ひとり井戸端会議

主に政治・社会・法に関する話題を自分の視点から考察していきます。

無償化決定を恥じないのか?

2010年11月24日 | 外国人の人権
朝鮮学校無償化、手続きを停止=北の韓国砲撃で―仙谷官房長官(時事通信) - goo ニュース

 仙谷由人官房長官は24日の閣議後記者会見で、北朝鮮による韓国砲撃を受け、朝鮮学校の授業料無償化問題について「現在進めているプロセスをいったん停止する方向に動く」と述べ、無償化の申請受け付けなどを当面見合わせる考えを示した。高木義明文部科学相もこの問題について「重大な決断をしなければならないかも分からない」と述べ、無償化見直しの可能性を示唆した。
 仙谷官房長官はこの中で、「現時点では制裁的な意味合いではないが、朝鮮半島が緊張してくる中で、現時点では手続きを停止するのが望ましい」と表明。文科相も今回の北朝鮮の行為を「極めて遺憾なことで、世界の平和を脅かす行為だ」と厳しく批判し、無償化手続きについて「まだ申請も出ていないし、審査も行っていないが、与える影響は大きいと思っている」と強調した。
 文科省は今月5日、高校授業料実質無償化法を朝鮮学校に適用するかどうかについて、教育内容を問わず、国内の朝鮮学校すべてが事実上クリアできる審査基準を決定済み。しかし、今回の事態を受け、政府としてより慎重な判断が必要との考えに傾いたとみられる。



 そもそも、この北朝鮮という国は、これまでも拉致問題をはじめとして、枚挙に暇がないほどに犯罪行為を繰り返してきた国である。いわば犯罪国家である。こんなことは民主党の能天気な連中と頭のおかしいサヨク以外は遥か昔から知っていたことで、だからこそ、無償化することは国益に反すると批判されてきたのだ。

 それを今になって無償化「一時」停止とは。この政党の中枢にいる連中というのは御目出度い頭を持っている者ばかりなのだと、改めて思わされた。北朝鮮というのはこういう国なのだ。まぁ、総理が拉致実行犯の釈放請願書に署名するぐらいなのだから、北朝鮮に対しておかしな幻想を抱いていたとしても、不思議ではないと言えばそれまでだが。



 朝鮮学校の無償化については、北朝鮮はどう捉えているのか?等において書いてきた。北朝鮮にとって、朝鮮学校無償化というのは、子供を盾にして経済援助を強制する手段に過ぎず、結果として無償化のためと配られたカネは北朝鮮の体制温存のために費やされることになる。

 また、民主党の思惑とは裏腹に、北朝鮮自身、民主党の提示した無償化案に対して極めて否定的で、「断固拒否」の方針だという(産経新聞)。ならば、ここは彼らのお言葉に甘え、無償化をやめてしまえばいいのだが、性根が売国で腐りきっている連中しかいないのか、無償化自体は諦めないようだ。




 ところで、今回の無償化「延期」決定は、これまでの民主党政権の無償化方針からすれば、おかしなことである。何故ならば、この記事にもあるように、「教育内容を問わず、国内の朝鮮学校すべてが事実上クリアできる審査基準を決定済み」なのであるのだから、ならば「本国」がどのような悪逆無道な行為を行ったとしても、朝鮮学校の無償化それ自身には何ら影響はないはずだ。

 したがって、今回の件で無償化延期というのは、実質的に見てこれまで拉致被害者の方たちや無償化反対の識者たちが指摘してきたような理由に基づくのと変わらないのだから、政府は無償化の方針について基準を改めるべきだ。すなわち、日本国に危害を及ぼす危険性のある国の影響下にある学校には、無償化を適用することはできない、と。



 おそらく、これからはこの政府の決定に対し、「子供は関係ない」などと、カルデロン一家の事件を彷彿とさせるような、自称人権屋が騒ぎ出すと思われるが、これは全く賛同できない卑怯な手段だ。

 これまでも書いてきたように、朝鮮学校を無償化するというのは結果的に北朝鮮に対し経済制裁をしている実情とも矛盾し、北朝鮮への援助と変わらなくなる。今の政府は、「子ども手当」等でただでさえ財源が逼迫しているのだから、日本に危害を加える可能性のある(というか、拉致問題を考えれば、実際に日本国は危害を加えられている)国に対し援助をする余裕など、どこにもないはずだ。

 北朝鮮の子息といえども朝鮮学校に通う義務はないし、日本を敵視するような教育を行っている国に対し無償化を適用するなどというのは、敵に塩を送ったとされる上杉謙信でさえも考えつかないだろう(苦笑)。

 先ほども書いたように、「子供が」云々というのは、子供をダシに使った姑息な言い訳に過ぎない。そもそも、イデオロギー云々以前にカリキュラム的にわが国の教育水準からして問題があろう朝鮮学校に通うよりは、在日の置かれている状況からして、日本人と同じ学校に通ったほうが、それこそ「子供のため」になるというものではないのか。



 最後に、何度でも繰り返すが、朝鮮学校に無償化を適用しないのが差別というのであれば、カネの無駄遣いそのものである高校無償化自体廃止すればいい。これを機に、無償化自体の是非も考えなければ、この政党は売国な上にばら撒きもするという最悪な政権ということを証明しよう。

外国人参政権は国民主権原理と相いれない

2010年11月22日 | 外国人の人権
外国人参政権、「国民主権と矛盾せず」の政府答弁書(産経新聞)

 政府は19日の閣議で、永住外国人への地方参政権(選挙権)付与について「憲法上の国民主権の原理と必ずしも矛盾するものではない」とする答弁書を決定した。自民党の浜田和幸参院議員の質問主意書に答えた。



 菅内閣というのは、こういうところで「柳腰」を発揮するらしい。マスコミや世論が尖閣事件のことで気を取られているうちに(もちろん、この問題も非常に重要である)、しれっとこのような閣議決定をしてしまっているからだ。


 この閣議決定は、「必ずしも」という文言が挿入されている時点ですでに苦しいのだが、国民主権原理に照らせば、外国人参政権は到底容認できぬことなど、これまでの裁判例からして明白なことである。

 件の平成7年判決も含めて、これまでの裁判例は一貫して、「わが国の政治的意思決定又はその実施に影響を及ぼす活動」には外国人の人権は保障されないとした「マクリーン事件判決」を引き、従来の禁止説と変わらない結論を判示してきた。

 現に平成7年判決について、「憲法15条、93条による選挙権の保障が外国人に及ぶものではないとの解釈を前提とするものであるから」、したがって「従来の通説ないし禁止説と変わるものではない。」とする見解もある(判例地方自治208号)。

 そもそもとして、「マクリーン事件判決」では、日米安保反対のデモや集会に参加した外国人に対してこのように判示しているのだから、政治的活動そのものである参政権の行使を外国人に認めることは当然に違憲になると考えなければならない。最高裁がこの判断を維持している以上、そのことをもって、外国人参政権はすでに違憲と解釈するのが自然であろう。

 また、外国人参政権に対し、国民の自己決定の原則に反するという原理的な問題を孕んでいるという重大な指摘もある(大石眞『憲法講義Ⅰ』)。地方自治を過度に重視し、一定の外国人に参政権を付与するとなれば、国民主権原理が浸食されるとする指摘もまた同様であろう(小林昭三監修=憲法政治学研究会編『日本国憲法講義 憲法政治学からの接近』)。

 ところで、しばしば外国人参政権賛成派の者たちから、憲法93条2項では「住民」とあって、「国民」となってないから、外国人に参政権を認めても問題ないなどとする詭弁が聞こえてくる。

 しかしながら、憲法が「国民」と「住民」の文言を使い分けている理由は、大阪地裁平成6年1月28日判決が述べるように、「憲法93条2項が憲法15条1項と異なり、『住民』という文言を使用しているのは、地方公共団体の長及びその議会の議員等については、その地方公共団体の区域内に住所を有する者によって選出されるものであることを特に明らかにするものであり、それ以上、憲法15条1項の『国民』と異なる範囲の者を想定しているものではないと解するのが相当である。」つまり、憲法93条2項の「住民」とは、同15条1項の「国民」に包摂される概念なのである。

 したがって、判例の立場がこれまでの禁止説と変わらない以上、「国民主権」と言うところの「国民」とは、日本国籍を有する日本国民を指すとするのは、判例の一貫した立場なのである。よって、外国人参政権などという概念それ自体形容矛盾も甚だしいのだが、私はさらに進めて、憲法改正をもってしても外国人に参政権を付与することは不可能と考えている。



 わが国においては、憲法の改正には限界があるとする見解が通説である。通説によれば、現憲法との同一性が失われるという本質的・基本的な原理は絶対に改正が許されない。その原理とは、国民主権、平和主義、基本的人権の保障である 。とりわけ国民主権の原理を変更することは、「改正ではなく、憲法自体の廃止であり、自殺を意味し、法理論的には不可能」なのである(衣川光正編著『憲法の要点』 )。

 憲法改正に限界があるとする議論は国民の自由な決定権を認めないものであると批判する大石眞教授でさえも、国民主権原理は憲法の改正によっても変更することはできないとする 。したがって、通説によれば、憲法の同一性の喪失につながる本質的・基本的な原理である国民主権原理の変更は、絶対に許されないのである。

 国民主権原理は憲法の改正をもってしても変えることのできない「人類普遍の原理」であり、「これに反する一切の憲法、法令及び詔勅」は排除されなければならない(憲法前文)。ここで言う「国民主権」とは当然のことながら、憲法10条による国民の定義を満たした者、つまり日本国籍を有する日本国民が主権者であるという意味である。

 したがって、参政権とはまさに主権の行使である以上、外国人に参政権を付与することは「国民主権」の原理に反することになる 。よって通説の理解にしたがえば、外国人に参政権を付与することは国民主権原理の変更と実質的に等しいのであり、またこれは憲法の同一性の喪失にあたり、憲法を改正しても不可能なことであると言えるのではないか。



 以上のように、私は一部の外国人参政権反対派の主張するような、憲法を改正しなければ外国人に参政権を付与することはできないとする説に対しても、これに反対するものである。当然のことながら、国民主権原理と外国人参政権は、「必ずしも」どころか、当然矛盾するものであり、外国人に参政権を認めることは憲法原理の破壊を意味するものと考える。

