ひとり井戸端会議

主に政治・社会・法に関する話題を自分の視点から考察していきます。

「法律婚」の保護のために必要

2013年11月06日 | 民事法関係
婚外子も相続平等 自民が民法改正案了承し今国会成立へ(産経新聞) - goo ニュース

 自民党法務部会(大塚拓部会長)は5日、結婚していない男女間に生まれた非嫡出子(婚外子)の遺産相続分を嫡出子と同等とする民法改正案を了承した。党内の保守派議員から慎重論が出たが、最高裁が9月の決定で非嫡出子の遺産相続分を嫡出子の半分とする民法条文を「違憲」と判断したことを踏まえた。
 政府は近く民法改正案を提出するが、公明党がすでに改正案を了承しているほか、野党も同様の法改正を求めており、今国会での成立が確実になった。
 部会では政府が提示した改正案について、「最高裁の判断をそのまま受け入れるのか」「家族制度を守る法整備と合わせて来年の通常国会で改正すべきだ」などの反発が相次いだ。このため、大塚氏が自民党内に特命委員会を設置し、1年をめどに家族制度を守るための諸施策をとりまとめることを提案し、ようやく了承された。具体的には、配偶者の相続割合拡大などを法務省とともに検討する。
 ただ、出生届に嫡出子か否かを記載する規定を削除する戸籍法改正については、「最高裁判決はそこまで求めていない」と異論が相次ぎ、了承は見送られた。これに先立ち、民主党とみんなの党、社民党は5日、民法の婚外子規定を削除する同様の民法改正案を参院に共同提出した。



 私は戦前の「家制度」に賛同する者ではないですが、最高裁の非嫡出子相続分違憲判決には正直失望しました。確かに、私は以前に「非嫡出子法定相続分規定は憲法違反」と主張しました。しかし、かかる主張は今では間違いだと考えています。その理由は以下の通りです。


 まず、民法の家族制度に対する基本スタンス(考え方)です。民法は家族制度について法律婚を定め、法律婚を保護するという立場を採っています。「保護する」ということは、法律婚と類似する他の関係(内縁等)よりも、法律婚を優先的に、すなわち類似する他の関係に差を設けて優遇するということです。そして、その一つが民法900条4号であると考えます。

 したがって、嫡出子と非嫡出子の相続分に差を設けるというのは、法律婚を優先的に保護する以上、許されるべき帰結であるといえます。


 次に、実際上の非嫡出子の相続分についてです。確かに民法900条4号は非嫡出子の相続分は嫡出子の2分の1と規定しますが、かかる規定は強行規定(=当事者の意思によって法律上の規定を覆すことができない規定のこと、たとえば殺人を委任する契約を禁じる民法90条。)ではないので、たとえば被相続人が遺言によって非嫡出子と嫡出子の相続分を平等にすることも、逆に非嫡出子の相続分のほうを多くすることも自由です。

 このように、900条4号は非嫡出子の相続分は2分の1で「なければならない」と規定しているものではなく、相続分は被相続人が自由に決めることができるので、一概に憲法14条に反すると言えないのではないかと考えます。


 3点目として、民法はどのような者であっても法律婚を行えるとしているのに、敢えて事実婚=内縁を選択した以上、内縁関係を選択した者はそこから生じる不利益も甘受すべきです。このようなことを言うと、内縁関係から生まれた子供に罪はないとの批判を受けると思います。しかし、子供に不憫な思いをさせたくないなら上で述べたように遺言で非嫡出子の相続分を同額にすればよいし、内縁から生まれた子供に罪がないからこそ、民法は900条4号において非嫡出子であっても一定程度の相続権を認めているとも考えることができます。それが2分の1である理由は最初に述べた通りです。



 このように考えると、民法900条4号は憲法14条に反するような類の条文ではなく、法律婚の保護を図り、他方で法律婚以外で生まれた子の保護との調和を取り、しかも遺言によって相続分を平等にすることも否定しない、極めて合理的な規定であるといえます。

 したがって、民法900条4号は合憲の規定であると理解しますが、最高裁によって違憲判決が(遺憾ながら)出てしまった以上、しばしば指摘されるように配偶者の相続分を手厚くするなど、法律婚の保護という理念を貫徹した法改正が望まれます。

契約の成立について

2012年06月21日 | 民事法関係
NHKが講談社を提訴 ドラマ化許諾契約めぐり(朝日新聞) - goo ニュース

 辻村深月さんの小説「ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。」のドラマ化を進めていたNHKは21日、原作を出版した講談社がドラマ化の許諾契約を一方的に解除し、制作中止に追い込まれたとして、同社を相手取り、約5900万円の損害賠償を求める訴えを東京地裁に起こした。
 訴状によると、NHKはBSプレミアムでドラマ化を企画し、今年5月から4回放送する予定だった。昨年11月に出版元の講談社と映像化の許諾契約を結んだ。だが同社は今年2月、辻村さんがドラマの脚本に納得していないことなどを理由に、契約の白紙撤回を伝えたという。
 講談社は「脚本における原作の改変が著者の意向に大きく反していたことから、NHKと話し合いを続けたが、合意に至らずドラマ化を見送りたい旨を伝えた。このような事態になり、大変残念です」とのコメントを発表した。



 民法上、契約は当事者の意思の合致により成立するものとされています。テレビの売買契約を例にとって考えてみると、売主が「このテレビを売ります」(申込)と言い、これに対して買主が「このテレビを買います」(承諾)と応じれば、その時点でテレビの売買契約が成立したことになります。

 このように、民法上、売買契約をはじめとした契約の成立について書面(契約書)を要求しているものは基本的には保証契約(民法446条2項)以外はなく、したがってこの記事のような口頭での約束でも契約としては法的に有効に成立します。


 この事件に関する詳しい事情は分かりませんが、他のマスコミの報道によれば、NHKは「テレビドラマの制作では番組完成後に契約書を作成する慣行があると指摘」しているといいます(産経新聞)。

 もしそうであれば、契約においては、その契約が締結される当事者間で通用している慣習(たとえば商慣習)を尊重することになるので(民法92条)、NHKの主張がドラマ制作現場の実態(慣習)に合致しているものであれば、たとえ契約書が存在していなくとも、また上記の民法上の原則からしても、契約は有効に成立していたと解することになるでしょう。

 したがって、講談社はNHKに対し契約の不当破棄をしたことになり、損害賠償責任を負うことになるかも知れません。しかし、この損害賠償責任は不法行為に基づくもの(民法709条)でしょうか、あるいは債務不履行に基づくもの(同415条)でしょうか。

 作者の承諾を得られないことによる契約の履行不能と考えれば債務不履行責任でしょうし、もし講談社側が作者の承諾を得られないことを認識していれば不法行為責任でも責任追及は可能かもしれません。


 しかしながら、NHKの側も、作者の承諾を得られるという確約を講談社の側から得ていたならまだしも、そのような確約もないまま本格的にドラマの制作を始めていたとすると、たとえ上記のような業界の慣習があったとしても、NHKは軽率の誹りを免れないでしょうから、6000万円の損害賠償全額が認められる可能性はほぼ皆無でしょう。

 したがって、たとえば講談社がNHKに対し、絶対に作者の承諾を得ると確約していたり、あるいはその見込みもないのにそのことをNHK側に敢えて知らせず損害を生じさせることを目的にドラマ化の承諾をしていたなどといった特別な事情でもない限り、大幅な過失相殺がなされることでしょう。

 なお、仮に講談社の主張するように契約は成立していなかったとしても、講談社は信義誠実の原則(民法1条2項)に基づき、契約交渉の不当破棄をしたとしてNHKに対し損害賠償責任を負う可能性もあります。

 これは簡単に言うと、契約の交渉段階で、交渉の相手方に契約が有効に成立するという信頼(期待)を生じさせた者は、その信頼を不当に裏切ることは許されず、かかる信頼を裏切った場合には損害賠償責任を負うというものです。契約交渉の不当破棄が損害賠償責任を生じさせるという法理は、判例上も学説上も容認されています。



 とはいえ、以上は報道されている情報のみに依拠した考えですので、当然、NHKが敗訴する可能性も否定できません。

お前を食わせる生活保護はねぇ!問題について

2012年06月05日 | 民事法関係
 次長課長の河本の母が、生活保護を受けていた問題がありました。自分の息子が次長なり課長なりしているのだから、母親は税金のお世話にならずに息子から援助を受けるべきでしたね(笑)

 これについて、あまり民法的視点から論じているものを見ないので、少しばかり民法的観点から、お前を食わせる生活保護はねぇ!問題について今さらながら考えてみたいと思います。


 民法では877条以下で、扶養義務について定めています。民法上、直系血族および兄弟姉妹は当然に扶養義務を負うものとされています。また、3親等内の親族間であっても、特別の事情が存在する場合には、家庭裁判所の審判により扶養義務を負う場合があります。

 河本の場合、問題になったのは、子が老親を扶養する義務についてです(親族扶養)。この場合において子が老親に対して負う義務の程度は、生活扶助義務であるといわれています。これは、自分(子)の身分相応の生活を犠牲することなく、権利者(老親)の最低生活を支援すれば足りるという程度の義務のことです。

