風そよぐ部屋

ウォーキングと映画の無味感想ノート

第100回ピースボート船旅/総集編

2019年06月06日 | 第100回ピースボート南半球クルーズ

第100回ピースボートの特徴は、南半球の西回りで、ウリは南極です。しかし、私は南極観光は興味が小さい上に、
料金がべらぼうに高い上に、船酔い必至の荒れた海を通らなければなりませんので、私は南極クルーズは選びま
せんでした。私は、一つの町に数日滞在し、都会の街歩きを楽しむ旅が好きですが、今回の旅・クルーズはそれと
は趣が異なりますが、クルーズにはそれと違った良さ、楽しさがあります。ヨーロッパなどの都会とは違って、
アフリカのビクトリアの滝や南米のイグアスの滝、ウユニ塩湖やパタゴニアは日本からとても遠く、個人では
ちょっと訪れるのが易しくない自然豊かなところを訪れる旅でした。
レユニオン島    マダガスカル    ビクトリア滝    テーブルクロス   ナミブ砂漠     
     
イグアスの滝    ペリト・モレノ氷河  パタゴニア     ウユニ塩湖    ラパヌイ
    
これらは寄港地から離れているので一日では行けない場所にあるので、オーバーランドツアーと言って、一度船
を離れて観光し次の寄港地へは飛行機で行き、船に合流します。当然かなりのコスト高ですが仕方ありません。
また、今回訪れた多くの所(特に都市部)は治安の問題があるので、魅力的な自由行動は難しいと言わざるを得な
いので、ツアーを申し込みました。

団塊世代が増え、また100回記念と言うことも相まってクルーズはほぼ満席、約1000人と、とても多いです。その
うち40%はリピーター、20%が外国人で、台湾人が一番多いそうです。日本人の新規参加者が少ないようです。私が
わかっただけでも、中国、香港、マレーシア、シンガポール、タイ、インド、スイス、ポルトガル、アメリカ、カナダか
らの乗船者がいました。日本人が少なくなっている理由はわかりませんが、どうせお金を使うなら、「あすか」など
の豪華の方が良いと思う人が増えているのかもしれません。2022年からは環境にやさしいと謳う新しい「エコシ
ップ」クルージングが開始されるようですが、その価格は、最グレードで1000万円近く、一番安い部屋でも200万
円ほどで、ほぼ倍になるようです。それまでは、中国・台湾・香港などのアジアの富裕層獲得に力を注いでいるよう
です。今回は、格安料金で集客し、そのミニコミでの拡散を狙ったのではないかと思います。
 そして、クルーやスタッフには、インドネシア、インド、フィリピン、バングラデシュ、エジプト、グアテマラ、エ
ルサルバドル、ペルー、ホンジュラス、ニュージーランド、韓国、コスタリカ、などの国々の人がいました。もっとい
たと思います。艦内(放送)言語は日本語、英語、中国語です。レセプションは、中文スタッフが多いのですが、如何
せん訓練・教育がまだまだというのが実情で、難しいことはわかりませんでした。

 夕食はセットメニューで早い組(17時から)と遅い組(19時から)に分かれます。私は乗船前に19時を希望しまし
た。食事場所は、メイン食堂が4階のリージェンシーレストラン、9階にパノラマ食堂(軽いコンチネンタル風洋食、
夜は居酒屋)、同じく、9階に昼は麺類・夜は丼物の小さなリドレストランがありました。メインレストランの朝・昼
食は概ね日本食をメインにしたビュッフェスタイルでした。三カ所全部で食べても良いです。私はランチは9階で
麺、そして4階で日本食でした。チーズはリド食堂の朝しかありませんでしたので、チーズとハムだけをここに食べ
に来ました。 私の一般的朝食の感じ
 
昼食                       麺でない時のランチ
 
これは特別のお節料理               ナミブ砂漠でのボックスランチ
 
早朝6時からモーンイングコーヒー、3時からクッキィ付きアフタヌーンティがありました。私は、今回船内の食事や
ツアー中の食事を含めて、ほとんど食事の写真を撮りませんでした。船内には、有料のバーやラウンジそして居酒屋
もあります。私は、居酒屋の利用は皆無でした。

 お菓子や日常品を売る売店、写真プリントサービス、美容室、銭湯とサウナ、マッサージルーム、診療室があります。
売店は何回か利用しました。診療室は、マダガスカルでの旅行者下痢で1回(6500円)、高山病薬(3500円)を求めるため
に利用しました。私の入った保険は、一症状で1万円を越えた場合だけ支払われるので、私の場合は該当しませんでし
た。

 海外旅行保険について 70歳以上で入れる海外旅行保険ほとんどありません。あってもほとんどが90日までの期
間で、すごく高額です。丸井のエポスカードと楽天カードには無料の海外旅行保険がついています。そのためエポス
カードを作ったのですが、両方ともやはり90日まででした。 [楽天カードは、出発時にカードを使用しなければなり
ません。] 仕方なく、私は、ジャパングレースが損保ジャパンと提携した特別の海外旅行保険(8万円)を申し込みまし
た。賠償補償と救援補償が付いていますが、前述したように疾病治療補償は1万円以上です。私は、今回も海外旅行保
険の請求はありませんでしたが、この保険はやはり重要で必要と思います。今回、何人かが急病で緊急搬送されまし
た。ジャパングレースから彼らへの「遅延」などの損害賠償請求があるかはわかりませんが、、船内で処置できない病
気やケガ(骨折や盲腸など)は起こりえますし、治療や搬送費用は、日本国内と違って高額となります。また、自分のミ
スで店の商品や博物館の展示物やホテルの備品などを壊したりすることは起こり得ると思うので、保険加入は絶対
必要と私は思います。

 クルーズの良いところ  クルーズは、おおむね寄港地に早朝着き、当日の夜寄港地を出発し、だいたい3~5日のク
ルーズの後に次の寄港地に着きます。なんと言っても時差が無いこと荷物の持ち運びをしないことです。そして、
寄港地に立ち寄らない、洋上だけの日々・時間がかなりあります。今回のクルーズでは、シンガポール出港後10日間、
ウォルスベイ(ナミビア)出港後9日間、ラパヌイ出港後8日間、アピア(サモア)出港後11日間という長期間寄港しない
日々がありました。そんな時は、ひねもすぼぉーと海を眺め、トビウオ、イルカやウミガメをながめたり、夕焼けやス
コールを楽しんだり、星空を眺めたりするもできます。
 3食の準備や掃除などの一切の家事をしないこともゆっくりできて、時には良いです。音楽を聴いたり、本を読むこ
ともできます。一番の問題は、日常的運動不足です。プールはありますが泳ぐほど広くはありません。甲板や廊下を歩
くのが一番良いのですが、人に迷惑になりますし、退屈です。何十年も前に作られたこの船は、昨今の「健康志向・対策」
がまことに稀薄です。ジムエリアはありますがランニングマシンは3台、あと3つほどの筋トレマシンとダンベル、ベ
ンチがあるだけの貧困です。上半身のウエイトトレーニングは少しできますが、一人30分のランニングマシンはいつ
も大混雑です。その上、問題は、このエリアには家庭用エアコンが一台設置してあるだけなので、室内はまさに「サウナ
状態」でいるだけで汗びっしょりです。私は、何度も公的に「エアコンをもう一台増やす」か、ドアを開け放しして海風
を入れられるように要求・訴えましたが、改善されませんでした。この状態を知っていた私は、今回、安いエアロバイク
とウォーキングマシンを買い、それを持って行きました。しかし、ウォーキングマシンは動作が難しく使い物になりま
せんでした。エアロバイクは、負荷がほとんどかからないので、余り運動にはなりませんでしたが、無いよりはましと、
せっせと漕ぎました。その他、ヨガマットと床に敷くマットを持って行き、体幹トレーニングやストレッチを充分楽し
みました。
左は、エアロバイク、奥は使わなかったウォーキングマシンとストレッチ用マット

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スマホの普及で艦内はWifiが利用できるようになったと案内にありましたが、インターネット利用料金(100分2100円)
は安くありませんし、そもそも私はスマホを持っていません。洋上は、衛星回線のため通信速度が極めて遅い上に、電
波事情が悪いので途中で遮断されることも多々です。私は今回、クルーズ中、有料インターネットは全く使用しません
でした。もちろん、PCは持って行きました。ナミビア砂漠でPCが壊れるまでは、キャビン内で、PCに取り入れた音楽を
スピーカーを使って聞いていました。また、撮った写真の保存や編集や日記やツアーメモなどを記録しました。PCが
壊れたのは大ショックでした。数日は手書きで日記を書きましたが、手書きは訂正が面倒、長時間書くと疲れるのでこ
の作業は止めました。撮影した写真のメモも十分でないので帰国してからのブログ作成は苦労しました。撮った写真
のバックアップはどうしても必要なので、友人のPCを借りて、USBにコピーしました。PCはやはり無くてはならない
必需品だと痛感しました。音楽はMP3で聞きました。しかし、インターネット・スマホ、新聞、テレビは3か月間ほどはな
くても何の問題もなく生活できます。それらに束縛・支配されない日常は時にはすこぶる良し、です。

妻は船酔いするので今回も同行できませんでした。また私は、わがままなので相部屋はイヤなので少し値がかさみま
すが、シングル部屋にしました。有料の英語学習のプログラムは、プライベートレッスンとグループレッスンの2つを
申し込みました。プライベートレッスンの2学期目は時間が早朝の8時からでした。このクラスを受けるためには、目
覚ましも必要ですし、朝食、朝の体操など忙しすぎるので、もったいないけれども、プライベートレッスンは2学期か
ら止めました。その他、ダンスなどの習い事や講演やサークル活動などは一切しませんでした。その他の行事やアク
ティビティなども時々見るだけでほとんど参加しませんでした。私が、参加したのは、鎌田慧さんの講演1回、高橋政
夫さんの講演2回、東ちづるさんの映画会1回とGETの先生の「マオリ文化語と文化」、「ラテン語」、「ユダヤ語」の特別
学習だけでした。中国語の学習会は、初めの頃、時間の都合が付くときは参加したのですが、英語グループレッスンと
時間が重なったため参加でず、残念でした。大森恵美子さんの筋トレも魅力的でしたがなかなか時間が合いません
でしたので数回だけしか参加できませんでした。