外国人参政権反対論のまとめ

2010年04月18日 | 外国人の人権
外国人参政権「一万人大会」 UIゼンセン同盟「組織として反対」(産経新聞) - goo ニュース

■亀井氏「付与、国滅ぼす」
 永住外国人への地方参政権(選挙権)付与に反対する「一万人大会」が17日、東京・日本武道館で開かれた。民主党の支持母体である連合傘下最大の産業別労働組合「UIゼンセン同盟」(落合清四会長、組合員約108万人)の石田一夫副会長も出席、反対を表明した。参政権付与には鳩山由紀夫首相、岡田克也外相、小沢一郎民主党幹事長ら政府・与党に推進派が多く、参院選後に強引に推し進めかねないとの危機感が広がっている。
 石田氏は「参政権は国民のみが持つ政治に参加する権利だ。組織として地方参政権付与に反対だ」と反対を初めて公式表明した。UIゼンセン同盟は民主党に川端達夫文部科学相ら多くの組織内議員を抱えており、推進派の動きを牽制(けんせい)する意味合いは大きい。
 国会議員は24人が参加した。自民党の大島理森(ただもり)幹事長は「日本の主権は守らねばならない。断固反対だ」、たちあがれ日本の平沼赳夫代表は「命をかけて闘う」、みんなの党の渡辺喜美代表は「民主党は『生活第一』と言いながら本当は『選挙第一』ではないか」と語った。
 民主党からは松原仁、木村剛司、渡辺義彦、長尾敬の4衆院議員と金子洋一参院議員が参加した。松原氏は「民主党に同じ思いの若手議員もいる。党内できちんと発言をすることが必要だ」と述べ、反対の動きを広げていく考えを示した。
 また、国民新党代表の亀井静香郵政改革・金融相は「夫婦別姓、外国人参政権-と一昔前は予想だにしなかったことが現実味を帯びている。参政権付与が日本を滅ぼすことは当然だ。国民新党が拒否権を発動してるから今国会で成立しない」と述べた。
 大会は、初代内閣安全保障室長の佐々淳行氏、ジャーナリストの櫻井よしこ氏らが呼びかけ人となり、市区町村長・議員715人を含む1万257人が参加した。
 参政権付与反対の意見書採択を全国の都道府県、市区町村へと拡大し、自治体首長と地方議員の署名を集めるなどの活動方針を採択した。



 今回は、これまで私が書いてきた外国人参政権反対論をまとめたものを掲載する。少し長くなるが、良ければお付き合い願いたい。

1.納税の義務と参政権との関係
2.参政権反対は「差別」ではない
3.外国人参政権付与こそ排外主義の産物
4.賛成派の論理とその違和感


1.納税の義務と参政権との関係

 外国人参政権賛成派はしばしば、「外国人であっても納税の義務を果たしているのだから、その税金が使われる議会の議員選出手続きに外国人を参加させるべきである」と言う。しかしながら、こうした主張には次のような疑問が出てくるのである。

 すなわち、未成年者であっても納税の義務を果たしている勤労青年は、上記の外国人と同じ条件にもかかわらず、参政権を行使できないということはどう説明するのだろうか。納税の義務を果たしているか否かということを基準に据えるならば、納税の義務を果たしている未成年者には当然に参政権が付与されてしかるべきであろう。

 また見方を変えれば、納税の義務を果たしていなければ参政権をはく奪することもできるという結論を受忍しなければならない。もし、「外国人の意見も政治に反映させることが大切なのだ」と言うのであれば、必ずしも納税の義務を果たしているから参政権を付与せよと主張する必要はないはずだ。納税の義務云々と言うのは、結局のところ外国人にも参政権を付与するための苦し紛れの方便でしかない。

 そもそも、納税の義務の履行を参政権獲得の基準に据えることは、戦前の日本が納税額によって参政権を付与していたのと同じ発想であり、これは現行憲法の保障する参政権についての考え方とことごとく対立するものである。


2.参政権反対は「差別」ではない

 次に、しばしば外国人参政権賛成派は、外国人に参政権を付与しないことを「差別である」と主張するが、この主張にも違和感を禁じえない。

 まず、上記のような主張をする者は、「人種(race)」に基づく差別と、「国籍(nationality)」に基づく差別とを、故意かどうかは分からぬが、混同している。

 国籍による差別は、国際慣習法のみならず、最近の人権条約においても一定の合理的範囲内であれば許容されるというのが国際的な基準として確立している。

 たとえば、人種差別撤廃条約1条2項において、「国民(national)」とそうでない者(non-national)との間に、区別や除外、制限等を設けることを禁止していない。 また、欧州人権条約16条においても、外国人の政治活動等に対する制限は、同条約14条にいう「無差別原則」とは抵触しないと明言している。


 このように、国際社会においては、人種差別は絶対的に禁止されるが、国籍に基づく差別は(全く放任的ではないにせよ)容認しているのである。

 そもそも、人種差別主義者ならば、帰化制度そのものを否定しなければならないが、わが国における外国人参政権反対論者のほとんどは、帰化することによって「それまで外国人だった者」が参政権を行使することを否定していない。

 くわえて、わが国においては国籍法5条で定められている条件を満たせば、人種に関係なく帰化を認めている。わが国の帰化制度は、帰化をしたくない外国人にこれを強制するものではなく、帰化をしたい者の自由な意思に国籍取得を委ねている。

 換言すれば、帰化をする自由(帰化をしない自由)を認めている以上、日本国籍がないことによる不利益を被っても、これはその者の自己責任であって、何ら差別とは関係のない事柄である。

 よって、外国人に参政権を認めないからといって、これを差別であると主張するのは全く的外れであるのだ。


3.外国人参政権付与こそ排外主義の産物

 「外国人」参政権の付与というのは一見すると外国人差別解消手段のように見えるが、私は実はこの制度は日本に滞在する外国人と日本人との距離を決定的に離す、いわば排外主義の産物であると考える。

 ここでは、民団が主として外国人参政権の導入に熱心なことから、民団、すなわち在日韓国人を中心に念頭に置いて議論を展開していくことをまず断わっておく。なお、民団の外国人参政権付与運動の経緯については、早瀬善彦「在日本大韓民国民団と外国人参政権付与政策」(「澪標」平成21年秋号18頁以下)が詳しい。


 鄭大均氏は著書『在日の耐えられない軽さ』(中公新書)の中で、「在日はこれからも日本で生きていかなければならないことを知っているし、そのためには日本国籍が必要であることも知っている。」と述べる(186頁)。このことは毎年何万人もの在日コリアンが日本国籍を取得していることからも明らかだろう。在日コリアンの帰化数申請者数は以下のとおり。


         韓国・朝鮮籍の者 
平成14年     9188人       
  15年    1万1778人      
  16年    1万1031人      
  17年     9689人       
  18年     8531人       


 在日コリアンらが日本国籍を喪失したのは、1952年のサンフランシスコ講和条約の発効に伴う民事局長通達の結果であるが、在日コリアンが日本国籍を取得した数、すなわち帰化数は、同年からの累計で30万人にのぼるという。


 しばしば、外国人参政権付与に熱心な者は、「外国人参政権の付与が民主主義の不足を補う」と主張するが、この見解は間違っている。

 日本は、民主主義の基盤である参政権の行使をしたいならば、日本国籍を取得しなさい、と言っているにすぎない。日本を一つの家族に喩えるならば、家族会議に参加したいなら、家族の資格(国籍)を得なさい、ということだ。家族会議での投票権を、他の家族(国家)に属する者に付与するということは、その家族の意思決定への干渉にあたる。


 ここで日本に居住する在日コリアンについて見てみると、先ほどの鄭氏によれば、彼らは国籍こそ韓国籍であるものの、すでに日本に居住して非常に長い年月が経過しているため、まともに母国語である韓国語を話せない。そして、自分の故郷にも行ったことがないという人が多いという。

 つまり、国籍以外はほぼ日本人と同じであると言える。また、長い間日本で暮らしてきた在日コリアンに、「帰化は同化である」などとステレオタイプな左翼の主張をしたところで、それが現実感をもって彼らの心に響くかは疑わしい。

 このことを、私は性同一性障害に倣い、「国籍(アイデンティティ)同一性障害」とでも呼びたい。すなわち、現在のほとんどの在日コリアンは日本で生まれ日本で育った。よって内面的には日本人と変わらない。しかし、国籍だけがそれに合わず乖離してしまっているということだ。


 そのような者に対し、「外国人」参政権を付与するというのは、つまり、「あなたたちは一生外国人のままで生き続けてください」と宣言するに等しく、実はかえって排外主義的な政策なのである。

 もし、在日コリアンたちがその境遇から貧しく、社会的地位も高くないというのなら、彼らが日本の社会にうまく溶け込めるように、日本国籍の取得を奨めるのが、本来の差別反対主義者のやることではないだろうか。


4.賛成派の論理とその違和感

 彼ら参政権付与賛成派にみられる共通した傾向について、おおまかではあるが論じていきたい。


①「歴史的経緯」に絡めての参政権請求

 これは簡単に言えばつまりこういうことである。戦前、日本に侵略された外国人、とりわけ在日コリアンは強制的に日本に連れて来られ、第二次大戦の終結とともに日本国籍をはく奪されたという「事実」がある。こうした「歴史的経緯」を鑑みれば、外国人に地方参政権を付与しなければならない。

 要するに、戦前の日本の「植民地支配」の歴史と絡めて外国人参政権を論じているのである(ここ最近のものでは、田中宏『在日外国人―法の壁、心の溝』岩波書店、徐龍達「外国人地方参政権―アジア市民社会への道」世界4月号45頁等)。

 社民党の中島隆利衆院議員は、いわゆる村山談話を引き合いにしつつ、「当然、選挙権などの正当な権利も、こういった方々(日本が侵略したアジア諸国の人たち)に付与していこうということだと思います。」と述べている(別冊宝島「外国人参政権で日本がなくなる日」93頁)。


②「弱者」としての参政権請求

 ①を前提にして考えると、外国人参政権を欲しがっている人たちというのは、日本による「被害者」という構図が浮かび上がってくる。これは換言すれば、戦前に日本により多くの被害を被ったのだから、「その代償として」参政権をよこせ、ということだ。②の前提が①である以上、両者は不可分の関係である。

 参政権付与賛成派は、まず歴史認識を論じ、次にこういう歴史的「事実」があるのだから、日本に居住する在日は「被害者」なのであり、そうした被害者に参政権を与えないのは日本(人)が差別意識を持っているからである、という論法をとる主張は実に多い。さきに挙げた、徐・田中両氏の主張はまさにこれである。

 こうした主張をする「日本人」には、次のような考え方を持つ非常に「自虐的」な人が多いのではないだろうか。

 すなわち、池明観氏は「世界」2003年9月号「国際共同プロジェクトとしての『韓国からの通信』」において、安江良介(岩波書店社長、故人)という北朝鮮寄りの論者について「(北朝鮮の批判を)日本人としてしゃべる資格がないんだ、占領してああいう悲劇を与えておいて、いまさら日本人が何を言うか、ということでした。とにかく彼ら(在日コリアン)が欲することは全部してやればいいんだ、これが日本人の義務だと思っていた。それは徹底していました。」

 「欲することは全部してやればいい」のであって、ましてそれが「日本人としての義務」であるならば、彼らに参政権を付与することができる、という議論では足りず、「付与しなければならない」という議論になる。彼ら賛成派の主張を見聞きしていると、このように聞こえるのもまた確かである。



 このようにして彼らの主張を見てみると、そのおかしさや違和感を誰もが覚えると思う。

 だいたい、過去の日本が近隣諸国に対してどのような悪逆非道なことを働いてきたとしても、それと参政権付与の議論は全く別の問題である。それならば、もし将来韓国に日本が侵略されて悪逆非道なことをされれば、それを根拠に韓国の政治に参加できるのか。