 したがって、河本には民法上、自分の経済力をもって母親の生活を援助する義務があったということになります。



 ここで問題になるのが、民法上の扶養義務(これを私的扶養といいます。)と生活保護等の社会保障制度(これを公的扶養といいます。)では、一体どちらが優先して適用されるのか、ということです。このことについて生活保護法4条2項は以下のように規定しています。

 「民法に定める扶養義務者の扶養及び他の法律に定める扶養は、すべてこの法律(生活保護法)に優先して行われるものとする。」

 すなわち、私的扶養が可能であればこちらが優先し、公的扶養は私的扶養が不可能な場合に限りなされるものであるということです。これを公的扶養の補充性の原則と言ったりします。

 私的扶養が家族をはじめとした血のつながった者同士での扶養であるのに対し、公的扶養とは赤の他人の税金で生活の援助を受けるものなのだから、この原則は当然のものと言えるでしょう。


 よって、河本は十分な経済力を有し、母親を支援することが可能であったのだから、河本の母は、河本との親子関係が絶縁状態であったなど特別な事情のない限り生活保護を受給する資格は本来はなかったのです。

 したがって、彼女の受給した金銭は、いわば不当な利得として返還義務を負うべきであると、個人的には考えています。この場合、資力等を考慮すると、返還義務を負うのは河本本人ということになるでしょう。


 また、河本の母親も、行政に生活保護を請求するのではなく、まずは息子に援助を頼むべきだったのです。これは民法上、扶養請求権として承認されていますし、扶養がなされなかった過去の分まで遡って請求することが可能と解されています。



 このように、民法的観点から考えると、河本の母が受給していた生活保護は扶養のお金ではなくて、不要なお金だったということになり、生活保護と民法上の扶養義務との関係からして、不当な利得を得ていたということができそうです。

国旗損壊罪について

2012年05月31日 | 民事法関係
日の丸損壊罪の法案提出=自民(時事通信) - goo ニュース

 自民党は29日、日の丸を傷つけたり汚したりする行為を罰する国旗損壊罪を創設するための刑法改正案を衆院に提出した。現行法が外国国旗の損壊罪を定める一方、日の丸の損壊を処罰対象としていないことを問題視した。
 法案では、日本を侮辱する目的で日の丸を損壊・除去・汚損した場合、2年以下の懲役または20万円以下の罰金を科すとしている。



 まず、賛成か反対かということについて、結論から先に言うと、賛成よりの反対です。その理由について、少し長くなりますが、述べていきたいと思います。


 最初に、この法案と関係する刑法上の規定を挙げてみましょう。

 現行刑法では、外国国章については、92条において外国国章損壊罪が設けられており、外国国章が自己の物であるか否かに関係なく、「外国に対して侮辱を与える目的」で、外国国章を損壊、除去、汚損した者は、2年以下の懲役または20万円以下の罰金刑に処されることになっています。

 ここから分かることは、自民党の法案は、構成要件および法定刑にについて、同条の規定と歩調を合わせたものと言えるでしょう。


 また、刑法では、器物損壊罪についても規定しています。器物損壊罪の場合には、その法定刑は3年以上の懲役または30万円以下の罰金ですので、自民党案よりも重いものになっています。ただし、器物損壊罪は、その客体は「他人の所有物」に限定されていますので、自己所有の国旗(日章旗)を損壊しても、器物損壊罪で罰するのは不可能です。

 とはいえ、同時に刑法は自己の物の損壊等について262条で規定していますが、同条は差押えを受けた物件等、すなわち、自己の所有物であっても、その処分が他人の権利にも関係する場合に限定されていますので、同条で日章旗の毀損等を罰せるとしても、たとえば日章旗が差押えの対象になっている場合等に限られますので、その効果は非常に限定的でしょう。



 ところで、しばしば外国国章の損壊等が罰せられるのに、日章旗の損壊が罰せられないのはおかしいという指摘がありますが、外国国章の損壊行為を処罰することにしたのは、そうした行為を罰しないとなると日本の外交上問題があるので罰することにしたというものですから、立法の趣旨が異なるので、同じ国旗といえども、同列に比較して論じるのは無理があります。

 したがって、日章旗の損壊行為の処罰を正当化する理由にはならないと考えるべきです。



 翻って自民党案を見てみると、それは外国国章損壊罪の日章旗バージョンと言えるでしょう。また、日章旗は国旗なので(国旗及び国歌に関する法律1条1項)、これを損壊等する場合には国家の法益が侵害されていると考えられるでしょうから、したがって、法益としては国家的法益の保護に属するものでしょう。

 しかしながら、ここで問題となるのが、①何をもって「侮辱をした」と判断するのか、ということと、②先述した他の類似する規定と競合した場合、すなわち日章旗の毀損行為が複数の刑法上の規定に該当する場合、これをどうやって処理するのか、それから、③そもそも刑法上にかかる規定を設けることが妥当なのかどうか、という点だと思います。


 ①ですが、この場合に参考になるのは侮辱罪(刑法231条)の規定でしょうか。同条の侮辱罪が成立するかは、侮辱行為を行った者が侮辱や軽蔑の感情を抱いていたかどうかは関係なく、その侮辱行為の客観的な意味によって決定されますから、自民党案が成立した場合、たとえば反日デモ(これも、何をもって反日とするのかが問題ですが。)に参加し、そこで日章旗を焼いたり踏みつぶしたりすれば、日章旗の毀損と言えるので、処罰されることになるでしょう。

 ②についてですが、たとえば他人の日章旗を使って反日デモに参加して国旗を毀損した者がいた場合、器物損壊罪と国旗(日章旗)損壊罪の両方が競合し、他人の物についての器物損壊罪のほうが成立しますが、国旗(日章旗)損壊罪の立法趣旨からして、このことは容認できるのか。

 最後に③ですが、国旗(日章旗)損壊罪の立法趣旨からして、刑法に規定を設けるよりは、国旗及び国歌に関する法律を改正して、ここに規定すべき内容のものではないかと思います。

 しかしながら、これをしてしまうと、一般法(刑法)の規定と特別法(国旗及び国歌に関する法律)の規定とでは、特別法の規定が優先的に適用されるため、②で示した例では、日章旗が他人の物であっても国旗(日章旗)損壊罪が優先して成立するため、器物損壊罪よりも罰則が軽くなってしまうという弊害が出てくるのが問題です。



 以上は自民党案に好意的な立場からの問題提起ですが、個人的には、当然ですが、自国の国旗を破ったりする行為には腹が立ちますし、そのような行為をする者の人間性を疑いますが、こうした行為はあくまでも倫理的非難に留めるべきで、刑法上の処罰まで持ち出すのは行き過ぎだと思います。

 それに、もしこの自民党案が成立したとしても、おそらく今まで日章旗を損壊してきた連中は、あの手この手を駆使して、法の抜け穴を探るに違いありません。

 たとえば、日章旗に似せた旗を同じように損壊しても、結局自民党案では罰せられないですし、私としては、正面から日章旗を通じて日本を侮辱する行為よりも、このような日章旗のパロディを作られ自国を侮辱されるほうが腹が立ちます。

 このような連中の対応は、式典等で君が代の斉唱を拒絶する日教組の教師が、君が代にそっくりの、日本を侮辱する英語のパロディ曲を作って、これを歌って君が代を歌っているように見せかけた「前科」からして、容易に想像がつきます。

 なので、結局このような法案が成立したところで、連中の悪態が改善されることを期待するのは無理ですし、むしろ連中の反日行為を勢いづかせかねないか危惧しています。

GPS携帯条例に反対

2011年01月23日 | 民事法関係
性犯罪前歴者にGPSの携帯義務付け 宮城県が条例検討(朝日新聞) - goo ニュース

 宮城県は、県内に住む性犯罪の前歴者らを警察が日常監視できるよう、全地球測位システム(GPS)端末の携帯を義務づける条例の検討を始めた。携帯していない場合には罰金を科す。必要に応じてDNAの提出も求める。
 監視対象に検討しているのは、女性や13歳未満の子どもに対する強姦(ごうかん)や強制わいせつといった罪で懲役や禁錮刑になった県内在住者。
 ドメスティックバイオレンス(DV)防止法で裁判所から保護命令を受けた加害者にもGPSの携帯を義務づける。
 同県では昨年2月、石巻市で少年による女性殺害事件があり、同12月からDVや性犯罪対策の検討を始めた。
 性犯罪者をGPSなどで監視する制度は米・ニューメキシコ州で始まったとされる。オレゴン州では監視対象者に取り付けたGPS装置が取り外されると保護観察官に警報が鳴って知らせるシステムを導入している。韓国でも導入されている。一方、日本では導入例はなく、宮城県の方針は議論を呼びそうだ。



 結論から言えば、私はこの条例に反対である。ただし、理由は犯罪者の人権などというものではない。


 まず、そもそもの話として、強姦事件はこの数年間、減少しているのだろうか、それとも増加しているのだろうか。答えは前者、すなわち減少しているのである。

 強姦事件の認知件数と検挙件数によると、ここ10年間におけるピーク時の2003年が2472件(認知件数)であるのに対し、2008年は1582件に減少している。ちなみに、しばしば昔は犯罪が少なかったなどと言われるが、これは大嘘であって、強姦事件は昭和20年代が最多で、殺人に関しては2009年は戦後最小の件数であった(警察庁)。

