ひとり井戸端会議

主に政治・社会・法に関する話題を自分の視点から考察していきます。

犬は「器物」である

2009年08月30日 | 民事法関係
毒のパン?食べ犬死ぬ 器物損壊容疑 熊本県警捜査 緑色の液体 付着(西日本新聞) - goo ニュース

 熊本県警は29日、路上に落ちていたパンを食べた飼い犬が死ぬ事件があったと発表した。県警は何者かが毒入りのパンを置いた可能性もあるとみて、器物損壊の疑いで捜査を始めた。
 県警の調べでは、27日午後4時ごろ、熊本市二本木4丁目の白川右岸堤防沿いの道路で、近くの飲食店経営の男性(62)の飼い犬(ゴールデンレトリバー、雄9歳)が落ちていたパンを食べた。その後、犬は嘔吐(おうと)を繰り返し、2時間半後に動物病院で死んだ。
 29日早朝、この男性がパンの置かれていた場所に行くと、路上にパンの切れ端が落ちていたため袋に入れて警察に届けた。パンには緑色の液体らしきものが付いており、犬が食べたパンにも付着していたという。県警は近く鑑定を行い、毒物の有無を調べる。



 犬は「器物」である。これは厳然とした事実であって、感情論で動かしてはならないものである。器物損壊罪は刑法261条に規定されているが、そこにはこうある。


「他人の物を損壊し、又は傷害した者は、3年以下の懲役又は30万円以下の罰金若しくは科料に処する。」


 ここで「傷害」という文言が入れられているのは、人間以外のもの、すなわち、たとえば「動物」が同条による保護の客体として宣言されているからである。

 なお、ここで言う「動物」とは、飼い主が存在している動物のことを指す。つまり、野生の動物は同条による保護の対象外である。野生の動物は「鳥獣保護法」といった特別法により法の保護を受けることになる。同様に、野良犬などは、殺害しても刑法上は不可罰である。

 そして同条(器物損壊罪)は、財産犯罪として、他人の所有する動物を保護の客体とする。法律上、人間以外の存在に対する「傷害」は、モノ(財産)に対する「傷害」として扱われる。なお、この「傷害」の概念は意外と広く、判例では、他人の飼っている鯉を池に流してしまう行為も同条に言う「傷害」に該当するとしている。


 しかしながら、犬を「器物」として扱うということには、確かに感情的な疑問が起こってくる。すなわち、「動物だって生きてるのに!」という感情だ。しかし、こうした「感情」を法に反映させることは、非常に危険である。

 まず、法は「所詮は犬畜生だから」という理由で動物への傷害を261条で規定したのではないということは明言しておきたい。動物を「器物」とみなすことに、法的な安定性が存在すること、そしてそれには合理的な理由が存在するからだ。

 まず、動物を人間と同じような刑罰の体系に入れてしまうならば、人間に対する法益侵害に適用される刑法の規定をすべて動物にも適用しなくてはならなくなり、それでは法を運用するにあたり、甚大な支障が出ることは明らかだろう。

 次に、上記理由とも関係してくるが、そうなるとたとえば動物を媒介とした伝染病が蔓延しだした場合、その原因を除去するために動物を殺処分することも非常に困難になることが予想される。また、新薬の開発のために動物を実験に利用することもできなくなる。

 そしてそもそも、「動物」とは一体どういう存在を言うのか、定義するのも実は意外に困難である。そこから「ペット」だけを別扱いし、別の規定を設けるということも考えられるが、それならば既に刑法261条がある。

 もっとも、今回のこのニュースで「動物が器物なんて許せない!」と主張している人たちは、「ペット」と「野生動物」の線引きをどうやってしているのか、甚だ疑問であるが。両方一緒くたにして処罰することの弊害は既に述べたから割愛する。

