goo blog サービス終了のお知らせ 

ひとり井戸端会議

主に政治・社会・法に関する話題を自分の視点から考察していきます。

教師が不憫でならない

2009年04月29日 | 教育問題関係
最高裁が「体罰」認定破棄 熊本の損害賠償訴訟(朝日新聞) - goo ニュース

 小学校2年の時の「体罰」をめぐって熊本県天草市の男子生徒(14)が同市に損害賠償を求めた訴訟の上告審判決で、最高裁第三小法廷(近藤崇晴裁判長)は28日、「体罰」があったと認定して市に賠償を命じた一、二審判決を破棄し、生徒の請求を棄却した。第三小法廷は、臨時講師が注意を聞かない生徒の胸をつかんで体を壁に押し当てて怒ったことを「許される教育的指導の範囲を逸脱せず、体罰にはあたらない」と判断した。
 最高裁が民事訴訟で教員の具体的な行為について「体罰でない」と判断したのは初めて。学校教育法は体罰を禁じているが、どのような行為が体罰にあたるかの具体的な例示はない。どの程度の指導が許されるのかが学校現場で議論になっているなか、幅広い影響がありそうだ。



 私は、このようないわゆる「モンスター・ペアレント」に付きまとわれた教師が、不憫でならない。最高裁が下した判断は至極当然のものであり、批判される筋合いはない。

 最高裁の判決によれば、当該教師の行為は、「児童の身体に対する有形力の行使ではあるが、他人を蹴るという一連の悪ふざけについて、これからはそのような悪ふざけをしないように被上告人(当該教師に胸倉を掴まれた児童のこと。筆者注)を指導するために行われたものであり、悪ふざけの罰として被上告人に精神的苦痛を与えるために行われたものではないことは明らかであ」り、「本件行為は、その目的、態様、継続時間等から判断して、教員が児童に対して行うことが許される教育的指導の範囲を逸脱するものではなく、学校教育法11条ただし書にいう体罰に該当するものではない」。これは、社会通念に照らして考えても、ごく自然な判断であり、何らおかしな点はない。



 本件は、公務員たる当該教師に対して、国家賠償法1条に基づく損害賠償を請求した事案であるが、同法による損害賠償請求の要件として、「違法な加害行為の存在」があるが、当該教師の行った行為(児童の胸倉を掴み、「もう、すんなよ」と大声で注意をしたこと。)が学校教育法11条ただし書にある体罰に該当しない以上、これをもはや問題にすることはできない。

 確かに、今回の当該教師の行った行為が客観的に判断して公正を欠くとするならば、たとえ学校教育法11条に反していないとしても、最高裁昭和61年2月17日判決(パトカーによる追跡がそれ自体は法律の定めに従ったものであっても、第三者に対する具体的な危険の発生を考慮せず、不相当な方法で行われた場合、条理に反し違法であるとした事例。)に従って違法と判断することも可能なのかも知れないが、それは後に述べる「事実の概要」を見れば、無理があることが理解できる。



 長くなるが、本件の「事実の概要」はこうだ。


①平成14年11月の休み時間に、発達障害のある児童Aがパソコンをしたいと強く希望してたため、Aの担任のBがAを宥めていた。そこに当該教師(被告、上告人)が通りかかり、Bと共にAを宥めた(このとき、当該教師はAの目線に合わせるため、しゃがんでいた)。

②そこに当該児童(被上告人、原告)が通りかかり、当該教師の肩を揉みだした。そこで当該教師は当該児童に対し、肩揉みをやめるよう注意をしたが、当該児童が離れなかったため、当該教師は当該児童の手を振りほどこうとして体をひねった。この際、当該児童は廊下に倒れたが、すぐに立ち上がった。

③そこに6年生の女子数人が通りかかったとき、当該児童と児童Dは女子児童らの足を蹴りだした。そこで当該教師は児童Dの肩を押さえつけ、蹴る行為を制止し、このようなことをしてはならないと注意した。

④教師BがAを宥め終えたようなので、当該教師は職員室に向かおうとしたとき、背後から当該児童が当該教師の臀部を2回蹴り、逃げようとした。そこで当該教師は当該児童を追いかけ、当該児童の胸倉を掴み、大声で「もう、すんなよ」と注意した。当該教師が手を離した際、当該児童は手をついて転ぶ状態になった。

⑤当該児童は同日午後10時ころ大声で泣き、「眼鏡の先生から暴力をされた。」と母親に訴えた。母親からの抗議を受けた学校側は、翌日当該教師に上記行為について説明を受け、そこで校長は母親の勤務先に電話をし、当該教師が当該児童の胸元を掴んで指導したことについてお詫びをするとともに、詳しい事情調査をすることを伝えたところ、母親から同日12時ころ来校したいとの申入れがあり、校長はこれに了解した。

⑤母親は、当該児童が胸元を掴まれたまま床にねじ伏せられた、と言って抗議をした。別の日の午後7時30頃から、母親は学校側に対し、「我が子は成長過程の重要な時期にあり、その過程で恐怖心を植え付けられ心に傷を負った。これが将来に影響すればどうするのか。」、「当該教師の監督責任は管理者である。校長らの今後にも影響するかもしれない。」、「伝統あるA小に当該教師のような先生はいらない。」、「学校側からの謝罪を文書で回答してもらいたい。」、「事案発生から今日までの間に、なぜ我が子に当該教師は謝らなかったのか。」、「自分が要求しているのは当該教師がいなくなることである。」、「警察に突き出そうと思えばできる。」、「教育委員会とか天草教育事務所、県教育委員会に言うこともできる。」、「弁護士に相談することもできる。」、「当該教師のような子供を育てた親の顔が見てみたい。」などといった抗議を一方的に続け、最後には母親の実兄が母親の帰宅を何度も促す状況が続き、午前0時ころ話し合いは終了した。

⑥ちなみに、当該教師が担任を務める保護者の間では、当該教師が教師としての経験が短い分、子供達への声かけ等での配慮が足りないのではないかと思ったことはあるが、児童とのコミュニケーションは取れているようであるので、心配はしていない,当該教師の指導面における配慮には感謝しているという感想が述べられている。

⑦そこで平成14年12月9日午後2時ころ,当該教師が教師D立ちあいのもと、当該児童に「恐がらせてごめんね。」と謝罪をし、立ち会った教師が、「どうする。許してあげる。」と問いかけたところ、当該児童は「うん。」と返事をし、当該教師を特に恐がっている様子はなく、普通であった。

⑧後日、再度母親との話し合いをすることにした学校側に対し母親は、以下のような内容のことを話した。① 当該教師は我が子に蹴られても痛くもかゆくもなかったはずだ。②当該教師はE教諭とできている。そして、2人は口裏を合わせている。E教諭は嘘をついている。③保護者の許可を受けずに当該教師が謝罪したということはどういうことだ。保護者への謝りも済んでいない。④我が子は当該教師に恐怖感を持っている。今朝おねしょしたのも当該教師と接触した恐怖感からだ。⑤当該教師は告訴すれば逮捕される。⑥昼休み時間くらいで話をつけられるわけではない。ちょっと話をして私を追い返そうとしているのだ。

⑨その後も母親は学校や教育委員会に対し、なぜ暴力教師をそのまま放っておくのか、僅か8歳の子供に手を出すというのは犯罪である、後で告訴もできる、教育委員会にこのことを伝えれば、管理職に「おとがめ」があって当然のことだ、校長らはこのことをうやむやにしようとしている、本渡市立A小学校の管理体制がなっていない、管理職として当該教師を教育委員会に突き出すべきであるなどと再三にわたり抗議を繰り返した。

⑩その後、母親は我が子を病院に連れて行き、PTSDの診断を受け、PTSDと診断され、これをもって警察に向かい、捜査を依頼した。そして母親は、平成18年に入ってから、当該教師を刑事告訴した。



 長々と事実関係を叙述して恐縮だが、その理由は、この母親がいかに狂っているのかを証明するためである。この事実関係を前にし、私は当該教師が不憫で仕方ない気持ちに駆られた。最高裁が、判決文の中で「極めて激しい抗議行動」と述べた理由がよく分かる。

 

 確かに体罰は問題である。理不尽な暴力はあってはならない。しかし、体罰を全く禁止するのも行き過ぎであるのではないか。

 「話せば分かる」というが、そのためには、どうして自分が怒られ、ないしは諭されているのか、理解できる心がなければ、そのテーゼは成立しない。「話せば分かる」状態になるには、それがどうしていけないことなのか理解できねばならない。善悪を分別する能力に欠ける子供ならなおのことのはずだ。

 子供が悪いことをしたら問答無用で暴力によって解決するのは論外だが、その行為がなぜいけないのか、悪いことなのか、時には体をもって教えることも必要なはずだ。これは暴力による恐怖で畏怖させ、子供をねじ伏せるということとは次元が全く違う。

 私など、親から何度も注意繰り返されても「悪いこと」をやめなかった場合、「いい加減にしないとぶつよ!」と言われたものだ。それによって私は「悪いこと」をやめたものだ(もちろん、他にも親や兄弟などからの説諭もあったが)。これこそが、今の教育に決定的に欠けてしまっていることだと思う。



 ところで、どうして人類は戦争をやめられないのだろう。なぜ、警察による暴力は許されるのか。「正しい暴力」もあるのか。

 世の中が「話せば分かる」人ばかりで、皆が慈悲に満ちていれば、戦争はなくなるのだろう。しかし、それは絵空事であることは誰にでも分かるはずだ。われわれ人間は実は、暴力を全く排除した状態では、平和を創出することは不可能で、暴力によって担保された、擬似的な平和しか享受できないのだ。

 たとえば、警察が全く銃を撃つことをやめ、目の前の犯罪者に暴力を行使することが否定されれば、警察の存在意味はなくなるだろう。それは、暴力という最後の抑止力を放棄してしまっているからだ。



 それから、普段法律について述べている私が言うことがあってはならないことだと思うが、権利だの人権だの、そういった、時には道徳や倫理と真っ向から対立するものばかりを幼いころから、「生まれながらにして持っている」と教え、子供に扱いきれない猛獣(権利、人権)を与えることは、子供にとっても社会にとっても不幸なことなのではないか。

 悪いことをすれば怒られる。それでも言うことを聞かない場合は、体をもってそれがなぜいけないことなのか教えてやる。これこそが教育者としての教師がやるべき本当の仕事なのではないか。

 しかしながら学校教育法において体罰が禁止されている以上、体罰をすることはできないが、本件におけるような程度の有形力の行使さえも認めないとなれば、それは原告側が述べるように、教育の硬直化を招き、かえって教育上支障をきたすことは明白であるので、最高裁の判断は学校教育法の体罰の禁止と、社会通念を両方考慮したものとして妥当である。全国の学校は、こういうモンスターに怖気づくことなく、毅然とした指導をしていってもらいたい。

続「世襲制限」について

2009年04月27日 | 憲法関係
「世襲」衆院選の争点に急浮上(読売新聞) - goo ニュース

 親族の地盤や看板などを受け継ぐ「世襲」候補の立候補制限が衆院選の争点として急浮上している。
 世襲議員の多い自民党と、比較的少ない民主党との間で、対応に違いがあるからで、議論は過熱気味だ。
 民主党の岡田克也副代表は25日、熊本県菊池市で講演し、「世襲は日本の民主主義を弱めている。世襲を認めない民主党、認めるべきだという自民党と違いが出ている」と訴えた。
 民主党の世襲衆院議員は全111人中16人(読売新聞調べ)。
 一方の自民党。
 世襲制限の公約化の先頭に立つ 菅義偉選挙対策副委員長は5月の大型連休明けに世襲制限の具体策を考える勉強会を発足させる方針だ。働きながら大学を卒業し、国会議員秘書などを経て衆院議員になっただけに、「党の体質が国民に嫌われている」と危機感を隠さない。一部の幹部や若手議員らが同調し、同じ選挙区内での親族候補の出馬制限を党の内規で定めるなどの案が浮上している。
 しかし、自民党の世襲衆院議員は107人と、党所属衆院議員(303人)の3分の1を超える(読売新聞調べ)。父も衆院議員だった高村正彦・前外相は「(中国最高実力者だった)トウ小平は『黒い猫でも白い猫でも、ネズミを捕る猫がよい猫だ』と言った。2世だろうが、たたき上げだろうが、国民のためになる政治家はよい政治家だ」と指摘する。
 舛添厚生労働相は24日の記者会見で、「有権者は政治家の質を見て判断する。看板、地盤、かばんが意味を持たない時代だ」と語った。



 まず前回も同じようなことを述べたが、世襲議員であっても選挙という国民の審判を受けて当選してきているのであって、世襲ということ以外を除けば他の非世襲議員と同じ土俵で勝負をして議員バッジを手にしているのである。

 そもそも、国民は世襲であろうとなかろうと、国政を担うに相応しいと思った人物に投票をしているはずだ。もし国民の多くが世襲は制限するべきだ、ないしは世襲は好ましくないと考えているのならば、わざわざ内規であろうと法律であろうと、規制するまでもなくそのような世襲議員は淘汰されるはずだ。

 これも以前述べたことだが、それでは世襲でない議員が優れているかと言えばこれも一概に言いきれない。それでは、杉村大蔵や横峯良郎、辻本清美らは世襲議員ではないが、彼らが何か優れた業績なり功績を残しているか?「こんな奴でも国会議員はできるのか!」と憤りこそ感じれど、彼らをみて「やっぱり世襲でない国会議員は一味違う」と思う人がいるだろうか?