 もっとも、強姦罪をはじめとした性犯罪は親告罪(被害者が被害を警察に届けてはじめて犯罪が認知される罪)のものが多いため、相当程度の暗数があることは確かである。

 しかし、本条例において問題となるのは強姦罪等により起訴され有罪判決を言い渡され服役した(元)加害者であり、当然のことながら暗数の中で犯罪を犯した者については適用対象外であるため、上記のことを考慮する必要はない。



 強姦事件の件数は減少傾向にあることがお分かりいただけたと思うので、本条例の問題点について具体的に検討してみたい。

 第一に、本条例の根本的な問題点は、それが条例であるという点だ。条例というのは周知の通り、その地方自治体内でのみ効力を有するものであり、したがって当該自治体から出れば条例の効力は及ばない。

 このことは要するに、宮城県から性犯罪者が出てしまえば、彼は監視の対象から外れることになる。とはいっても宮城県から性犯罪者を出してはいけないなどとは規定できるはずもないので(憲法上の移動の自由の侵害になる)、実質ほぼザル法と言ってもいいだろう。


 第二に、GPSを携行させるというが、携行させたところで実際に再犯を防止できるかという問題がある。このことを一般市民の側から言えば、周囲に(元)性犯罪者がいるからといって、どうすればいいのか、という問題にもなる。周囲にたくさんの人間がいれば、どこの誰が性犯罪者なのか分かるだろうか。

 それでは性犯罪者の顔写真を公開して注意を喚起すればいいではないかと言われるだろう。しかし、顔写真を公開したところで、整形をされていればこれまた分からなくなるし、そもそも人間の顔はよほど特徴的でもない限りなかなか覚えられるものではないのではないか。

 それに、仮にばったりと件の性犯罪者に出くわしたとして、我々に一体何か具体的な対応策が取れるだろうか。交番に駆け込めばいいと言っても近くに交番が必ずあるわけでもないし、ただ出くわしただけで何もしてこない可能性も十分にある(高いと言っても再犯率は16%弱)ので、いちいち携帯で助けを呼ぶのも変な話である。

 つまり、この条例はザルであるだけでなく、実効性も極めて疑わしいものであると言えるのではないか。



 ならばどうすればいいのか、と聞かれるだろう。

 私はこのような条例を制定するよりも、国が性犯罪者に対して徹底的に性欲減退のための治療を行えるように保安処分の範囲を拡大するなりしたほうが、実効性もあり、「人権屋」からの批判もかわせるだろうし、かつ再犯可能性も下げられるのではないかと思う。

 つまり、性犯罪者(というか犯罪者全体)への対応は、自治体が各自でやるのではなく、国が行うべきものである(その意味では、本条例は国が動き出すまでの「気休め」程度にはなるかも知れない)。



 最後にまとめとして。私が言いたいのは、性犯罪者の再犯防止を徹底したいのなら、性犯罪者に対する科学療法こそ根本的に問題の解決に寄与するのであり、GPSで監視したところで根本的な問題の解決にはならない(しかも条例レベルでは。)ということだ。

海保職員は国家公務員法違反か?

2010年11月12日 | 民事法関係
ビデオ流出職員を称賛=「逮捕するのはおかしい」―自民・安倍氏(時事通信) - goo ニュース

 自民党の安倍晋三元首相は11日配信のメールマガジンで、中国漁船衝突ビデオを流出させたと名乗り出た海上保安官について「日本の正統性を国民と世界に示した」とたたえた。一方で、映像を非公開とする判断を主導した仙谷由人官房長官に言及し「ひざを屈して日中首脳会談をやりたがる男と、どちらが愛国者か答えは明らかだ」と批判した。
 安倍氏はまた、「保安官を逮捕するのはおかしくないかと友人から問われたが、その通りだ」とも指摘した。



 今回のビデオ流出騒動を受けて、仙谷氏をはじめ一部の者たちが、ビデオ流出を図った海保職員の行為が、国家公務員法100条「秘密を守る義務」の違反になるという指摘をしているが、果たして本当にかかる海保職員の行為は国家公務員法違反に問われるものなのか、法的に検討したい。


 法的な検討に入る前に、まずはこれまでの流れを整理しておく。

 今回流出したビデオは、今年9月、尖閣諸島沖で中国船が違法操業をしているのに対し、海保の巡視船が操業中止を呼びかけたが、中国船側が海保の巡視船に二度にわたる体当たりをし、公務執行妨害で逮捕された事件(以降、「尖閣沖事件」とする。)を撮影したビデオの44分版のものである。

 ビデオの内容は、「これまでマスコミ、関係閣僚等から繰り返し説明されてきた内容」と同じものであり、これによって中国船側の違法性が改めて明らかになった。たとえば、前原外相はビデオが流出する前に「このビデオを見れば(故意の衝突ということが)一目瞭然」(時事通信)といいう主旨の発言を繰り返していた。

 また、青山繁晴氏によれば、今回流出したビデオはその作られ方からして、海保の職員の研修用として編集されたものだという(スーパーニュースアンカー)。

 読売新聞の9月28日の記事によれば、法務省は「漁船が海上保安庁巡視船に衝突した様子を撮影した同庁のビデオの公開を検討していると説明し」ていたという。

 更に同じ読売新聞の9月24日の記事によれば、政府の中国人船長釈放の意向を受けて、ある海保幹部は「こんなことならビデオを早く公開すべきだった」と述べていたという。



 上記で挙げた記事は、尖閣沖事件の顛末について撮影した当該ビデオを、政府が最初から「機密」扱いしているものではなかったということを示すほんの一部のものである。また、前原外相らの発言は、当該ビデオの存在を前提に話していることが分かる。



 さて、ここからこれらを踏まえ、法的な検討に入る。


 今回の流出騒動を受けてにわかに脚光を浴び出したため、ご存知の方も多いだろうが、最高裁昭和51年7月20日判決は、国家公務員法100条にいう「秘密」の文言について最高裁としての解釈を示している。つまり、判例としては、今なおこの解釈が実務的には、「秘密」の解釈とされている。

 そこには次のようにある。

 すなわち、

 秘密とは、非公知の事実 であって、実質的にもそれを秘密として保護するに値すると認められるもの

である。

 それでは翻って、上記「秘密」の解釈に照らして今回のビデオ流出が国家公務員法100条違反に問えるものなのか。


 まず、「秘密」と言えるには、その対象が「非公知」であること、つまり公にはその存在が知られていないということである。今回の件に当てはめれば、尖閣沖事件を撮影した「ビデオそれ自体」の存在が、公には知られていなかったということでなければならない。

 しかしながら先述したとおり、ビデオの存在は関係閣僚もマスコミも誰もがその存在を認め、流出前から「ある」と公言されてきた。しかも、ビデオがただ存在していると述べるにとどまらず、その内容までつまびらかに紹介されていた。

 くわえて、法務省や海保は当該ビデオ公開を一時検討していたことからして、当該ビデオに秘密されるべき特別な理由が存在しているとも思えない。前原大臣に至っては、このビデオを見れば中国に非があるのが「一目瞭然」で判明するとまで言っていた。

 更に、流出以前に、もうすでに国会では一部議員に限定されてはいたものの、ビデオの公開までなされていた。したがって、当該ビデオが「非公知=国民に存在が知られていない」と言うことはできない。


 上記理由によりビデオの非公知性が崩れた以上、当該ビデオが国家公務員法の「秘密」の文言に照らして保護されるべき存在と言うことはできないはずである。



 したがって、検討の結果、当該ビデオを流出させた海保職員を国家公務員法100条違反で立件するのは非常に困難、否、不可能であろう。

船長釈放の根拠は崩れた

2010年10月29日 | 民事法関係
船長、衝突前に飲酒し泥酔状態 漁船衝突(日テレニュース24)

 沖縄・尖閣諸島沖で中国の漁船と日本の巡視船が衝突した事件で、漁船の船長が衝突する前に酒を飲み、海上保安官が立ち入った際にも、自分では歩けないほどだったことを中国の当局者が明らかにした。
 中国当局者によると、先月7日、尖閣諸島沖で中国の漁船と海上保安庁の巡視船が衝突する前、漁船のセン其雄船長(41)が酒を大量に飲んでいたことを、事件の6日後に帰国した乗組員14人が中国政府に証言していたという。
 中国の漁船は午前10時過ぎから11時ごろにかけて相次いで2隻の巡視船に衝突し、午後1時ごろ、海上保安官が漁船に立ち入ったが、漁船の乗組員の証言では、その際、船長はまだ酒に酔っていて、自分で歩けない状態だったという。
 ★セン其雄の「セン」は「擔」のつくり



 尖閣沖での海保巡視船への中国船衝突事件において、逮捕した船長を釈放した理由として、仙谷氏をはじめ、しばしば挙げられるのが、刑事訴訟法248条、すなわち、起訴便宜主義である。

 現在の法務大臣が知らない、法学部の学生なら知っているこの基本的な制度は、検察官が公訴権を行使するのもしないのも、その裁量に委ねられるというものである。すなわち、不起訴処分にする場合に、公訴時効が成立しているために訴訟条件を欠く場合、もしくは訴訟条件は具備しているものの、犯罪の嫌疑が不十分な場合に問題になる。