 それに、こうした「在日コリアンの歴史的経緯」に絡めて外国人参政権の議論をすることは、参政権の重みもその本質も見失うことになる。そもそも、政府・与党が検討している外国人参政権法案では、在日コリアンに限らず、ブラジル人でもアメリカ人でも一定の要件を満たせば参政権が付与されるというもので、在日コリアンに限ったものではない。にもかかわらず在日コリアンの不遇性ばかり主張して参政権を付与せよと主張するのは、極めて不誠実な態度である。

 くわえて、彼らが参政権付与の根拠として主張してきた「歴史的経緯」は日本が「侵略した」諸国の者についてのみ妥当するものであるので、歴史的経緯をもって参政権を与えよという議論は一面的過ぎる(ブラジル人やアメリカ人にも参政権を付与する場合、この主張は使えないはずだ)。


 また、彼らは外国人に参政権を付与することが、日本の外国人差別撤廃に寄与すると主張するが、これもまた突飛な印象を受ける。

 たとえば、外国人に参政権を付与している(といわれる)フランスであるが、ミュリエル・ジョリヴェ『移民と現代フランス─フランスは「住めば都」か』(集英社新書)には、そのフランスにおいてもいまだに外国人に対する根強い差別が存在していることを克明に記述している。


 そして、外国人に参政権が欲しければ帰化をせよというのは残酷であるということを主張する者がいるが(たとえば、園部逸夫元判事)、在日コリアンはすでに4世、5世という時代である。

 鄭大均教授は、こうした在日コリアンは日本人として扱われないことに違和感を持つ人が大多数であり、すでに国籍は形骸化していると述べている(別冊宝島前掲書48頁)。そうであるならば、鄭教授の言うように、日本国籍を取得して帰化したほうが、問題はすっきりと解決するのではないか(鄭大均『在日の耐えられない軽さ』中公新書)。



 要するに、日本における外国人が歴史的経緯からみてどのように扱われてきたのかという「事実」と、外国人参政権付与の議論とは全く関係がないばかりか、こうした視点を持ち込むとかえって議論がおかしな方向に行ってしまい、有害であすらある。歴史的経緯と外国人参政権は対価関係には立たないのである。

外国人参政権―根本的な疑問

2010年04月15日 | 外国人の人権
ゼンセン同盟 外国人参政権付与反対へ 政府・民主の強行牽制(産経新聞) - goo ニュース

 民主党の支持母体である連合(約680万人)傘下最大の産業別労組「UIゼンセン同盟」(落合清四会長)の石田一夫副会長が17日に東京・日本武道館で開かれる外国人への地方参政権付与に反対する国民大会に出席し、組織として付与反対を公式表明することが13日、分かった。今後も民主党を支持していく方針には変わりないというが、民主党内に組織内候補を多数抱える巨大労組が旗幟(きし)鮮明にすることは、党内外の反対・慎重論をよそに参政権付与になお執心する政府・民主党執行部を牽制する狙いがある。



 今回は、外国人参政権に対する根本的な疑問について述べたい。


 外国人参政権賛成派はしばしば、「外国人であっても納税の義務を果たしているのだから、その税金が使われる議会の議員選出手続きに外国人を参加させるべきである」と言う。しかしながら、こうした主張には次のような疑問が出てくるのである。

 すなわち、未成年者であっても納税の義務を果たしている勤労青年は、上記の外国人と同じ条件にもかかわらず、参政権を行使できないということはどう説明するのだろうか。納税の義務を果たしているか否かということを基準に据えるならば、納税の義務を果たしている未成年者には当然に参政権が付与されてしかるべきであろう。

 また見方を変えれば、納税の義務を果たしていなければ参政権をはく奪することもできるという結論を受忍しなければならない。もし、「外国人の意見も政治に反映させることが大切なのだ」と言うのであれば、必ずしも納税の義務を果たしているから参政権を付与せよと主張する必要はないはずだ。納税の義務云々と言うのは、結局のところ外国人にも参政権を付与するための苦し紛れの方便でしかない。



 次に、しばしば外国人参政権賛成派は、外国人に参政権を付与しないことを「差別である」と主張するが、この主張にも違和感を禁じえない。

 まず、上記のような主張をする者は、「人種(race)」に基づく差別と、「国籍(nationality)」に基づく差別とを、故意かどうかは分からぬが、混同している。

 国籍による差別は、国際慣習法のみならず、最近の人権条約においても一定の合理的範囲内であれば許容されるというのが国際的な基準として確立している。

 たとえば、人種差別撤廃条約1条2項において、「国民(national)」とそうでない者(non-national)との間に、区別や除外、制限等を設けることを禁止していない。 また、欧州人権条約16条においても、外国人の政治活動等に対する制限は、同条約14条にいう「無差別原則」とは抵触しないと明言している。


 このように、国際社会においては、人種差別は絶対的に禁止されるが、国籍に基づく差別は(全く放任的ではないにせよ)容認しているのである。

 そもそも、人種差別主義者ならば、帰化制度そのものを否定しなければならないが、わが国における外国人参政権反対論者のほとんどは、帰化することによって「それまで外国人だった者」が参政権を行使することを否定していない。

 くわえて、わが国においては国籍法5条で定められている条件を満たせば、人種に関係なく帰化を認めている。わが国の帰化制度は、帰化をしたくない外国人にこれを強制するものではなく、帰化をしたい者の自由な意思に国籍取得を委ねている。

 換言すれば、帰化をする自由(帰化をしない自由)を認めている以上、日本国籍がないことによる不利益を被っても、これはその者の自己責任であって、何ら差別とは関係のない事柄である。

 よって、外国人に参政権を認めないからといって、これを差別であると主張するのは全く的外れであるのだ。

外国人参政権賛成派の論理への違和感

2010年04月11日 | 外国人の人権
 これまでは主に法律論的に外国人参政権について論じてきた。そこで行は、参政権付与賛成派の主張を論駁することに主眼を置き、かつ参政権の法的性質について考えてきた。参政権付与賛成派の主張を論破する以上は、その前提として彼らの主張について知らなければならないので、彼らの主張には一通り目を通してきたつもりである。

 そうした作業をしているうちに、彼らに共通して見いだせるある法則性とでも言うべき、共通項を見つけることができた。そこで今回は法的な議論を離れ、彼ら参政権付与賛成派にみられる共通した傾向について、おおまかではあるが論じていきたい。


①「歴史的経緯」に絡めての参政権請求

 これは簡単に言えばつまりこういうことである。戦前、日本に侵略された外国人、とりわけ在日コリアンは強制的に日本に連れて来られ、第二次大戦の終結とともに日本国籍をはく奪されたという「事実」がある。こうした「歴史的経緯」を鑑みれば、外国人に地方参政権を付与しなければならない。

 要するに、戦前の日本の「植民地支配」の歴史と絡めて外国人参政権を論じているのである(ここ最近のものでは、田中宏『在日外国人―法の壁、心の溝』岩波書店、徐龍達「外国人地方参政権―アジア市民社会への道」世界4月号45頁等)。

 社民党の中島隆利衆院議員は、いわゆる村山談話を引き合いにしつつ、「当然、選挙権などの正当な権利も、こういった方々(日本が侵略したアジア諸国の人たち)に付与していこうということだと思います。」と述べている(別冊宝島「外国人参政権で日本がなくなる日」93頁)。


②「弱者」としての参政権請求

 ①を前提にして考えると、外国人参政権を欲しがっている人たちというのは、日本による「被害者」という構図が浮かび上がってくる。これは換言すれば、戦前に日本により多くの被害を被ったのだから、「その代償として」参政権をよこせ、ということだ。②の前提が①である以上、両者は不可分の関係である。

 参政権付与賛成派は、まず歴史認識を論じ、次にこういう歴史的「事実」があるのだから、日本に居住する在日は「被害者」なのであり、そうした被害者に参政権を与えないのは日本(人)が差別意識を持っているからである、という論法をとる主張は実に多い。さきに挙げた、徐・田中両氏の主張はまさにこれである。

 こうした主張をする「日本人」には、次のような考え方を持つ非常に「自虐的」な人が多いのではないだろうか。

 すなわち、池明観氏は「世界」2003年9月号「国際共同プロジェクトとしての『韓国からの通信』」において、安江良介(岩波書店社長、故人)という北朝鮮寄りの論者について「(北朝鮮の批判を)日本人としてしゃべる資格がないんだ、占領してああいう悲劇を与えておいて、いまさら日本人が何を言うか、ということでした。とにかく彼ら(在日コリアン)が欲することは全部してやればいいんだ、これが日本人の義務だと思っていた。それは徹底していました。」

 「欲することは全部してやればいい」のであって、ましてそれが「日本人としての義務」であるならば、彼らに参政権を付与することができる、という議論では足りず、「付与しなければならない」という議論になる。彼ら賛成派の主張を見聞きしていると、このように聞こえるのもまた確かである。



 このようにして彼らの主張を見てみると、そのおかしさや違和感を誰もが覚えると思う。

 だいたい、過去の日本が近隣諸国に対してどのような悪逆非道なことを働いてきたとしても、それと参政権付与の議論は全く別の問題である。それならば、もし将来韓国に日本が侵略されて悪逆非道なことをされれば、それを根拠に韓国の政治に参加できるのか。

 それに、こうした「在日コリアンの歴史的経緯」に絡めて外国人参政権の議論をすることは、参政権の重みもその本質も見失うことになる。そもそも、政府・与党が検討している外国人参政権法案では、在日コリアンに限らず、ブラジル人でもアメリカ人でも一定の要件を満たせば参政権が付与されるというもので、在日コリアンに限ったものではない。にもかかわらず在日コリアンの不遇性ばかり主張して参政権を付与せよと主張するのは、極めて不誠実な態度である。

 それに、彼らが参政権付与の根拠として主張してきた「歴史的経緯」は日本が「侵略した」諸国の者についてのみ妥当するものであるので、歴史的経緯をもって参政権を与えよという議論は一面的過ぎる(ブラジル人やアメリカ人にも参政権を付与する場合、この主張は使えないはずだ)。


 また、彼らは外国人に参政権を付与することが、日本の外国人差別撤廃に寄与すると主張するが、これもまた突飛な印象を受ける。

 たとえば、外国人に参政権を付与している(といわれる)フランスであるが、ミュリエル・ジョリヴェ『移民と現代フランス─フランスは「住めば都」か』(集英社新書)には、そのフランスにおいてもいまだに外国人に対する根強い差別が存在していることを克明に記述している。


 そして、外国人に参政権が欲しければ帰化をせよというのは残酷であるということを主張する者がいるが(たとえば、園部逸夫元判事)、在日コリアンはすでに4世、5世という時代である。