 だが、何よりも呆れるのは、世襲制限を法をもって実現しようと画策する輩が存在することだ。

 以前私がこの話題について書いた時「有害な者」と名指しした社民の福島瑞穂は、「憲法上の職業選択の自由はあるが、それを超える利益があれば、法律を作ってもぎりぎり大丈夫かもしれない」などと述べたという(時事通信)。やはり有害であったが、驚くべきことに、普段しきりに憲法の重要性を説いている割に、この程度の考えしか持てないこの女は、これでも弁護士資格保有者なのである。

 だいたい、「ぎりぎり大丈夫」とは何なのか。私はぎりぎりどころか明らかにアウトだと思っている。彼女が愛してやまない日本国憲法(皮肉を込めて「平和憲法」とでも呼んでやろうか。)22条1項には、「何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。」と規定されている。

 弁護士出身の福島サンには釈迦に説法だろうが、封建的な時代は身分制度等によって職業選択の自由は大きく制限されてきた。しかし、近代の民主主義と資本主義経済体制によって各人の職業選択の自由は認められ、これを明文をもって規定したのが憲法22条である。すなわち、人々が生きていく上で必須となる職業を、他からの制約を受けることなく決定できる権利、それが憲法22条の職業選択の自由である。

 職業選択の自由と言っても、確かに現実社会において、それが全く自由な状態に置かれているわけではない。医師になるには医学部に入り国家試験に合格しなければならないし、公務員になるには各自治体で行われる公務員試験をパスしなければならない。

 しかし、これらは各人の頑張り次第で何とかなるハードルであるが、国会議員の子息だからという理由のみをもって、親と同じ職業に子が望んでも就けなくなる世襲制限とは、同じ職業選択の自由への制限であっても、全く次元を異にするものである。

 前者の場合、各人に機会は平等に与えられているが、後者の場合、その者にはどうしようもできない「どの両親から生まれてきたか」ということによって一律に判断されてしまうことになり、これは「門地(family origin)」によって差別をしてはならないと定める法の下の平等(憲法14条)に反することになる。憲法は社会的身分による差別を禁止している。社会的身分とは、「自己の意志をもってしては離れることのできない固定した地位」のことを言う。



 職業選択の自由であれば、それを規制する法律には合憲性の推定が働くことになっているが、法の下の平等という、人々が権利と自由を享受するにあたり不可欠な前提について規制する法律には合憲性の推定は働かない。特に、14条後段で具体的に挙げて禁止している差別(その中に今回問題となる「社会的身分」と「門地」は含まれる。)に関して規定する法律は、本来民主主義社会において許されないため、違憲性の推定が働き、厳格な審査基準によって違憲性が判断されなければならないとされている。

 具体的には、立法の目的が必要不可欠なものであり、差別的取扱いが必要最小限度に留まっていることが必要になる。つまり、世襲の制限が必要不可欠なものであり、世襲を制限するという差別的取扱いが必要最小限度に留まっていなければ、世襲を制限する法律は憲法違反になる。

 それではこの基準に立って世襲制限の法制化について見てみると、まず、立法の目的(世襲の制限)が必要不可欠かと聞かれれば、それはイエスとは言えないだろう。

 世襲議員を選ぶのも選ばないのも国民(有権者)の自由であり、世襲議員に落選して欲しいならば、その議員に投票しなければいい(それにもかかわらず当選した場合、それが民意ということで、そこまで制限することはできない)。それにもかかわらず、わざわざ法律をもって世襲を制限することが必要不可欠なこととは到底思えない。

 次に、差別的取扱いが必要最小限度に留まっているかだが、世襲(親が国会議員)であるということをもって、もはやその子息は立候補できないのだから、これが必要最小限度の差別的取扱いと言うことはできないだろう。親が国会議員だからという一理をもって、国会議員になりたいという望みが叶えられなくなるのだから。



 それから、世襲の制限は、参政権の侵害という面からも問題を含んでいる。日本国民は一定の年齢に達すれば、誰であろうと国の政治に参加する権利を有することになる。国民に対し、自ら国民の代表者になることを権利として保障しなければ、統治者と被統治者とが分離してしまい、国民主権を実現することはできなくなってしまう。

 なお、立候補の自由は、「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。」と規定する憲法15条1項によって定められているとされる。

 選挙権の自由を制限することが許されるのは、公職選挙法の16章(221条~255条の4)において規定されているような場合に限ると考えるべきだ。その人物の能力や資質さえも全く度外視し、ただ「世襲だから」ということをもって制限を加えるような法律には、法の根拠となる正義がなく、その上その者ではどうすることもできない事情によって自由を剥奪するものである。よって、「ぎりぎり大丈夫」どころか、断じて認められないということが、これで明らかになったであろう。



 世襲議員がその党の何割を占めているかなど関係ない。世襲であっても有為な人材はいるし、世襲でなくとも無能な者もいる。だが、それは国民自身が下した判断の結果であって、それを法律(当然内規も含む)をもって縛りをかけることだけは言語道断であるということを指摘しておく。

民主は勘違いするな

2009年04月26日 | 国政事情考察
名古屋市長に河村氏当確 与党支援候補ら破る(共同通信) - goo ニュース

 任期満了に伴う名古屋市長選は26日投票、即日開票の結果、無所属新人の前衆院議員河村たかし氏(60)=民主推薦=が、自民、公明両党の県組織が支持する元中部経済産業局長細川昌彦氏(54)、愛知県商工団体連合会長太田義郎氏(65)=共産推薦=ら無所属新人3人を破り、当選確実となった。大型選挙の千葉、秋田両県知事選で続いた民主党系候補の連敗はストップした。



 これまで民主は千葉知事選をはじめ、小沢氏の秘書逮捕以降に行われた選挙で敗北を重ねてきた。今回の名古屋市長選で負ければ、小沢の首の皮が更に薄くなるところだったろう。確かに今回は民主の候補が当選はした。しかし、これを国民(名古屋市民の投票行為をもって国民の意思と見るのは短絡的だが。)が小沢民主を容認したことと捉えるのは大間違いである。

 毎日新聞が今月10・11日に行った世論調査によれば、小沢氏の辞任を求める声は72%と、依然高い。他の新聞社等が行った調査でも、数値こそ異なれど同様の結果が出ていることは周知のことだ。小沢民主への風当たりの厳しさに変化は見られない。



 それでは、今回の河村氏勝利の要因は一体何だったのだろうか。ここが最も重要な点である。

 思うに、河村氏は「テレビタックル」や「朝ズバッ!」等への出演など、マスコミへの露出が国会議員の中でも非常に多い人物である。すなわち、国民からみれば河村氏は、良く知った顔なのである。「テレビでよく見る河村さん」という印象が強く、これが抜群の知名度となり、票を集める要因になったことは間違いない。

 しかも河村氏はの選挙区は名古屋1区であり、名古屋市を拠点としている。地元名古屋から出馬し衆院選で5選をしているのだから、その知名度は抜群である。

 では、河村氏に対して自民が立てた候補者である中部大学経済学部教授の細川昌彦氏は、河村氏に比べ知名度という点で票を集めるにあたり、有利であったろうか。どちらのほうが知名度があるか、誰が見ても明らかだろう。

 だから私は、今回の名古屋市長選は、もしかしたら自民は負けを覚悟して、勝てたら儲けものという感覚だったのではないかと思っている。よって、敗北も想定の範囲内のことだったのではないか。

 もちろん、両氏が掲げた政策が選挙の結果に影響を与えたとは思うが、それよりも何も、知名度が勝敗を分けたと言っていいと思う。所詮選挙と言っても人気投票の域を脱しきれないものなのだ。

 このように、当初から知名度において抜群に優位に立つ河村氏が、万が一でも敗北をしようものなら、それこそ今まで以上に小沢氏の進退問題がクローズアップされたであろう。私からすれば、民主が勝てて当然の選挙であったに過ぎない。これで国民からの批判が弱くなると思ったら、それは勘違いも甚だしいと言わねばならない。



 ここまで河村氏に批判的な感じで今回の選挙を考察したが、個人的には河村氏は嫌いではない。むしろ、歴史認識や憲法改正へのスタンスには好感が持てる。それにしても、元官僚を候補者として持ってくるいつもの自民の発想は何とかならないものか。官僚への風当たりが厳しいことを弁えているのだろうか。

鳩山さん、矛盾してることに気付きませんか?

2009年04月25日 | 外国人の人権
“炎上発言”は「愛のテーマ」 鳩山民主幹事長、会見で真意説明(産経新聞) - goo ニュース

 民主党の鳩山由紀夫幹事長が、インターネット上で永住外国人への地方参政権付与の必要性を主張し、ネット掲示板に批判的な書き込みが殺到した問題で、鳩山幹事長は24日、「日本列島は日本人だけの所有物じゃない」との発言の真意を問われ、「これは愛のテーマ。地球は生きとし生けるすべての者のもので、日本列島も同じだ」などと説明した。
 鳩山幹事長は党本部で行われた記者会見で、「これ(発言)は大きなテーマ。まさに愛のテーマだ。(自らが)友愛と言っている原点がそこにあるからだ。地球は生きとし生けるすべての者のものだ。日本列島も同じだ。すべての人間のみならず、動物や植物、そういった生物の所有物だと考えている」と持論を力説。
 さらに、「そこに住んでいる人たちを排斥するという発想ではなく、権利もできるだけ認めて差し上げる。多くの税金を、同じように払ってこられた方々の権利を認めて差し上げるべきではないか。日本は鎖国をしているわけではない。もっと多くの人に喜んでもらえるためには、地方での参政権は付与されてしかるべきではないかと思っている」などと述べた。国政参政権付与については、否定的な考えを示した。
 鳩山幹事長は、インターネットの動画サイト「ニコニコ動画」に17日に出演。「定住外国人は税金を納め、一生懸命頑張っている。その人たちに参政権ぐらい当然付与されるべきだと思っている」「日本列島は日本人だけの所有物じゃない」などと発言。ネット掲示板に批判的な書き込みが殺到して“騒動”となっていた。



 これは国家否定の発想と看做してよいだろう。次の内閣を担うかも知れない人物が、このような貧弱な発想しか持てていないことは極めて由々しき事態だが、ここでは個人の信条についてとやかく言う前に、彼のこの持論が、実は矛盾を多々包含していることを指摘してみたい。



 まず、鳩山氏は「愛のテーマ」などと意味不明なことを口走っているが、その前に、日本列島を「所有する」とは、一体どういう意味なのだろうか。所有するということは、当然にそこには「所有者」がいるということが前提になるが、では、日本列島の所有者とは一体誰のことを指すのか。

 日本列島の「所有者」を強いて挙げるならば、それは日本「国」であろう。つまり、日本という国家が日本列島という領土を所有している。ここで、国家というものが成立するには3つの要素が必要になる。ドイツの法学者であったゲオルグ・イェリネックが提唱したいわゆる「国家の三要素」と呼ばれるものがそれである。