 なお、訴訟条件も嫌疑も十分であるにもかかわらず、諸般の事情を考慮して不起訴にするのは「起訴猶予」であるが、今回の船長釈放は、形式的には明らかにこの起訴猶予にあたるような処分をしておきながら、処分保留のまま、つまり何らの処分もしないまま釈放したのだから、法的に大いに問題があるのは言うまでもない。


 しかも、今回明らかになったことは、船長は泥酔状態で巡視船に衝突してきたということである。これはつまり、飲酒運転してパトカーにぶつけたようなものだ。ならば、法律論の知・不知に関係なく、今回の「処分」は明らかに起訴便宜主義から逸脱したものであることは、素人目からも分かりそうなものだ。

 起訴便宜主義にもとづいて被疑者を釈放するための指針として、刑事訴訟法248条は、「犯人の性格、年齢及び境遇、犯罪の軽重及び情状並びに犯罪後の情況」を挙げ、これら事情にもとづいて判断するものとしている。

 すなわち、①犯人自身に関する事情、②犯罪自体に関する情況、③犯罪後の諸々の事情を総合的に考慮して、起訴すべきか否かを決定することになる。



 以上のことを踏まえて今回の問題を考えると、まず①についてであるが、船長が巡視船衝突時に泥酔状態であったのだから、これは起訴をすべき理由にこそなれど、起訴を見送る理由にはならないのだから、犯人自身に関する事情を考慮するに、釈放の条件は満たしていない。

 次に②について見るに、中国船のほうから巡視船に衝突してきており、さらにその際、スピードを緩めることなくぶつかってきたということのようだから、②についても、釈放の条件は満たされない。

 最後に③についてはどうか。一部報道によると、この船長と接見した中国領事館員が船長に対し、「すぐに釈放されるから何もしゃべらず、サインもするな」と指示した後から船長は黙秘を繰り返すばかりで捜査に非協力的だったおいうことからしても、③の要件もまた満たされることはない。

 したがって、刑事訴訟法の主旨に照らし、船長が248条にもとづき釈放される理由はどこにもないのである。現に、検察は那覇地裁に対し、拘留延長を請求し、これが認められていることからして、検察としては起訴する方向で捜査を進めていたのは間違いない。



 よって、今回のこの一件は、船長釈放の理由がますますなかったということを証明するものである。

夫婦別姓の根拠に人格権を据えること

2010年04月10日 | 民事法関係
民主、政策集作成を中止 リベラル色薄め批判回避(産経新聞) - goo ニュース

 民主党は8日、毎年公表してきた党の総合的な政策集「INDEX」の平成22年版(インデックス2010)の作成を見送る方針を固めた。従来のインデックスには、永住外国人の地方参政権の早期実現などリベラル・左派色が濃い政策が数多く盛り込まれており、民主党は昨夏の衆院選マニフェスト(政権公約)でこれらの政策を除外した経緯がある。7月の参院選を前に22年版の作成を見送ったのは、リベラル色を薄めることで自民党などの批判をかわす狙いがあるようだ。
 民主党はマニフェストだけを「国民との約束文書」としており、インデックスは公約とは位置づけていないが、党内で検討された政策であることは間違いない。
 昨年のインデックス2009には、政治改革、財務・金融など21分野350項目を列挙した。「クマ被害対策」などの項目もあるが、イデオロギー色の強い政策も数多く含まれており、永住外国人の地方参政権については「早期実現の方針を維持」と明記。選択的夫婦別姓は「民法を改正し、導入」とした。靖国神社については「A級戦犯が合祀(ごうし)されていて公式参拝には問題がある」とし、「特定の宗教性を持たない新国立追悼施設の設置の取り組みを進める」と記した。先の大戦の真相究明を目的に「国会図書館に恒久平和調査局を設置」も掲げている。



 夫婦別姓に関する議論を俯瞰していると、別姓賛成論者は、その根拠を人格権に求めるようである。たとえば、「氏名を人格権として捉えるならば、氏名の一部である氏について、本人の意思に反して改姓を強制することは、人格権の侵害として許されない。」と述べる者もいる(二宮周平『家族と法』岩波新書、2007年)。そこで今回は、(選択的)夫婦別姓の根拠として「人格権」を据えることにより生じる結果について考えてみたい。


 そもそもとして「人格権」とはいかなる内容の権利なのであろうか。同権利を要領よく定義することは非常に難しいが、人格権とは人格的な諸権利の総体であり、具体的には生命・身体や健康はもとより、自由や名誉やプライバシーなどの人格的属性を有する法益すべてが含まれる(五十嵐清『人格権法概説』有斐閣、2003年)。この中でもとりわけ人格権は精神的人格について、これを保護法益とみなしていると言える。

 そうすると、確かに夫もしくは妻の氏を名乗るかは、その者の人格権に関する問題であるように思われる。要するに、人格権の保護を貫徹するならば、夫婦どちらの氏を名乗るかについて、個人が自由に決定できなければならないし、自分の氏に愛着等を抱く者に、相手方の氏を強制することは人格権の侵害になろう。よって、夫婦どちらの氏を名乗るかを夫婦で自由に選択できる選択的夫婦別姓は、人格権の保護に欠かせない制度である。


 しかしながら、本当に個人の人格権の保護を貫徹しようとするならば、これでは甚だ不十分ではないか。

 まず、現在の政府案では、子の氏については夫婦どちらかの氏に統一するというが、これは子の人格権の侵害である。

 というのは、子からしてみれば、夫婦どちらの氏も受け入れ難い場合があろうと考えられるからだ。子によっては日本人なのに、キムやチャーチル、アレックスと名乗りたがるかも知れない。芸能人と同じ苗字がいいと言い出すかも知れない(笑)。現実的な事例で考えてみても、たとえば子がその苗字でいじめられて精神的苦痛を受けた場合、その回復手段として氏の変更もありうる。

 二宮周平教授は政府案では不十分だとして、「一定の年齢、たとえば、15歳以上になったときに、自己の意思でいずれかに変更できる権利を保障するのが望ましい」としている(前掲書29頁)。しかし、人格権というのであれば、毎日の服装のように、氏も名も好きに変えられるのが理想ではないのか。


 次に、人格権の思想に基づくならば、たとえば、欧米のように「ミドル・ネーム」や、モンゴルのように「実父の名前+子の名前」といったような氏名のつけ方や、果てはイスラム圏の一部の国のように氏自体不要とまで言い切らなければ、人格権も看板倒れである。

 だいたい、苗字の存在自体を人格権の侵害と考える者がいないなどと、一体誰が証明できようか。これこそ、別姓論者が常に唱える「家族の多様化」の精神と合致するものであるはずだ。

 要するに、人格権の保障を全うするならば、氏の統一など図る必要は全くないし、名でさえも、親から一方的に与えられたものを名乗るのではなく、自分で好きな名をつけて、好きなように名乗ればいい。なぜならば、別姓派の言うように、「氏が違う程度で家族が崩壊することはありえない」からだ。



 ここまで述べてきて何が言いたかったのかと言えば、夫婦別姓の根拠に個人の人格権を据えることは、家族の枠組みをどのようにも変えることができ、非常に危険だということだ。

 別姓派の言うように、夫婦別姓を実施した程度で家族の崩壊が起こらないとしても、バックボーンに人格権という思想が存在する限り、いくらでも家族制度など解体することができるのである。

菅谷氏は被告「人」である

2009年10月17日 | 民事法関係
足利事件:菅家さん「被告と呼ばせぬ」 21日に再審公判(毎日新聞)

 菅家さんは6月4日に無期懲役の刑が執行停止され、再審開始決定を待たずに釈放された。異例のケースだが、再審で無罪判決が出るまで「被告」の立場が続く。
 「今は自由ですよ。でも半分被告、半分自由。(刑務所から)出てますから、被告人と言われてもピンとこない。裁判では『菅家さん』と言ってもらいたい。『菅家氏』でもいい」と話す。弁護団も提出した上申書の中で「(被告と呼ぶのは)起訴状朗読の際以外には認めない。事件の呼び上げなどの際にもくれぐれも注意されたい」と求めている。
 10月に入り、足利事件に関する供述が含まれる取り調べ録音テープを聞いた。検事に君は人間性がないと迫られ、泣きながら「自白」した。菅家さんは「反省して泣いたんじゃない。悔しかったんです。いくら『やってない』と言っても分かってくれなかった。どうして自分を犯人と決めつけたんだ。自分の立場と検事の立場を逆にすれば絶対、苦しみが分かる」と強い口調で話した。



 菅谷氏は被告ではなく、被告「人」なのである。したがって、彼が「被告」と呼ばれることは、マスコミを除き、これまでも、そしてこれからもないはずなのだが。

 それでは、「被告」と「被告人」の違いは具体的に何なのかということであるが、簡単に言うと、前者は民事事件または行政事件において訴えられた者の呼称で、後者は刑事事件において訴えられた者の呼称である。

 上記の定義にしたがえば、菅谷氏は殺人罪で起訴され、刑事訴訟事件において争ってきたのだから、彼は被告ではなく被告「人」ということになる。だから冒頭で彼が「被告」と呼ばれたことは、これまでもそしてこれからもないはずだと述べたわけである。