 鄭大均教授は、こうした在日コリアンは日本人として扱われないことに違和感を持つ人が大多数であり、すでに国籍は形骸化していると述べている(別冊宝島前掲書48頁)。そうであるならば、鄭教授の言うように、日本国籍を取得して帰化したほうが、問題はすっきりと解決するのではないか(鄭大均『在日の耐えられない軽さ』中公新書)。



 要するに、日本における外国人が歴史的経緯からみてどのように扱われてきたのかという「事実」と、外国人参政権付与の議論とは全く関係がないばかりか、こうした視点を持ち込むとかえって議論がおかしな方向に行ってしまい、有害であすらある。歴史的経緯と外国人参政権は対価関係には立たないのである。

 また、弱者を装い権利請求をしてくるのは左翼の常套手段であり(この点について、内田樹「ほんとうは恐ろしい『草食系男子』」新潮45・2009年11月号92頁)、このようなチープな物語は感情論から離れれば実に空虚なものなのだ。

外国人参政権を「有権解釈」する

2010年04月11日 | 外国人の人権
民主打倒、日本復活、政界再編…新党「たちあがれ日本」旗揚げ (産経新聞) - goo ニュース

 平沼赳夫元経済産業相(70)や与謝野馨元財務相(71)らが10日、都内のホテルで記者会見を開き、新党「たちあがれ日本(にっぽん)」の結党を正式に発表した。平沼氏が代表、与謝野氏は共同代表に就任。平沼氏は「政治生命のすべてをかけて、尊い日本のために、汗をかいていかねばならない思いで立ち上がった」と述べ、「打倒民主党」「日本復活」「政界再編」-を「使命」として取り組むことを表明した。
 メンバーは平沼、与謝野両氏のほか、前自民党幹事長代理の園田博之衆院議員(68)、元運輸相の藤井孝男参院議員(67)、中川義雄参院議員(72)。「応援団長」として石原慎太郎東京都知事(77)も記者会見に同席した。
 綱領では、(1)自主憲法制定(2)信頼される行政の実現(3)財源に裏打ちされた持続可能な社会保障制度と経済成長力強化-などを掲げた。政策では「消費税収」による社会保障制度の強化を示し、外国人参政権、選択的夫婦別姓に「断固反対を貫く」としている。



 外国人参政権賛成派の支柱である最高裁平成7年2月28日判決を作成した園部逸夫元判事が、産経新聞のインタビューに応じ、「参政権付与は在日想定だった」と発言した(産経2010年2月19日付朝刊)ことは周知のことだろう。そこで、この平成7年判決を作成した園部裁判官の見解に基づいて、外国人参政権について検討していきたい。以下、園部氏の見解については、阿比留瑠比記者のブログ記事(「外国人参政権にかかわる園部元最高裁判事インタビュー」)に依拠する。


 その前に議論の前提として、参政権付与賛成派が、「最高裁も外国人参政権を認めた」と主張する際の根拠部分とは、「我が国に在留する外国人のうちでも永住者等であってその居住する区域の地方公共団体と特段に緊密な関係を持つに至ったと認められるものについて、その意思を日常生活に密接な関連を有する地方公共団体の公共的事務の処理に反映させるべく、法律をもって、地方公共団体の長、その議会の議員等に対する選挙権を付与する措置を講ずることは、憲法上禁止されているものではない」という部分であるのを確認しておく。それでは本題に入ろう。



 まず、園部氏は産経のインタビューの中で、地方自治における「住民」とは、国民とはニュアンスが異なるものであるとする。そして、ここで言う「住民」には、日本国籍を有する日本国民以外の外国人も含まれる概念であると説明する。

 一方で園部氏は、外国人参政権付与の対象となるこの「住民」の概念に、次で述べるように歴史的な経緯を理由に絞りをかける。また、「地方自治の本旨に従って、ある特定の地域と非常に密接な関係のある永住者」こそが、園部氏が外国人参政権付与にあたり想定した外国人の「住民」なのである。

 ここで言う「住民」についてもっと具体的に述べると、「日本に来た理由がいろいろあって、永住等の状況があって、且つ、非常にその地方と関係が深い人たち」のことであり、主に戦前に日本によって強制的に連れて来られた在日朝鮮人のことであると園部氏は述べる。

 したがって、園部氏によれば、最高裁平成7年判決の外国人参政権の射程は、上記の条件を満たす在日朝鮮人のみであり、政府・民主党案のように、特別永住者や一般永住者を含めて、外国人参政権を付与しようという考えは、平成7年判決の射程外であるばかりか、それは憲法違反ということになる。

 つまり、日本による強制連行という被害を受けた在日朝鮮人のみが外国人参政権の対象であり、その理由として、当時は「まだまだ強制連行したりした人たちの恨み辛みが非常にきつい時代ではあったから、それを考えて、それをなだめる意味」でこの判決を書いたと述べている。

 しかも、園部氏は阿比留氏の「外国人参政権推進派はこの判決を根拠に、全ての永住者に参政権を付与すると言っているが?」という質問に対し、「そんなことあり得ないじゃないですか。」とまで言い切っているのは特筆すべき点である。


 ここまで述べれば、園部氏の見解、つまり最高裁判決をある意味で有権解釈するならば、外国人によって日本が乗っ取られる可能性もないという結論になるが(現に在日朝鮮人の数は減少し続けている)、この議論と関係する箇所を挙げてみる。

 まず園部氏は、「例えば、中国から、多数の人がやってきて、移住して、そして50年も住んで、その人達がどんどん、これから移民がものすごく増えてきますから、これは非常に用心しなきゃいけない。移民が来て、数年住んで、それで選挙権持つと、だんだん日本は中国人の国になっちゃうから、それまで賛成しません。」と述べている。

 そして、「例えば、(ある外国人が)大阪に30年も住んでた。ある日、突如、東京に来て3カ月住んでたと。東京都の選挙権与えるかというと、そんなことはとんでもない話だ。それじゃあ、国民と同じになっちゃいますから。」と述べる。くわえて、「移住させといて、5年、10年、住まわせといて、選挙権与えるって、そんなこと、全然考えてないですよ。」とも述べている。

 ということは、最高裁の「その居住する区域の地方公共団体と特段に緊密な関係を持つに至った」という文言は、ただ単に日本の「どこかに」一定年数居住していれば参政権が付与されるのではなくて、何世代も同じ場所に住み続けている外国人でなければ参政権を付与してはならないと解釈しなければならない。この点について園部氏は、「それは法律で、本当に制限的にしておかなければいけません。」と述べている。



 さらに、園部氏はこの判決を「金科玉条でいっさい動かせないということは、私たちは考えてないです。」と述べ、将来この判決が変更され、外国人参政権付与は違憲と最高裁が判断することも問題はないとする。

 したがって、将来もし外国人参政権法ができたとしても、裁判所は同法に対し違憲無効と判断することは可能であるということになる。



 以上、園部氏の見解に基づいて外国人参政権を解釈したが、このように解すると、参政権付与賛成派は平成7年判決を誤って解釈しているということが言えよう。

どうして「乗っ取られる論」は駄目なのか?―補足

2010年04月10日 | 外国人の人権
 前回「乗っ取られる論は使えない」において、外国人参政権付与反対の根拠として、付与をしたら日本が外国人に乗っ取られるという「乗っ取られる論」は使えないと述べたが、これの補足説明をしておく。



 たとえば、「乗っ取られる論」に基づく考え方として、外国人であれば、その本人の意思とは別にして常に日本乗っ取りの可能性は付いて回るという危惧が存在すると思われる。しかしながら、これを言い出せば、帰化した「外国人」も同様である。つまり、帰化したからといっても「安心できない」ということになる。しかし、私としてはこうした「差別的」な発想に基づく反対論が、一般的に受け入れられる可能性は著しく低いと思う。

 だいたい、「乗っ取られる」危険性というのであれば、現在、日本での帰化の条件において、日本国への忠誠義務を誓わせたり、アメリカのように日本のために武器を持って立ち上がれるかといった質問がない以上、それこそ表面上は日本人、しかし内面は他国の工作員のような人間だっていないとは言えない。よって、乗っ取られる論を貫徹するのならば、帰化した「外国人」にも、参政権を付与するのは危険という主張をしなければならないはずだ。


 そして、これこそが本旨なのだが、、「乗っ取られる論」を出すと、憲法違反論を引っ込めないと整合性が取れないということになり、これは(一応は)強力な反対論のうち、一方を捨てるということになる。

 これらがどうして両立しないかと言うと、「乗っ取られる論」は危険性からのアプローチであるので、これは換言すれば、そのような危険性がなければ、もしくはなくせれば外国人にも参政権を与えることが許されるという結論を甘受しなければ成り立たない。

 しかし、本来参政権というのは、国民「固有の」権利であるので、危険性の有無に関係なく、外国人には与えることのできない権利なのである。これは前回も書いたように、最高裁の見解とも合致する。

 したがって、外国人参政権違憲論は、「外国人であるという時点で」参政権の付与は許されないという立場を採用することになる。

 しかし、「乗っ取られる論」では、その危険性さえ払拭できれば、究極的には外国人であっても参政権を容認できる余地があるということになり、両者は矛盾するのは明白でありる。

 よって、実益という面から言えば、「乗っ取られる論」は賛成派に付け入られる隙を与えることになり、違憲論よりも遙かにデメリットが大きいと言える。



 以上のことから、私は「乗っ取られる論」は使うべきではないと考える。

「乗っ取られる論」は使えない

2010年03月25日 | 外国人の人権
外国人参政権「反対」28県、「賛成」を逆転 都道府県議会(産経新聞) - goo ニュース

■地方の声、募る危機感
 鳩山内閣が進める永住外国人に対する地方参政権(選挙権)をめぐる法案に対し、全国の地方議会で反対の意思を表明する動きが急速に広がっている。都道府県議会で採択された反対決議(請願含む)は28県にのぼり、賛成決議を上回ったことが20日、分かった。かつて一度は賛成決議を採択しながら、法案の現実味が増すにつれて反対に転じた県も多く、危機感が増大していることを示している。
 産経新聞の調べでは、1月1日以降、反対決議を採択した都道府県議会は14県にのぼり、それまでに決議された14県とあわせて反対の意思表示は28県となった。賛成決議は26都道府県から16都道府県に減った。
 反対の意見書の多くは憲法第15条の「公務員を選定し、これを罷免することは国民固有の権利である」とする条文や、平成7年2月28日に「憲法15条の規定はその権利の性質上、日本国民のみを対象とし、この規定による権利の保障は、わが国に在留する外国人には及ばないと解するのが相当である」とした最高裁判決などを引用している。



 一部の外国人参政権に反対する論者は、その反対の根拠として「外国人に参政権を付与すると日本が特定アジア(中国、韓国)に乗っ取られる」(以下、「乗っ取られる論」と言う。)と、まことしやかに(?)主張する。

 しかしながら、これと同時に、「外国人参政権付与は憲法違反」とも言う。今回はこの主張が果たして論理的に整合的なのか、検証していくことにしたい。


 まず、こうした「乗っ取られる論」を主張する論者たちの傾向を見ていると、彼らは「外国人」と聞くと、まるで「害国人」と脳内変換されたかのように、外国人に対し非常に排他的である。