 イェリネックの国家の三要素によれば、国家は、主権・領土・国民の3つが揃ってはじめて国家として成立する。この考え方は現在、国際法上、国家の承認要件とされ、これらが揃っていない場合、国家承認はされない。しかしながら、鳩山氏の「愛のテーマ」のなかには、これら国家にとって必須の要素がまるっきり欠けている。

 まず第一に、国家の要素である領土について、鳩山氏の発想ではこれが否定される。日本列島は、「生きとし生けるすべての者のものだ」からだ。「すべての者のもの」ということは、そこには領土という概念は存在しない。そもそも領土の「領」という字の語源は、「他を支配し、統治すること」という意味である。だが、鳩山氏の発想からはこうした概念が導き出されることはない。

 次に、主権もまた否定される。参政権とはその国の舵取りを行う権利であって、まさに国民「主権」の発露そのものだからである。その国の政治(国政、地方政治問わず。)に参画し、居住者(resident)としてではなく、国籍を有する国民(citizen)として、政治に選挙権の行使としての投票行為をもって意思表明する。それが参政権という権利だからだ。

 さらに、国民という概念も否定されることになる。国民とは字の通り、その国の民のことである。その国の国民と言うからには、その国に所属している証明、すなわち国籍を有していなければならない。そして、日本国籍保持者のみに許される参政権の行使を、日本国籍保持者以外にも認めようというのだから、国民の概念も否定ないしは極めて曖昧なものになる。

 したがって、鳩山氏の「愛のテーマ」からは国家の三要素を抽出することはできない。



 それでは、次は、鳩山氏の「愛のテーマ」と、普段彼をはじめ民主党が主張していることとが、全く相いれない矛盾したものであることを証明してみせよう。

 先述したとおり、鳩山氏の「愛のテーマ」は、国家否定の思想そのものである。それでは彼の「愛のテーマ」に従い、国家を否定してみよう。


国家を否定して生じる矛盾その1。政権交代が無意味になる。

 政権を奪取しても、その政権が動かす国家が存在しないから。


国家を否定して生じる矛盾その2。党是の「国連主義」の破綻。

 国連とは、地球上に存在する国家の集まりだから。「愛のテーマ」を実行するには、まずは国連を脱退しよう。


国家を否定して生じる矛盾その3。憲法を掲げる無意味。

 憲法とは、その国の存在を示す国家の基本法だから。
 ここでもっと彼の矛盾を突くならば、参政権も国家という権利の行使の対象があるから行使できる権利であって、しかもその権利は憲法の規定をもって容認されている。つまり、憲法なきところに参政権なし。


 だが、一番の矛盾は、「国政参政権付与については、否定的な考えを示した」ことだ。

 私としては、鳩山氏がここまで述べたのに、どうして国政レベルの参政権は認められないのか、全く理解できない。「愛のテーマ」の中で、国政レベルの参政権と、地方レベルの参政権は、どういった基準で線引きされているのか。日本列島は日本人だけの所有物ではないのなら、国政レベルだろうが関係なく参政権を付与してもいいと言い切れなければ、彼が述べた壮大な理想論は瞬く間に瓦解するに違いない。



 それから、もう何度も指摘していることだが、納税をしているから参政権が認められるという論理は全くもっておかしなものである。

 納税の見返りは、水道や警察といった公共サービスの享受であって、参政権が納税の見返りに付与されているのではない。もし参政権が納税の見返りに付与されるという理解を採るならば、それは戦前の制限選挙と同じであるだけではなく、それこそ20歳以上の国民に選挙権を平等に付与した法の趣旨(普通選挙の実施)に真っ向から対立してしまうことになるからだ。

 鳩山氏の参政権についての発想は、100年前のレベルである。



 最後に、「もっと多くの人に喜んでもらえるために」権利は付与されるものではない。それでは、もっともっと喜んでもらうために国政レベルの参政権も与えろ、という主張も当然に成立する。権利は頑張ったご褒美に与えられるものではない(もっとも、鳩山氏にはその権利を「与える主体」は一体誰なのかと聞いてみたいところだが)。

 敢えてリバタリアニズム的視点に立って、鳩山氏の「権利は与えるもの」という発想について批判すると、もし権利が彼の言うように「与えられるもの」だとすれば、逆に奪うことも当然に可能になる。

 「こうした自由は、基本的に人々の行動を束縛することを原則とし、その例外として認められる権利だから、権力者の気が変われば容易に剥奪されてしまう」(池田信夫『ハイエク 知識社会の自由主義』91頁)ということになる。この発想が、普段彼が口にしている様々な発言と、そして民主党の政策とも矛盾していることは容易に分かる。



 鳩山よ、日本列島は日本人だけのものではないと言うのなら、参政権を与えろとのたまう者達の故郷である韓国に行って、「韓国は韓国人だけのものではない。だから日本人にも参政権を与えろ」と言ってみればいい。彼らがどういう反応をするだろうか。

 外国人参政権推進の論拠がこの程度とは。片腹痛いとはこのことだ。

「世襲制限」について

2009年04月24日 | 国政事情考察
民主の世襲制限に批判続出=「愚の骨頂」「機会は平等に」-各閣僚(時事通信) - goo ニュース

 民主党が次期衆院選から国会議員の「世襲候補」の同一選挙区からの立候補を制限する方針を決めたことに関し、世襲議員である各閣僚から24日午前の記者会見で、世襲制限への批判や反論が相次いだ。
 鳩山邦夫総務相は「非常に中途半端な内容だ。自分たちは(世襲で)いいけど、後(の人)は駄目だというのは愚の骨頂だ」と批判。「どうせなら(民主党代表の)小沢一郎さんも(同党幹事長の)鳩山由紀夫さんも鳩山邦夫も出るなよ、とやれば徹底している」と皮肉った。
 浜田靖一防衛相は「安易に(近く)選挙があるとみられるときに議論するのでなく、冷静に話すべきだ」と慎重な論議が必要と強調。石破茂農水相は「あらゆる人に(選挙に)出る機会が平等に保障されるべきだ。憲法論がクリアできるかどうか難しいのではないか」と指摘した。
 小渕優子少子化担当相も「世襲という理由だけで良い悪いと決めるのは乱暴かと思う」と言及。中曽根弘文外相は「つまみ食い的にここが問題になったから(変えるべきだ)というのが最近多い」と不快感を示し、自身は(中曽根康弘元首相の)「2世」だが、参院議員で地盤を受け継いでいないことから、世襲議員ではないと主張した。
 一方、野田聖子消費者行政担当相は「世襲制限よりも女性の比率を高める内規をつくった方が前向きではないか」と述べた。



 記事にもあるように、次期衆院選を睨んでか、俄かに国会議員の世襲制限論が脚光を浴びているように思える。

 まず、世襲は是か非かということが問題の根底にあると思われるが、これは一概に言いきれることではないだろう。世襲が良い影響をもたらす場合もあればそうでない場合もある。つまり、ケースバイケースということだ。

 このことについて民間企業をみてみると、自動車メーカーでいえばトヨタやスズキ、飲料系メーカーではサントリー、ゼネコンでは竹中工務店と、多くの企業において同族経営は行われている。過去に同族経営を行っていた企業も挙げれば、パナソニックや三洋電機、ダイエー、西武などがある。

 しかしながら、トヨタやサントリーなど前者は経営の世襲で成功してきたが、ダイエーなど後者は、世襲経営によって会社を傾かせてしまった。その原因はすなわち、世襲経営のやり方である。トヨタやサントリー(サントリーは08年12月期に、過去最高の1兆5129億円の売上高を記録している。)が世襲経営でも成功しているのは、経済ジャーナリストの財部誠一氏によれば、文化や理念を守り、社員を大切にし、たとえ赤字続きでも長期的視野に立って製品開発を続けることができるからであるという。

 反対に、世襲経営によって失敗するパターンとは、ダイエーの場合、創業者の中内功氏が経営を自分の息子に継がせるため、息子の昇進の妨げになる有能な人材を徹底的に排除したことが世襲経営の失敗を招いた。三洋電機の場合は、世襲ジュニアの暴走が経営を傾かせた。

 このように、世襲と一口で言っても、それはまさにケースバイケースであって、世襲=悪とは言い切れない事情があるのだ。世襲といえども、そこにはメリットもあり、世襲を制限した場合、後継者が有為な人材であれば、それだけでその人材を殺してしまうことになり、かえって社会全体にとってマイナスということもあり得る。



 翻って国会議員の世襲制限について考えてみると、当然世襲で当選してきた国会議員でも有為な人材はいるのであって、徒に世襲の弊害ばかりが強調されると、せっかくの人材も活躍の場がなくなってしまうことになる。世襲議員であっても、安倍晋三氏や西村真悟氏のように有為な人材もあるし、逆に世襲でなくとも、福島瑞穂や岡崎トミ子などのように、全く使えないどころか、有害な者もいる。

 そもそも、世襲について法をもって規制しようとすることが理解できない。弊害が生じているものがあれば、何でもかんでも法をもって対処すればいいということにはならないはずだ。それから、どうして世襲制限の対象が国会議員のみに限定されているのかも理解できない。選挙を間近に控えたための国民のご機嫌取りのように思える。

 国会議員の世襲について確かに世論の目は厳しい。しかし当然のことながら、世襲議員も他の非世襲議員と同じく、選挙による国民の審判を受けて国会議員になっているのだ。世襲だからといってエスカレーター式に議員バッジを獲得しているわけではない。

 世襲議員による弊害を訴えたいのなら、国民がもっと「人を見る目」を養えばいい。国民も国民だ。批判の対象となっている世襲議員を国会に送り込んでいるのは他ならぬ国民自身なのだから。自分たちでそうした人材を国会に送っておきながら、「世襲議員はけしからん」とは、クレームの域であるとさえ言える。

 田中角栄時代の格言だが、政治家になるには、地盤・看板・カバン(経済力)の3つが重要であり、これらを積極的に活用して国会議員になることは、何ら非難されるべきことではない。なぜならば、これも実力のうちだからだ。



 むしろ私としては、政治家になるために立候補し、当選するまでにかかる莫大な金額に対する国家による補助こそ重要なのではないかと思う。これがネックになって政治への意志があるにもかかわらず、なかなか立候補できないという人も少なくないはずだ。

 結局世襲議員がどうして大量に当選するかといえば、その原因の一つに潤沢な経済力というものが考えられる。言い方は悪いが、カネにモノを言わせてる面もある。潤沢な資金と確固たる地盤、そして親の知名度、これらが混然一体となって世襲議員は当選をものにしているのである。

 そうであるならば、せめて経済格差だけは、国家の補助によって埋めることはできないだろうか。俗な言い方だが、経済的な面においてもっとお手軽に立候補できる仕組みを整える必要があるのではないか。

 そうすれば、もっと国会議員選挙にも競争原理が働き、有権者の選択肢の幅も広がり、世襲議員であっても、親の背中におんぶに抱っことはいかなくなる。つまり、政策の競い合いである。政策を競い合うことによって国民がよりよい政策を提示した者を国会に送り込む。こうなれば議員の世襲をわざわざ制限する必要もなくなるのではないか。



 世襲もメリットとデメリットがある。そのことをもっと認識して、情緒論ではなく、冷静な議論をするべきだ。世論に阿り、国民のご機嫌取りに走るポピュリズム政治は必ずダメになり、国家を傾かせることになる。