部屋の大きさは、約2.9m×4.8mほどでしょうか。日本のビジネスホテルより広いので、一人では充分ですがダブルベッ
ドでなくシングルにするべきです。4人分のロッカー、ダブルベッド1、トイレ・洗面台・シャワーがあり、かなり広い窓
があります。やはり窓は必要です。テレビとその台、引き出し付きのテーブルと椅子1があります。以前には無かった、
室内に湯沸かしポットがあり、とても良かったです。また、以前は飲み水と氷はバーやレストランにもらいに行かなけ
ればなりませんでしたが、今回は自動製氷機2とウォーターサーバー1があり、良かったです。でも氷は需用者が多く多
くの場合製造中でした。ウォーターサーバーは各階に1個ほど必要です。飲み物の自動販売機はかなりありました。
     
 
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クルーズ遅延とき帰国寄港地変更
3月20日、急病人緊急搬送のためサモアのアピアに戻りました。その翌日(3/21)また急病人が出たため、サモアのアピ
アに再度戻りました。数日後、緊急搬送で予定の日程が遅れたので硫黄島沖は通らないとの一方的な知らせがありま
した。その翌日、また新たな緊急搬送人が出ました。今度は、アピアに引き返すよりグアムの方が近いのでグアムに向
かうことになりました。グアムでは接岸しないでヘリコプターで搬送することになりました。「航路の大幅な遅れが生
じたため、硫黄島沖を通り、横浜では無く神戸に向かう」
との今度もまた一方的変更の報告のみがありました。硫黄島
のいきさつについては詳しい説明をしたのに、この航路変更の詳しい事情、そう判断した理由や根拠、個人が予約して
いたホテルや飛行便がキャンセルとなってしまうことの補償などなどについての説明は皆無でした。

 「硫黄島から帰国先が、横浜ではなく神戸に変えた」のは、「横浜にすると着岸は深夜になる」と理由を説明していま
すが、精確ではありません、距離では横浜の方が神戸より少し近いのです。深夜となるなら、沖で朝まで待てばいいだ
けの話です。横浜港大さん橋接岸及びターミナル施設等利用代金がいくらかはわかりませんが、決して安い料金では
ないはずです。その料金が必要な上に、さらに神戸までの船の燃料費、さらに神戸で予定されている船内見学会の変更
等の連絡やメンテナンスや物資の搬入計画の変更、そして今回は多くのアジア人が乗っていて彼らは飛行機で帰国し
なければならず、変更の手配と料金など多額の費用が必要です。次のクルーズ出発も遅らせなければならないかもし
れません。横浜への無料バスなどは桁外れに安いはずです。ジャパングレースが説明会を開けばこうしたことへの質
問に一切答えられるはずがありません。
 帰国寄港地変更の案内を意識的に遅らせた感もあります。遅らせることによって、「抗議」などをする時間がないよう
にした、姑息な時間稼ぎです。そして、3月28日、突如、「神戸から横浜への無料送迎バスの案内」(翌日12時までの申込)
の紙が配られました。一切説明がないので、「詳しい説明を」という"壁新聞"が張り出されました。いつの間にかそれは
はがされました。再度"賛同署名を求める壁新聞"と他の数名の「要望書」が張り出されました。にもかかわらず、ジャポ
ングレースから何らの説明も無く、またピースボート事務局も閉鎖されました。オープニングセレモニーで「私の事務
所のドアはいつも開かれているので、いつでも来て下さい。」と大見得を切っていた狭間俊一ジャパングレース事務局
長ら幹部は逃げ回っていました。狭間さんが船の航路を示す地図の記入にたまたま現れたので「説明をして下さい。」
と言うと、「会社の方針です。」とだけ言って逃げるように去りました。甲板を散歩中の彼にジムエリアのエアコンを増
やしてほしいと話した時も「レセプションを通して下さい。」だけでした。
 こうして、大きな抗議や抵抗などもなく「大過無く」時が過ぎ、騒ぎも収束しました。

張り出された”壁新聞”
 
壁新聞を見る人々
 
 私が、11年前初めてピースボートに乗った時「事件」は、こんな「軽微」な物ではありませんでした。63回クルーズは、
帰国が一ヶ月も伸びたのです。ダナン、シンガポール、クサダシ、イズミール、ピレウスで、強制的に留め置かれまし
た。驚く無かれ、この当時はクルーズが終了して2日後には次のクルーズに出発する、つまりメンテナンス等の十分
な時間が無かったのです。キャビンの消毒・メンテナンスが二日間で出来るとは私には思えませんのに…。
 イズミールで突如、非常時誘導設備等[暗くても非常口の存在場所とそれへの経路がわかる等の装置]が設置さ
れました。つまり、それまではそれらが全くなかった、ということです。キャビン内では、電気が消えてもライフジ
ャケットの存在がわかる装置もありませんでした。イズミールでは予備バッテリィーの不備が指摘され、新しいも
のが準備されました。エンジンのフル運転検査が義務づけられているそうで、船はピレウスに全速で向かったので
すが、船は激しく左右に揺れスクリュウの軌跡も不規則だったように思います。
 62回クルーズでは、船体に2.5インチの亀裂が見つかりアメリカ沿岸警備隊に約一週間にわたって止められたと
言います。そもそもそんな小さな亀裂の存在がどうしてわかったのであろうか、との疑問が残りますが…。これらの
事象は、乗客の安全・生命に関わる重大な問題です。そんな重大な問題をピースボート・ジャパングレースが知らな
かったことです。だからと言って彼らの責任が無いということにはまったくなりません。さらに自分たちには全く
責任が無いと言い張り、船の不具合などについての詳しい情報を全く公開しないこと、にあります。私は、実はピ
ースボート・ジャパングレースは63回クルーズの出発前にクリーッパー・パシフィック号に重大な欠陥があるこ
とを知りながら、航海中に修理すれば何とかなると思っていたのではないか、つまり「確信犯」です。もしそうなら
重大な犯罪行為です。
 イズミールに長期停留されていたとき、船内放送でしきりに船会社の副社長が呼び出されていました。おそら
くそのとき、代替船や損害賠償などについての交渉が行われていたのではないかと思うのです。説明会が何回か
行われました。まるで、全共闘時代の大学の「大衆団交」の様でしたが、熱烈な「ピースボートファン」もいるので、半
々の感じでした。ジャパングレースの社長がイズミールに来て初めて謝罪し、代替船を探していると説明してから
わずか一週間後に"モナリザ号"への代替えが決まり、大引っ越しとなりました。
帰国後、一連の不始末について、300米ドルの解決金と次回以降のクルーズの12万円の割引券は提供するが、クルー
ズを途中で止めて帰国する人に飛行機チケットを提供する、延びたクルーズ代は支払わない、と言うものでした。
 以上の経過を見て明らかなように、ピースボート・ジャパングレースは普段は平和や人権や情報公開などを主張
しているのですが、自分達に関わることや批判されると秘密主義・無責任・曖昧になり、情報公開どころではないの
です。他人に対しては厳しく、自分については超甘え、なのです。決められた事はマニュアル通り出来るのですが、
予想外の出来事への対応能力ははなはだ希薄で、危機意識・危機管理能力がきわめて弱いと言わざるを得ません。
【この時はそう思ったのですが、第100回クルーズを経て、私は、ジャパングレース・ピースボートは「危機をすり
抜ける」手練手管に実にたけている「海千山千のつわもの」と思っています。徹底して時間稼ぎと「よくわからない・
会社に任せている」です。それができるのはやはり「熱烈なピースボートファン・支持者」がいるからです。】
この”事故”については、帰国後、乗船客から損害賠償の裁判が起こされました。この裁判の結果は、「請求は棄却」
だったそうです。また75回クルーズでは、突然エンジンが停止し3日間漂流、停電したそうです。


 さて、今回の遅延については、一つ、難しい問題があります。
今回クルーズで、持病を持つ人は長期旅行に耐えられるとの医師の診断書が必要ですが、かなり高齢でいかにも
「病弱」と思われる人が乗船していたことです。医師がOKを出している以上、ジャパングレースが乗船前に断るの
は難しいとは思いますが、何らかの処置・対策が必要と思います。車椅子利用者はエレベーターがあるので大丈
夫ですが、聴覚障害者の乗船は「バリアー」があります。音声放送だけですから…。乗船するとき「通訳保障」や「電
光案内」を申し込めば、それら対応するかもしれませんが…。
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 暗い話が続いたので楽しい話題を変えましょう。帰国間近、嬉しいサプライズがありました。クルーズ中、友人に
なった中国人から、私の「似顔絵」、そして兵庫県豊岡市の女性から手動のミニルーターで私のイニシャルなどを彫
刻した”ショットグラス”(サモア製)をプレゼントされました。とてもうれしかったです。
 
 今回クルーズ、最後の最後にとんでもない「大事件」が起きましたが、私は総じてこの旅を十分楽しみました。私の
生涯で行けるとは思っていなかった多くのところに行くことが出来たからです。また、遅延も「前向き」にとらえて、
神戸に2泊して、神戸の街散策を楽しみました。
 自然の雄大さはもちろんですが、人類はそれに果敢に挑戦して来ました。この観点からいえば、人間は偉大ですが、
同時に欲深い人間の残虐さと暴力性も感じました。その一番は、「先住民」と言われる人々が、「文明人が持ち込んだ
細菌やウイルス」、「暴力的侵略・搾取・強奪」によって滅ぼされたこと、イギリス、フランス、スペイン、ドイツ、アメリ
カなどの「先進大国」は、今なお世界各地に「軍事的拠点」を置いて、世界を監視、威嚇しています。さて、私も「人生を
終える」時機を迎えています。気力・情熱そして体力がある間にもう少し人生を楽しみたいとの「欲」が髣髴としてき
ました。そのために、せっせとジムに通いたいと思います。そして、もしもう一度ピースボートに乗れる機会があれ
ば、本も少し読みもっとのんびりした船旅をしたいと願っています。
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 サモアからの長期航海中、塩野七生さんの大著「ローマ亡き後の地中海世界」(上下)を読みましたが、面白かった
ですが、残念ながら得ることはあまりありませんでした。

 費用について
 一人部屋早割料金234万円、ビザ取得やチップなど雑費10.5万円、英語18万円、保険8万円、ツアー代金209.5万円
(バオバブツアー17.2万円、ビクトリア滝ツアー41.9万円、ナミブ砂漠ツアー26.9万円、イグアスの滝ツアー35.9万
円、ペリトモレノ氷河ツアー29.8万円、ウユニ塩湖ツアー41.9万円のオーバーランドツア+1日ツアー計15.9万円)、
現金155米ドル、カード(宅配便や、船内でのお酒や自動販売機やお菓子代、土産代やハウスキーパーなどへの土産)
6万円ほど、計500万円ほどでしょうか。思っていたよりかかりました。
 ツアー代金が高いと思われるかもしれませんが、「格安」での事故やアクシデント、例えばホテル内のトラブル(盗
み等)、バスのチャーターやドライバーのアクシデントを避けるため、飛行機チケット確保など、仕方ない面があり
ます。海外でも日本でも、バス事故やホテル内アクシデントは起こりうることなので、それらをできるだけ避けたい
からです。                                     【終わり】