 しかしながら、彼らも知っているように、誰とは言わないが、日本人でありながら日本に「害悪」をもたらしている連中もいるし、外国人でありながら非常に親日的な人もたくさんいる。そもそも、呉善花氏も金美齢氏もペマ・ギャルポ氏も「以前は」外国人であった。だが、彼らは非常に親日的であり、よって外国人だからといって一概に日本に対して敵意を抱いているというのは被害妄想であろう。私の知っている外国人も非常に親日的である。

 上記の仮定から帰納して考えると、彼らの論理では、要するに親日的であれば参政権は付与され、反日的であれば参政権は許されないという結論になろう。しかしそれでは、「参政権は日本国民固有のもの」という考え方と矛盾することになる。なぜならば、反日的な日本人もいるからだ。そうである以上、反日的な日本人から参政権を剥奪しなければならなくなるが、それはできない。



 ところで、先にも述べたように、わが国における参政権は日本国民固有の権利である。これは最高裁の見解とも合致する。したがって、反日的な日本人であろうと親日的な日本人であろうと、日本国籍を有する者には等しくその権利は存在する。これは、外国人参政権反対派ならば、誰でも肯定する命題であろう。

 しかしながら、「乗っ取られる論」に依拠して外国人参政権反対を主張するとなると、この命題を用いることは不可能になる。それはなぜか。

 すでに述べたが、一口に外国人と言っても親日的な外国人もいる。少なくとも私には、呉善花氏や金美齢氏が、参政権を行使して日本を乗っ取ろうという野望を抱いているようには思えない(すでに帰化しているので彼らは日本人であるが)。

 日本が乗っ取られるか否か、を外国人参政権付与の判断基準に据えるということは、要するに日本が乗っ取られる危険性がなければ、外国人であっても参政権を付与できるという逆説を導くことになる。つまり、「乗っ取られる論」にしたがえば、日本国籍の有無など参政権付与の判断基準にならないのだ。そこでの判断基準は、親日的か否か、なのだから。

 となれば、参政権を付与された外国人がこぞって自民党に投票すれば、自民党が親日的か否かという議論は措いといて、「一応は」親日的ということになってしまう(苦笑)。対して、社民党や共産党に投票している日本人は、反日的となり、参政権をやはり剥奪しなければならない。



 よって、現実問題として日本が外国人によって乗っ取られるか否かの議論は別として、外国人参政権に反対する上で、「参政権は国民固有の権利」であるという主張と、「参政権を付与すると日本が乗っ取られる」という主張は同時に主張することができないということは分かっていただけたかと思う。

外国人参政権は排外主義の産物

2010年01月22日 | 外国人の人権
外国人参政権、全力で阻止=自民有志(時事通信) - goo ニュース

 自民党の有志議員による「外国人参政権の慎重な取り扱いを要求する国会議員の会」(会長・村上誠一郎衆院議員)は20日、党本部で緊急総会を開き、政府が永住外国人に地方参政権を付与する法案を提出した場合、成立阻止に全力を挙げることで一致した。
 同会が開かれるのは2004年10月以来。村上氏は「主権の基本にかかわる問題でありながら、国民に本質が伝わっていない。党を挙げて命懸けで対応しなければならない」と強調した。



 「外国人」参政権の付与というのは一見すると外国人差別解消手段のように見えるが、私は実はこの制度は日本に滞在する外国人と日本人との距離を決定的に離す、いわば排外主義の産物であると考える。

 ここでは、民団が主として外国人参政権の導入に熱心なことから、民団、すなわち在日韓国人を中心に念頭に置いて議論を展開していくことをまず断わっておく。なお、民団の外国人参政権付与運動の経緯については、早瀬善彦「在日本大韓民国民団と外国人参政権付与政策」(「澪標」平成21年秋号18頁以下)が詳しい。


 鄭大均氏は著書『在日の耐えられない軽さ』の中で、「在日はこれからも日本で生きていかなければならないことを知っているし、そのためには日本国籍が必要であることも知っている。」と述べる(186頁)。このことは毎年何万人もの在日コリアンが日本国籍を取得していることからも明らかだろう。在日コリアンの帰化数申請者数は以下のとおり。


         韓国・朝鮮籍の者 
平成14年     9188人       
  15年    1万1778人      
  16年    1万1031人      
  17年     9689人       
  18年     8531人       


 在日コリアンらが日本国籍を喪失したのは、1952年のサンフランシスコ講和条約の発効に伴う民事局長通達の結果であるが、在日コリアンが日本国籍を取得した数、すなわち帰化数は、同年からの累計で30万人にのぼるという。


 しばしば、外国人参政権付与に熱心な者は、「外国人参政権の付与が民主主義の不足を補う」と主張するが、この見解は間違っている。

 日本は、民主主義の基盤である参政権の行使をしたいならば、日本国籍を取得しなさい、と言っているにすぎない。日本を一つの家族に喩えるならば、家族会議に参加したいなら、家族の資格(国籍)を得なさい、ということだ。家族会議での投票権を、他の家族(国家)に属する者に付与するということは、その家族の意思決定への干渉にあたる。


 ここで日本に居住する在日コリアンについて見てみると、先ほどの鄭氏によれば、彼らは国籍こそ韓国籍であるものの、すでに日本に居住して非常に長い年月が経過しているため、まともに母国語である韓国語を話せない。そして、自分の故郷にも行ったことがないという人が多いという。

 つまり、国籍以外はほぼ日本人と同じであると言える。また、長い間日本で暮らしてきた在日コリアンに、「帰化は同化である」などとステレオタイプな左翼の主張をしたところで、それが現実感をもって彼らの心に響くかは疑わしい。

 このことを、私は性同一性障害に倣い、「国籍(アイデンティティ)同一性障害」とでも呼びたい。すなわち、現在のほとんどの在日コリアンは日本で生まれ日本で育った。よって内面的には日本人と変わらない。しかし、国籍だけがそれに合わず乖離してしまっているということだ。


 そのような者に対し、「外国人」参政権を付与するというのは、つまり、「あなたたちは一生外国人のままで生き続けてください」と宣言するに等しく、実はかえって排外主義的な政策なのである。

 もし、在日コリアンたちがその境遇から貧しく、社会的地位も高くないというのなら、彼らが日本の社会にうまく溶け込めるように、日本国籍の取得を奨めるのが、本来の差別反対主義者のやることではないだろうか。

法理論的外国人参政権反対論

2009年11月07日 | 外国人の人権
民主・山岡氏、外国人参政権法案提出の意向 国会延長も(朝日新聞) - goo ニュース

 民主党の山岡賢次国会対策委員長は6日、在日韓国・朝鮮人を中心とする永住外国人に地方参政権を付与する法案を、議員立法で今国会に提出する意向を示した。国会内で記者団に語った。永住外国人への地方参政権付与は民主党の小沢一郎幹事長の持論で、公明党も前向きだ。山岡氏は民主党の一部や自民党の根強い反対論に配慮し、採決時に党議拘束を外すことも検討していることを明らかにした。
 山岡氏は同日、自民党の川崎二郎国対委員長と国会内で会談し、こうした意向を説明。今国会での成立に協力を求めた。この問題について鳩山由紀夫首相は5日の衆院予算委員会で、「前向きに考えていきたい」としつつ、各党の議論を見守る姿勢を示している。



 今回は、外国人参政権について、これまでの関連判例を取り上げつつ、法解釈的に検討していきたいと思う。


 まず前提問題として、憲法10条には「日本国民たる要件は、法律でこれを定める。」とある。ここで言う「法律」とは国籍法のことである。では国籍法では「日本国民たる要件」について、どのような考え方をしているのであろうか。

 国籍法では、出生によって日本国籍を取得するとしている(1条)。すなわち、「日本国民たる要件」とは、日本国籍を有していることである。したがって、憲法10条にいう「国民」とは、日本国籍を有する者を指すということになる。



 以上によって、憲法にいう国民とは日本国籍を有する国民であるということが明らかになった。では、次に具体的に外国人の人権が問題となった判例を取り上げてみよう。

 まず取り上げたいのは、最高裁平成4年11月16日判決、いわゆる「森川キャサリーン事件」とよばれる事件である。

 本件は、外国人である原告が韓国に旅行に行くために再入国の申請を行ったが、法務大臣は指紋押捺拒否を理由にこれを不許可としたことから、原告が処分の取り消しと損害賠償を請求したというものである。

 本件について最高裁は、「我が国に在留する外国人は、憲法上、外国へ一時旅行する自由を保障されているものではない。」と判示し、原告の請求を棄却した。またここで最高裁は、国際人権規約12条4項にある「自国に戻る権利」の「自国」とは、「国籍国」であると解釈している。


 次に取り上げたいのは、最高裁昭和53年10月4日判決、いわゆる「マクリーン事件」と呼ばれる事件である。

 本件は、アメリカ人である原告が日本在留中にベトナム戦争反対等のデモに参加したことが我が国における政治活動を行ったことになるとして、在留許可の更新が拒否された事件である。

 本件について最高裁は、「政治活動の自由についても、我が国の政治的意思決定又はその実施に影響を及ぼす活動等外国人の地位にかんがみこれを認めることが相当でないと解されるものを除き、その保障が及ぶ」が、「外国人に対する憲法の基本的人権の保障は、右のような外国人在留制度の枠内で与えられているにすぎない」と判示し、原告の請求を棄却した。


 そして最後に取り上げるのが、くだんの最高裁平成7年2月28日判決(以下、「平成7年判決」という。)である。本件は事案を省略して判決のみを抜粋させてもらう。

 本件について最高裁は、少し長くなるが、「地方自治について定める憲法第八章は、九三条二項において、地方公共団体の長、その議会の議員及び法律の定めるその他の官吏は・・・(憲法の)国民主権の原理及びこれに基づく憲法一五条一項の規定の趣旨に鑑み、地方公共団体が我が国の統治機構の不可欠の要素をなすものであることをも併せて考えると、

憲法九三条二項に言う「住民」とは、地方公共団体の区域内に住所を有する日本国民を意味するものと解するのが相当であり、(九三条二項は)我が国に在留する外国人に対して、地方公共団体の長、その他議会の議員等の選挙の権利を保障したものということはできない」と判示し、原告の請求を棄却している(かっこ内は筆者加筆)。


 以上、外国人の人権、特に政治的なことがらに関するものを取り上げたが、ここで明らかになったことは以下のとおりである。

 まず、森川キャサリーン事件において最高裁は、国際人権規約にいう「自国」について、「国籍を有する国」と解釈した。この意味は大きい。

 「外国人」参政権ということから当然に、選挙権の付与の対象は外国人である。ここでこれまでの解釈を踏まえて考えると、我が国で外国人差政権付与の対象となる人たちは、国籍は当然日本ではない(そもそも、日本国籍を有する外国人とは形容矛盾である)。