再掲論文 外国人参政権について

2009年04月23日 | その他
「日本列島は日本人だけの所有物じゃない」 鳩山兄発言“炎上”(産経新聞) - goo ニュース

 民主党の鳩山由紀夫幹事長が、インターネットの動画サイト「ニコニコ動画」に出演し、永住外国人への地方参政権付与が必要だとの認識を示した上で、「日本列島は日本人だけの所有物じゃない」と発言したことが、インターネット掲示板などで“騒動”となっている。
 鳩山幹事長は17日の出演で、「日本人が自信を失っている。自信を失うことで、他の国の血が入ってくることを認めない社会になりつつある」と指摘。「定住外国人は税金を納め、地域に根を生やし、一生懸命頑張っている。その人たちに(地方政治への)参政権ぐらい当然付与されるべきだと思っている」と自説を展開した。
 さらに「日本列島は日本人だけの所有物じゃない。もっと多くの方に喜んでもらえるような土壌にしなくてはだめだ」と断言した。
 一連の発言に対し、ネットユーザーは敏感に反応。産経デジタルが運営するニュースサイト「イザ!」では、「根を生やして生活していることを参政権付与に結びつけるのは、安っぽい同情論」「この人が上にいる限り絶対に民主党を応援できません」「同様の権利が欲しいなら帰化すればいい」という批判のコメントが殺到している。大型掲示板「2ちゃんねる」でも、この内容を取り上げた「スレッド」が乱立した。
 ニコニコ動画は動画配信サイトで、利用者が投稿したコメントが表示される「コメント機能」が特徴。政治家や芸能人が出演する「ニコニコ生放送」というコーナーもある。



 外国人参政権について、これまでここでも幾度か取り上げたが、今回はそれらを一挙に纏めて、外国人参政権導入賛成派の主張を崩しておく。


1、法的に外国人に参政権を付与できるか
2、外国人参政権の裏事情
3、請願権を行使すればいい
4、外国人参政権と人権擁護法案の関係
5、おわりに


1、法的に外国人に参政権を付与できるか

 最初に、外国人に参政権を付与することは現実的に可能なのかどうか、しばしば賛成派がリーディングケースとして持ち出す、最高裁平成7年2月28日判決を中心に、考えてきたいと思う。

 まず、外国人参政権付与に賛成の論者たちは、しばしば「日本に居住している外国人も、納税をしているのだから、参政権を付与すべきだ」と言う。しかし、これは全くの筋違いの発想だと言っておく。
 納税の見返りは、水道や警察といった公共サービスの享受であって、参政権が納税の見返りに付与されているのではない。もし参政権が納税の見返りに付与されるという理解を採るならば、それは戦前の制限選挙と同じであるだけではなく、それこそ20歳以上の国民に選挙権を平等に付与した法の趣旨(普通選挙の実施)に真っ向から対立してしまう。

 次に、永住外国人や特別永住者に限って参政権を付与したとしても、彼らの本籍は日本ではなく海外の国である。つまり、彼らは祖国と日本に二重に参政権を持っていることになる。このことは、「地方公共団体が我が国の統治機構の不可欠の要素をなすもの」と判示した、さきの判決の趣旨にも背くことになりはしないか。

 では、参政権付与賛成論者がしばしば引用する、前記の最高裁判決(平成7年2月28日)の検討に入っていこう。

 この判決で最高裁は確かに、外国人に参政権を付与することは憲法上禁止されているものではない、と述べているが、同時に、参政権を付与しなくとも、それが「違憲の問題を生ずるものではない」とも述べている。つまり、積極的に外国人に参政権を認めたものではないし(現に主文では、日本国民のみに参政権を付与するとした地方自治法11条等が憲法に反しているとして上告した原告の請求を棄却している)、ましてやそれを立法の不作為と断じているのではない、ということは、まず押さえておきたい。

 加えて、この判決で最高裁が先例として引用している最高裁昭和53年10月4日判決(マクリーン事件)では、「わが国の政治的意思決定又はその実施に影響を及ぼす活動」には、外国人の人権は保障されないとしている。
 ということは、たとえ地方自治に限るといえども、「地方公共団体が我が国の統治機構の不可欠の要素をなすもの」と平成7年判決も判示している以上、外国人に参政権が与えられないのは、むしろ当然のことと言っていい。

 そもそも、本来ならばこの平成7年判決を、外国人参政権への道を開いたリーディング・ケースとして捉えること自体が間違っているのだ。
 なぜならば、少し長くなるが、同判決で最高裁は、「地方自治について定める憲法第八章は、九三条二項において、地方公共団体の長、その議会の議員及び法律の定めるその他の官吏は・・・(憲法の)国民主権の原理及びこれに基づく憲法一五条一項の規定の趣旨に鑑み、地方公共団体が我が国の統治機構の不可欠の要素をなすものであることをも併せて考えると、憲法九三条二項に言う「住民」とは、地方公共団体の区域内に住所を有する日本国民を意味するものと解するのが相当であり、(九三条二項は)我が国に在留する外国人に対して、地方公共団体の長、その他議会の議員等の選挙の権利を保障したものということはできない」とはっきりと述べているからだ。

 賛成論者が引用する箇所は、園部裁判官が個人的心情の発露から書いた傍論部分に過ぎないのである(このことは、のちの朝日新聞のインタビューで、園部氏本人が述べている)。なお、後にも先にも、最高裁が正面切って外国人参政権を認めた事例は存在しない。

 ところで、参政権は人権の一つである。これは異論の余地はない。だが、外国人にも保障される人権とは、人権の中でも前国家的に認められるものに限定される。この理解は、判例・通説にもなっている性質説にも適ったものである。
 では、参政権とは前国家的に認められるものであろうか。思うに、国民は国家があってはじめて政治への参画ができるのであって、国家のない状態で参政権を付与しても、それは何の意味も持たないのではないか。言葉遊びのように聞こえるかも知れないが、「国政に参加する」から、参政権なのではなかろうか。
 よって、参政権は前国家的権利ではないので、外国人には参政権の保障は及ばないという結論になる。換言すれば、国家の構成員であることを前提にして行使されるのが、参政権なのである。



2、外国人参政権の裏事情

(1)相互主義のウソ

 中国情報局の記事によれば、次のような、外国人参政権付与が実は全く相互主義ではないという実情が浮かび上がる。以下、一部抜粋。

 野党・ハンナラ党の圧勝で終わった今回の統一地方選挙では、韓国に居住する約20万人の外国人のうち、6726人に選挙権が与えられた。内訳は大陸系の華人が5人、台湾系の華人が6511人、日本人が51人、米国人が8人などだった。
 選挙権の付与は、韓国の永住権を獲得して3年以上が経過した19歳以上の外国人に限定されている。永住権を得るためには、同国で200万ドル以上の投資を行ってきたことや定められた以上の年収があることなど厳しい条件が設定された。

 さぞや韓国の外国人参政権制度はご立派かと思いきや、これの一体どこが相互主義の精神なのか?日本の法案では、年収による制限はおろか、一定の要件(特別永住者など)を満たせば、それだけで付与を許すものである。いかに両国とも単に「外国人参政権」という言葉で一括りにできても、その内容がアンフェアなのか、これだけでもよく分かりそうなものだが、更に平成14年3月の産経新聞の記事によれば、こうも書いてあったという。

 在日韓国人への参政権付与を求めている韓国だが、韓国内の永住外国人に選挙権を与えるとする条項が1日までに選挙法改正案から削除された。
 先月28日に開かれた国会本会議で、選挙法改正案から取り除かれ通過した。本会議前の審議で憲法第一条の「主権は国民にある」との規定に反するとして満場一致で削除された。
 韓国での外国人参政権問題は、金大中大統領が日本政府に在日韓国人への参政権付与を要求してきたことや韓国の「世界化」を目的に推進。国会政治特別委員会で導入に合意していた。

 実は、彼らの国も、今の日本の反対派とほぼ同じような理屈で、外国人参政権付与に反対していたのだ。これだけでも、相互主義などという言葉が真っ赤なウソだということが、よく分かる。

 ところで、上記の中国情報局の記事によれば、台湾系の華人6500人以上に参政権が付与されたとあるが、その台湾では外国人参政権は、国政・地方問わず実現していない。韓国の方たちよ、日本に相互主義を求めるなら、台湾にも同じように相互主義を理由に、参政権付与を主張してください。

(2)帰化を要求するのは酷だのウソ

 産経新聞記者である阿比留瑠比氏によれば、過去平成14年~18年にかけての帰化の事情は次のとおり。

        帰化申請者数   うち韓国・朝鮮籍の者  不許可者数
 平成14年 1万3344人    9188人       107人
   15年 1万5666人   1万1778人      150人
   16年 1万6790人   1万1031人      148人
   17年 1万4666人    9689人       166人
   18年 1万5340人    8531人       255人

 このように、帰化を申請すれば、よほどのことがない限り許されている。世界には、日本以上に帰化の要件の厳しい国は数多くあるが、これでもまだ、参政権が欲しければ帰化を要求することが、酷だと言えるのか?なお、強制連行云々に関しては、詳しい論評が出ているので、そちらを参照されたい。

(3)公明党が積極的に旗を振る理由

 外国人参政権に反対する会によれば、公明が参政権付与に関し、同じ与党である自民党が消極的(ないしは反対)であるにも関わらず、これほどに積極的に動いている理由には、次のような事情が存在するためであるという。以下、当該サイトの静岡新聞2004.10.26 3面「論壇」より抜粋。

 『在日外国人の参政権問題は金大中氏が大統領時代に、池田大作創価学会名誉会長に求め、「布教禁止措置を解く」との合意ができたとされている』『布教に国境はないとするのは結構だが、その国境取り払いを、自分の政党を使って実現しようとするのは政教分離(憲法二〇条)の原則に反する』

 なるほど、公明の支持母体である創価学会がこのような裏取引を行っていたのであるなら、公明が積極的に外国人参政権を実現させようと、自民との間に溝ができるリスクをも省みずに動く理由がよくわかる。



3、請願権を行使すればいい

 ところで、実は既に憲法上、外国人も政治に参加する手立ては「請願権」という権利によって保障されているのだ。

 請願権について憲法16条は、「何人も、損害の救済、公務員の罷免、法律、命令又は規則の制定、廃止又は改正その他の事項に関し、平穏に請願する権利を有し、何人も、かかる請願をしたためにいかなる差別的待遇も受けない」と規定している。「何人も」と規定してあることからも分かるように、請願権は日本人のみならず、外国人であってもその行使は許されるとされる(なお、未成年者も請願権を行使できる)。
 
 請願権とは、地方公共団体を含む国家機関に対し、要望や苦情を述べる権利である。請願権は関係機関を拘束する力はないが、請願を受けた機関は、請願を受理し、誠実に処理する義務を負うとされている。
 請願権の行使としての請願署名の紹介件数は、2002年の当時の数字ではあるが、年間約6000万人以上にのぼるという(ちなみに共産党がトップの件数を誇る)。その内訳に外国人がどれだけ含まれているかは定かではないが、まず間違いなくこの中に外国人が含まれていると考えて差し支えないだろう。

 請願の処理の仕方は、請願法で定められた規定をクリアし、適法な請願の要件を満たしていれば、国会の各議院や地方議会は請願を審査し、採択をし、執行機関が措置をすることがよしと認められれば、これを執行機関に送付することになっている。

 しばしば外国人参政権推進派は、「政治に外国人の声も届けるべきだ」と主張しているように思われるが、もう既に請願権という、憲法上保障された権利によって、外国人であっても、自身の主張を政治の場に反映させるための権利は確保されている。このように、外国人参政権を導入しなくとも、請願権を通じて政治に参画する権利はある。ゆえに請願権は参政権の一種と理解されている。

 政治の場に、自分たちが直接選んだ人間を送り込む選挙権と、既に選挙された人間に対し物申すだけの請願権とは、そもそもその性質が違うと指摘されるかもしれないが、全く外国人が日本の、しかも地方政治でさえも口をさしはさむことは許さないとされているわけではなく、一定の範囲で政治に参画し、意見を言う機会が確保されている以上、外国人の参政権を認める必要はなおのことないと思う。
 
 選挙権とは、その国に所属している国民のみが行使を許された、外国人には認められない特権であると思う。しかし、外国人であっても日本国内に居住する以上、何らかのかたちで政治の影響を受けるのだから、物申すことぐらいは許されたっていい。そこで、この両者のバランスを取るのに請願権が一役買っている。私はこう理解している。



4、外国人参政権と人権擁護法案の関係

 外国人参政権法案と並ぶ稀代の悪法である「人権擁護法案」の法制化に向けた動きが、参院選での自民党敗退、安倍内閣退陣によってか、俄かに活発になっている。そこで今回は、人権擁護法案と外国人参政権法案を同時進行で論じることの「裏の思惑」を、勝手に邪推してみる。