 刑事事件についてもう少し詳しく申し上げれば、捜査段階では「被疑者」であり、公訴提起(検察官による訴えのこと。)がなされると、訴えの対象という意味で「被告人」と呼称されることになる。

 とはいうものの、この両者の間に名称以外の本質的な違いはないとされる。ちなみに、公訴提起されたが、裁判が確定していない者を被告人と呼ぶ。

 なので余談だが、この記事には、「弁護団も提出した上申書の中で『(被告と呼ぶのは)起訴状朗読の際以外には認めない。事件の呼び上げなどの際にもくれぐれも注意されたい』と求めている。」とあるが、裁判官が菅谷氏を「被告」などと呼ぶはずもなく、記事中の()の部分は完全に読者をミスリードさせる誤報である。



 ところで、これはマスコミのせいだとも思われるが、一般的に、「被告」という呼び方は、もうそのように呼ばれる者は「クロ」であり、「犯罪者確定」という印象を持っている人が多いように思われる。

 しかし、刑の確定は、検察官による立証と弁護人による反証を経て、判決がなされ、14日間の控訴提起期間を経過し(刑事訴訟法373条)、出された判決により有罪が確定することによって、はじめて「クロ」になるのである。

 菅谷氏は再審請求事件の対象となっている以上、最新のDNA鑑定等によって「シロ」という結果が出されてはいるものの、再審公判によって無罪の言い渡しを受けていない以上、法的には未だに「被告人」なのである。

 つまり本来ならば、彼は未だ「シロ」ではなく、「クロ」として扱われなければならないのである。換言すれば、たとえ再審の結果が明らかであったとしても、菅谷氏は「限りなくシロに近いクロ」ということである。



 裁判員制度も始まり、司法が身近になった現在、マスコミには正確な法律用語の使用による報道が求められているはずだ。

妥当な判決であるが・・・

2009年09月05日 | 民事法関係
【裁判員裁判】性犯罪初公判 求刑通り懲役15年(産経新聞) - goo ニュース

 検察側の求刑通りとなった4日の青森地裁判決。主任弁護人の竹本真紀弁護士は「裁判員は、法律家以上に強姦(ごうかん)の結果を重く見たのではないか」と感想を漏らした。被告よりも被害者に感情が傾きがちな“素人感覚”が厳罰化を招くともいわれる裁判員裁判では、被告なりの事情を訴え、情状面を強調せざるをえない弁護活動は困難を強いられそうだ。3日間の審理は、“求刑の8ガケ”とされてきたいわゆる「量刑相場」に一石を投じるものとなった。 



 懲役15年とする判決には意義ない。ただし当然のことながら、ただ罰を与えればそれでよいのではなく、その罰が今後の被告にとってプラスになるのか(社会復帰的側面)、そして凶悪な犯罪にはそれ相応の制裁をして欲しいという面(被害者の視点からの側面)のバランスをきちんと取っている必要がある。


 ちなみに、今回の事件は強姦のみのものではなく、強盗強姦事件なので、刑法177条の強姦罪ではなく、刑法241条の強盗強姦罪が問題となる事件である。強盗強姦罪の法定刑は、無期または7年以上の懲役である。

 強盗強姦罪とは、強盗を目的とした者が女子を強姦した場合を定める規定で、強姦を目的とした者が強盗を働いた場合には強姦罪+強盗罪の刑で裁かれることになる。



 今回、一番注目されている「量刑の相場」に関しては、これまでの強盗強姦事件においては、同類の他の犯罪(強盗、強姦等)が1~2件の場合には、懲役5~10年、単一の強盗強姦事件の場合は、おおよそ懲役3年6カ月、懲役4~5年といったところであるという。

 これら「相場」に照らして今回の事件を考えてみると、弁護側は「懲役5年が妥当」としていたのだから、弁護側の判断はこれまでの「相場」に倣ったものだと言える。したがって、弁護側が不当に軽い判決を求めたわけではない。



 しかしながら、これまでの「相場」による判断が、一体どれだけ被告の贖罪と、被害者の被害の回復に貢献してきたかについては、疑問がないでもない。そもそも、ここが一番重要なポイントであろう。

 刑が軽すぎれば被告の更生も不十分に終わるだろうし、被害者の無念も晴れないだろう。かといって、刑が重すぎれば刑務所のキャパシティに問題が出てくることはもとより、刑法の基本的考えである「刑は人を裁くのではなく、その者が犯した罪を裁くものである」という原則を覆しかねず、そうなると魔女裁判のように、刑が先に挙げたバランスを失い、ただの制裁に傾いてしまう危険性もある。

 したがって、やはり最初に指摘したように、刑を科すというのは、両者のバランスを考慮するという、実は極めて難しい作業であると言える。



 ところで、私も使用した言葉だが、刑を判断するにあたって使用される「相場」という言葉の使用は控えたほうがいいかも知れない。なぜならば、「相場」という言葉からは、被害者をいたずらに軽視し、事件を裁く裁判に機械的で人間の血が通っていない印象を与えるからだ。

 「相場」という言葉からは、事件それぞれで被害者も、そして加害者も違っていることを忘れさせ、事件によって被害者は甚大な苦痛を被り、精神的にも肉体的にも傷ついているのに、そうした「生身の人間の声」に耳を傾けず、ただ、これまでの「判断」にしたがい、機械的に「事件を処理している」という印象を、私は持つ。


 こうした印象をもし多くの人が共有しているとしたら、これまでの「相場」に捕われず、求刑通りの懲役を下した今回の裁判に賛同する人は当然増えるだろう。それが「国民の判断(感覚)」を反映させるという、裁判員裁判の制度趣旨にも適うというものだ。



 余談だが、先述したように、裁判員裁判は裁判に国民の判断(感覚)を反映させるための制度として始まったが、これは裏から見れば、これまでの裁判(裁判官、弁護士、検察官の法曹三者によってなされる裁判)が国民の感覚から離れたものであるということを証明していることである。

 法的判断が一部の者だけがなしえる特権であるという時代は、もう終わったものだと思う。

夫婦別姓に関して

2009年09月04日 | 民事法関係
【金曜討論】夫婦別姓 八木秀次氏、青野慶久氏(産経新聞)

 夫婦は同姓か、別姓も認めるのか。民主党は「選択的夫婦別姓の早期実現」を政策集で掲げており、議論が再燃しそうだ。夫婦別姓には「民法改正は家族制度の根幹にかかわる」との慎重論が根強い一方、職場での旧姓使用は広がっている。「家族のつながりを希薄化させる入り口」と民法改正に反対してきた高崎経済大学教授の八木秀次氏と、自ら旧姓を使用し「制度は変わる」と確信するサイボウズ社長の青野慶久氏に聞いた。



 今回は、民主党政権になったということもあり、家族制度の根本的問題である夫婦別姓制度の導入について検討したい。そこで検討にあたり、上記記事で夫婦別姓を賛成している青野慶久氏の主張を取り上げる。以下、青野氏の主張。


①青野氏:仕事で旧姓の青野を使えば、損失を最小限に抑えられると結婚当時は思っていたが、実際には大変なことが多い。印鑑を作り直し、銀行口座やクレジットカードなど本名登録の必要なものはすべて登録し直した。女性は、これほどのコストを負担しているのだと思った。

②青野氏:同姓にすることで離婚に歯止めをかけられるなら、これほど離婚が増えないはずだ。家族形態は変化しており、止めることはできない。かつて祖母がアルツハイマーを発症し、母がひとりで介護した。しかし、今は老人ホームや介護サービスといった選択肢がある。家族が強固でなければ生活が厳しい時代があったが、今は家族という枠組みにこだわらなくてもいい時代になっている

③青野氏:(民法を改正しなくても、パスポートに旧姓を併記するなど各分野の運用面で対応できるのでは、との質問に対して)かえって手間がかかる。今名乗っている名前を使い続けられる制度にすべきであり、この制度は変わると確信している。夫婦別姓に限らず、社会のルールは選択肢が多い方が人は幸せになる。今では職業や住む所が選べるように、名前も選べていい


 以上、青野氏の夫婦別姓推進の主張を紹介したが、彼の主張を一言でまとめるなら、「夫婦同姓だと手続上色々と面倒である」、ということになろう。なるほど、この主張は確かに説得力を持っているように思える。結婚を経験した女性に対してはなおのことだと思う。

 しかし、彼のこれら主張が民法を改正して夫婦別姓を創設すべしという結論に結び付くものとは思えない。だいたい、手続上の問題を指摘するならば、その煩雑な手続を変えればいいだけで、必ずしも民法を改正する必要性はないはずだ。

 むしろ私としては、夫婦別姓を「選択的」にするほうが、かえって手続が煩雑になるように思える。

 その理由として、まず、子供が産まれたときの対応がある。

 平成8年に法制審議会が提示した民法改正要綱では、子の氏は統一することにしたが、別姓を選択した夫婦は婚姻時に子がどちらの氏を名乗るか決めるものとした。

 もちろん、現在の制度ならば夫婦は同姓でなければならないので、わざわざ子の氏をどちらにするか決めるまでもなく、子は自動的に夫婦と同じ氏になる。手続の煩雑さを言うのなら、こちらのほうがかえって「面倒」ではないだろうか。