 つまり、彼らの「自国」とは、彼らの国籍国であって日本ではない。そうであるならば、国籍法と憲法との関係を踏まえてみれば、彼らは我が国の「国民」ではない。したがって、外国人には参政権を付与することはできないということになる。


 次に、マクリーン事件において最高裁は、「我が国の政治的意思決定又はその実施に影響を及ぼす活動等外国人の地位にかんがみこれを認めることが相当でないと解されるもの」と述べた。この意味も非常に大きい。

 そもそも、この事件の原告であるマクリーンは、我が国でベトナム戦争反対のデモをしたという行為が政治的行為と認定され、在留許可更新を拒否した法務相の行為が裁量の範囲内とされている。それなのに、これよりもはるかに「政治的」な行為である外国人の参政権が、どうして容認できるというのだろうか。

 また、現在では道州制の構想をはじめ、地方分権が平成7年当時よりもはるかに進む中で、国政の中に占める地方の役割はますます大きくなっている。

 そうであるならば、まさに現在こそ、平成7年判決が言うように、「地方公共団体が我が国の統治機構の不可欠の要素をなすものであ」り、したがって、地方自治体の政治的意思決定の結果が、我が国の国政に多大な影響を与えるということになる。よって、現在では平成7年当時よりも、外国人参政権の違憲性は増しているとすら言える。



 この平成7年判決を、参政権三賛成派はしばしば法的根拠として持ち出すことがあるが、これは全くの誤りであることをここで指摘しておきたい。彼らの主張が誤っている理由は以下のとおり。

 外国人参政権賛成派は平成7年判決は外国人に対して選挙権を付与しても憲法上違憲ではないとするが、平成7年判決が引用したマクリーン事件判決では、「政治活動の自由についても、わが国の政治的意思決定又はその実施に影響を及ぼす活動等外国人の地位にかんがみこれを認めることが相当でないと解されるものを除き、その保障が及ぶものと解するのが、相当である。」としている。

 現在でも判例としての地位を失っていないこの文言を反対解釈すれば、外国人参政権は違憲であり、到底認められないものという結論に至るのではないだろうか。

 また、平成7年判決でも、「主権が「日本国民」に存するものとする憲法前文及び一条の規定に照らせば、憲法の国民主権の原理における国民とは、日本国民すなわち我が国の国籍を有する者を意味することは明らかである。そうとすれば、公務員を選定罷免する権利を保障した憲法一五条一項の規定は、権利の性質上日本国民のみをその対象とし、右規定による権利の保障は、我が国に在留する外国人には及ばないものと解するのが相当である。」と述べている。

 このように先の文言が、参政権は「住民」すなわち「日本国民のみに」保障されていると解釈していたにもかかわらず、こう解釈した「住民」について、日本国民以外の「住民」に参政権を付与することが違憲ではないとする園部裁判官の解釈はこれに矛盾するものではないかと思う。

 したがって、そもそもこの平成7年判決それ自体が矛盾を孕んだものであり、先例としての意味を有さないとしたほうが妥当ではないかと考えるからである。

 このことを端的に表現すれば、Aすることは憲法上許されないとしておきながら、Aすることは憲法上許される解釈することが全くもって整合性を有していないということだ。



 以上、法解釈的に外国人参政権がどうして許されないのか検討してきた。この検討が少しでも外国人参政権成立阻止に役立てば幸いである。

続 外国人参政権反対論

2009年10月12日 | 外国人の人権
外国人参政権 地方に限っても禍根を残す(読売新聞) - goo ニュース

 地方選挙に限るとしても、外国人に参政権を認めることは、憲法の規定や国のあり方という観点から、問題が大きい。
 鳩山首相が、ソウルでの日韓首脳共同会見で、永住外国人への地方選挙権付与について、「私個人の意見としては、前向きに結論を出したい」と述べた。
 韓国側の記者の質問に答えたもので、首相は「国民感情は必ずしも統一されていない」とも付け加えた。日本国内の議論が割れていることを意識したのだろう。
 民主党は、1998年の結党時の基本政策に、永住外国人への地方選挙権付与の実現を掲げた。首相のほか、小沢幹事長や岡田外相など推進派が少なくない。
 選挙権付与に積極的な論者が根拠とするのは、在日韓国人が地方選挙権を求めた訴訟での95年最高裁判決だ。傍論部分で、憲法上は禁止されておらず、国の立法政策にかかわる問題としている。
 だが、判決の本論は、国民主権の原理に立って、憲法15条の公務員を選定・罷免する権利は、日本国籍を持つ「日本国民」にあると明示した。93条の地方自治体の首長・議員を選出する「住民」も日本国民を指すとしている。
 法的拘束力のない傍論だけを根拠にするのは強引過ぎる。




 日本における在日外国人の国別割合は、2008年現在、中国がトップで次いで韓国・朝鮮であり、この両国(中韓)だけで6割近くを占めている。その中でも在日韓国人のための組織である民団は、特に外国人参政権獲得に熱心で、各党の党首等を招いたパネルディスカッション等を開催してきた。したがってここでは、在日韓国人を念頭に置いて外国人参政権反対論を展開していきたい。


 しばしば外国人参政権賛成の論者は、在日外国人も日本人と同じく納税の義務を果たしているのだから参政権を付与すべきだと言う。しかし、納税の見返りは公共サービスの享受であり、これは日本人であるか外国人であるかを問わず享受できている。それどころか、納税の義務を果たしていなくても享受しようと思えばできる代物である。

 また、納税の義務の履行を参政権獲得の基準に据えることは、戦前の日本が納税額によって参政権を付与していたのと同じ発想であり、これは現行憲法の保障する参政権についての考え方とことごとく対立するものであり、反対解釈をすれば、納税の義務を果たしていない者からは参政権をはく奪することも可能ということになる。

 しかし、周知のようにわが国における憲法が保障する参政権は成人に達すれば、日本人であれば誰でも等しく行使できるものであるため、納税云々というこうした考え方は、現行憲法に反する理解であり、許されない。

 そもそも、納税の義務の履行で参政権を付与できるとするならば、どうして納税をしている未成年者には参政権が付与されないのだろうか。彼らの論理からすればこれは許されないことであり、即刻関連法規の改正をしなければならないということになるはずだ。



 次に、首都大学東京の鄭大均教授によれば、韓国では公選法が今年2月に改正され、2012年以降、韓国籍を持つ在日は韓国の国政選挙に参加することができるようになったという(平成21年10月6日産経新聞)。

 そうすると、在日韓国人は祖国(韓国)の大統領選をはじめとした国政選挙にも参政権を行使でき、かつわが国でも参政権を行使できることになり、これは鄭教授が指摘するように、在日韓国人に「特権」が与えられるに等しい結果になる。

 このことは、祖国でも参政権を行使できる状態でわが国でも参政権を行使できるということを意味し、特権を禁止する憲法14条に抵触することになりかねない(ただし、この解釈は14条に言う「国民」に在日外国人が含まれるとした上での解釈であるため、14条の「国民」とは日本国民のみを指すと解釈すればこうした議論は起こらない)。

 憲法学における支配的見解は、14条の「国民」には在日外国人も含まれるとするので、参政権賛成派の依って立つ解釈であろうこの見解にしたがえば、まず上記のような事態が果たして憲法14条の禁止する「特権」に当たらないか、判断するべきである。私からすれば、この見解にしたがって在日韓国人の参政権について考えれば、間違いなく14条の禁止する「特権の付与」に該当するように思えてならない。



 もし在日韓国人が帰化をせずにわが国の政治に参画することを望むならば、それは祖国での選挙権の行使ができる現状からいえば虫のよすぎる話であり、到底容認できるものではない。わが国において参政権を行使したいならば、帰化をするしかない。本来ならば、それが嫌ならば諦めるべき問題なのである。

 思うに、ここには在日韓国人独自の宙ぶらりんなアイデンティティが見てとれる。これは以前鄭教授も指摘していたが、在日韓国人は日本への帰属意識も、祖国韓国への帰属意識もともに曖昧で、アイデンティティの面において宙ぶらりんな在日韓国人が多いという。

 もし宙ぶらりんなアイデンティティがゆえに日韓両国で参政権を行使したいというのであれば、問題は立法の不備とか相互主義の不徹底とか良き隣人としとかではなく、彼らが自己を何人か定義できないがゆえの問題であり、それを参政権の問題にするのはおかしな話である。



 ところで、以前、外国人参政権は「付与される」ものなのだから、逆にはく奪することも可能であるから、後に外国人参政権廃止法を成立させればいいという指摘を受けたが、これには賛成できない。

 というのは、確かに外国人参政権は「付与される」ものであるが、これは社会保障における諸手当等の付与とは権利の性質上異なり、したがって一度付与してしまえば、母子加算のようにその時々の社会情勢等を考慮して廃止したりすることは非常に難しいと思われるからだ。



 最後に、外国人参政権付与の拠りどころとなっている最高裁平成7年判決についての私なりの見解を述べておきたい。

 外国人参政権賛成派は平成7年判決は外国人に対して選挙権を付与しても憲法上違憲ではないとするが、平成7年判決が引用したマクリーン事件判決では、「政治活動の自由についても、わが国の政治的意思決定又はその実施に影響を及ぼす活動等外国人の地位にかんがみこれを認めることが相当でないと解されるものを除き、その保障が及ぶものと解するのが、相当である。」としている。

 現在でも判例としての地位を失っていないこの文言を反対解釈すれば、外国人参政権は違憲であり、到底認められないものという結論に至るのではないだろうか。

 また、平成7年判決でも、「主権が「日本国民」に存するものとする憲法前文及び一条の規定に照らせば、憲法の国民主権の原理における国民とは、日本国民すなわち我が国の国籍を有する者を意味することは明らかである。そうとすれば、公務員を選定罷免する権利を保障した憲法一五条一項の規定は、権利の性質上日本国民のみをその対象とし、右規定による権利の保障は、我が国に在留する外国人には及ばないものと解するのが相当である。」と述べている。

 このように先の文言が、参政権は「住民」すなわち「日本国民のみに」保障されていると解釈していたにもかかわらず、こう解釈した「住民」について、日本国民以外の「住民」に参政権を付与することが違憲ではないとする園部裁判官の解釈はこれに矛盾するものではないかと思う。したがって、そもそもこの平成7年判決それ自体が矛盾を孕んだものであり、先例としての意味を有さないとしたほうが妥当ではないかと考える。

鳩山さん、矛盾してることに気付きませんか?