第100回ピースボート船旅㉔-2、㉖-2/ピトケアン諸島(バウンティ号の反乱)、ブリッジツアー&硫黄島

2019年05月22日 | 第100回ピースボート南半球クルーズ



3月10日 日
ピトケアン諸島、何の変哲もない絶海に浮かぶ小島です。驚くなかれ、太平洋における唯一のイギリスの海外
領土です。ピトケアン島をはじめとする5つの島からなり、バウンティ号反乱に参加した水兵の子孫ら約60名
が住んでいます。バウンティ号反乱の顛末は、何度も映画化されました。その舞台が、タヒチから2千キロ離れ
たこの島々だったのです。さて、その反乱ですが、18世紀末近く、ジャマイカへ運ぶ奴隷用食糧のパンノキの
苗木を入手するためタヒチ島へ向けて英国を出航した英軍艦バウンティ号、その船長は、乗務員を酷使し、ち
ょっとした罪でも拷問したり、鞭打ち刑などを処しため、船員たちの反乱が起き、映画チックなドラマが起き
ました。船内でも、変哲もないどうってことないこの島の沖を通ると言うので大騒ぎでした。ブリッジから、
大げさな案内放送が何度もされました。
見る角度のよってこのように
 
日が前後しますが、3月7日”洋上夏祭り”が行われました。私は、写真を少し撮っただけで参加しませんでした。
私が思うに、寄港地のない日が長く続き、退屈(特に、厳しい日本での現実的生活がちらつき始める若者のフラ
ストレーション)を発散させる行事と私は、偏屈しました。この日のために、浴衣を持ってきている人がたくさん
いるのに私は驚くやら……でした。
 

3月10日 日 上記と同様のような”ポリネシアンナイト”が深夜まで行われたようです。私は、ほんの少し見ただ
けで引き上げました。


3月12日 火 ブリーッジを見学できるツアーが何回かありました。いつも申し込みは長蛇の列でした。
今回は最終回でしたが、並ばずに申し込めました。
海に落とすとドラムが自力で開き、35人乗りのまゆ型救命イカダになります。
                         位置情報を発信する装置
 
ブリッジ・操舵室                  レーダー
 
 
 
左右に、船腹を見ることが出来る出っ張ったところ
 
出港の時使うドラ                 今では使われなくなったフロッピィ
 
公式時計                     
 
自動操舵なのでここは触ってもいいです。 このツアー中、職員は二人だけでした。
 
スタビライザースイッチ(揺れが激しい時、これを船腹から出して揺れを軽減させるもの)   図は引用 
 
レーダー                     アルファベットの手旗信号
 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
3/21、3/22、3/24、3/26、3/28 1時間の時差調整
3月20日、急病人緊急搬送のためサモアのアピアに戻りました。その翌日(3/21)また急病人が出たため、サモア
のアピアに再度戻りました。明け方の4時頃でしょうか、私は船の異常音で目が覚めました。私は、船が故障した
のかと思い、外を見るとアピア港に入港するためにバックしていたのです。船は、バックする時大きな音になり
ます。救急車らしきものが見え、しばらくして船から病人が搬送されるのが見えました。数日後、緊急搬送で予定
の日程が遅れたので硫黄島沖は通らないとの一方的な知らせがありました。その翌日、また新たな緊急搬送人が
出ました。今度は一番近いグアムに向かうことになりました。グアムでは接岸しないでヘリコプターで搬送する
ことになりました。航路の大幅な遅れが生じたため、硫黄島沖を通り、横浜では無く神戸に向かうとの今度も
また一方的報告のみがありました。硫黄島については詳しい説明があったのに、その詳しい事情、そう判断した理
由や根拠、個人が予約していたホテルや飛行便がキャンセル料などについての説明は、皆無でした。船内では、帰
国後の仕事の予定が立たない、故郷へ帰る手段の不安や不満などがあちこちで噴出、あっちでひそひそこっちで
ひそひその「大動揺」でしたが、この事件の不始末の顛末については、重要かつ長くなるので、項を改めて記します。


硫黄島 3月29日 金

地図を見ると細長くないですが、目で見ると延々と続く感じの長さでした。
 
映画で有名になった硫黄島擂り鉢山
 
反対側からの硫黄島          二度ほど鯨のジャンプを見ましたが、カメラではしっぽだけでした。
 

映画ですっかり有名になった硫黄島です。後の沖縄戦への前提としての軍事攻撃と言われます。おりしも3月26日、
日米の組織的戦闘は終結しました。日米合わせて5万人近くの将兵が戦死、負傷し、フィリピンの戦い、沖縄戦とと
もに第二次世界大戦の太平洋戦線の最激戦地と言われます。私には、これらの戦史について詳しく知りませんし、
その分析・評価は私の手に負えるものではありませんが、島を眺めている時私は、日米双方の指導者の「無能さ・無
責任さ」を痛感しました。とても不謹慎ですが、物量を誇るアメリカに至っては、もっと空と海から徹底して破壊し
つくせば、自軍にこんなに多くの犠牲者を出す「陸上戦」を避けることが出来ただろうに、そこにはきっと何か深い
思惑・意図があったのだと、強く疑問に思いました。

3月10日 Emily-Rose Reidさんの『マオリ語』、3月18日『マオリの神話と歌』に参加しました。
ちなみに、ニュージーランドの人口は約470万人弱、「自分はマオリである」と答えた人は60万人(人口の14%弱)ほど、
その中でマオリ語を話せる人は人口の1/5にあたる12万人、3%言われています。ちなみにニュージーランドの公用
語は三つ=英語、マオリ語、そして手話です。「わずか3%」のマオリ語を公用語にしたのです。手話人口はおそらくも
っと少ないでしょう。でもニュージーランドは、世界で初めて手話を公用語にしました。また、ニュージーランドは
世界で初めて女性参政権を認めた国でもあります(1893年[明治26年])。私が、一番尊敬する国です。
この学習会でまず基本的挨拶を学びました。この紹介・詳細は省きます。
興味深かったのは、自己紹介です。名前・住所は当然ですが、自分の祖先がどこから来たのか、自然環境(山や川など)
等のルーツと現在つまり自分の”アイデンティティ”を紹介する、文化でした。タトゥやトーテムポールにも同様の
意味があると聞いたことがあるように思います。
ポリネシア人の自然観・宗教心=感情には日本と同様、「万物、特に様々な自然の中に神々が宿る」=アニミズムがあり、
共感を覚えます。
『Maor Legends and Song』も楽しかったです。彼女が紹介してくれた、神話に関するビデオ
神話1、Panginui and Papatuanuku (パンギヌイとパパトゥアヌク)

神話2、A maui te tipua (私は楽しいです)

神話3、The fish of mani (私の魚)

神話4

神話5、Te Orokotimatanga o te ao (第二次世界大戦)

ビデオにある、スティックダンス[パフォーマンス](若いマオリの戦士がスティックを使って訓練した)のお遊び
をしました。私も参加しましたが、とても難しかったです。
マオリ人のファイトパフォーマンス=ハカの言葉の中に、”Ka mate au”があります。私には「ガンバッテ」と聞こ
えるのですが、「Alas I will die.」の意味=「悲しいかな、私は死ぬだろう」でした。
3月12日 アシュリーさんの『ユダヤ教の祭日』の講演を聞きました。食べ物や行動様式など日常生活の忌避的
事項は、半端ではありません。挨拶[Shalom]や過ぎ越し祭り、脱エジプトなども学びました。しかし、私は、キリス
ト教・イスラム教・ユダヤ教などの一神教はやはり「非寛容」と思います。また、ユダヤ教の「選民意識の強固さ」に
は、私はどうしても違和感を覚えました。
3月21日 アシュリーさんの『ラテン語学習会』に参加しました。今日、ラテン語はすでに「死語」だそうです。
なのにどうして学ぶ意味・意義があるのでしょうか? ラテン語は、イタリア語、英語、スペイン語などヨーロ
ッパの主要言語の”大語源”です。古代ローマの教養語はラテン語、ギリシャ語でした。アシュリーさんが言う
には、ラテン語学習にとって重要なのは、「読み」ではなく、とにかく「文法」、語源だというのです。
ラテン語のAguaは、英語の水ですが、スペイン語ではagua、イタリア語ではacqua です。
Agricolaは、英語では、farmerで、農業はagriculture、スペイン語ではagiricultor
Amo,Amareは、英語ではlove、イタリア語ではamore
Doneは、英語はgive、寄付はdonation
Aquariumは水族館、英語ではaquarium、イタリア語ではacquario、スペイン語ではacuario
などなど、フランス語やドイツ語は調べませんでしたが、とても興味深いです。
私が一番好きなカエサルの有名な手紙、「来た、見た、勝った」は、ラテン語では、「Veni,vidi,vici」でした。
3月26日GETの『スピーチフェスティバル』が行われました。一人2分間

落語の「ときそば」を元に私がオリジナルに考えました。だじゃれ・親父ギャグの下らないものですが、私は結構面
白いと自負していたのですが、外人にはなかなか難しくわかりにくかったようです。でもスピーチフェスティバル
の指導教官のSam Hongさんは「おもしろい」と言ってくれました。多くのスピーカーが「感動的・教訓的」内容を話
す中、砕けた話をしたのは、山形の若い女性の「ヤマガタラーメン」と私の二人だけでした。長く話すのは易しいで
すが2分間のスピーチは本当に短く、難しいです。ほとんどの人は、聞いていないのですが、私は楽しかったです。


翌日、3月27日 GETの卒業式がありました。私のクラスは、参加者が少なくびっくりしました。
同日、『The Final(最後の発表会)』が一日中ありました。このクルーズ中、ダンスや楽器演奏など色々な習い事・
アクティビティがあり、その発表会です。沢山の観客で満員の大盛況でした、が私はほんの少し覗いただけで帰り
ました。3月20日以降、カルチャースクールなどの発表会、おりづるプロジェクト演劇発表会、ピースガイド発表会、
地球大学発表会などが連日行われました。私が参加した英語スピーチフェスティバルもそうですが、これらはいわ
ば「生涯学習の発表会」のようなものです。私は、英語スピーチフェスティバル以外はいずれも参加しませんでした。