 それから、子の氏をどちらにするか決まらない場合、そのリスクはどうやって処理するのか。こうした点から、社会の家族観を上手に反映して一つの制度を作り上げることは容易ではない。子の氏は、安定した家庭を子供に提供するという観点からの議論がなければならない。青野氏のように、目先の手続の煩雑さに囚われて夫婦別姓を主張することは、非常に危険なことである。


 次に、手続の煩雑さという理由を、行政や公共サービスを提供する側などの立場になって考えてみると、実は夫婦別姓は公務員の仕事を増やし、行政のスリム化という喫緊の課題と相反することになるのではないか。

 単純に考えて、これまで一つに統一されていたものを二つに分割すれば、その分仕事が増えるということは誰でも理解できる。夫婦別姓を選択的に導入することによって、公務員の窓口業務の仕事量が増加したりはしないか。



 そして、現在では国家公務員であっても、2001年10月より旧姓の使用ができるようになっている。ということは、現行のままで夫婦別姓を選択的の導入するということは、仕事でもプライベートでも結婚後の氏を使う夫婦、プライベートでは結婚後の氏だが仕事では婚姻前の氏を使う夫婦、そして、夫婦の氏が別々の夫婦、という3つのパターンの夫婦が出てくるとも言え、このことは後述するように徒に社会の混乱を招きはしないか。

 したがって、厄介なのはこの夫婦別姓が、夫婦同姓を廃止して夫婦別姓を導入するというのではなくて、夫婦別姓か夫婦同姓かを各個人が自由に選択できるという「選択的夫婦別姓」にある点だ。確かに青野氏の言うように、選択肢は多様であるほうが人は幸せである。しかし、ことは家族という社会の基盤となる制度に関するものである。よって青野氏の主張は些か短絡的ではないか。

 「選択的」ということは、これまでと違い、夫婦のあり方が二種類になるということだ。二種類になることによって選択の幅は広がるが、それによる社会の混乱は制度導入のメリットを上回るものだと思う。

 そもそも、氏を決めるというのは、単なる個人の自由でどうにかしていい問題ではなく、社会全般にかかわる公的制度の問題である。私は平等と自由ならば迷うことなく自由を選ぶが、社会制度の根幹である家族の統一を図るのに必須の氏についてまで、それを各人の自由な処分に委ねるという主張には、全く賛同できない。

 ところで、上記産経新聞のアンケートによれば、選択的夫婦別姓を導入しても、それを活用するかという問いには56%が「ノー」と答えている。夫婦別姓導入の理由に国民からのニーズがあるとすれば、その当の国民がノーと答えているのに、導入する理由は一体何なのかということになる。



 最後に、夫婦別姓を導入する者はしばしば、憲法上の男女平等を持ち出す。しかし、そこで、これについて批判をしておく。

 まず、男女平等の思想から夫婦別姓は帰結しない。夫婦は同じ氏を名乗るか別の氏を名乗るかを、婚姻の際に確立5割のくじによって決める制度も男女平等の思想には反しない(内田貴『民法Ⅳ』)。

 次に、これについては既に岐阜家庭裁判所が、「親族共同生活の中心となる夫婦が、同じ氏を称することは、主観的には夫婦の一体感を高めるのに役立ち、客観的には利害関係を有する第三者に対し夫婦であることを示すのを容易にするものといえる。したがって、国民感情または国民感情及び社会的慣習を根拠として制定されたといわれる民法750条は、現在においてもなお合理性を有するものであって、何ら憲法13条、24条1項に反するものではない。」と判示している(岐阜家審平1・6・23)。私はこちらの主張のほうが説得的だと思う。

 なお、しばしば夫婦別姓の国として韓国が出てくるが、その理由は、氏は父系血統を表示するものとして不変のものとされ、夫の血統の家庭には入れないという思想ゆえであり、夫婦別姓を主張するフェミニストのような理由によって夫婦別姓が敷かれているわけではなく、むしろこの思想はフェミニズムと正面から対立するものであることを付言しておく。

犬は「器物」である

2009年08月30日 | 民事法関係
毒のパン?食べ犬死ぬ 器物損壊容疑 熊本県警捜査 緑色の液体 付着(西日本新聞) - goo ニュース

 熊本県警は29日、路上に落ちていたパンを食べた飼い犬が死ぬ事件があったと発表した。県警は何者かが毒入りのパンを置いた可能性もあるとみて、器物損壊の疑いで捜査を始めた。
 県警の調べでは、27日午後4時ごろ、熊本市二本木4丁目の白川右岸堤防沿いの道路で、近くの飲食店経営の男性(62)の飼い犬(ゴールデンレトリバー、雄9歳)が落ちていたパンを食べた。その後、犬は嘔吐(おうと)を繰り返し、2時間半後に動物病院で死んだ。
 29日早朝、この男性がパンの置かれていた場所に行くと、路上にパンの切れ端が落ちていたため袋に入れて警察に届けた。パンには緑色の液体らしきものが付いており、犬が食べたパンにも付着していたという。県警は近く鑑定を行い、毒物の有無を調べる。



 犬は「器物」である。これは厳然とした事実であって、感情論で動かしてはならないものである。器物損壊罪は刑法261条に規定されているが、そこにはこうある。


「他人の物を損壊し、又は傷害した者は、3年以下の懲役又は30万円以下の罰金若しくは科料に処する。」


 ここで「傷害」という文言が入れられているのは、人間以外のもの、すなわち、たとえば「動物」が同条による保護の客体として宣言されているからである。

 なお、ここで言う「動物」とは、飼い主が存在している動物のことを指す。つまり、野生の動物は同条による保護の対象外である。野生の動物は「鳥獣保護法」といった特別法により法の保護を受けることになる。同様に、野良犬などは、殺害しても刑法上は不可罰である。

 そして同条(器物損壊罪)は、財産犯罪として、他人の所有する動物を保護の客体とする。法律上、人間以外の存在に対する「傷害」は、モノ(財産)に対する「傷害」として扱われる。なお、この「傷害」の概念は意外と広く、判例では、他人の飼っている鯉を池に流してしまう行為も同条に言う「傷害」に該当するとしている。


 しかしながら、犬を「器物」として扱うということには、確かに感情的な疑問が起こってくる。すなわち、「動物だって生きてるのに!」という感情だ。しかし、こうした「感情」を法に反映させることは、非常に危険である。

 まず、法は「所詮は犬畜生だから」という理由で動物への傷害を261条で規定したのではないということは明言しておきたい。動物を「器物」とみなすことに、法的な安定性が存在すること、そしてそれには合理的な理由が存在するからだ。

 まず、動物を人間と同じような刑罰の体系に入れてしまうならば、人間に対する法益侵害に適用される刑法の規定をすべて動物にも適用しなくてはならなくなり、それでは法を運用するにあたり、甚大な支障が出ることは明らかだろう。

 次に、上記理由とも関係してくるが、そうなるとたとえば動物を媒介とした伝染病が蔓延しだした場合、その原因を除去するために動物を殺処分することも非常に困難になることが予想される。また、新薬の開発のために動物を実験に利用することもできなくなる。

 そしてそもそも、「動物」とは一体どういう存在を言うのか、定義するのも実は意外に困難である。そこから「ペット」だけを別扱いし、別の規定を設けるということも考えられるが、それならば既に刑法261条がある。

 もっとも、今回のこのニュースで「動物が器物なんて許せない!」と主張している人たちは、「ペット」と「野生動物」の線引きをどうやってしているのか、甚だ疑問であるが。両方一緒くたにして処罰することの弊害は既に述べたから割愛する。

 だいたい、会話ができない、理性がない生き物を、人間と同等に法的に扱うことは、それは法の恣意的な運用を許し、法的安定性を欠くためまったく同意できない。人間以外はすべて「モノ」として扱うことは、法の健全な運用のために不可欠な前提である。

 今回の犯人が道徳的に激しい非難に見舞われたとしても、それはあくまでも「道徳上」の非難であって、その道徳上の「罪深さ」と法的な意味での「罪」とを混同することは、非常に危険なことである。


 なお、動物愛護法による罰則は「愛護動物をみだりに殺し、又は傷つけた者は、一年以下の懲役又は百万円以下の罰金に処する。 」とのことであるが、いわば刑法に対する特別法的な立場であるとも考えられる同法による罰則規定が、刑法261条よりも軽いというのは、今後見直す余地があるのではないか。

草逮捕は当然

2009年05月02日 | 民事法関係
東京区検、草なぎさんを起訴猶予 「反省している」(共同通信) - goo ニュース

 東京区検は1日、東京・港区の公園で全裸になったとして公然わいせつ容疑で現行犯逮捕された人気グループSMAPのメンバー草なぎ剛さん(34)を起訴猶予処分とした。同区検によると、反省し社会的制裁も受けていることなどが理由。捜査関係者によると、草なぎさんは逮捕当時、かなり酒に酔った状態だった、としている。



 草逮捕について、一部では逮捕自体を不当と批判したり、家宅捜索は行き過ぎだという批判が出ているが、これら警察の行動は当然であり、批判される筋合いは一切ない。



 まず、今回彼がしでかした「公然猥褻罪」だが、これは刑法174条において、「公然とわいせつな行為をした者は、6月以下の懲役若しくは30万円以下の罰金又は拘留若しくは科料に処する。 」と規定されており、公然猥褻罪の構成要件は以下のとおり。