2009年04月25日 | 外国人の人権
“炎上発言”は「愛のテーマ」 鳩山民主幹事長、会見で真意説明(産経新聞) - goo ニュース

 民主党の鳩山由紀夫幹事長が、インターネット上で永住外国人への地方参政権付与の必要性を主張し、ネット掲示板に批判的な書き込みが殺到した問題で、鳩山幹事長は24日、「日本列島は日本人だけの所有物じゃない」との発言の真意を問われ、「これは愛のテーマ。地球は生きとし生けるすべての者のもので、日本列島も同じだ」などと説明した。
 鳩山幹事長は党本部で行われた記者会見で、「これ(発言)は大きなテーマ。まさに愛のテーマだ。(自らが)友愛と言っている原点がそこにあるからだ。地球は生きとし生けるすべての者のものだ。日本列島も同じだ。すべての人間のみならず、動物や植物、そういった生物の所有物だと考えている」と持論を力説。
 さらに、「そこに住んでいる人たちを排斥するという発想ではなく、権利もできるだけ認めて差し上げる。多くの税金を、同じように払ってこられた方々の権利を認めて差し上げるべきではないか。日本は鎖国をしているわけではない。もっと多くの人に喜んでもらえるためには、地方での参政権は付与されてしかるべきではないかと思っている」などと述べた。国政参政権付与については、否定的な考えを示した。
 鳩山幹事長は、インターネットの動画サイト「ニコニコ動画」に17日に出演。「定住外国人は税金を納め、一生懸命頑張っている。その人たちに参政権ぐらい当然付与されるべきだと思っている」「日本列島は日本人だけの所有物じゃない」などと発言。ネット掲示板に批判的な書き込みが殺到して“騒動”となっていた。



 これは国家否定の発想と看做してよいだろう。次の内閣を担うかも知れない人物が、このような貧弱な発想しか持てていないことは極めて由々しき事態だが、ここでは個人の信条についてとやかく言う前に、彼のこの持論が、実は矛盾を多々包含していることを指摘してみたい。



 まず、鳩山氏は「愛のテーマ」などと意味不明なことを口走っているが、その前に、日本列島を「所有する」とは、一体どういう意味なのだろうか。所有するということは、当然にそこには「所有者」がいるということが前提になるが、では、日本列島の所有者とは一体誰のことを指すのか。

 日本列島の「所有者」を強いて挙げるならば、それは日本「国」であろう。つまり、日本という国家が日本列島という領土を所有している。ここで、国家というものが成立するには3つの要素が必要になる。ドイツの法学者であったゲオルグ・イェリネックが提唱したいわゆる「国家の三要素」と呼ばれるものがそれである。

 イェリネックの国家の三要素によれば、国家は、主権・領土・国民の3つが揃ってはじめて国家として成立する。この考え方は現在、国際法上、国家の承認要件とされ、これらが揃っていない場合、国家承認はされない。しかしながら、鳩山氏の「愛のテーマ」のなかには、これら国家にとって必須の要素がまるっきり欠けている。

 まず第一に、国家の要素である領土について、鳩山氏の発想ではこれが否定される。日本列島は、「生きとし生けるすべての者のものだ」からだ。「すべての者のもの」ということは、そこには領土という概念は存在しない。そもそも領土の「領」という字の語源は、「他を支配し、統治すること」という意味である。だが、鳩山氏の発想からはこうした概念が導き出されることはない。

 次に、主権もまた否定される。参政権とはその国の舵取りを行う権利であって、まさに国民「主権」の発露そのものだからである。その国の政治(国政、地方政治問わず。)に参画し、居住者(resident)としてではなく、国籍を有する国民(citizen)として、政治に選挙権の行使としての投票行為をもって意思表明する。それが参政権という権利だからだ。

 さらに、国民という概念も否定されることになる。国民とは字の通り、その国の民のことである。その国の国民と言うからには、その国に所属している証明、すなわち国籍を有していなければならない。そして、日本国籍保持者のみに許される参政権の行使を、日本国籍保持者以外にも認めようというのだから、国民の概念も否定ないしは極めて曖昧なものになる。

 したがって、鳩山氏の「愛のテーマ」からは国家の三要素を抽出することはできない。



 それでは、次は、鳩山氏の「愛のテーマ」と、普段彼をはじめ民主党が主張していることとが、全く相いれない矛盾したものであることを証明してみせよう。

 先述したとおり、鳩山氏の「愛のテーマ」は、国家否定の思想そのものである。それでは彼の「愛のテーマ」に従い、国家を否定してみよう。


国家を否定して生じる矛盾その1。政権交代が無意味になる。

 政権を奪取しても、その政権が動かす国家が存在しないから。


国家を否定して生じる矛盾その2。党是の「国連主義」の破綻。

 国連とは、地球上に存在する国家の集まりだから。「愛のテーマ」を実行するには、まずは国連を脱退しよう。


国家を否定して生じる矛盾その3。憲法を掲げる無意味。

 憲法とは、その国の存在を示す国家の基本法だから。
 ここでもっと彼の矛盾を突くならば、参政権も国家という権利の行使の対象があるから行使できる権利であって、しかもその権利は憲法の規定をもって容認されている。つまり、憲法なきところに参政権なし。


 だが、一番の矛盾は、「国政参政権付与については、否定的な考えを示した」ことだ。

 私としては、鳩山氏がここまで述べたのに、どうして国政レベルの参政権は認められないのか、全く理解できない。「愛のテーマ」の中で、国政レベルの参政権と、地方レベルの参政権は、どういった基準で線引きされているのか。日本列島は日本人だけの所有物ではないのなら、国政レベルだろうが関係なく参政権を付与してもいいと言い切れなければ、彼が述べた壮大な理想論は瞬く間に瓦解するに違いない。



 それから、もう何度も指摘していることだが、納税をしているから参政権が認められるという論理は全くもっておかしなものである。

 納税の見返りは、水道や警察といった公共サービスの享受であって、参政権が納税の見返りに付与されているのではない。もし参政権が納税の見返りに付与されるという理解を採るならば、それは戦前の制限選挙と同じであるだけではなく、それこそ20歳以上の国民に選挙権を平等に付与した法の趣旨(普通選挙の実施)に真っ向から対立してしまうことになるからだ。

 鳩山氏の参政権についての発想は、100年前のレベルである。



 最後に、「もっと多くの人に喜んでもらえるために」権利は付与されるものではない。それでは、もっともっと喜んでもらうために国政レベルの参政権も与えろ、という主張も当然に成立する。権利は頑張ったご褒美に与えられるものではない(もっとも、鳩山氏にはその権利を「与える主体」は一体誰なのかと聞いてみたいところだが)。

 敢えてリバタリアニズム的視点に立って、鳩山氏の「権利は与えるもの」という発想について批判すると、もし権利が彼の言うように「与えられるもの」だとすれば、逆に奪うことも当然に可能になる。

 「こうした自由は、基本的に人々の行動を束縛することを原則とし、その例外として認められる権利だから、権力者の気が変われば容易に剥奪されてしまう」(池田信夫『ハイエク 知識社会の自由主義』91頁)ということになる。この発想が、普段彼が口にしている様々な発言と、そして民主党の政策とも矛盾していることは容易に分かる。



 鳩山よ、日本列島は日本人だけのものではないと言うのなら、参政権を与えろとのたまう者達の故郷である韓国に行って、「韓国は韓国人だけのものではない。だから日本人にも参政権を与えろ」と言ってみればいい。彼らがどういう反応をするだろうか。

 外国人参政権推進の論拠がこの程度とは。片腹痛いとはこのことだ。

「お涙頂戴劇」の一応の終わり

2009年04月16日 | 外国人の人権
空港で涙流し、抱き合い=ノリコさん両親帰国-フィリピン人一家(時事通信) - goo ニュース

 不法滞在で強制退去を命じられたフィリピン人一家の在留問題で、中学生の長女カルデロン・ノリコさん(13)の両親が13日夜、成田空港をたち帰国した。学業目的で1年間の在留特別許可を得て日本に残るノリコさんは、両親を同空港まで送りに来た。
 ノリコさんは午前中は学校へ行き、午後1時40分ごろ、両親と空港に到着。報道陣が両親に伝えたいことはあるかと尋ねると、うつむきながら「一生会えないというわけではないので、特別なことはない」「できることなら3人でいたい」と話し、袖口で涙をぬぐった。父親のアランさん(36)には、一緒に写った写真を渡したという。
 アランさんも涙ぐみ、「頑張ってほしい」とノリコさんへのメッセージを絞り出すように言葉にし、「日本の皆さんありがとう」と話した。法務省に対し何か言いたいことはとの質問には「娘は13歳の女の子なんです。ただそれだけです」と述べた。
 母親のサラさん(38)はティッシュ箱を抱え終始涙を流しながら「娘は塾に通っている。夜帰るときが心配」とノリコさんを思いやった。
 出国手続き間際まで、3人は抱き合い別れを惜しみ、ノリコさんは両親の姿が見えなくなるまで手を振り続けた。
 ノリコさんは今後、現在住む家で親類と生活する。



 ようやく帰国するのか。これがこのニュースを知ったときの最初の感想である。マスコミはどういうわけか翼賛体制でカルデロン一家をバックアップして見せたが、果たして世論はマスコミの見解と一致していただろうか。マスコミと世論が乖離してはいなかっただろうか。

 少なくとも私の周りの人間は今回の件に関し、両親の不法入国という事実を無視してまでも親子で日本に滞在させるべきだという意見を口にした者はなかった。むしろマスコミの熱心なアジテーションも空しく、不法入国者なのだから、法律に則って国外退去させるべしという見解が圧倒的だった。1814年のウィーン会議を風刺した有名なフレーズ、「会議は踊る、されど進まず」ではないが、「マスコミは踊る、されど国民は踊らず」ではなかったか。

 そして、この「事件」を、まるで何の罪もない平和な家庭に訪れた悲劇のように報道するのはいかがなものか。古館という人は、「自分の家族が同じ目に遭ったらどう思いますか?」などと言っていたが、私の家族は不法入国者ではない。古館がサヨクのバイアスから解放されたとき、同じ言葉を拉致被害者救出に向けて北朝鮮に発することを、そうなることは一生ないと思いつつも、願っている。



 ところで、支援者ら曰く、のり子さんは日本語しかできないというが、これもよくよく考えたら実に怪しいものだ。そもそも両親は生まれも育ちもれっきとしたフィリピン人であり、その両親が家庭で母国語であるフィリピン語を話さず、日本語だけで会話していたということはあり得ないだろう。

 のり子さんが彼女の人生の中で一番多くの時間一緒に居た人間は、両親であろう。もちろん、両親がフィリピン語で話していたからといって自働的に彼女も喋れるようになるとは思わないが、このような環境下において、日本語しか話せないというのには、違和感を持たずにはいられない。

 もし本当に彼女が日本語しか話せないとしたら、それは両親の教育がまずかったということになるのだと思う。普通に考えて、自分たちは不法に入国した、いわば犯罪者である。そうである以上、警察にでもそれがバレれば日本を追い出されることぐらい分かりそうなものだ。にもかかわらず、自分の娘に母国語を教えていないとすれば、それは日本政府が悪いのではなく両親の教育の失敗であり、彼女がフィリピン人でありながら日本語しか話せない原因は両親にある。

 もっとも、私はのり子さんも込みで、一家を日本から強制退去すべきであったと思う。のり子さんはまだ13歳である。13歳であればフィリピン語を習得するスピードも速い。

 以前、大東亜戦争終戦当時20数歳で東欧の国で終戦を迎え、それから60年もの間そこで人生を送った元日本兵がテレビに出ていたが、彼は何と母国語の日本語が殆ど喋れなくなっており、現地の言葉を流暢に(というか、もはや母国語のように)操っていた。そのため、一部は通訳を介して会話をしていた。のり子さんも何年もフィリピンの地で過ごせば、この元日本兵のようになるだろう。しかも彼女にはフィリピン人の両親もいるのだ。