3月29日、『フェアウェルセレモニー&ディナー』がありました。
航路の変更のため、セレモニーの雰囲気は陰気で、スタッフ紹介が長々と続く退屈極まりものでした。私は、シャン
パンをお代わりしましたが。
3月30日は、下船に向けての荷造りデーでした。この作業日程[宅配申し込み、宅配荷物事前預けなど]の混乱・変更
もありました。
3月28日には「4月1日神戸発→横浜への無料送迎バスの案内(申込)」のペーパーが配られました。トイレ休憩は、ある
ものの途中下車は認められません。(昼間便の料金は、1800円~程です。)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
この項は、多くの時間がかかってしまいました。今回のクルーズのブログの<各論>は、今回で終わり、次回は最終回
《まとめ》です。     【終わり】

第100回ピースボート船旅㉖/アピア(サモア)

2019年05月16日 | 第100回ピースボート南半球クルーズ

サモアの海

トスア・トレンチ

アピア港
3月19日 火 朝6時アピア入港   3/15、1時間時差調整
ツアー集合は7:15と早いです。アピア出港が早いからです。
 


Papapapaitai Falls
 
オレプププ国立公園 トギトギアの滝
 
 
ソポアガ滝、この滝は個人宅の庭から見ることが出来ます。
 
 
もちろん入園料が必要です。
 
ココナツミルクの採取の実演、試飲などができます。   屋外の台所
 
楽器のドラム                   ココナツのかけらを食べる小鳥
 
実演用の低いヤシの木               植物に丁寧な説明がついていました。
  
トスア・トレンチ(地下で海水とカーブにたまった雨水などによる池がつながっているそうです。)泳ぐ人がいますが、
当日ガイドを務めた大学の先生に聞くと、水はきれいではないと言っていました。私は、もちろん入りませんでした。
このツアーのガイドは、現地大学の観光学科の先生と学生でした。私のバスは、2名の初々しい女子学生でした。
サモア語の挨拶を教えてもらいました。Talofa(今日は)、Faafetai(ありがとう)、faamolemole(Please)など。
 
                         べつのトレンチ
 
 
 
この公園の入口
 
レストラン
 
バスで港に戻りました。私は、スーパーマーケットでツアーを離脱し、アピアの町を自由散策しました。
                         ゲームに興じる人
 
 
混んでいるバス                  学校の歯医者さん
 
地元の人が立ち寄る大衆食堂            魚市場のバスターミナル
 
図書館
 
図書館の中                    アピアのランドマーク・時計塔
  
政府機関ビル                   郵便局
 
教会                       メソジスト教会
 
アピア大聖堂
 
 
 
インフォメーションセンター    
 
オーストラリア大使館               ニュージーランド大使館
 
消防署
 
職員が歌を歌っていました。              警察署
 
旧政府機関ビル                  アピアプロテスタント教会
 
以下二つの教会は名前がわかりませんでした。
 
カジノ
 
日本の援助でできた橋
 
 
15:30頃帰船しました。アピアは暑く、1時間ほど歩いただけで汗びっしょりでした。そんなわけで、市場、スーパー
マーケットに立ち寄りましたがクルーたちへのお土産は買えませんでした。シャワーで汗を流しました。
タヒチ、ボラボラ島、サモアは暑かったです。おそらく30度を超えていたでしょう。
サモア社会にはいろいろな特徴を見て取ることが出来ます。その一つに、宗教があります。キリスト教が多数ですが、
セクトが多くそれぞれが立派な教会があります。 学校制度については、飛び級、留年制があること、全国統一試験に
よって中等・高等・大学が決められるそうです。また、サモアは母系社会で、村落ではマタイ(村落の首長)の権限が
強いことなどから、治安もよく、村落ごとの特色も強いそうです。家々の多くは、フェンスで囲まれていませんし、
壁のない建物=「ファレ」を持ち、庭に立派な墓もあります(これらは無断で撮影しないのがマナーです)。以下、引用
 
村落の独自性は、学校の制服(色やデザイン)にも表れ、学校によって様々違っています。写真は撮りませんでした。
サモアの自然風土はとても豊かです。アジア式集約農業とは無縁のようで、バナナやココナツなどの果物が自然に
実り、また主食の一つタロイモなどの栽培も手間暇が余りかからないなど、とても豊かです。学校の授業料は、無料
ですが、自費の教材などや現代の商品文化は、多額の現金を必要とするため、出稼ぎや海外からの仕送りの必要性が
大きくなっているようです。
18:30最後の寄港地サモアのアピアを出港しました。以後、12日間ほど上陸しません。
アピア港                     大聖堂が見えました。
 
 

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サモアの場所を検索している時、アメリカ領サモアの文字が飛び込んできてびっくりしました。私は、サモアの歴史
を全く知らなかったからです。ウィキペディアで調べるとかなり複雑なことがわかりました。なんと、サモア諸島の
領有を争っていたドイツ帝国とアメリカ合衆国は、1899年に東西に分割することで決着した、と言うのです。
ドイツが占領した西部は現在、サモア独立国となり、東部分はアメリカ合衆国の自治領、準州だそうです。国家元首
はアメリカ合衆国大統領だそうです。
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これで今回クルーズについての「各論ブログ」は終わりと思っていたのですが、ピトケアン諸島(バウンティ号の反乱)
や硫黄島のことをすっかり忘れていました。そこで、項を改めて、ピトケアン諸島と、ブリッジツアーについて書こうと
思います。          【終わり】


            

第100回ピースボート船旅㉕/ボラボラ島(タヒチ)

2019年05月13日 | 第100回ピースボート南半球クルーズ







3月14日 木 朝8時ボラボラ島ヴァイタペ沖に到着、大型クルーズ船が接岸できる桟橋が、ラパヌイ同様ありません。
しかし、ここはたくさんの人が一時に乗ることのできる大型テンダーボートです。
私は、午前は島をバスで一周するツアー、午後は小さなボートで海から島を眺めるツアーに参加しました。

ボラボラ島はサンゴ礁で囲まれた島で、出入り口は一ヶ所しかありません。
ファアヌイ教会
 
ツアーバス             太平洋戦争時アメリカの軍事基地跡、その後も海軍が居座りました。
 
海岸沿いにかろうじてマラエが残っていました。 
 
ポリネシアの伝統的衣装・パレオ(巻きつけるという意味で巻きスカート、スカーフなどとして使われます。)の
染め物工房、テキパキした実演と即興ファッションショウは面白かったです。染料の多くは草木、彩色・デザイン後
天日で乾燥させると定着するそうです。布は、中国製だそうです。
 
 
来店を歓迎する楽団
 
音楽を聴いて踊る少女
 
この周辺の風景      ボートは、サビやペンキの剥離を防ぐために海水に触れないように保管します。
 
海水の色は、水深によって変化するそうです。     ボラボラ島特有の海上コテージ
 
海辺に落ちているヤシを採取している人がいました。私は、近寄って話しかけると、彼は陸上に落ちているより
波に洗われたヤシの方が熟していて良いのだ、と言いました。
 
ドライバーが葉を投げると、カニが穴から出てきて食べ始めました。     ヤシ園
 
ボラボラ島の代名詞のようなコテージホテル
 
コンクリート製の高層ホテルにしないのは、単に環境との融合という景観の問題だけではないようです。
一番の意義は、産業と雇用の創造と言うことです。屋根は葺き替えの必要があります。屋根材となる植物を育て、
製品とし、屋根を葺かなければなりません。その人材を育成し、雇用を創出つまり地場産業を作り育て持続させる
と言う素敵な思いがあると言うのです。ホテル経営は、大資本だそうですが…。
オテマン山と巨大ケーブルの見えるポイント
 
マティラビーチ 私は、サンダルを脱いで、ズボンを脱いで着て来た水着になり海水につかりました。ツアーでは、
スイミングしないように言われていましたので泳ぎませんでした。
 
ブラッディ・マリーズ(ホテルやレストラン、トイレ)
 
 
ほぼ島を一周し、11:15バイタペ港に戻りました。午後のラグーンクルーズは15:25から、そのまま島にとどまって、
昼食を取り、港周辺を散策するのもアリですが、港周辺はそんなに広くないし、気温が30度以上もあったので、
私は一度船に戻り、無料の船の食事を取り、少し昼寝をすることにしました。
ボラボラ島のテンダーボートは大型のため、乗船は制約が少なく時間などの自由があるので、ツアー開始より少し
早い時間に島に渡り、暑い中、港周辺の散策を少ししました。道でばったり仲間と一緒のハウスキーパーのマニに
会いました。こんなところで会うとは思っていなかったのでお互い少し驚きましたが、彼も気づき、ハイタッチで
別れました。たった2時間だけのフリータイムだそうです。港には、インフォメーションがあったので、地図をもら
いました。また、船着き場には、ピースボートのテント設置されていて、無料の冷水提供サービスをしていました。
汗びっしょりのペルー人の清掃係・ネストルが水をくれました。
インフォメーションセンター
 
 
消防署                      タヒチは黒真珠の一大産地です。
 
教会
 
ラジオ局がありました。               クルーズ船、客は8人ずつ2艘でした。
 
私のボートには日本語通訳者が乗らなかったので、ドライバーの時々の英語説明を私が片言通訳をしました。
 

 
 
 
エイです。
 
ビーチに上陸                   女性たちが、さばいた小魚の内臓を洗っていました。
 
 
ラム酒と果物のおやつでした。
 
ドライバーが面白いことを言っていました。島全体が少しずつ沈んでいること、毎年1cmほど日本方向に近づいて
いるというのです。日本にぶつかる時は島は沈んでいるのでしょうか。自然の時の流れは実に雄大です。
17:30港に戻り、ボートで帰船しました。沖に停泊している外国のクルーズ船、私たちが出航すると汽笛を鳴らして
くれました。
 

ボラボラ島は、小さな島ですが、美しいサンゴ礁と険しい山が海に迫っています。高層ホテルではないコテージホテル
は安くはないようですが、新婚旅行者や家族連れに人気だけでなく、地場産業・雇用促進の役割を果たしています。
アメリカは、太平洋戦争中、軍事基地を建設しました。そのプラスの側面は、飛行場や島周回道路などのインフラを
整備したこととも言われています。幸いなことにここでは戦火はありませんでした。
ボラボラ空港、辺野古米軍基地を連想しました。

私は、短い時間の午前・午後の二つの、決して安くないツアーを申し込みました。陸上から海を眺め、海上で海の美しさ
と刻々と変わる山々の姿を楽しみました。海で泳ぐ誘惑は強くはありませんでしたので、つかるだけで充分でした。
気温が高く、冷え冷えの水を買いました。 【終わり】
 

第100回ピースボート船旅㉔/タヒチ(パペーテ)