 まず、「公然」だが、最高裁昭和32年5月22日判決によれば、「公然」とは、不特定または多人数が認識できる状態をいう。そして、行為者が自身の行為を猥褻行為と認識していてはじめて同罪は成立するのではなく、その認識可能性を満たしていればよい。

 この公然性の要件に照らして本件を考えると、草が全裸になって騒いでいたのは、深夜とはいえ公的な場所である公園である。公園という場所柄、判例の言う不特定または多数人が認識できる状態を満たす。したがって公然性の要件は充足される。

 次に、「猥褻な行為」とは何かだが、最高裁昭和26年5月10日判決によれば、「猥褻行為」とは、徒に性欲を興奮または刺激せしめ、且つ、普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するものと定義される。つまり一般人がその者の行為を見て、恥じらいをおぼえ、一般人の性に関する考え方に照らし、性欲を刺激する可能性があれば成立する。

 この猥褻な行為の要件に照らして本件を考えてみると、草は衣服を脱ぎ、全裸になっていたのであるから、猥褻な行為の要件は満たしていると言える。大の大人が全裸でいる姿を目の当たりにしたら、そこが銭湯でもない限り、性的に恥じらいを覚えることは当然だ。

 このように、完全に公然猥褻罪の構成要件を満たしている以上、逮捕されるのは十分ありえ、警察が不当逮捕したという批判はまるで的外れだということが分かる。しかも草は近隣住民からの通報を受けて現場に駆け付けた警察官に対し、「裸でいて何が悪い!」などと言って、警察が騒ぎをやめて衣服を着るよう説得したことに対して反発しているのだから、逮捕されるのは当たり前ではないか。



 次に、草宅の家宅捜索についてだが、最初に、捜索の要件について述べておく。

 警察による捜索について、刑事訴訟法218条において、「検察官、検察事務官又は司法警察職員は、犯罪の捜査をするについて必要があるときは、裁判官の発する令状により、差押、捜索又は検証をすることができる。」と規定されている。

 一般に、捜索に必要な要件として、犯罪の嫌疑の存在、差押対象物の存在、事件との関連性、が挙げられる。そして最前提の要件として、裁判所の発する捜索許可状が必要になる。

 これら要件を今回の件に照らしてみると、犯罪の嫌疑の存在は既に証明されているのでクリア、事件との関係性については、最高裁昭和33年7月29日判決において、「本件に関係ありと思料せられる一切の文書及び物件」と記載された令状を、「明示として欠くるところはない」と判示していることから、今回の件においてもこの要件はクリアしているだろう。差押対象物の存在については、刑事訴訟法222条1項において、「押収すべき物の存在を認めるに足りる状況」を要求しているが、これは外部からは判断し辛いものなので、この判断については保留する。

 よって、おそらくは一応、捜索の要件を充足した上での捜索であったと思われるので、確かに公然猥褻罪で家宅捜索をするケースは稀であろうが、法が禁止しているわけではないので、家宅捜索自体を非難することもできない。

 ところで、肝心の家宅捜索を行った理由は、弁護士の落合洋司氏が述べているように、動機の解明、常習性の有無の確認といったところであると思う。続いて落合弁護士は、「この種の犯罪は、一種の性癖に基づくことが多く、また、常習的に行われることも少なくないもので、自宅や勤務先等の捜索により、そういった事情に関係する証拠が押収できれば、ということで、赤坂警察署としても、慎重を期して行ったのではないかと思います。」と述べているが、これもまた同感である。



 起訴猶予という決定については、刑事訴訟法248条で、「犯人の性格、年齢及び境遇、犯罪の軽重及び情状並びに犯罪後の情況により訴追を必要としないときは、公訴を提起しないことができる。」と規定されており、起訴猶予を採用している。草の逮捕前の行動ならびに逮捕後の反省、社会的制裁の程度等から判断して、これは妥当な判断だと思われる。



 だいたい、あれで逮捕に踏み切っていなければ、警察の「甘さ」を批判されておかしくない。上記のとおり公然猥褻罪の構成要件を充足している上、さらに衣服を着るよう注意をした警察に対し、抵抗をする発言をしたのであるから、警察が逮捕をするのは当然である。

 もし警察がこれにもかかわらず逮捕をしなかったならば、私ならば、警察は芸能人に甘いのかと思ってしまう。



 ここからは法律論を離れた私見だが、草は確かに日々強いストレスの下で生活を送っていたのだろう。だからその憂さを酒で晴らしたかったのかもしれない。

 しかし、そのような強いストレスの下で生活をしているのは彼だけではないし、だからといって深夜の公園で裸になって騒ぐことが、それによって正当化されるわけではないだろう。いかなる理由があったにせよ、犯罪を犯したことに変わりはない以上、逮捕されることも不自然ではない。

 そしていつも思うのだが、芸能界というのは、売れっ子には本当に甘い、甘甘の世界だと思う。私も彼はもう十分に社会的な制裁を受けたと思うのでこれ以上批判をする必要はないと思っているが、これがもし、普通の社会人だったら、会社をクビになってもおかしくない。学生だって停学処分だろう。

 にもかかわらず、売れっ子の国民的アイドルということ「だけで」、早く帰ってきてというファンなどのコメントが垂れ流され、揚句、逮捕は不当だと騒ぐ人たち。これに同調するかたちで、早くも7月のドラマから芸能界復帰。いやいや、芸能人であっても悪いことすれば捕まるし、何らかの制裁を受けるのは当然。

 彼が深夜の公園で全裸になって騒いで警察に捕まってこれが報道されて、しかも前科一犯となったということで十分に彼は罰を受けているが、もう少し、周囲は彼の行った行動に、シビアな目を向けてもいいのではないか。復帰ありきで、頑張って、というのは、犯罪者に対する対応としては甘すぎやしないか。芸能界にこういう空気があり、芸能界のこういう甘さを社会が許してしまっていることは、由々しき問題なのではないか。



 「大人として恥ずかしい。」彼はこう言った。そう、大人として、いや、常識ある人間として、非常に恥ずかしい行動をしてしまったのだ。草自身が口にしたこの言葉を、草は悪くないと嘯く人たちは、どう捉えたのだろうか。

そもそも子連れでパチンコするな

2009年04月12日 | 民事法関係
親パチンコ中、子が交通事故 「店にも責任」の判決(朝日新聞) - goo ニュース

 両親がパチンコ中に子どもが店外で交通事故に遭った場合、パチンコ店側に責任があるかが争点となった訴訟の控訴審判決が10日、福岡高裁であった。牧弘二裁判長は「幼児同伴の客の入店を許す以上、幼児の監護を補助すべき義務があった」とパチンコ店経営会社の過失を認定し、同社を含む関係者に総額約650万円の支払いを命じた。
 判決によると、大分市のパチンコ店に04年6月、2歳の男児と女児が双方の両親に連れられ入店。パチンコ玉を運ぶ台車に女児が乗り、男児が押して遊んでいた際、店外に出てしまい、国道で乗用車にはねられて女児が死亡した。



 タイトルにも記載したが、そもそも子供を連れてパチンコ屋に行く時点で、親の程度が知れる。パチンコ屋は子供を連れて行くような施設ではないし、あの騒音と空気の悪さは、子供の成長にも悪影響を及ぼすだろう。それでもパチンコをしたいなら、夫婦揃って行かないで、どっちかが行っている間は、どっちが家で子供の世話をしていればよろしい。にもかかわらず、パチンコ屋と一緒に行った両親を訴えるというのは、理解に苦しむ行動である。

 この両親(原告)は、少しは自分たちのしたことの重大さを認識して、悔いたりはしたのだろうか。第一次的には、確実に、子供が亡くなったことの原因は、亡くなった子供の両親にある。はっきり言おう。これは両親の監督不行きが起こした結果に過ぎない。常識的には、パチンコ屋と一緒に行った両親を訴えるという行動には、違和感を禁じ得ない。しかしながら、裁判になった以上、法律論的に検討しなければならなくなる。そこで以下、自分なりに法律論的に検討してみることにする。



 今回問題になった主たる点として、「安全配慮義務」の違反があったかどうか、という点がある。

 安全配慮義務とは、「ある法律関係に基づいて特別な社会的接触の関係に入った当事者間において、当該法律関係の付随的義務として当事者の一方又は双方が相手方に対して信義則上負う義務として一般的に認められるべきもの」と定義されている(最高裁昭和50年2月25日判決)。

 それでは、今回のケースにおいて、上記安全配慮義務の違反があったのだろうか。そしてそもそも、安全配慮義務が生じうる基盤となる契約関係が、原告の両親とパチンコ店との間に存在したのか、という点が問題になってくる。

 まず後者について検討すると、上記朝日新聞の記事によれば、「従業員が幼児の面倒をみると伝えたこともあった」という事実が存在するのだという。もしこれが本当ならば、ここにおいて契約関係から一種の付随的義務が発生していると言える。逆に言えば、これがなかったならば、パチンコ屋と原告との間において、安全配慮義務があったというのは、極めて難しいだろう。

