も忌避することだろう。

 確かに、政権公約たるマニフェストの実現は重要なことだ。しかし、有権者は民主の政策を白紙委任したわけではない。つまり、民主の掲げる政策に100%賛成しているわけではないということだ。にもかかわらず意固地にマニフェストの達成を目指すことは、民意と政策との間の溝を広げることになろう。



 揚げ足を取る言い方であるが、民主は「国民の生活が第一」をキャッチフレーズとして選挙を戦ったはずだ。それなのに、八ツ場ダムの地元住民の生活を揺さぶるようなことをしていては、看板倒れもいいところではないのか。

 一番災難なのは、地元住民である。昨日はダムを造るから立ち退いてくれと言われ、今日はダムは造らないと言われては、住民たちは政府に振り回されていることになる。先祖代々の土地で、愛着も思い入れもある土地を手放させる人に対して取る態度としては、余りに無礼だと思う。

 当然、無駄な税金の使用は抜本的に改めるべきだが、そこでは現実との兼ね合いも不可欠である。理念だけを振りかざすのは国民生活を担う政治家のやることではなく、ファシズムのやることである。



 政治を行うということは、常に現実との折り合いが求められるのであって、特に与党となった民主はこのことを肝に銘じるべきではないだろうか。今の民主は理念ばかりが先行して、地に足のついた政策を実行できているとはとても思えない。