 だいたい、フィリピン人でありながら母国語が話せないというのは、自己のアイデンティティが納得できることなのだろうか。自分の体内に流れている血と同じ血が流れている国民の言語が話せない、聞けない、読めないということに、自分の中でジレンマを感じないのか。「のり子」という名を持ってはいても、彼女は紛れもなくフィリピン人なのだから。



 この事件は、これで終わりなのではなく、これは終わりのように見える始まりである。カルデロン一家を支持した勢力はこれをお涙頂戴の悲劇にして、感情論で法を揺るがしにかかってくるだろう。それは今この現在においても水面下ではじまっているだろうが、これが表面化するときは、のり子さんの両親が再入国するときだ。

 だが、不法入国者であっても不法入国した国で子供を産み、暮らしていれば不法が合法になるという理屈は、これまでも述べてきたように絶対に間違っている。欧米がそのようなシステムを採用していようと右に倣う必要はない。スイスや中東の入管法は日本と同程度か、それよりも厳しいと聞く。欧米が世界標準ではないし、必ずしも欧米のやっていることが正しいとも限らない。

 不法入国者から生まれてくる子供が不幸にならないためにも、不法入国者に対する監視・摘発体制の一層の強化が望まれる。犯罪者が犯罪者でなくなるとき、それは刑の執行が終わったときであって、お涙頂戴の悲劇を演じ切ったときではない。

「子どもの権利条約」違反だという主張への違和感

2009年03月15日 | 外国人の人権
埼玉・蕨のフィリピン人一家不法滞在:国外退去命令 一家と国の言い分(毎日新聞より一部抜粋)

 のり子さんには「日本で親友と一緒にダンスの先生になりたい」という夢がある。夫妻は不法入国を反省したうえで「保護が必要な13歳の子を置いて帰れない」と3人での在留を求めている。
 送還された子供を追跡調査したリポートをまとめた、NPO在日外国人教育生活相談センター(横浜市)の竹川真理子センター長は懸念する。「15年間、まじめに生活してきた実績をみるべきだ。子供時代に送還すると双方の言葉も十分に身に着かず、心に壁ができる。親子を引き離すのは子どもの権利条約に違反する」
 一家の代理人の渡辺彰悟弁護士も「のり子さんだけ在留を認めても、家族のまとまりを社会と国が保護することを定めた国際人権規約に反する」と話した。



 ここで言う「子どもの権利条約違反」というのは、同条約3条1項「児童に関するすべての措置をとるに当たっては、公的若しくは私的な社会福祉施設、裁判所、行政当局又は立法機関のいずれによって行われるものであっても、児童の最善の利益が主として考慮されるものとする。」ならびに9条の、「締約国は、児童がその父母の意思に反してその父母から分離されないことを確保する。」という規定を指しているものと思われる。そこで、今回はカルデロン一家に対して政府が行った措置が、子供の権利条約違反に該当するのか考えててみたい。



 確かに一見すると、カルデロン一家に対して行った措置はこの規定に違反しているように思える。だが、この主張には激しい違和感を感ぜざるをえない。

 まず、条約においてこのように規定されているとしても、それによって国内法上違法とされた犯罪行為が治癒されるのか。すなわち、親が犯罪者であるために国家が刑罰権を行使しようとしているとき、その子供が「やめて」と言えば親は刑に服すことがなくなるのか、ということだ。

 今回、カルデロン一家の件に子供の権利条約を持ち出してくということは、平たく言ってしまえば、のり子さんが嫌がっているのだから両親への刑の執行をやめるべきだ、ということになる。だが、子供の権利条約がここまで容認しているのだろうか。否、容認していいのだろうか。

 もし、かのような論理が通ってしまうのであれば、子を持つ親を刑務所に収容することも、もっと言えば公務員に対し行政が単身赴任を命令することもできなくなってしまうように思える。なにせ、子供の意向を最大限尊重しなければならないのだから。

 ちなみに、逆にのり子さんが、「両親なんかいらないからさっさと国外退去させてくれ」と言えば、今懸命に一家を支援している論者は、政府の行おうとしている両親の強制退去処分にどういう反応を示すのだろうか。



 もし、のり子さんの両親が犯罪者ではないのに国家の命令によって強制的に隔離されてしまうというのであれば、それは確かに子供の権利条約違反だろう。そうであれば異論はない。だが、繰り返すようだが、彼女の両親は他人名義のパスポートで入国したという、れっきとした犯罪者だ。政府は罪のない家庭の平穏を引き裂くために動いたわけではない。

 このような主張が許されるのであれば、不法入国者は自分の子供を盾にとって国外退去を拒否してもいいということになる。自分の子供に、「パパ(ママ)にいて欲しい」と言わせれば、確実に日本に在留できることになるからだ。子供を産み、子供の権利条約を媒介することことによって、違法が合法になるのだ。

 これでは、一体何のための出入国及び難民認定法なのだろうか。子供の意向一つで違法が合法になるのである。子供が白と言えば黒が白になるのだ。まさに裁判所要らずである。不法入国者にとってみれば、子供の権利条約様様である。



 一般に、憲法と条約のような国際法とでは、憲法が優位に立つと言われている(憲法優位説。通説)。その憲法において、「何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその刑罰を科せられない。」(31条、法定手続の保障)とある。

 のり子さんの両親は、憲法31条の精神に基づいて処分が確定したのである。法律の定める手続によって強制退去処分となったのである。にもかかわらず、子供の権利条約を持ち出し両親の犯罪行為を不問にせよというのは、憲法の定める適正手続の要請を根底から揺るがすものになりはしないか。

 法律に反した者を逮捕し、その者に刑罰を与えることは憲法においても容認されていることである(31条、33条、36条)。憲法優位説によれば、憲法の下位に位置する国際法が、憲法の定める規定とぶつかるものである場合、憲法が優先的に適用される。ということは、子供の権利条約を持ってきて一家の在留を認めよということは、憲法の条約に対する優位性を失わせ、憲法のさきの精神をも間接的に侵害することになりかねない。



 そもそも、子供の権利条約が、犯罪者を非犯罪者にせよと言っているとは考えるべきではない。今回の件は、子供の権利条約をもってきて騒ぎたてる問題ではない。犯罪者を処分するにおいて、それが結果として家族の離散を招くので、子供の主張が通らないということが起こっているにすぎない。

 犯罪者に対する刑罰権の行使までも、子供の権利条約とやらが妨げることが許されるというのであれば、そのような条約からは早々に脱退すべきだ。

カルデロン一家の人権保護に熱心な方たちへ

2009年03月13日 | 外国人の人権
カルデロンさん一家、長女のみ在留 入管提案受け入れ(朝日新聞) - goo ニュース

一家で帰国するか長女だけを残すかの判断を迫られている埼玉県蕨市のフィリピン人一家の母カルデロン・サラさん(38)と長女のり子さん(13)らが13日、東京都港区の東京入国管理局に出頭した。代理人の弁護士によると、一家は最終的に入管側が示した提案を受け入れ、のり子さんを残して両親が4月13日に帰国することを決めたという。
 サラさんとのり子さんが9日に収容された父アランさん(36)と面会した上で入管側と話し合い、決断した。



 前回「気の毒だが、仕方ない」において述べたように、私は法務省の措置は適切なものだと考えている。だが、もうこれ以上、カルデロン一家に何か批判的な言葉を浴びせるつもりはない。のり子さんの両親がいかなる理由によって不法入国をしてきたか事情は分からないし、私のような人間があれこれと言わなくとも、実は本人たちが一番承知しているのではないかと思うからだ。

 一家に対してなされた措置は、これまでの法務省の同様のケースにおける対処よりも、遥かに家族に配慮したものとなっているし、こうした「配慮」も、支持者の活動の賜物だろう。基金を立ち上げ、今後ののり子さんの就学や生活を支えようとしている活動自体には、何も異論はない。こちらに親類がいるとはいっても、彼女はまだ幼いのだから、祖国に両親を置いたままでは心細いだろう。支持者たちは彼女にとって精神的にも支えになって欲しい。



 しかし、だ。お涙頂戴の同情論で、法を骨抜きにするようなことはあってはならないはずだ。同情論や感情論で法律の効力が妨げられるのでは、一体何のために法はあるのだ。それなら法律など廃止して、大岡裁きでもいいということになってしまう。確かに可哀そうだ、残酷かも知れない。だが、これが法律の良いところでもあって同時に悪いところでもあるのだ。

 可哀そうだということで犯罪を見逃していたら国家は犯罪者を処罰することはできなくなるだろう。だいたい犯罪者というのはその境遇に同情的な面があり、可哀そうだということはこの両親だけでなく他の不特定多数の犯罪者にだって言えることだ。一家の処遇について賛否両論あるのは悪いことではないが、最低限これは両陣営ともコンセンサスとして受け止めなくてはならない。



 それに、仮にこれをたとえ例外としても認め、在留特別許可を出してしまえば、国内にいる同じような境遇の不法滞在者が、「私にも在留許可を出せ」と言いだす可能性もある。極端に言ってしまえば、密入国してすぐに子供をつくって見つからないように暮らしていれば、違法行為が治癒されて合法的に日本に滞在することができることになってしまう。

 そうなると、これがアリの一穴となって例外的措置だったはずがいつの間にか原則になって、日本は不法入国者にとって楽園になってしまう。人権も大事だろうが、不法入国者対策も大事である。だからこそ、法務省はこれ以上譲歩してはならないが、今回法務省が一家に対してとった措置は、不法入国者対策と家族の人権の両者を配慮した、バランスの取れた(いや、むしろ不法入国という犯罪を犯していることを鑑ると)甘過ぎるぐらいの措置である。



 ところで、今回フィリピン人一家を熱烈に支持している「市民」たちは、同じような境遇、いやもっともっと悲惨な境遇に置かれている人たちのことを忘れてはいないか。そう、拉致被害者の方とその家族の方のことである。

 カルデロン一家が離れ離れになるのは両親の行った犯罪行為によるものだが、拉致被害者家族が離れ離れになったのは、一家は何も悪くないにもかかわらず、ある日突然外国の工作員によって家族の一員が拉致されて離れ離れになったというものである。こちらこそ、「家族は何も悪くない」のである。

 思うに、今回カルデロン一家の在留許可獲得に熱心だった人たちは、拉致には懐疑的で、拉致問題を追及しようとすれば返す刀で、「北朝鮮に日本は酷いことをやってきたではないか」と言っていたような気がするのだが。それならば返す刀で、「のり子さんの両親は犯罪者なのだから処罰されることの何が悪い」と言われても反論はできまい。



 不法入国者の家族の人権にお熱になるのもいいが、くれぐれも拉致問題もお忘れなく。