 いわずもがな、人権擁護法案で問題となっている点のひとつが、人権擁護委員に国籍条項が存在しない、というものである。人権擁護委員という機関自体は、人権擁護委員法という、今から約60年近く前に制定された法律によって既に存在しているが、この人権擁護委員就任要件のひとつに、「市町村の議会の議員の選挙権を有する住民」(人権擁護委員法6条3項)という規定があるのはご存知だろうか。つまり、地方議会の選挙権を有していない者は、人権擁護委員になれないというのが、今の法律上の決まりなのだ。

 もう賢明な方ならばお分かりいただけるだろうが、外国人参政権法案による選挙権の付与範囲は地方議会の選挙権である。ということは、外国人参政権法案と人権擁護法案を同時進行で進めて、外国人参政権法案が成立すれば、人権擁護法案が成立したのと同時に既存の人権擁護委員法6条3項の要件も満たせるということだ。

 換言すれば、仮に人権擁護法案が廃案になっても、同法案よりは批判が強くない外国人参政権法案だけでも成立させられれば(両法案どちらが成立可能性が高いかを考えると、外国人参政権法案の方が、メディア規制条項など、左右マスコミから総スカンを喰らうようなものもないので、成立させ易いと思う)、既存の人権擁護委員法の規定に基づいて人権擁護委員に外国人を就任させることは可能となってしまう。

 こうなれば、外国人参政権法案が成立した後に、人権擁護法案の国籍条項の危険性を訴えても、もはや人権擁護委員に外国人が就任できる要件が揃ってしまった以上、無駄ということにもなりかねない(人権擁護法案における人権委員に国籍条件が欠けていても、これを是認したとみなされてしまう)。いわば、外堀を埋められて既成事実を作られるようなものだ。

 外国人参政権法案と人権擁護法案は決して別ものではない。どちらも一蓮托生の稀代の悪法である。反対派は是非このことにも注意を払って欲しい。



5、おわりに

 外国人参政権に言う「外国人」とは、間違いなく在日朝鮮人のことである。もちろん在日朝鮮人の全員が反日で日本嫌いであるとは思わないし、そうでないことも知っている。しかし、残念なことにその多くが反日思想を持っていることは疑いようのない事実だ(同じ在日朝鮮人であっても、総連は反対しているというが)。少なくとも、今回外国人参政権取得に熱心な民団などはそうであろう。祖国に国籍を置きながらせっせと反日活動に勤しむ人たちに参政権を付与するぐらいなら、日本国民の選挙権を下げたほうがまだいいと思うのは私だけだろうか。

国会での事前承認は不要

2009年04月20日 | 憲法9条
海賊法案21日修正協議入り 国会事前承認に与党難色(共同通信) - goo ニュース

 与党と民主、国民新両党は19日、ソマリア沖などでの海賊対策のため自衛隊派遣を随時可能にする海賊対処法案について、21日から修正協議に入ることを決めた。これに関連し19日のNHK番組では、民主党が自衛隊派遣をめぐり国会の事前承認を求めたのに対し、与党は応じられないとの考えを表明した。修正協議は、国会事前承認のほか、海上保安庁の位置付けなどが焦点となる。



 結論から言えば、海賊対策のための自衛隊派遣について、国家での事前承認は不要でいいと思っている。この見解に対して、投げかけられる批判は「それでは文民統制が蔑ろにされかねない」というものであろう。なので以下、この批判について応えていくことにする。



 まず、文民統制(シビリアン・コントロール)とは一言でいえば、軍事組織を議会に責任を負う文民たる大臣によってコントロールし、軍の独走を防ぐ原則のことである。民主主義国家において軍事力を有する場合、須らくどこの国もこの文民統制の原則によって、軍人ではない文民が軍の統制を行っている。

 文民統制とはこのように、文民たる大臣が軍事の統制権を掌握できていれば、基本的には作用しているといえる。したがって、自衛隊の海賊対策にあたり、内閣が国会による事前承認を経てから派遣しなくとも、文民統制の原則には何の影響も及ぼすことはない。

 だいたい、ソマリア沖の海賊対策のために自衛隊を派遣するにせよ、インド洋での補給活動のために派遣するにせよ、自衛隊のほうから内閣に頼み込んで派遣を要請することはできないし、仮にそのようなことがあっても、これを決定するのは文民で組織される内閣である。内閣がノーと言えば自衛隊がどう懇願しようと、海賊対策も給油活動もできない。この意味においても文民統制が作用していると言える。

 文民で組織される内閣が自衛隊の行動について指揮して統制する権限を有している以上、内閣の決定のみで、国会に通さず自衛隊を派遣しても、文民統制の原則からして問題になることはない。

 そして、文民統制の憲法上の根拠とされる66条2項には、「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない。」と規定されているだけで、国会までも文民統制の原則に従って自衛隊を統制せよとは書いていない。あくまでも憲法が想定している文民統制とは、内閣による自衛隊の統制である。

 したがって、文民統制の主体は文民で組織される内閣であって、国会はそれを補強するに過ぎないとも読める。よって、内閣が自衛隊を派遣すると決定すれば、その決定が文民統制に反することにはならない。しかも内閣は行政権の行使について、国会に対して連帯して責任を追っている(憲法66条3項)ので、内閣の決定で自衛隊を海外派遣しても、国会も自衛隊派遣について間接的に文民統制を行えている。

 以上のことから、文民統制上、海賊対策のための自衛隊派遣は、内閣による国会での事後報告のみで足りると考える。



 次に文民統制から離れて、政治的観点から海賊対策法案への国会の事前承認盛り込みについて考えてみる。

 これについては、公明党の山口那津男政調会長が、「ねじれ国会の下、国会の事前承認に委ねられると、非常に不安定な制度になる」と懸念を示したというが、私も同感だ。「ねじれ」が解消されない状態で事前承認条項を設けても、国益のため、迅速かつ適切に自衛隊を派遣できるだろうか。

 もし現在のような議院の政党構成において事前承認条項を設けてしまったならば、社民・共産との協調を重視する民主は昔の社会党のように「反対のための反対」闘争を行うに決まっている。社民・共産などお話にならない売国政党だから(売国度でいえば、公明も変わらないが)、このような「諸悪」との協調を試みる民主と自衛隊派遣についてコンセンサスが得られるわけがなく、徒に時間が浪費され、国益が毀損されていく。

 必要なのは速やかな意思決定である。安全保障は国家の最重要課題かつ不可欠の仕事であるにもかかわらず、これにおいてでさえも党内に巣食う旧社会党系議員らに配慮して共通した認識を持てない民主が、自衛隊の海外派遣について速やかな意思決定ができるわけがない。民主が海賊対策法案において国会の事前承認をどうしても入れたいのであれば、最低でも前原氏レベルの認識を持った者で党執行部を組織することだ。



 ところで、ソマリア沖に自衛隊を派遣することに反対論を主張する人たちは、自衛隊の派遣よりもソマリアの治安改善のほうが先だという。

 しかし、現在のソマリアは、あのタリバーンと同じように過激なイスラム主義を住民に強制し、国際社会から人権侵害を再三指摘されている原理主義組織の「イスラム法廷会議」の支配下にあり、ソマリアの暫定政府を支えていた頼みのエチオピア軍も撤退している。

 しかも現在のソマリアは、1998年7月にソマリア北東部の氏族が自治宣言をし、ガローウェを首都として樹立した自治政府であるプントランドという自治政府が存在し、ここがソマリア沖の海賊の拠点となっていると言われる。国内がこのような状態のソマリアの治安改善は当面の間、望めないのではないだろうか。

 しかし、日本にとってソマリアの治安回復によってソマリア沖の船舶の航行の安全が向上するのであれば、国益に適うことである。よって、ソマリアに存在する現在の脅威から船舶を守るために自衛隊を派遣しつつ、ソマリアの治安改善のためにも行動をする。これはどちらかニ者択一の問題ではなく、並行して可能なことだ。したがって、ソマリア沖への自衛隊派遣反対のためにこのことを持ち出したところで意味はない。



 話が逸れてしまったが、文民統制の観点からも、現在の政情からも、海賊対策法に国会の事前承認条項を設ける必要はないと思われる。

まったくもって正論

2009年04月18日 | 歴史認識
「日本の韓国統治は公平だったと聞いた」石原知事発言(朝日新聞)

 16年五輪の開催候補地視察で、東京を訪れている国際オリンピック委員会(IOC)評価委員会への説明をした石原慎太郎都知事は16日夜、都内で記者会見した。英国人記者から「知事は日本の朝鮮半島への行為を矮小(わいしょう)化しているため開催地に選ばれるべきではないという、韓国での報道を知っているか」と問われ、「ヨーロッパの国によるアジアの植民地統治に比べ、日本の統治は公平だったと朴大統領(朴正熙(パク・チョンヒ)・韓国元大統領)から聞いた」と述べた。
 石原知事は「日本の韓国の統治がすべて正しかったと言った覚えはまったくない」としたうえで、「日本のやったことはむしろ非常に優しくて公平なものだったということをじかに聞いた」と述べた。



 だいたい、「日本の朝鮮半島への行為を矮小化しているため開催地に選ばれるべきではない」とは、どういう理屈なのか、まるで分からない。韓国はIOCと裏工作でもしているのか。日本が自国で五輪を開催するかどうかの決定権がまるで韓国にあるような言い方ではないか。矮小化というか、韓国(朝鮮)こそ日韓併合を大袈裟に騒ぎ、あることないことでっち上げているではないか。



 そもそも「植民地(colony)」における常套政策としては、とにかく植民地の人間を「無教養」にしておくことが肝要なのだ。無教養であれば、植民地支配している国に対する批判的なメディアに触れても、これを現地民は理解することができない。識字能力がなければ、本も読めないし文字も書けない。そうすれば植民地支配をする国を脅かす思想や書物、情報に触れてもこれが脅威になることはないし、そもそも、教養のない人間ほど統治しやすい。

 ところが、日本が朝鮮に行った「統治」はこれとは全く逆だった。ご存じのとおり、現在のソウル大学校は日本政府が朝鮮に設置した京城帝國大学が前身であるし、これは現在日本にある元帝国大学である大阪大学、名古屋大学よりも先に設置されている。

 このように、日本は朝鮮人の子息の教育にも力を注いだ。日本は、併合時半島に100校程しかなく、勉強がしたくても満足に学校に行けない子供もいた。そのため、朝鮮人の要望を受け入れたりして、最終的には(1942年)、一面に二校(500人あたりに1校)の学校を設置した。当時の日本ですら、こんなに学校は設置されていなかった。

 それなのにどうして、韓国併合を、植民地を自国のための原料工場とし、搾取のための道具としかみない欧米列強が当時行っていた植民地政策と同視できるだろうか。



 まだある。ロシアの新聞ジュルナル・ド・サン・ぺテルスブール紙は、「朝鮮は、日本の保護統治下に入って以来、夢のような変化の道を歩んでいる。見る見るうちに、広大な鉄道網や電信電話網が敷かれた。公共建築物や工場が立ち並び、日に日に増え続ける子供たちは学校に通っている。農業も盛んになっている。輸出は5年で3倍以上になった。財政は、輝かんばかりの状態にある。港は活気に満ちている。司法制度が改革され、司法手続きもヨーロッパの裁判所に決して引けを取らない。・・・この観点に立てば、朝鮮の日本への併合は極東の繁栄と発展の新たな要素となろう。」と論評している(1910年8月26日付)。

 朝鮮総督府司計課長を務めた水田直昌は、「併合は・・・いわゆる植民地視する意向の下に行われたものでないのみならず、積極的には・・・新旧同胞を同一レベルに到達させることを究極の目的とした」と述べ、「少なくとも私達総督府官吏としてその統治に関与してきたものは・・・『朝鮮は日本に従属する植民地』であったなどとは全く考えていなかった」と、日韓併合がいわゆる植民地政策ではないと明確に否定している。朝鮮殖産銀行二代目頭取の有賀光豊は、「朝鮮は、我々がお手伝いして立派な国に育て上げ、その上で本来の持ち主に返すべきだ」と日ごろ主張していたという。