 そもそも、パチンコ屋と客との間で交わされる契約における主たる店側の義務の内容は、客に対しパチンコ台等を提供することにより、そこでパチンコやスロットといった娯楽を楽しむための場を提供することであり、子供のお守など普通は付随的なものとしても契約内容に組み込まれているとは考えられないだろう。

 加えて、パチンコ屋が子供のお守をするということが、社会通念に照らして是認されているかと言えば、これをイエスと答えることはできなだろう。子供をパチンコ屋に連れてくるということ自体、非常識な親であるという評価が一般的であるとも言える。よって、子供のお守を、パチンコ屋の従たる契約上の義務として構成ことは不可能であろう。

 先ほどの引用判例には、「信義則」という言葉が出てきたが、信義則は「権利義務関係のないところに規範を設定することにも使われる。」(四宮和夫・能見善久『民法総則』第7版、16頁)。この表現を具体化したものが、上記判例の「ある法律関係に基づいて特別な社会的接触の関係に入った当事者間」という件になると理解することも可能である。つまり、本来ならばその契約からは生じない権利義務関係なのだが、信義則を媒介することにより、安全配慮義務という規範を創設するということである。

 だが、信義則の本来の意味は、「社会共同生活の一員として、互いに相手の信頼を裏切らないように誠意をもって行動することを要求するルール」(四宮・能見、前掲書15頁)なのである。このように信義則が定義されるならば、そこからパチンコ屋が客に対し、客の子供のお守をするという義務を、暗黙のうちに導き出すのは困難であろう。よって、本来ならばパチンコ屋の子供に対する安全配慮義務違反は、安全配慮義務そのものが成立しない以上、成立する余地がない。

 だが、実はポイントはここからなのだ。というのは判決でも指摘しているように、このパチンコ屋が「幼児同伴の客の入店を許」していたからである。そうであれば、信義則の基礎である、「互いに相手の信頼を裏切らないように誠意をもって行動する」ということが認められそうである。なぜなら、こう記されている以上、原告側としては、店側が子供のお守をしてくるものと理解しても、それが社会通念上おかしい理解だとは切って捨てられないからだ。

 しかしながら、これをもって直ちに店側の安全配慮義務違反を認定するのも、安全配慮義務の存在を認定するのも、論理的に飛躍があると思われるが、判決は私が見るに、「幼児の監護を補助すべき義務があった」という曖昧な表現をし、正面から安全配慮義務違反を認めているようには読めない。

 これを素直に読めば、子供の監護は第一には親にあるが、店が子供同伴の入店を許している以上、店側にはその親の監護義務を補助する義務がそれによって生じているということになる。しかも先述したように、「従業員が幼児の面倒をみると伝えたこともあった」ということもある。これらを総合的に判断して、今回は安全配慮義務類似の(限りなくそれに近い)義務を店側に課した判決であると思う。だが、一般的に子供を連れてパチンコ屋に行く親には非常識という判断が下されることが普通であるので、こういうお茶を濁した表現をしたのだろう。



 しかし、やはりどう考えても、親も親だろう。「パチンコ玉を運ぶ台車に女児が乗り、男児が押して遊んでいた」。普通の親なら他の客の迷惑にもなるし、店の備品で遊んでいるのだから、ここで注意をしろよ、と思ってしまう。というか、まだ2歳の幼児から目を離してパチンコを打つという行為自体、私としては理解し難い。

 最初に述べたように、親が馬鹿だから、子供が不幸になったのだ。このケースに限らず、親がパチンコに熱中するあまり、連れてきた子供のことを忘れ、誘拐されたり、車内で熱中症で亡くなったりと、悲惨な事件が後を絶たない。

 パチンコ屋の「幼児同伴入店許可」というのは、こうした惨事を考慮してのことなのだろうが、何度も繰り返すように、そもそも、パチンコ屋は子供を連れてやってくるような施設ではないし、パチンコ屋に、しかも2歳の幼児を連れて来店するということ自体、許されていいことではないはずだ。

 パチンコ屋は、自分の店のためにも、子供を連れての来店を断るべきである。子供がパチンコ屋にいるということ自体、極めて不健全なことである。

殺人の時効の撤廃に向けて動け

2009年01月11日 | 民事法関係
殺人などの時効「あまりに残酷」…撤廃求め遺族の会結成へ(読売新聞) - goo ニュース

2000年に東京・世田谷区で発生した一家殺害事件や、1996年の東京・葛飾区の上智大生殺害事件の遺族らが10日、殺人事件などの公訴時効の撤廃を求める遺族の会結成に向け、発起人集会を開いた。
 今後賛同する被害者遺族らを募り、「 宙 ( そら ) の会」として、2月下旬に第1回の集会を行う。
 発起人には、世田谷事件の被害者宮沢みきおさん(当時44歳)の父良行さん(80)、上智大生殺害事件で殺害された小林順子さん(当時21歳)の父賢二さん(62)らのほか、すでに時効となった事件の遺族が名を連ねた。
 会合では、賢二さんが「命の尊さについて被害者と犯人を比較した場合、あまりにも矛盾で残酷」と、時効撤廃を求める声明を読み上げた。DNAなど犯人が特定できる資料がある場合、その資料を基に起訴し、時効停止とする制度の整備も求めた。良行さんも、「全国的な規模で支持の声が届き始めている。(国は)現在の法律の範囲内でも、できることから始めてほしい」と訴えた。



 公訴時効を撤廃するか否かという選択は、加害者側の法的な関係の安定を取るか、それとも被害者側の犯罪(犯人)を憎む気持ちを取るか、ということとイコールに近いものと思う。私としては、殺人などの死刑に該当する犯罪に限定して時効制度を撤廃すべきであると思う。というのは、人を殺すという、殺された者にとっては最大の人権侵害を行った以上、そうした者に法的な関係において安定を与える必要はないと思うからだ。



 現在、公訴時効については刑事訴訟法250条において、死刑に当たる罪については25年、無期の懲役または禁錮に当たる罪については15年、長期15年以上の懲役または禁錮に当たる罪については10年、長期15年未満の懲役または禁錮に当たる罪については7年、長期10年未満の懲役または禁錮に当たる罪については5年、長期5年未満の懲役または禁錮または罰金に当たる罪については3年、拘留または科料に当たる罪については1年と規定されている。

 公訴時効の存在意義について学説では、公訴時効の経過により社会及び被害者の刑罰要求(応報感情)、犯人の悪性が希薄化するとする実体法説、時間の経過により証拠が散逸し、真実の発見が困難になることを理由とする訴訟法説、被告人の地位の安定のため時効の完成により訴追権が抑制されるという機能に存在意義を見出す新訴訟法説などがある(白取祐司『刑事訴訟法(第2版)』208、209頁)。そして公訴時効は、公訴の提起(刑事事件について、検察官が裁判所に起訴状を提出して裁判を求めること。)によって停止する(刑事訴訟法254条1項)。

 しかしながら、殊殺人などの死刑相当の犯罪について、実体法説の言うような応報感情の希薄化が生じてくるから公訴時効に存在意義があるというのは現実の被害者の置かれている精神的、社会的な状況を鑑みるに到底首肯できないものであろうし、現在ではDNA鑑定の精度の上昇等により時間が経過しても、証拠が散逸して捜査が困難になるということは少なくなったと言えるだろうから、訴訟法説にも説得性を見出せない。そして私からすれば、人を殺すという最大の人権侵害を行った者の地位の安定のために時効制度があるという新訴訟法説も説得力を持たない。そもそもどうして人殺しを行った者の地位の安定を考えてやる必要があるのか。ここにも、死刑と判断する際に被害者の人数を考慮しているように、被害者の命よりも加害者の命のほうが重いという、歪んだ人権感覚に通じるものがあると思われる。



 法務省の検察統計によると、過去の殺人事件の時効件数は、03年48件、04年37件、05年44件、06年54件であり、4年間で183件の殺人事件が時効によって法による制裁を受けないまま終わってしまっている。殺人事件の検挙率は警察庁の報告によれば、05年の日本の殺人の検挙率96.6%、06年の日本の殺人の検挙率96.8%、07年の日本の殺人の検挙率96.5%と、ほぼ横ばいで極めて高い高水準で推移している。

 この検挙率の数字から察するに、警察としては凶悪事件に対して誠心誠意対応していると言えるだろうが、それでもなお依然として、年に50件弱の割合で時効が完成してしまっているということは、決して大したことではないと言えないはずだ。毎年多くの遺族の方たちが、時効完成によって憂き目を見ているのに対し、毎年多くの殺人者が人を殺したことに対する法の制裁から解放されているというのは、法の趣旨である正義の貫徹と真っ向から対立することだ。



 時効というのは、先に挙げた学説のようにいかに綺麗な御託を並べたところで、殺人犯の「逃げ得」を推奨する制度であることには変わりはない。確かに犯人の中には25年生きた心地もなく大変な思いをする者もいようが、それでも25年経てば(無罪になるのではなく免訴であるが)法による制裁から解放されることになる。その一方で、被害者遺族の方たちは一生犯人を自身の犯した罪と向き合わせることもできず、泣き寝入りを強いられる。殺人犯に時効という恩恵を与える必要は全くない。法による制裁によって一件落着というわけではないが、敵討ちが許されていないのだから、せめて時効を撤廃して遺族の方々の無念を晴らさせるべきだ。