 だいたい、会話ができない、理性がない生き物を、人間と同等に法的に扱うことは、それは法の恣意的な運用を許し、法的安定性を欠くためまったく同意できない。人間以外はすべて「モノ」として扱うことは、法の健全な運用のために不可欠な前提である。

 今回の犯人が道徳的に激しい非難に見舞われたとしても、それはあくまでも「道徳上」の非難であって、その道徳上の「罪深さ」と法的な意味での「罪」とを混同することは、非常に危険なことである。


 なお、動物愛護法による罰則は「愛護動物をみだりに殺し、又は傷つけた者は、一年以下の懲役又は百万円以下の罰金に処する。 」とのことであるが、いわば刑法に対する特別法的な立場であるとも考えられる同法による罰則規定が、刑法261条よりも軽いというのは、今後見直す余地があるのではないか。

政治の混乱の原因

2009年08月18日 | 国政事情考察
衆院選スタート、受け付け開始…焦点は政権選択(読売新聞) - goo ニュース

 第45回衆院選は18日公示され、午前8時半から、小選挙区選(定数300)と全国11ブロックの比例選(同180)の立候補の受け付けが始まった。
 投開票は30日。
 衆院選は小泉政権下の2005年9月以来、4年ぶり。
 小選挙区と比例選の計480議席で争われ、過半数(241)の確保をめぐり、各党は12日間の選挙戦に入る。
 自公連立政権の継続か、民主党を中心とする政権へ交代かという政権選択が最大の焦点となる。
 読売新聞社の調べでは、小選挙区選と比例選単独の候補を合わせると、前回を上回る1376人が立候補を予定している。各党の小選挙区立候補予定者は17日現在、自民289人、民主271人、公明8人、共産152人、社民31人、国民新9人、みんなの党14人、改革クラブ1人、新党日本2人。



 今のように、政治が「民主に一回任せてみては?」というような風潮になってしまった原因について、自分なりに以下で考察したいと思う。


 今まで日本は戦後わずか1年程度を除いて、自民党が政権を担ってきたと言っていい。つまり、我々は自民党以外の政権政党の存在、実力についてほとんど知らない状態にあると言っても過言ではない。


 しかし一方で諸外国はどうだろうか。たとえば日本と同じ議院内閣制を採用するイギリスでは、保守党や労働党が政権を担い合い、常に与党のつもりで政策を競い合っている。しかし、日本の野党は今までそうしてきたか。つまり、明確な国家ビジョンを国民に提示してきたか。

 そして、諸外国では保守政党以外でも政権を担ってきた。たとえばフランスは社会党政権が誕生したこともあるし、イギリスも先に述べたように労働党が政権を担っている。オーストラリアやカナダ、ドイツも同じだ。

 すなわち、海外では左翼政党が政権を担ってきたという現実があるため、国民も肌で政策の違いを実感できているため、政権選択をするのも実感をもってできるし、政策を競い合うのも現実的な政策論争ができる。だからこそまた、左翼も左翼で空虚なお花畑論理ではとてもじゃないが政権を担えないということを肌身をもって知っている。



 対して日本は、これまで自民党以外の政党が政権を担えてこなかったため、自民は下野することを極端に恐れ、いたずらな民主叩きに走ってしまう。そしてそこには揚げ足取りこそあれど、国民のことを念頭に置いた政策論争というものは存在しない。国民不在の権力に縋りたいという思いしかない。

 今の野党である民主や社民もまたしかりで、政権を担ったことがない、もしくは党内に政権に居た経験のある人物がほとんどいないため、具体的な政権獲得後のビジョンが示せず、「野党だから言えること」の範疇を抜け出せない。


 つまり、こうなってしまった原因は、旧社会党にある。諸外国の社会主義政党みたく、少しは現実的な政策を提言できればよかったものの、自衛隊違憲だの、空虚で無理のある福祉政策など、国民が安心して政権を任せられるような政策提言を怠ってきたから、今のような「どれも駄目」という政治になってしまったのだ。