 呉善花拓殖大学教授によれば、日本は朝鮮の植民地経営によって大いに潤ったことはないし、日本は朝鮮の文化を踏みにじるようなこともせず、むしろ、ハングル・漢字教育を進めて、就学率・識字率を向上させ、伝統的な祭祀や民間信仰を温存し、伝統的なコミュニティーの内部に干渉することはなく、旧来の身分制度や土地制度を改革して社会の近代化を進めたという。



 そして、日韓併合によって日本が朝鮮人のアイデンティティを奪った最たるものとしてしばしば槍玉に揚げられる「創氏改名」についても、これは実は強制ではなかったことが判明している。

 以前私がここで批判した水間政憲氏だが、氏によれば、戦前の朝日新聞は創氏改名について、<世紀の歓喜 創氏>(1940年2月14日)、<金さんが一番乗り 京城に相次ぐ改姓者>(1940年2月13日)、<相次ぐ改姓名乗り 平壌府庁へ殺到す>(1940年2月13日)と、「史実」とされるものとはまるで正反対の、好意的な言辞の並ぶ記事であったという。

 しかも、わざわざ強制と捉えないように、<氏の創設は自由 強制と誤解するな 総督らが注意を促す>(1940年3月6日付)ということまで紙面に掲載されている。さらに、創氏改名が実施された後も、日本名に改めることなく活躍した朝鮮人(当時は朝鮮人も「日本人」だが。)もいた。田母神氏も指摘しているように、日本陸軍士官学校26期生だった洪思翊という人物は、陸軍中将にまでなったが、見てのとおり朝鮮名のままだ。

 この他にも、平壌地方法院検事に全一龍という人物が就いたりと、創氏改名が強制ではあり得ないようなことが、きちんと「事実」として記録されている。朝鮮半島の全十三道の選挙が行われ、当選者が発表されたとき、そこには、金胃漢、金在珪といった朝鮮名が見られた(1941年1月23日付)。

 獨協大学名誉教授中村粲先生によれば、創氏改名は、朝鮮総督府が指導したものであるが、それは任意で50銭の収入印紙を付して申請するものであった。創氏の設定にあたっては、日本名にしろとは言っておらず、朝鮮名でも構わないとされた(だから上記のようなことが起こっていた)。創氏を強制した理由は、家族の一体感を強くし、経済活動への支障を防ぐためだった。当時、8割以上の朝鮮人がこぞって創氏改名をしたという。朝鮮人のアイデンティティの否定など、断じて行われていなかったのだ。



 しかしながら、もちろん石原都知事も言うように、朝鮮の併合において行われたこと全てが正しいとは言えないだろうし、朝鮮人に対する差別があったのも事実だ。この点を忘れて負の側面から目をそらすと、それは自慰史観になる。

 だが、石原都知事の発言は上記「事実」に即して、何ら間違っているものとは言えず、まったくもって正論であると言える。

「お涙頂戴劇」の一応の終わり

2009年04月16日 | 外国人の人権
空港で涙流し、抱き合い=ノリコさん両親帰国-フィリピン人一家(時事通信) - goo ニュース

 不法滞在で強制退去を命じられたフィリピン人一家の在留問題で、中学生の長女カルデロン・ノリコさん(13)の両親が13日夜、成田空港をたち帰国した。学業目的で1年間の在留特別許可を得て日本に残るノリコさんは、両親を同空港まで送りに来た。
 ノリコさんは午前中は学校へ行き、午後1時40分ごろ、両親と空港に到着。報道陣が両親に伝えたいことはあるかと尋ねると、うつむきながら「一生会えないというわけではないので、特別なことはない」「できることなら3人でいたい」と話し、袖口で涙をぬぐった。父親のアランさん(36)には、一緒に写った写真を渡したという。
 アランさんも涙ぐみ、「頑張ってほしい」とノリコさんへのメッセージを絞り出すように言葉にし、「日本の皆さんありがとう」と話した。法務省に対し何か言いたいことはとの質問には「娘は13歳の女の子なんです。ただそれだけです」と述べた。
 母親のサラさん(38)はティッシュ箱を抱え終始涙を流しながら「娘は塾に通っている。夜帰るときが心配」とノリコさんを思いやった。
 出国手続き間際まで、3人は抱き合い別れを惜しみ、ノリコさんは両親の姿が見えなくなるまで手を振り続けた。
 ノリコさんは今後、現在住む家で親類と生活する。



 ようやく帰国するのか。これがこのニュースを知ったときの最初の感想である。マスコミはどういうわけか翼賛体制でカルデロン一家をバックアップして見せたが、果たして世論はマスコミの見解と一致していただろうか。マスコミと世論が乖離してはいなかっただろうか。

 少なくとも私の周りの人間は今回の件に関し、両親の不法入国という事実を無視してまでも親子で日本に滞在させるべきだという意見を口にした者はなかった。むしろマスコミの熱心なアジテーションも空しく、不法入国者なのだから、法律に則って国外退去させるべしという見解が圧倒的だった。1814年のウィーン会議を風刺した有名なフレーズ、「会議は踊る、されど進まず」ではないが、「マスコミは踊る、されど国民は踊らず」ではなかったか。

 そして、この「事件」を、まるで何の罪もない平和な家庭に訪れた悲劇のように報道するのはいかがなものか。古館という人は、「自分の家族が同じ目に遭ったらどう思いますか?」などと言っていたが、私の家族は不法入国者ではない。古館がサヨクのバイアスから解放されたとき、同じ言葉を拉致被害者救出に向けて北朝鮮に発することを、そうなることは一生ないと思いつつも、願っている。



 ところで、支援者ら曰く、のり子さんは日本語しかできないというが、これもよくよく考えたら実に怪しいものだ。そもそも両親は生まれも育ちもれっきとしたフィリピン人であり、その両親が家庭で母国語であるフィリピン語を話さず、日本語だけで会話していたということはあり得ないだろう。

 のり子さんが彼女の人生の中で一番多くの時間一緒に居た人間は、両親であろう。もちろん、両親がフィリピン語で話していたからといって自働的に彼女も喋れるようになるとは思わないが、このような環境下において、日本語しか話せないというのには、違和感を持たずにはいられない。

 もし本当に彼女が日本語しか話せないとしたら、それは両親の教育がまずかったということになるのだと思う。普通に考えて、自分たちは不法に入国した、いわば犯罪者である。そうである以上、警察にでもそれがバレれば日本を追い出されることぐらい分かりそうなものだ。にもかかわらず、自分の娘に母国語を教えていないとすれば、それは日本政府が悪いのではなく両親の教育の失敗であり、彼女がフィリピン人でありながら日本語しか話せない原因は両親にある。

 もっとも、私はのり子さんも込みで、一家を日本から強制退去すべきであったと思う。のり子さんはまだ13歳である。13歳であればフィリピン語を習得するスピードも速い。

 以前、大東亜戦争終戦当時20数歳で東欧の国で終戦を迎え、それから60年もの間そこで人生を送った元日本兵がテレビに出ていたが、彼は何と母国語の日本語が殆ど喋れなくなっており、現地の言葉を流暢に(というか、もはや母国語のように)操っていた。そのため、一部は通訳を介して会話をしていた。のり子さんも何年もフィリピンの地で過ごせば、この元日本兵のようになるだろう。しかも彼女にはフィリピン人の両親もいるのだ。

 だいたい、フィリピン人でありながら母国語が話せないというのは、自己のアイデンティティが納得できることなのだろうか。自分の体内に流れている血と同じ血が流れている国民の言語が話せない、聞けない、読めないということに、自分の中でジレンマを感じないのか。「のり子」という名を持ってはいても、彼女は紛れもなくフィリピン人なのだから。



 この事件は、これで終わりなのではなく、これは終わりのように見える始まりである。カルデロン一家を支持した勢力はこれをお涙頂戴の悲劇にして、感情論で法を揺るがしにかかってくるだろう。それは今この現在においても水面下ではじまっているだろうが、これが表面化するときは、のり子さんの両親が再入国するときだ。

 だが、不法入国者であっても不法入国した国で子供を産み、暮らしていれば不法が合法になるという理屈は、これまでも述べてきたように絶対に間違っている。欧米がそのようなシステムを採用していようと右に倣う必要はない。スイスや中東の入管法は日本と同程度か、それよりも厳しいと聞く。欧米が世界標準ではないし、必ずしも欧米のやっていることが正しいとも限らない。

 不法入国者から生まれてくる子供が不幸にならないためにも、不法入国者に対する監視・摘発体制の一層の強化が望まれる。犯罪者が犯罪者でなくなるとき、それは刑の執行が終わったときであって、お涙頂戴の悲劇を演じ切ったときではない。

そもそも子連れでパチンコするな

2009年04月12日 | 民事法関係
親パチンコ中、子が交通事故 「店にも責任」の判決(朝日新聞) - goo ニュース

 両親がパチンコ中に子どもが店外で交通事故に遭った場合、パチンコ店側に責任があるかが争点となった訴訟の控訴審判決が10日、福岡高裁であった。牧弘二裁判長は「幼児同伴の客の入店を許す以上、幼児の監護を補助すべき義務があった」とパチンコ店経営会社の過失を認定し、同社を含む関係者に総額約650万円の支払いを命じた。
 判決によると、大分市のパチンコ店に04年6月、2歳の男児と女児が双方の両親に連れられ入店。パチンコ玉を運ぶ台車に女児が乗り、男児が押して遊んでいた際、店外に出てしまい、国道で乗用車にはねられて女児が死亡した。



 タイトルにも記載したが、そもそも子供を連れてパチンコ屋に行く時点で、親の程度が知れる。パチンコ屋は子供を連れて行くような施設ではないし、あの騒音と空気の悪さは、子供の成長にも悪影響を及ぼすだろう。それでもパチンコをしたいなら、夫婦揃って行かないで、どっちかが行っている間は、どっちが家で子供の世話をしていればよろしい。にもかかわらず、パチンコ屋と一緒に行った両親を訴えるというのは、理解に苦しむ行動である。

 この両親(原告)は、少しは自分たちのしたことの重大さを認識して、悔いたりはしたのだろうか。第一次的には、確実に、子供が亡くなったことの原因は、亡くなった子供の両親にある。はっきり言おう。これは両親の監督不行きが起こした結果に過ぎない。常識的には、パチンコ屋と一緒に行った両親を訴えるという行動には、違和感を禁じ得ない。しかしながら、裁判になった以上、法律論的に検討しなければならなくなる。そこで以下、自分なりに法律論的に検討してみることにする。



 今回問題になった主たる点として、「安全配慮義務」の違反があったかどうか、という点がある。

 安全配慮義務とは、「ある法律関係に基づいて特別な社会的接触の関係に入った当事者間において、当該法律関係の付随的義務として当事者の一方又は双方が相手方に対して信義則上負う義務として一般的に認められるべきもの」と定義されている(最高裁昭和50年2月25日判決)。

 それでは、今回のケースにおいて、上記安全配慮義務の違反があったのだろうか。そしてそもそも、安全配慮義務が生じうる基盤となる契約関係が、原告の両親とパチンコ店との間に存在したのか、という点が問題になってくる。

 まず後者について検討すると、上記朝日新聞の記事によれば、「従業員が幼児の面倒をみると伝えたこともあった」という事実が存在するのだという。もしこれが本当ならば、ここにおいて契約関係から一種の付随的義務が発生していると言える。逆に言えば、これがなかったならば、パチンコ屋と原告との間において、安全配慮義務があったというのは、極めて難しいだろう。

 そもそも、パチンコ屋と客との間で交わされる契約における主たる店側の義務の内容は、客に対しパチンコ台等を提供することにより、そこでパチンコやスロットといった娯楽を楽しむための場を提供することであり、子供のお守など普通は付随的なものとしても契約内容に組み込まれているとは考えられないだろう。

 加えて、パチンコ屋が子供のお守をするということが、社会通念に照らして是認されているかと言えば、これをイエスと答えることはできなだろう。子供をパチンコ屋に連れてくるということ自体、非常識な親であるという評価が一般的であるとも言える。よって、子供のお守を、パチンコ屋の従たる契約上の義務として構成ことは不可能であろう。