2019年05月11日 | 第100回ピースボート南半球クルーズ

タヒチ・パペーテ港

タヒチ・パペーテ港

ポリネシア伝統の祭壇=マラエ
3月13日 水 朝6時タヒチパペーテ港着岸  3月7日、8日、9日、10日、11日連日1時間時差調整



8:40ツアー出発 ビーナス岬   イギリスから贈られた灯台              ↑パペーテ港
 
 
 
 
 
アラホホの潮吹き穴
 
 
 
レストランで昼食
 
レストランの外

タヒチと言えばゴーギャンですが、ゴーギャン博物館は閉鎖中、写真は土産品
 
バイパヒ・ガーデン(植物園)             トイレ
 
 

                         トイレの案内
 
園内に、洞窟があります。
 
洞窟前で、背中のタトゥーを見せていた男性。     洞窟内で泳いでいた女性たち。
 
                         二つ目の洞窟
 
三つ目の洞窟
  
のどかな海岸道路

アラフラフのマラエ(=ポリネシア伝統の祭壇)、天の神々達が降臨する神聖な場所とされています。
侵略した西洋人は、マラエの石材などを教会や家々の建築材料に略奪利用し、多くのマラエが破壊・消滅しました。
 
 
ここには涼しい風が吹いていました。それは、日本の村鎮守神社などでも感じます。周囲が緑豊かな木々に囲まれ
ている環境だけのせいではないように私は感じます。風と人の通り道のような場所にそれらが祭られたからと
私は思います。ポリネシアのティキ像(神々が最初に作った人類と言われます。現在はその模型は魔除けとして
使われています。)
 
ニュージーランドのティキ(引用)   ハワイのティキ(引用)
 
世界共通の、多産の女神像の感じがします。
16:00バスで港に戻りました。ツアー終了後、少し時間があったので、再度船外に出て、パペーテの町をほんの少し
散策しました。
パペーテ大聖堂
 
                         港内のモニュメント
  
 
 
別の教会
 
バス停前でダンスする人々
 
市場
 
船から、夜のパペーテの街
 
ほぼタヒチ島を一周しました。夕方になると港内に多くの屋台が出るので、パペーテの町はもう少し散策したかったです。
私の 2008年訪れた63回ピースボート・パペーテ/タヒチ島編 のブログは、左です。    【終わり】

第100回ピースボート船旅㉓/ラパヌイ(イースター島)

2019年05月10日 | 第100回ピースボート南半球クルーズ





この島は、三つの名前があります。現地語はラパヌイ、スペイン語はPascua(パスカウと私は書きましたが、
youthhostopiaさんからそれは間違いで正しくは”パスクア”とのご指摘がありました。訂正します。ありがとう
ございます。=復活祭島)、英語名がイースター島    2月27日、3月1日1時間時差調節、 
3月4日 月 8:00ラパヌイ到着。ラパヌイは、大型船が着岸できる大桟橋がありません。船は沖合に碇を下ろし、
10人乗りほどのテンダーボートで島の港に接岸しなければなりません。また、全島がラパヌイ国立公園なので
入園料(US$10=チリペソ$5000))が必要で、何らかのツアーに参加する必要があります。テンダーボートや観光
バスなどのキャパシティがあるので、大型船の場合は二日に分かれて上陸するのが一般的のようです。
私は、「英語ガイドツアー」に申し込み、私の上陸は二日目の3月5日でした。環境保護の観点から食品や動植物など
の持ち込みも厳禁です。ランチは、現地支給のパンとジャムだけです。
沖に停泊する船                  テンダーボート
 
ライフジャケット
 
 1960年のチリ地震による津波でアフ・トンガリキは倒壊しました。1988年11月、前イースター島知事セルジオ・
ラプさんは日本のテレビ番組で「クレーンがあれば倒れたモアイ像を起こせるのに」と訴えました。この番組を見
ていたタダノの社員が「自社のクレーンで援助できれば」をきっかけに、日本のクレーン製造会社・タダノが無償で
援助し1995年復元されました。さらにそのクレーンは、そのまま島に寄贈され、他の復興にも役立ったそうです。

以下ニ葉はタダノHPからの引用
 
このプレートをを探したのですが見つからないので案内所で聞くと風雨で無くなってしまったそうです。
 
------------------------------------------------------------
ラパヌイのモアイ像文明の崩壊については諸説あります。多数意見は、19世紀、人口増加とモアイ像建設に
伴う森林破壊です。18世紀〜19世紀にかけてタヒチのフランス人らの手によって、島民が奴隷として連れ出
され、さらに彼らが持ち込んだ天然痘や結核などで人口は激減し島民は絶滅寸前まで追い込まれ、1872年
当時ではわずか111人になってしまったと言われます。この過程でロンゴロンゴ文字を初めとする文化伝承は
断絶してしまいました。
私は、ピースボートで2008年12月4日訪れました。その時と比べると、森林と緑の復活が進んでいると感じました。




私達が停泊したのは、一番大きな集落ハンガロア村沖でした。  ハンガピコのモアイ
 
モアイ像が海岸で海に背を向けて立つアナケナビーチに山を越えてバスで向かいました。
 
入口でユニークな像(出産の場面)が迎えてくれます。
 
ここのモアイは砂に埋もれていたため保存状態が良いです。帽子あるいは結った髪とも言われるプカオ。
 
 
 
トイレ、ツアー参加者にトイレチケット2枚が付いています。3回目は1米ドル
 
 
アフ・トンガリキ、 冒頭に述べたチリ地震の津波で崩落したものを日本のクレーン製造会社・タダノが無償で
1995年復元しました。 
  
 
  
  
 
 
プカオと言われるモアイの帽子or髪の部分
 
ラノ・ララク                   トイレ
 

ラノ・ララク山は、モアイ像の石の採掘、製造場所です。作りかけの、放置されたモアイ像などもあります。
 
 
 
 
公園のレンジャー、遺跡に上ったりする人がいるとホイッスルを鳴らして警告

茂みに姿を消す人、警告はありませんでした。 私は、レンジャーに許可を得てここでパンの食事をしました。
 
膝まづくモアイは珍しいそうです。
 
 
 
 
 
オロンゴ 島の南端、鳥人儀式(部族の代表の青年が、沖に浮かぶ島に這い上がり、鳥の卵を取ってくる、勝者の村
は政治の長を務めたと言う、村同士の争いを防ぎました。西洋人の来訪とともにこの伝統文化は衰退しました。)
小さなビレッジセンターがあり、トイレもあります(確かここは無料でした。)
 
 
 
 
オロンゴ島 手前の高い島

住居とも、儀式のとき使用したともいわれる石組みの家様の構造物跡
 
 
ここを過ぎると、カルデラ湖のあるラノカウ山


ここには、神話伝説由来と言われる鳥人とされる様々な特異な像が岩に刻まれています。それらは、鳥人儀式と
強いつながりがあることは疑いないのですが、その解釈は諸説あるようです。私は、この絶海の孤島にあって、
鳥のように自由に遠くに羽ばたきたいという強い願望という素朴な感じがします。
 
 
 
 
 
強い日差し、しかしさわやかな風が流れる中、14:30頃ツアー終わりました。港に戻って、テンダーボートで帰船しました。
この島では、携帯電話の電波が届く範囲が限られているそうです。
ハンガロア村の港周辺を少し散策したかったのですが、帰船時間があるのでできません。

18頃出港、少し島を回遊しました。
オロンゴ                     アフ・トンガリキ
 
ラパヌイは、2回目です。来ることは容易ではありません。私が2008年訪れた時のブログは、
63回ピースボート・イースター島/チリ編 です。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
【以下、余談】
長いツアーが終わって、2月28日からGETプライベートレッスンの後期が始まりました。開始時間は、なんと早
朝8時から、プライベートレッスン担当のKebinは、私の好みのテーマに従って学習を進めてくれたのですごく
良かったのですが、私のクルーズの第一の目的は、なにより「くつろぎながら旅を楽しむ」ことです。プライベー
トレッスンは、前後期計20回で8万円、決して安くはありませんが、8時に学習を始めるには、少なくとも7時には
朝食を取らなくてはなりません。そんなべらぼうなことは強大なストレスでできないので、4万円を捨てること
にしました。すると気分は楽になり、朝早く目覚めた時は、7時からヨガのクラスに出て、8時からのんびり朝食、
その後、のんびりと散歩することにしたら、とてもゆったり気分になりました。時間変更を頼みましたが、ダメ
でした、イヤハヤです。この決断は大正解でした。GETのグループラスは、11:20~12:20でちょうどよい時間で
した。12時を過ぎるので食堂も空きます。しかし、人気の8階の「麺レストラン」は売り切れが度々ありました。
私は、まず8階のデッキレストランで日本そば、ラーメン、うどんなどの日替わりの麺を食べて後、4階レストラ
ンで日本食がメインの日替わりビュッフェランチをたっぷり・ゆっくりいただきます。後日、麺数が増加され
たので良かったです。最後のひと月は、寄港地も少なく、ジムでのウエイトトレーニングや時々ある100回筋
トレのクラス、部屋での自主エクササイズやストレッチ、そして講演会やイベントにはほとんど出ないなど、
空いた時間は読書とすっかり私の生活リズムが出来てのんびり穏やかで、本当に良かったです。  【終わり】

第100回ピースボート船㉒/ウユニ塩湖とラパス&サンティアゴ7日間・4、チリ・サンチャゴ

2019年05月09日 | 第100回ピースボート南半球クルーズ

モネダ宮殿

サンチャゴ大聖堂
2月24日、ウユニ塩湖からホテルに戻り夕食を食べ、21:00四駆車でウユニ空港へ、23:50チャーター便で出発、
ラパス空港に着いたのは、翌日(2月25日)の00:10、カサ・グランデ・スイーツホテルテェックインしたのは01:00。
2月25日 月 サンチャゴに向けてホテル出発したのはなんと朝05:15、ラパス発8:30→サンチャゴ着11:30の
なんともタイトな旅程でした。


飛行機から
 
鉱山と思います。
 
荒涼とした感じです。                サンティアゴ市内へ
 
 
シェラトン・サンチャゴ・ホテル、12:25チェックイン
 
 
午後、自由時間でしたが強硬なスケジュールだったので私は外出しないで、ホテルで昼寝をしました。
2月26日 火
昨日は昼寝、早寝したので朝早く目が覚めました。午前中は、自由時間でした。サンティアゴは治安が良いので、私は、
市内の自由歩きを楽しむことにしました。
南米で一番高いビル・コスタネラセンター(300m)、展望台は約2500円、私は上りませんでした。
 