 しかし一方で別の見方をしてみれば、今回の選挙ははじめて政策本位の選挙の様相を示し、政策の優劣で政権を選択できる状態にある。皮肉なことに、戦後はじめて日本に民主主義に基づく政治が行われようとしているともいえる。今回の選挙はその意味でも、極めて一票が重い選挙になると言える。

非核三原則法制化という愚策

2009年08月10日 | 憲法9条
非核三原則の法制化検討=慎重姿勢を転換-民主代表(時事通信) - goo ニュース

 民主党の鳩山由紀夫代表は9日、長崎市内のホテルで被爆者団体代表者と懇談し、非核三原則について「唯一の被爆国として守っていくことが重要で、その一つに法制化という考え方もある。しっかり検討したい」と述べ、法制化を検討する考えを表明した。
 鳩山氏はこれまで「逆に法律が変えられる危険性も持つ」として法制化に慎重な姿勢を示していた。しかし、衆院選後の連立相手に想定する社民党が法制化を求めていることから、「鳩山政権」が誕生した場合の政権運営を考え、軌道修正したものとみられる。
 鳩山氏は懇談終了後、記者団に「法律よりも強い『国是』の方が守られると思ったが、法治国家として法制化が必要だと皆さんが判断されるなら一考する十分な価値がある」と説明した。



近年、これ以上の愚策はあったろうか。それは非核三原則の法制化である。

 非核三原則の法制化には、当然反対である。核武装論者である私としては、日本が自前で核戦力を保持することに賛成であるが、それはNPT体制、日米原子力協定、国内世論等によって実質的に不可能であると思うので、そこまでは主張しない。

 しかし、せいぜい非核三原則は「つくらず」以外は全て撤廃すべきである。もちろん、非核三原則が有効な現在でも、暗黙裡のうちに在日米軍が核戦力を日本国内に入れているが。


 では、どうして非核三原則の法制化に反対かと言うと、法制化してしまうと、それは現在の宣言程度の非核三原則に比べ、国家を拘束する力が増し、日本の安全保障政策の変更が非常に難しくなってしまうからだ。

 しかも法制化したということは、「日本は核はどんなときでも持たないし使いませんよ」と宣言してしまうことになり、これは安全保障政策上、極めてデメリットの多いことである。

 自衛権は、「いざという時になったら容赦しないぞ」という事前の軍事力による威嚇力もその中に含まれるべきで、それをみすみす放棄し、自分の手の内を公開してしまうようなことは、愚策としか言いようがない。


 国家を強盗にとられかねない非常に不適切な喩えだが、ピストルを振りかざして強迫する強盗が、「このピストルには弾が入ってしませんよ」と言ってしまえば、その強盗の計画は失敗するだろう。

 しかし、たとえ弾が入っていなくとも、「撃たれる可能性がある」と相手方に認識させることが、強盗成功への重要なファクターである。この喩えを先ほどの非核三原則法制化に当て嵌めたら、日本が蒙る不利益が分かるはずだ。



 日本が非核三原則という、「おりこうさん」のポーズをとっても、それによって日本にとって直接的脅威である中国や北朝鮮、ロシアが、「ならばうちも核戦力を放棄しよう」といつ言ったか。日本だけが馬鹿を見る政策である非核三原則を、法制化によって更に強化しようなどとは、正気の沙汰ではない。

 今日の産経新聞「正論」の渡辺利夫氏ではないが、「核兵器を保有していないベルギー、ドイツ、イタリア、オランダなどが米国との核シェアリング(共有)の下、自国内に米国の核兵器を備蓄し、自国軍隊が核戦略に参加しているではないか、日本にはなぜこの程度のことができないのか」ということだ。



 ただでさえ、非核三原則など亡国思想甚だしいのにもかかわらず、それを法制化することなど、断固反対である。民主の社民との連立を睨んだご機嫌取りであって、本気の発言でないことを祈る。