 先ほどの引用判例には、「信義則」という言葉が出てきたが、信義則は「権利義務関係のないところに規範を設定することにも使われる。」(四宮和夫・能見善久『民法総則』第7版、16頁)。この表現を具体化したものが、上記判例の「ある法律関係に基づいて特別な社会的接触の関係に入った当事者間」という件になると理解することも可能である。つまり、本来ならばその契約からは生じない権利義務関係なのだが、信義則を媒介することにより、安全配慮義務という規範を創設するということである。

 だが、信義則の本来の意味は、「社会共同生活の一員として、互いに相手の信頼を裏切らないように誠意をもって行動することを要求するルール」(四宮・能見、前掲書15頁)なのである。このように信義則が定義されるならば、そこからパチンコ屋が客に対し、客の子供のお守をするという義務を、暗黙のうちに導き出すのは困難であろう。よって、本来ならばパチンコ屋の子供に対する安全配慮義務違反は、安全配慮義務そのものが成立しない以上、成立する余地がない。

 だが、実はポイントはここからなのだ。というのは判決でも指摘しているように、このパチンコ屋が「幼児同伴の客の入店を許」していたからである。そうであれば、信義則の基礎である、「互いに相手の信頼を裏切らないように誠意をもって行動する」ということが認められそうである。なぜなら、こう記されている以上、原告側としては、店側が子供のお守をしてくるものと理解しても、それが社会通念上おかしい理解だとは切って捨てられないからだ。

 しかしながら、これをもって直ちに店側の安全配慮義務違反を認定するのも、安全配慮義務の存在を認定するのも、論理的に飛躍があると思われるが、判決は私が見るに、「幼児の監護を補助すべき義務があった」という曖昧な表現をし、正面から安全配慮義務違反を認めているようには読めない。

 これを素直に読めば、子供の監護は第一には親にあるが、店が子供同伴の入店を許している以上、店側にはその親の監護義務を補助する義務がそれによって生じているということになる。しかも先述したように、「従業員が幼児の面倒をみると伝えたこともあった」ということもある。これらを総合的に判断して、今回は安全配慮義務類似の(限りなくそれに近い)義務を店側に課した判決であると思う。だが、一般的に子供を連れてパチンコ屋に行く親には非常識という判断が下されることが普通であるので、こういうお茶を濁した表現をしたのだろう。



 しかし、やはりどう考えても、親も親だろう。「パチンコ玉を運ぶ台車に女児が乗り、男児が押して遊んでいた」。普通の親なら他の客の迷惑にもなるし、店の備品で遊んでいるのだから、ここで注意をしろよ、と思ってしまう。というか、まだ2歳の幼児から目を離してパチンコを打つという行為自体、私としては理解し難い。

 最初に述べたように、親が馬鹿だから、子供が不幸になったのだ。このケースに限らず、親がパチンコに熱中するあまり、連れてきた子供のことを忘れ、誘拐されたり、車内で熱中症で亡くなったりと、悲惨な事件が後を絶たない。

 パチンコ屋の「幼児同伴入店許可」というのは、こうした惨事を考慮してのことなのだろうが、何度も繰り返すように、そもそも、パチンコ屋は子供を連れてやってくるような施設ではないし、パチンコ屋に、しかも2歳の幼児を連れて来店するということ自体、許されていいことではないはずだ。

 パチンコ屋は、自分の店のためにも、子供を連れての来店を断るべきである。子供がパチンコ屋にいるということ自体、極めて不健全なことである。

暴走老人

2009年04月11日 | 本日の侃々諤々
羽生名人の長考中、朝日委託の記者が扇子にサイン求める(読売新聞)

【名人戦】羽生の対局中に観戦記者がサインねだる【将棋】

ま た 朝 日 か ! !


低脳にも程がある愚行です。
ゴルフですら、打つ瞬間はフラッシュも歓声も
掛け声も控えるように促されるのが昨今だというのに。

しかもこの爺さん、プロのチェスプレイヤーとのこと。
だったらこれがどういう場面か分かるだろうに、まったく。
マラソンで言えば給水場でサインをねだるようなもの。

以前『暴走老人』という本が流行りましたが、
このサインをねだった「記者」も間違いなくこの類でしょう。
自分のことしか頭にないから、こういうことができるのです。

将棋は集中力が命のゲームです。
ましてや名人戦ともなれば、相手の何手先も見越して
将棋を指さなければなりません。
そこに水を差すような、まさに「暴走」!
これで羽生名人が負けていたらどう責任を取るつもりだったのでしょう。

しかも、注意をしたところ、この爺さん、
「郷田さんの手番だと思っていた。うかつだった」と言いました。

おい、爺さん、そういう問題じゃないんだよ。
どっちの手番でも関係ないの!
爺さんの行為は非常識極まりない愚行なの!
自分のしたことの重大さが理解できてるのかね、まったく。
羽生さんは温厚な人だから笑って許してあげるだろうけど、
もう記者としては追放されてもいいレベルだと思うけどな。

ホント、地でKYを行く新聞社だな。
日本のためにも、そして将棋界のためにも、
早くなくなるべき新聞社ですね。

典型的な内政干渉

2009年04月09日 | 外交事情考察
自由社の歴史教科書、検定合格に抗議…韓国外交通商省(読売新聞) - goo ニュース

 韓国外交通商省は9日、「新しい歴史教科書をつくる会」(藤岡信勝会長)のメンバーらが執筆した「中学社会 歴史」(自由社)が日本の文部科学省の教科書検定に合格したことに対する声明を出し、「過去の過ちを美化する歴史認識に基づいた教科書が検定を通過したことに強く抗議する」と表明した。
 声明は「日本の青少年が一部の歴史教科書を通じ、誤った歴史観を持つようになる」としている。外交通商省は在韓日本大使館の高橋礼一郎公使を呼び、口頭で抗議した。
 韓国メディアは、以前の検定で合格した「新しい歴史教科書」(扶桑社)に続き、「 歪曲の程度が甚だしい教科書が2冊になった」(聯合ニュース)と伝えている。



 韓国の行為は、れっきとした内政干渉である。だが、これも実は内政干渉だと一概に突っぱねるわけにもいかないのが現状だ。というのは、朝日新聞らマスコミの「誤報」によって、全く不要な「近隣諸国条項」というものが、教科書検定において確立してしまったことが原因となっているからだ。この事件は、いわゆる「侵略→進出書き換え事件」である。この誤報を受けて、1982年、鈴木善幸内閣時の宮沢喜一官房長官の談話がもとになり、近隣諸国条項が、教科書検定基準に盛り込まれてしまったのである。

 そこで「近隣諸国条項」を今一度お浚いしておこう。近隣諸国条項とは、前述の宮沢談話をうけて、教科書検定基準の中に、「近隣のアジア諸国との間の近現代の歴史的事象の扱いに国際理解と国際協調の見地から必要な配慮がされていること」という条項を設けた、というものである。これが韓国や中国の居丈高の内政干渉を許す諸悪の根源となってしまっている。



 しかし、常識的に考えてみればいい。自国で使用する教科書について、日本が「近隣諸国」の意見に耳を傾ける必要はあるのか?韓国は、中国は、自国の教科書を選定するにあたり、日本の主張に耳を傾けているか?韓国の歴史教科書が、竹島は韓国が不法に占拠しているものだと教えているか?中国の教科書に記載されている、南京大虐殺の人数30万人はあり得ないからといって日本が抗議したら、中国はそれに応じるか?もし、そのように日本政府が教科書に記述するように韓国や中国に求めたら、韓国や中国は「分かりました」と言って日本の意見に従うのか?

 確かに「歪曲」した歴史を子供に教えてはならない。大東亜戦争に侵略の側面があったことも否定できないし、そのような負の側面にもきちんと向き合って教科書は記述されるべきだろう。だが、それは「近隣諸国」の外圧によってなされるべきことではない。自分の国の教科書は自分の国の判断によって決める。当たり前の話ではないか。

 それから、韓国はご存じないのだろうが、「つくる会」の歴史教科書の採択率は、わずか0.4%しかない。「つくる会」の教科書を使用しているのは、東京都立の中高一貫校や杉並区立中ぐらいで、この歴史教科書に、いちいち外野が騒ぎたてるほどの影響が、はたしてあるのか。私には「から騒ぎ」に思えてならない。



 そもそも、今回の韓国の「抗議」は、内政干渉であると同時に、教育への政治的介入ではないのか。政治の力によって教育内容が曲げられようとしているのだ。これこそ日教組の大好きな「不当な支配」ではないだろうか。

 以前、東京の都議が知的障害者の養護学校を訪問した際、そこで行われていた性教育を目の当たりにした都議らが、授業で使用されていた教材を没収したという事件が起こった。このとき、日教組やサヨクは何と言っていたか?教育への「不当な支配」だと言っていたのではないのか?ならば、今回はどうして韓国の抗議を批判しないのか?これこそ、法的根拠も何もないれっきとした、正真正銘の教育への「不当な支配」であろうに。



 韓国の内政干渉ももちろん論外だが、一番話にならないのは、こうした内政干渉をわざと引き起こしている輩が国内に存在していることだ。たとえば共産党がバックについている、俵義文の「子どもと教科書全国ネット21」などがその代表例だ。ほかにも、「つくる会」の教科書不採択運動を煽っている団体には、中核派のメンバーがいたりと、実は平和という言葉から一番遠い者たちが平和の名を騙り、「近隣諸国」の内政干渉を引き起こしているのだ。

 しかも彼らの主張が矛盾していておかしいのが、「つくる会」の歴史教科書に対しては、文部科学省に検定不合格にするよう迫りながら、沖縄の集団自決、「従軍慰安婦」問題に関しては、その教科書検定制度を批判、否定する。自分たちの都合のいいときだけ教科書検定を利用しながら、自分たちのイデオロギーに反する場合だけ、ちゃっかり教科書検定は違憲と嘯くのである。4年に一度のオリンピックのごとく盛り上がるのは、いい加減やめにしたらどうか。

 ちなみに、教科書検定制度は、不合格とされた教科書を「一般図書としての発行を何ら妨げるものではなく、発表禁止目的や発表前の審査などの特質がないから」、憲法に言う「検閲」(21条2項)にあたらず、合憲とするのが、通説、判例の見解である(第一次家永教科書事件最高裁判決。最高裁平成5年3月16日)。



 最後に、以前、私がアマゾンにて、「つくる会」の歴史教科書についてレビューを書いたが、それをここに再掲しておく。

 この教科書の一体何処が偏っているのだろう。それが私がこの教科書を読んで最初に思ったことだ。この教科書は決して先の大戦を肯定などしていない。民政党の斉藤隆夫についても触れている。

 この教科書を口汚く批判している人達は、恐らく教科書執筆陣のことが嫌いなのではないだろうか。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いのように、自分達と相容れない考えの人達が執筆しているものだから、内容に関しても「戦争賛美だ」とか「子供を不幸にさせる!」というような感情的な批判が先行してしまっていて、冷静に眺められていないのだろう。要するに、この教科書を批判している勢力は、教科書を通じて執筆陣を批判していたのである。

 この教科書を読んで戦争がしたくなる生徒など、果たしているのだろうか。それなら、残虐な描写のゲームに影響されて人を殺してしまう子供の方が遥かに多くなるであろう。

ピロシキとギョーザ

2009年04月08日 | 本日の侃々諤々
中国とロシアは北朝鮮の独裁体制の堅持を望んでいます。
しかし、建前上ではこれを隠し、国際社会の平和と安定のためには
北朝鮮を刺激するのは平和のためまずいと嘯きます。

そんな両国を、名物料理に喩えて非難します。

ギョーザとピロシキとかけまして、中国・ロシアの本音と説く。
その心は・・・
どちらも見た目(建前)と中身(本音)は異なります。

まさか外交姿勢が国の名物料理に反映されているとは(笑)

脱法行為の可能性は確かにあるが

2009年04月07日 | 外交事情考察
ソマリア沖で外国船舶救助 護衛艦、“脱法行為”の疑いも(共同通信) - goo ニュース

 防衛省によると、ソマリア沖で海賊対策活動中の海自護衛艦「さざなみ」が現地時間3日午後8時半すぎ、海上警備行動の警護対象外のシンガポール船籍のタンカーから「海賊らしい小型船舶に追われている」との国際無線連絡を受けて現場海域に急行、約20分後に追い払った。海上警備行動での警護対象は日本船籍、日本人、日本の貨物を運ぶ外国船など日本関連の船舶に限られており、脱法的な活動だった疑いがある。