私は、まず地下鉄でチリの大統領官邸・モネダ宮殿に行くことにしました。 ホテルから近い駅は、Pedro de Valdivia駅
なのですが、私は場所がわからず通り過ぎてしまったようでした。信号待ちしている自転車の女性に駅を聞きました。
英語は良く話せないと言いながら自転車を押して案内してくれました。英語を話したい気持ちと困っている年寄りの
アジア人を助けたいと思ったのでしょう。着いた駅はおそらく一つ先のLos Leones駅と思います。サンティアゴの
地下鉄は、切符式ではなく自動券売機もありません。駅の窓口でまずカード500ペソ(約100円)を買い、その後1000
ペソ単位で窓口でデポジットします。料金は一律580ペソ(260円)、私は、友人からそのカードを借りて一往復分だけ
買いました。地下鉄窓口では、キャッシュカードやドルが使えないからです。せこいですが、ホテルのレセプションで
5ドルだけ両替してもらいました。
 
                         モエダ駅
 
モエダ宮殿
 
 
モエダ宮殿の前の憲法広場             サンティアゴ市立劇場
 
アグスティナス教会
 
サントドミンゴ教会
  
 
中央市場
 
サンティアゴ大聖堂
 
 
 
 
 
アルマス広場
 
 
 
 
国立歴史博物館                  アウグスティン教会
 
 
Entel Tower                    アートミュージアム
 
地下鉄・チリ大学駅からホテルに戻りました。     マポチョ川
 
ツアーと自由行動での訪れ先がダブりましたが、やはり自由な街歩きは楽しいです。場所がわからない時、通りす
がりの人道を尋ねたり、地図にない教会を見つけたり、おかしな風景や看板などに巡り合えるからです。
11:30ホテル出発なのであまり時間がなく残念でした。午後は、ツアーでサンティアゴの町の観光です。
最初にブルーストーンの宝石店、私は興味がないので、外で電線工事を眺めていました。
 
 
食堂街のレストランでシーフードのランチ、量が多すぎて食べきれませんでした。
 
 

この後、大聖堂、モエダ宮殿などを訪れました。
サンティアゴ中央郵便局  サンクリストバルの丘は山火事があり、また時間がなく行けませんでした。
 
山火事と消化の様子
 
 
バスでバルパライソに向かい、16:00船に合流、バルパライソの町は残念ながら、観光出来ませんでした。


 
                           野菜とブドウの産地
 
船からのバルパライソの町



 
 
 
 
サンチャゴのスーパーマーケットでクルーへ沢山の果物を買いましたが、バルパライソの港ターミナルでは、
食べ物の船内持ち込みはできないとガイドに言われたので、ツアーガイドに上げました。でも、実際は、多くの
人が食品を持ち込んだようです。サンチャゴのスーパーの定員はとても素敵、親切でした。果物は、量り売り、
私はレジで測ると思ったのですが、売り場で測るのでした。彼は、さっさと売り場に運んで測ってきてくれま
した。その上、有料のレジ袋ではなく、無料の紙の袋に詰めてくれました。果物は、無駄になりましたが、楽しい
思い出となったので、チャラです。
『ウユニ塩湖とラパス&サンティアゴ7日間』ツアー、そして2月9日~2月26日の18日間にわたる連続オーバランド
ツアーも大過なく終わりました。出かける前は、健康を少し心配しましたが、高山病の症状が少し出ただけで、その他は
問題がなく、良かったです。     【終わり】

第100回ピースボート船旅㉑/ウユニ塩湖とラパス&サンティアゴ7日間・3、ウユニ塩湖

2019年05月08日 | 第100回ピースボート南半球クルーズ



ウユニ塩湖
2月23日 土
一般的に「ウユニ塩湖」と言われていますが、湖ではありません。正確に言うと「ウユニ塩原」です。かつて
ここは海でした。アンデス山脈が隆起した際、周囲が山に囲まれ、広大な盆地に大量の海水が残され、
その水が蒸発し、塩の平原=塩原が残されました。標高約3700mに南北約100km、東西約250km、面積約
12,000km²、四国の半分ほどの広さの塩の固まりです。この塩原にそそぐ川はありません。雨季、
雨が降った時のみ、水が表面にたまります。私たちが訪れたときは、前日まで激しい雨が降って、
5cmほど水が溜まっていました。晴れて、風がない時のみ鏡のようになります。
こんな感じでしょうか。

グーグルで見ると、




 
さて、ホテル・スマ・リッチャリの様子。
 
ホテルの前は、
 
すべてここの塩原で取れた塩で作られています。入り口の飾り
 
食堂                       酸素ボンベが置かれています。
 
夏と言うのに、ストーブやヒーターです。
 
ベッドも塩のブロックの上にビニールとマットです。
 
 
朝食
 
出発まで少し時間があったので、ホテルの周辺を散策しました。こんな感じ。 別の会社の作業所


屋根はトタンです、塩だと重いからです。その上に草が乗せられています。 朽ちかけた倉庫も塩でできています。
 
9:30四駆車に分乗して出発です。車は、トヨタの普通車、10年以上持ちますが、毎日丁寧な清掃が欠かせないそうです。
  
 
 






ドライバーたちが、テントを立て、テーブルを作り、ピクニックランチの準備です。冒頭地図の塩のホテル近くです。
 
 
 
  
塩のホテル
 
内部の様子
 
塩のホテルのトイレ(2ペソ)             塩原に設置された我々のトイレ
 
近年、パリ・ダカールラリーはアフリカの治安が良くないというので南米で行われるようになりました。
2016年は、ウユニ塩湖がスタートとなりました。自然が壊されるとの批判もあったようです。
スタートのモニュメント
 






昼を過ぎると、日暮れがすぐ訪れ、風も出て寒くなります。
 
夕焼けを見に行きました。高地にも慣れてきたので、ワインがふるまわれました。
 








ホテルにもどり夕食。

2月24日 日
早朝、朝日を見るオプションがありましたが、私は参加せず、のんびりしました。参加者によると、
日の出は見ることが出来なかったそうです。
9:40ホテルを出発し、機関車の墓場
ウユニ一帯はかつて、銀などの鉱山資源の採掘場でした。19世紀後半、イギリスは太平洋までの鉄道網を敷きました。
1940年代に資源が枯渇すると採掘場、鉄道も廃棄され、100両以上の列車はそのままウユニに放置されました。現在、
ウユニ周辺は、豊富なリチウムが存在し、中国資本が採掘権や敷地を手にしているそうです。
 
 
かつてここが海の底だった証拠に、サンゴの死骸です。
 
ミネラル豊富な塩の精製工場
 
 
 
サンゴの死骸と日干し煉瓦           この土産物店で家族への土産、ポシェットと塩を買いました。
 
その後、昨日と同様ウユニ塩湖へ、塩原の表面に水が溜まっていなかったり風が強かったりすると、湖面が鏡の様に
ならないので、二日間の観光日程を設定するそうです。この日は写真を撮りませんでした。
日本人観光客が交通事故で死んだ慰霊碑です。     昨日同様、ピクニックランチです。
 
ホテルに戻りました。 雷雨の後、夕焼けでした。    真夜中のウユニ空港
 
ホテルで夕食を食べ、21:00四駆車でウユニ空港へ、チャーター便で23:50~00:10ラパス空港着(2月25日)です。
01:00、ラパス、カサ・グランデ・スイーツホテルテェックイン。05:15サンチャゴに向けてホテル出発し、
ラパス空港への強行スケジュールです。  サンチャゴは項を改めます。  【終わり】


第100回ピースボート船旅⑳/ウユニ塩湖とラパス&サンティアゴ7日間・2、ラパスとティワナク遺跡

2019年05月06日 | 第100回ピースボート南半球クルーズ



ティワナク遺跡の地下宮殿



ラパスの街並みと大聖堂
2月22日 金 早朝8:40ホテルを出発し、ティワナク遺跡に向かいます。(1.5時間)

ティアワナク遺跡へ向かう道中の風景
 

すごい数の乗り合いバス。テレフェリコと呼ばれるロープウエイ、観光用ではなく公共交通、11路線あるそうです。
 
 
 
 
交差点で商売です。                 こちらはラパス市内で
 
 
ティワナク遺跡                 博物館
 
入口にある遺跡全体の絵  中には、素敵なものがたくさんあるのですが撮影できません。
 

 
                         これは、スピーカーの役目を果たしているそうです。
 
 
 
 
 
 
これらの像は、それぞれの名前をガイドが説明してくれ、メモしたのですが、私はそのメモは紛失しました。
像には色々な文様が刻まれ、それぞれの意味の説明もありましたが、それらは煩雑過ぎてメモできませんでした。
                         岩を繋いだちょうつがいの穴(確か青銅製)です。
 
太陽の門
 
太陽の門反対側                  確か月の門
 
 
地下宮殿の壁に飾られた174の沢山の人の顔の彫刻、おそらく世界各地の人々の顔と思われます。

博物館の出口です                 一つ石だそうです。
 
別館の博物館入口
 
この中に、素晴らしい高さ7.5mの立像「Benettベネット」が展示されています。禁撮影ですが、隠れて撮影した人がいるようで
それの無断引用です。 かつてはラパスの野外博物館に置かれていたのですが、痛みが進行したため移転されました。

男性小便器                    囲いは、日干し煉瓦です。
 
土産屋                      現地の観光客、多くの小学生らが社会科見学に来ていました。
 
                         遺跡出口のモニュメント
   
遺跡外の建物
 
私は、ティワナク遺跡を知りませんでした。中南米には、沢山の文明が栄えました。一部を除いて、文字を持たなかった
彼らの文明の盛衰は伝わっていません。中世以降、ヨーロッパ特にスペインが侵略、富と財宝と文化を略奪、さらに
土着の信仰・宗教を絶滅させキリスト教に改宗させ、その上梅毒や様々な感染症を持ち込み、多くの古代文明と
人々を滅ぼしました。ティワナクについても発掘と研究はまだまだで、全容どころか部分もまだわかっていません。
紀元前から栄えたとも言われ、インカやアスカの礎的位置を占めているともいわれています。特に石積みの技術は
優れていたようです。像はポリネシアやラパヌイ(イースター島)と同様で、ここが発祥ともいわれています。
グレートジャーニーとの関係はもっとわかっていません。ヨーロッパ・アメリカに彼らとその文化への尊崇の
念がほんの少しでもあるなら、この地の文化の破壊・略奪、社会の搾取・収奪・軍事介入などもないと思います。
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ラパス郊外のレストランで昼食、ラパス市内観光
ゲバラの像がありました。彼は、ボリビアで虐殺されました。
 