 まず、自衛隊の今回の措置は国際基準に立てば当然のことであり、いちいち議論する必要もないが、それでも日本政府の海上警備行動についての解釈(警備の対象は日本籍の船舶のみ。)に縛られている自衛隊が、その中で取った精一杯の行動であると思われる。勇気ある自衛隊の行動を誇りに思いたい。



 今回、自衛隊はサーチライトを照らしたり、音響装置で接近を妨害した上で、スピーカーからソマリ語で「われわれは海上自衛隊」と警告をしたりして海賊と思しき船を追い払ったのだから、警察官職務執行法の禁じる正当防衛、緊急避難の場合のみの武器使用規定に抵触する可能性はない。防衛省が「武器使用など海上警備行動の権限を行使しているわけではない」と釈明したのはそのためだ。

 しかしながら、確かに記事で指摘しているように、今回の海自の取った行動は、強制力の行使ではないにせよ、厳密に言えば脱法行為に該当する。いくら上記政府解釈に問題があるとしても、法解釈にも明文によって規定された法規同様拘束力があり、これに反することは明文法そのものに反するということになるからだ。



 このことについて深く掘り下げて議論すると、法と道徳の話にまでなり収拾がつかなくなるのでそういった議論は行わないが、道徳上「善」とされても、法律上は「違法」とされる場合は確かに存在している。今回の場合など、まさにそれだろう。

 誰かが助けてくれと言ってくれば、手を差し伸べてあげるのは道徳上、善である。しかし、助けてくれと縋ってきても助けてはならないと法をもって規定されていれば、手を差し伸べることは道徳上、善であっても、法理論上、悪=違法となる。このことは、常に法というものが道徳を体現したものではないということを示している。

 この解決手段は二つある。すなわち、法を道徳に合わせるか、道徳が法の規定に従うか。私はソマリア沖自衛隊派遣については、前者が理に適っていると考える。理由は、それが国際標準であり、中長期的に見ればこれが日本の国益に適うのではないかと考えるからだ。



 エルトゥールル号事件を御存じだろうか。これは1890年9月16日、オスマン・トルコの使節団一行を乗せた軍艦が和歌山県串本の大島沖で台風のため遭難し、乗組員(政府要人含む。)650人中、587人の犠牲者を出した事件である。

 ここで日本は乗組員らに対し、国を挙げて救助に奔走し、地元住民の献心的な介護もあって、全員を助けることはできなかったが、人命を救うことができた。このことはトルコ海軍のHPにも、In order to alleviate the anxiety of those who survived the disaster, not only the Emperor himself manifested an enthusiastic appeal, but also the Japanese local authorities and the public showed an extraordinary effort for the survivors. The survivors and the personals belongings of the lost ones were subsequently delivered to İstanbul on two Japanese Cruisers on 25 December 1890.と、日土間の友好を象徴するものとして掲載されている。

 言い方が恩着せがましくてよくはないが、恩を売っておくというのも、外交上必要なことではないだろうか。それによって日本に対する国際社会の評価を少しでもアップさせることは、国益の点からも意味のあることであると思われるからだ。



 話を戻して。しかしながら、海賊対策法の制定というのは、実は諸刃の刃なのではないか。というのは、今国会は周知のように「ねじれ」ている。そのねじれを生じさせている民主党は、党内で海賊対策に関する見解はバラバラであり、統一的な見解を出せずにいる。しかし、法律を制定する以上、このような民主党の合意も取り付けなければならない。ここが問題なのだ。

 なぜなら、民主党に配慮して下手に譲歩した法を整備してしまうと、結果としてより自衛隊の手足を縛る立法がなされることも考えられ、かえって海賊対策が困難になる可能性も十分に考えられるからだ。それこそ海賊対策法をもって、「警護の対象は日本国籍の船舶のみ」と規定されてしまえば、二度と今回のような措置を取ることはできず、かえって国益を損なう危険性も出てくる。

 それならば、いっそ今のままの状態のほうが、海賊対策については向いているということも言える。抽象的に確定しないかたちで書かれた条文は解釈によって乗り越える(運用する)ことができるが、明確な文言をもって上記のように書かれれば、状況に応じたフレキシブルな活動ができなくなる。したがって、海賊対策法を整備するのであれば、日本国籍以外の船舶も保護の対象とできるとする、民主・自民間での明確な合意がなければやるべきではない。

 海上警備行動は、「海上における人命もしくは財産の保護又は治安の維持のため」としている。この抽象的で曖昧な文言こそがミソなのだ。だからこそ今回のような措置をしても、船員法14条「船長は、他の船舶の遭難を知ったときは、人命の救助に必要な手段を尽くさなければならない」の規定を適用して問題の解決を図るということも可能になる。繰り返すが、だからこそ下手な立法はかえって海賊対策の妨げになるのだ。



 今回の自衛隊の取った措置は確かに脱法行為の可能性があるが、逆に曖昧な法状況で派遣したからこそ、こういう行動が可能であったということを指摘しておく必要がある。

日本は蚊帳の外にされたのか?

2009年04月06日 | 外交事情考察
北朝鮮、ミサイル発射を米中露に事前通告…韓国情報機関(読売新聞) - goo ニュース

 北朝鮮の「人工衛星打ち上げ」名目での長距離弾道ミサイル発射について、韓国の情報機関、国家情報院は6日、北朝鮮が米中露3か国に対し、おおよその発射時刻を事前に伝えていたことを明らかにした。
 聯合ニュースが、国会情報委員会の非公開懇談に出席した議員の話として伝えた。
 北朝鮮が日韓両国に対する軽視姿勢を鮮明にするのが狙いだったとみられる。また、この議員は、韓国に対しては米国が情報を伝えた模様だと述べたという。
 聯合電によると、北朝鮮は、4日から8日の午前11時から午後4時の間に発射すると、国際海事機関(IMO)などに事前通告していたが、米中露への通報内容は、より詳細なものだった。 李明博大統領はミサイル発射直前の5日午前、国家安全保障会議(NSC)を招集したが、これは米国から情報提供があったためとみられる。



 これは記事にもあるように、北が日韓を軽視するための「作戦」であったことは容易に想像がつこう。北はアメリカとの直接対話を切望しているため、アメリカに対し事前に「衛星」の発射時刻を通知することも、したがって想像に難くない。

 しかしながら、韓国も蚊帳の外に置かれたとはいえ、それでもまだ韓国はアメリカから「衛星」発射について情報提供をされていたが、日本は最後まで蚊帳の外であった。これにはどういう思惑が隠されているのだろうか。



 これは推察するに2つのことが考えられる。まず一つ目として、本当に日本だけが蚊帳の外にされていた。二つ目として、蚊帳の外であったというのは実は嘘ではないか(つまり、アメリカから事前に情報を提供されていた)ということ。後者の理由については大きく分けて二つ考えられるが、これについては後述する。



 一つ目の事態の理由として、日本はアメリカから安全保障上のインテリジェンス分野・情報管理分野において信頼されていない、もしくはアメリカはこの分野において日本に対し疑心暗鬼でいるからである。仮にそうだとすれば、これは日米同盟を堅持していくにあたり、極めて死活的な問題である。

 周知のことだが、日本にはインテリジェンス分野について、政治家のみならず、官僚までも理解が浸透しているとはお世辞にも言えない、惨憺たる現状がある。たとえば今から数年前のことだが、新潟にアル・カイーダの一味が潜伏していた際に、潜伏しているという情報はフランスからもたらされたものだった。アル・カイーダから度々不審な国際電話が新潟にかかってたにもかかわらず、日本の警察機関ではこれを傍受できないという、「欠陥」を露呈したことは記憶に新しい。

 2000年には、三等海佐がロシアの武官に対し機密情報を漏えいした事件も起こっている。日本の在中国大使館に北朝鮮から逃げてきた一家が駆け込んだ際も、日本側の取った対応が中国に筒抜けになっていたことも最近のことだ。日本は実にインテリジェンス分野において詰めが甘い。

 これら事件はひとえにインテリジェンス分野についての法整備の不備ならびに無理解がもたらした結果なのだが、もし本当にこれが理由で日本が蚊帳の外にされたというのならば、早急にこの分野についての法整備をしなければならない。情報公開こそが民主主義にとって不可欠だという主張があるが、それは確かにそうなのだが、安全保障にかかわる問題においては、徒に何でもかんでも公開すればそれでいいというものではない。

 たとえば、自衛隊イラク派遣における自衛隊の武器使用に関する訓令をすっぱ抜いてスクープしたマスコミがあった。だが、これをスクープすることに一体何のメリットがあるのか。こちらの手の内を明かすだけで、テロリストぐらいしか喜ばない情報である。

 だからこそインテリジェンス分野における法整備が急務なのだ。秘密保持に関する法律を制定することによって、こういう場合には情報公開ができるが、これ以上の情報は公開できないといったように、明文をもって規定することにより、同盟国からの不信をなくし、国内における不要で不毛な論争を避ける必要がある。

 『日本のインテリジェンス機関』(文春新書)の著者である大森義夫氏は同著の中で、「どこまで公表してよいものかという判断ができず、自分や組織の責任を問われないようにするために、あらゆるものを秘密にするという、民主主義体制においてはきわめて憂慮すべき悪癖が生じている」と述べているように、実は民主主義を健全に維持する上においても、秘密保持に関する法律の整備は必要なのだ。

 そのためにはまず、せっかく設置された内閣情報調査室を積極的に活用することだ。だが、内閣情報調査室は各省庁の縦割り行政の弊害をもろに受け、しかも予算、人員、人材の不足と、看板倒れの状態が起きている。法整備を急ぐと同時にこちらの立て直しも早急になされなければならない。こういう地道な積み重ねが、同盟国からの信頼を得るためには不可欠なのだ。



 二つ目の理由は大きく分けて二つあると述べたが、それはこういうものだ。

 まず、そもそもとして、もし北からのミサイル発射を事前に知り、事前に対応できるならば、日本がミサイルを探知したり追跡するなどという一連の対応は、全て「予定調和」になる。換言すれば出来レースだったということだ。では、このことを国民が知ればどう思うだろうか。MD防衛構想への支持を得られるだろうか。

 普通に考えて、いついつに発射してどの方面に向かって飛び、どこに部品等が落下するのかと事前に把握できていれば、ミサイルを探知し追跡し、最悪の場合迎撃することなど他愛もなく簡単なことだ。にもかかわらず、仮にミサイル監視・迎撃に失敗したら日本の安全保障に対する信頼は、国際的にも国内的にも大打撃を受けることになる。

 つまり、本当は事前に情報が上がっていたにもかかわらず、これを敢えて秘匿することによって、日本の防衛体制について国民の理解を得ようと政府は考えているのではないか。

 今一つは、事前情報を秘匿することにより、意図的に日本「だけが」仲間はずれにされたというかたちを作り出し、こういう事態になったのはこれまで安全保障の分野に対して口を噤ませてきた憲法9条が原因であるという構図にし、改憲への足掛かりを得ようという事情があるのではないか。私はこれであるならば敢えてこれに乗っかり、政府の方針を歓迎したいが。



 だが、実は日本も知っていたという可能性はあまり高くないだろう。北としては、日本が大騒ぎをしてくれたほうがアメリカを交渉のテーブルに着かせるには有難いはずだ。なので、北が日本を蚊帳の外に置くのは理解できる。

 そしてアメリカが韓国に対しては事前に情報を提供していたのは、韓国は万が一にも北が軍事行動に出れば一番被害を被るのだから、予め情報提供することにより、迅速な行動を期待したからということも考えられる。



 もし前者ならば、日本は諸外国から、しかも最大の信頼を置いている同盟国からも舐められていることになり、これ以上の侮辱はないだろう。日本には知らせないほうが得策、とアメリカから思われているならば、すでに日米同盟は事実上崩壊していると言っても過言ではないのではないか。