ロープウエイ乗り場                 ロープウエイ乗り場のトイレ入口
 
トイレには1~2ペソ(約3円~6円)のチップが必要です。このためだけにアルゼンチンペソが必要です。
もちろん、なければ現地で通用する1米ドル(100円)を払えばOKですけどね。
国会議事堂
 
右は、国会議事堂時計台、文字盤が逆です。(独立以前でない自分たち独自の時を刻む意味が込められているそうです。)
  
大統領官邸                     大聖堂
 
 
ムリリョ広場                       
 
0km起点                      時計台文字盤下の紋章
 
ボリビア独立宣言のモニュメント          外務省、壁に銃弾の跡が残っています。
   
国立民族博物館、自由時間はなく入れませんでした。  道路にスペースがあると商売。
 
 
鳥の揚げ物                    アイスキャンデー売り、これだけで商売です。
 
ラパス・ボリビアで有名・ユニークな魔女通りです。   ビクーニャやアルパカなどのミイラなども
 
 
 
羊の爪です。
 
お土産屋のほかにも
 
これはちょっと嫌味ですね。
 
 
水晶の原石だとか
 
                         風呂敷・スカーフのようなケープ
 
このお土産自由タイムは1時間以上、異常です。あたりは薄暗くなり、サンフランシスコ教会前は、音楽が流れ、
週末のイベントが行われているようで大混雑でした。でも、この喧騒はいいですね。
 
夕食は、現地の高級日本料理店、ツアーですので料金は不明ですがメニュを見ると信じられない高価格でした。
わざわざ行く価値は全くありません。その上時間がなくのんびり食事を楽しむことはできませんでした。18:30
 

ラパス空港22:00~ウユニ空港着22:50、直行便であっという間でした。四輪駆動車に分乗し、真夜中過ぎホテルに。
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長い一日が終わりました。明日は今日とガラッと変わって、いよいよウユニ塩湖観光です。  【終わり】



第100回ピースボート船旅⑲/ウユニ塩湖とラパス&サンティアゴ7日間・1、再度ブエノスアイレス

2019年05月04日 | 第100回ピースボート南半球クルーズ

ブエノスアイレス、連邦政府ビルに描かれたエビータの像

ラパスの住宅
『ウユニ塩湖とラパス&チリの首都サンティアゴ7日間』のツアーは、2/20~2/26の期間だけでなく、アルゼンチンの
ウシュアイアから空路、再度ブエノスアイレスに戻り、そこからボリビアの首都・ラパス、さらに空路でウユニへ、
そこからウユニ塩湖観光後、空路ラパスに戻り、そこから空路でチリの首都サンティアゴへ移動し、バルパライソで船に
合流するという移動距離もすごいのです。当初は、サンタクルスクルスで飛行機の乗り換えの旅程でしたが、直行便と
なったのは幸いでした。

2月20日 水 6時朝食、7:30パスポートを受け取って離船し、ウシュアイア空港へ。
9:25ウシュアイア発→12:55ブエノスアイレス着、空港でボックスランチを受け取りバス内で食事、15時ホテル着、
ホテルは、以前泊まったパナメリカーナホテルです。居間の真ん中にお風呂、他にもバスルームがあります。
 
 

現地ガイドから、ブエノスアイレスは治安が悪いのでフロリダ通り以外は行かない方が良いと何回も言われましたし、
早朝からの移動でしたので、私は外出しないでホテルで休憩しました。 ホテルで夕食
 
夜のタンゴショウのオプションは申し込みませんでした。
2月21日 木
今日も移動です。しかし、午前中は自由行動です。ブエノスアイレスは古都で見所が多いのですが、安全と言われる
フロリダ通り一帯だけ散策しました。

サンマルティン将軍公園
 
英国塔(ロス・イングレス塔)             ドッグラン公園
  
失礼
 
レティーロ駅、周辺は出勤時間で大混雑でした。
 
 
Basilica del Santisimo Sacramento教会
 
                         アルゼンチン政府観光局?
  
さて、このタマゴのモニュメントは?
 
ブエノスアイレスは、古都で見所がたくさんあるのですが、治安が悪く、残念ながら自由に散策できません。
また、時間もありませんでした。昼食は、自分で用意する必要なので、サンドイッチをとジュースなどを買いました。
ホテルの屋上にはプールがあり、市内を眺望できます。
 
コロン劇場
 
ビルの向こうの茶色部分はラプラタ川です。     この建物は?です。 
 
ホテルの屋上プール

12:15空港へ、15:55ブエノスアイレス発→ラパス空港へ(当初の予定はサンタクルス経由でしたが、直行便でした。)
ボリビアの憲法上の首都はスクレですが、行政・立法府のあるラパスが事実上の首都と言われます。中心街の標高は、
3600m強、すり鉢状の盆地で、雲の上の町と呼ばれます。感じがペルーのクスコに似ています。
すり鉢の底の部分に高所得者が、縁の高い部分に低所得者が住んでいると言われます。市街地の上と下で、
700mほどの標高差があると言われます。道路は、慢性的渋滞で、主な交通手段はバスですが、最近は、沢山の
ロープウェイが通勤・中心部へのアクセスのため建設ラッシュです。 ラパスの夜景、

ホテルの外観は撮り忘れましたので、HPからの引用です。部屋は、二部屋ありそれぞれバス・トイレ付きです。
しかし、こんな豪華ホテルも、今夜ただ寝るだけです。高地ですので、お酒も、お風呂もダメです。
ラパスは、高地です。高山病対策として、走ってはダメ、お酒・風呂もダメ、慌てずゆっくり話すと言われます。
予防薬として、ダイアモックスがあります。私は船内で診療を受け、その薬を求めました。3500円、高地に居る間、
朝晩2錠飲みます。私は頭がすっきりしなかったので、バスに乗って物は試しとバスに備え付けられている酸素
ボンベを希望しました。酸素には匂いがないので、吸っている実感はありません。5分ほど吸うとプラセボ効果も
あるのでしょう、良くなったような気がしました。しかし、その後ラパスではやはり頭はすっきりしませんでした。
 
 
 
 
明日は、ラパス郊外の「ティアワナク遺跡」観光、8:40出発の強行スケジュールです。
ブエノスアイレス、ラパス市内の街歩きは全く楽しむことが出来ませんでした。治安が安定した頃、この魅力的
これらの地を再訪し、ゆっくり街歩きを楽しみたいです。  【終わり】

第100回ピースボート船旅⑱/ペリト・モレノ氷河とパタゴニアの大自然6日間・5、世界の果ての町・ウシュアイア

2019年05月02日 | 第100回ピースボート南半球クルーズ

ウシュアイアの町

世界の果ての郵便局(左)



2月18日 月 カラファテからウシュアイアのホテルに着いて少し時間があったので、ホテルの近くを歩きました。
 
 
 
 
 
 
 

2月19日 火
朝8:30、ホテルを出て、テイエラ・デル・フエゴ国立公園に向かいました。今日も雨です。『世界の果て駅』
この先は、囚人たちの監獄があり、彼らは木材を伐採し(主に薪)、この鉄道で運んだそうです。今は、観光列車です。



 
 
                         夏なのにストーブです。
 
 
 
 
彼らは、荷物運びを手伝って、有料の写真を撮り、売ります。
 
 
 
往復約2時間です。途中いくつかの駅で降りて写真撮影タイム
世界の果ての郵便局
 
 
 
真ん中の男性職員が突然、「日本人は帰れ!」と激怒、理由は不明。 公園内にトイレはないと言われましたがありました。
 
彼のおかげで、これ以降の人はここから手紙を出すことが出来ませんでした。
ビーグル海峡、向かいはチリ、右はアルゼンチンです。 
 
国道3号線、この道路はアメリカ大陸の北端アラスカまで連なるそうです。
 
 

 
 
レストランでランチ、いろんな肉(ビーフ、チキンなど)が無造作に積まれ、表面がカリカリの部位は美味でした。
 
 
                         レストランにミニ博物館がありました。
 
バスで、ウシュアイアの町に戻りました。 ミニ飛行場
 
ここは、高台になっていて市内が見えます。
 
 
 
 
アルゼンチンは、ラグビーの強国でもあります。    アルゼンチン海軍でしょうか。 
 
冒頭の地図にある「フォークランド」の領有をめぐって1982年アルゼンチンとイギリスの間で戦争が起きました。
どうみたって、イギリスがこの地を占領するのはおかしいです。地中海のジブラルタルもイギリスが領有しています。
アメリカ、イギリス、フランスは今なお、帝国主義時代のように、世界の交通の要衝を軍事的に占有しています。
どう考えても、許されないおかしなことだと私は思います。
ピースボートも見えました。             地球の果て博物館
 
 
 
                         博物館の壁
 
パタゴニアの先住民・ヤマノ族も絶滅したと言われます。彼らも文字を持たなかったので彼らの実際の生活・文化、
そして絶滅の理由などは依然謎です。展示の説明では、やはりヨーロッパ人が持ち込んだ病・感染症、食文化、
自然災害が挙げられていました。胸が痛みます。
監獄博物館
 
 
 
 
看板の右に、ピースボートがありました。時間が余りありませんでした。文房具屋に立ち寄り孫たちの文房具の
安いお土産を買いました。夕方5時が集合時間でした。バスで船に戻り、合流しました。
夕食は、船で食べたと思うのですが、写真もメモも記憶もありません。
船からウシュアイアを
 
『ペリト・モレノ氷河とパタゴニアの大自然6日間』ツアーは、この日で終わり、明日からは休みなしで、『ウユニ塩湖と
ラパス&チリの首都サンティアゴ7日間』の長いオーバーランドツアーの強行スケジュールです。  【終わり】


第100回ピースボート船旅⑰/ペリト・モレノ氷河とパタゴニアの大自然6日間・4、カラファテの町

2019年05月01日 | 第100回ピースボート南半球クルーズ

カラファテ・ニメス湖畔

パタゴニア先住民の写真
2月18日 月 午後、ウシュアイアに移動です。午前中は自由時間、狭いカラファテの町を散策しました。
私は、小さなカラファテ歴史博物館がとても気に入りました。先住民の歴史を知りたかったからです。
晴れていましたが、少し冷たい風が吹く中、蟹江さんと二人の弥次喜多道中でした。
カラファテの町

サンタテレジア教会                カラファテ地域博物館と思って行くと旅行代理店でした。
 
カラファテ地域博物館               警察署
 
フランシスコ・モレノ(アルゼンチンの学者、ペリト・モレノ氷河の名の由来)像二つ
 
教会
 
観光案内所、公園
 
 
 
                         別の観光案内所
 
音楽フェスティバルが行われていました。そのメイン会場
  
カラファテ歴史博物館、260アルゼンチンペソ(780円)
 

 
 
 
 
 
 
 
小さな掘立小屋のようですが、パタゴニアの先住民の歴史を少し知ることができました。冒頭の写真がとても好きです。
受付の若い女性が、「今読んでいるの」と茂木健一郎さんの本を見せてくれました。彼女に、生甲斐の意味を聞かれ、

「人生を楽しむこと」と説明しました。日本に行きたい、と言っていました。
パタゴニアの先住民は、現在ほとんどと絶滅してしまったと言われています。人類のグレートジャーニーの
最後の行き先の一つがこの地だったとも言われているパタゴニアに、私は何か特別の思いを感じます。当時、
マゼランが読んでいた「巨人伝説の本」からパタゴニアと名づけられたも言われれます。ことの真実は、不明です。
パタゴニアは強風が吹く寒冷地のため、ヨーロッパ植民地主義の侵略は遅れましたが、18世紀にヨーロッパ人が
次々入植し始めます。彼らがもたらした梅毒、チフス、天然痘などの感染症と洪水などの自然災害が重なって
滅んだと言われています。インカなどと同様書き文字を持たなかったため、彼らの歴史、文化、滅びなどは
今日なおなぞに包まれ、良く分かっていません。
この後、ニメス湖畔に行きましたが、時間が迫ってきたので、湖畔の散策はできず、引きかえしました。
ニメス湖畔自然公園事務所 渡り鳥の中継地だそうです。
 
 
 
飛行機の機内食はスナック程度と言われたので、スーパーマーケットを探し、行ったのですが、サンドイッチ等は
売り切れてしまっていましたので、パンやミルクなどを買い、ホテル前のベンチで食べました。
カラファテ空港発15:45~ウシュアイア着17:05 ウシュアイア空港
 
ウシュアイア、アルバトロスホテル
 
ホテルで夕食
  
明日は、ティエラ・デル・フエゴ国立公園、ウシュアイアの町観光です。項を改めます。  【終わり】




第100回ピースボート船旅⑯/ペリト・モレノ氷河とパタゴニアの大自然6日間・3、ペリト・モレノ氷河

2019年04月30日 | 第100回ピースボート南半球クルーズ

ペリト・モレノ氷河



2月17日 日 朝から冷たいかなりの雨です。
8:30バスで国立公園へ向かいます。

午前中は、小型クルーズ船で氷河を観光、強い雨なので甲板に出るのは短い時間だけです。
 
 
 
 

公園内のレストランで昼食 氷河が落ちる音が聞こえます。 カラファテの実が入っているプリン
 
氷河をカヌーで観光する人が見えます。
 
午後は、雨の中、傘を差し、カッパを着て、遊歩道散策と展望ポイントです。
ペリトモレノ氷河ビデオ1

ペリト・モレノ氷河ビデオ2


 
氷河の先端が崩落した後です。肉眼で落ちるところを見たのですが、カメラに収めることはできませんでした。


 
 
 
 
 
 
 
                           遊歩道で
 
 
遊歩道は、大きく三つあります。案内板は親切なので、迷うことはありません。遊歩道全体を頭に入れれば、
途中で疲れたら、進むか・戻るかを自分で判断し選べます。私はこれまでいくつかの氷河を見てきましたが、
氷河をこれほど間近で見ることができるのは稀有と思います。
ホテルに戻り夕食
 
 
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触えることが出来ると思われるほど間近に広がるペリト・モレノ氷河は、雄大でした。大きな氷河の崩落は、
年に数回だそうですが、小さな崩落は何回もありました。しかし、その振動も音もかなりのものでした。
雨でなかったら、ずっとカメラを構えて崩落の瞬間を捉えることができたかもしれません。
今回は、ペリト・モレノ氷河だけ明日は、カラファテの町、項を改めます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
私が、このオーバーランドツアーを楽しんでいる2/20∼2/22間、船では『パタゴニアフィヨルド遊覧』が
行われたようです。知人が撮ったビデオを転載します。
パタゴニア氷河
【終わり】




第100回ピースボート船旅⑮/ペリト・モレノ氷河とパタゴニアの大自然6日間・2、ウプサラ氷河

2019年04月30日 | 第100回ピースボート南半球クルーズ

ウプサラ氷河

地殻変動の褶曲

2月15日 金
朝8時ホテルを出発し、ブエノスアイレス空港へ、11:45発~カラファテ15:00着、機内ではスナック程度なので、
前日パン・ミルク・バナナなどの昼食を用意したのは大正解でした。
カラファテ空港                  空港周辺は荒涼とした砂漠です。
 
 
カラファテ市内入口ゲート
 
ポサーダ・ロス・アラモスホテル
   
 
町は、音楽祭の最中で多くの観光客がいました。    音楽メイン会場
 
ホテルで夕食、豚肉を丸めたもの

今日は、移動だけ。風は強いですが気温は少し高く日差しは強く、荒涼としたむき出しの大地・パタゴニアという
私の勝手なイメージの天気でした。 明日から、いよいよ氷河観光です。
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2月16日 土
早朝7時にホテル出発の強行で、ロス・グラシアス国立公園へ向かいました。小型の船で入り江を上ります。
雨です。時々晴れて、
 
 
 
 
 
 
 

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エスタンシア・クリスティーナ、エスタンシアとは農場と言う意味だそうです。19世紀初頭、イギリスからこの地に
入植したクリスティーナさんが開き、現在ペリト・モレノ氷河観光の入口となっているそうです。
 
 
 
農場でパタゴニアのローカル料理のランチを食べました。ひき肉などをパイ生地で挟んだエンパナーダ他
 
 
羊を洗う水路
 
 
初代クリスティーナさんが野焼きをしたら乾燥していたため焼け野原になってしまったとか、寒さと水が少ない
ため木々の成長が遅く今なお焼けた木々が残っているそうです。森林の復活は200~300年かかるそうです。
 
この一帯は、火山と海底の隆起で大地が大褶曲しました。
 
氷河が削っていった面((氷河擦痕)、なめらかです。
 
この地を越えるとウプサラ氷河が眼前に一気に視界に入ります。
 
  
ウプサラ氷河の反対側はこの大褶曲です。氷河と大褶曲の対比がここの魅力です。
  




 
 
 
この地が海底であったことは、沢山のアンモナイトの化石が証明しています。
 
ブルーべりーに似たカラファテの実、ジャムや石鹸の香料などにも使われるそうです。カラファテの実を食べると
この地を再び訪れることができるといわれているそうです。4駆のドライバーが停車して取ってくれました。 夕食
 
陸上の移動は、普通のバスではできません。特別仕様の四駆車でなければなりません。
夜8時過ぎにホテルに戻りました。
ウプサラ氷河の魅力は、広大な氷河が目の前に迫っていることと同時に、海底隆起・地殻変動によってできた
大褶曲とのコントラストと火山がもたらした大地の色の鮮やかさです。
    
明日は、ペリト・モレノ氷河です。 項を改めます。  【終わり】 

第100回ピースボート船旅⑭/ペリト・モレノ氷河とパタゴニアの大自然6日間・1、ブエノスアイレス

2019年04月28日 | 第100回ピースボート南半球クルーズ

ペリト・モレノ氷河

ブエノスアイレスの街並み
2月14日 土
7時ブエノスアイレス着岸 雨でした。私は、『イグアスの滝観光5日間』に連続して、『ペリト・モレノ氷河と
パタゴニアの大自然6日間』のオーバーランドツアーに参加します。一日目の今日は、ブエノスアイ市内観光と
飛行機でペリト・モレノ氷河近くのカラファテへ移動です。アルゼンチンは広大です。

船からのブエノスアイレス港
 


レコレタ墓地・エビータ元大統領夫妻が眠っています。 高級住宅地の一角にあります。
 
 
エビータ家の墓
 

1974年普通選挙で選ばれたペロン大統領の死去後、夫人のイザベラ・ペロン(愛称:エビータ)さんがアルゼンチン初の
女性大統領に就任しましたが、軍事クーデターで追放されました。彼女はその後、国外追放など数奇な人生を送りますが、
後にアルゼンチンの国民的英雄となりました。
ここの墓地は、家が一軒買えるほどの高価だそうですが、彼女の妹が金持ちと結婚して、その妹がこの墓を建てたそうです。
連邦政府ビルに描かれたエビータの像
  
チリ・アジェンデ社会主義政権をアメリカが転覆して以降、南米のチリ・アルゼンチンなどは軍事独裁政権が
長い間人々を弾圧しました。現在、少し安定してきましたが、人々の生活はまだまだで労働者たちのデモや
ストライキが頻発しているそうです。
デモの様子                    メインストリートの7月9日通り
 
                       ランドマークのオベリスク
 
7月9日通りは、交通の大動脈ですが慢性的交通渋滞です。真ん中にバス専用レーンが作られました。
 
地下鉄も作られていますが、私は乗る機会がありませんでした。
 
 
街でこんな様子も
 
コロン劇場                    パナメリカーノ・ホテル
 
ブエノスアイレス大聖堂
 
 
 
 
大統領官邸 その前がマージョ広場
 
大統領官邸の反対側にブエノスアイレス市議会   公衆トイレはありません、これらの店の奥にトイレが二つだけ
 

ボカ地区に向かいます。
 
 
ボカ地区は、移民・漁師の町といわれ、貧困地区で治安もよくなかったのですが、タンゴ発祥の地と言われ、同時に
マラドーナが所属したサッカーのボカ・ジュニアの本拠地、いわばサッカーの聖地でもあり、現在ではブエノス
アイレスの欠かせない観光スポットです。 漁村特有のカラフルな街です。
 
              しかし、線路の向こう側は、治安が良くなく観光客は行かないよう言われています。
 
  
 
 
少し行くと磯の香りと港の喧騒です。
 
 
 
通りの名前です。
 
市内のレストランで昼食後、オベリスクののすぐ近くパナメリカーナ・ブエノスアイレスホテルへ、
夕食まで時間が少しあったのでホテルの周りを歩きました。
 
 
 
 
                         バス停
 
夕飯は、アルゼンチンタンゴを鑑賞しながらです。南極ツアーの人と一緒でレストランは日本人の貸し切り、
ワイン・ステーキは食べ放題です。ウエイターは、日本語の挨拶の学習などサービス精神旺盛です。 
 
 
 
 
21:30ホテルに戻りました。 明日は、ペトリ・モレノ氷河入口のカラファテへ移動、項を改めます。  【2月14日終わり】