万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

裏目に出る習国家主席の新型コロナウイルス対策

2020年02月17日 13時24分44秒 | 国際政治

 新型コロナウイルスの猛威は、中国の一党独裁体制をも窮地に追い詰めている観があります。同ウイルスの蔓延は、これまで封じられてきた習近平国家主席、並びに、現中国の国家体制に対する批判が表面化する切っ掛けとなったからです。予想外の展開に焦りを感じたのか、習主席も自らの‘指導力’の誇示に必死です。しかしながら、焦れば焦るほどに泥沼に嵌まるのは世の常であり、習主席も例外ではないようなのです。

 マルクスの思想を基盤にレーニンや毛沢東等が発展させたとされる今日の中国の共産主義にとりまして、‘指導原理’は独裁的国家体制を支えるキーワードです。プロレタリアート(所謂‘人民’)の独裁体制における人民の平等を理想に掲げつつ、何故、現実は真逆となり、少数の特権階級と化した共産党のみが権力を握り、さらにその上に独裁者が君臨するパーソナルな独裁体制となるのか、誰もが不思議に思うはずです。このからくりを解く鍵こそ‘指導原理’であり、中国の共産主義では、‘人民のため’にこそ、人民を導く卓越した能力を有する‘指導者’が必要であると考えられているのです。つまり、ここで、人民の平等やプロレタリアート(人民)独裁の理想は、個人独裁へといとも簡単に転換されてしまうのです。言い換えますと、民主主義は、リンカーンが述べた‘人民の人民による人民のための政治’という言葉で簡潔に表現されますが、共産主義は、‘人民=プロレタリアート’という定義にもとづく‘人民の人民による人民のための指導者’、つまり、‘政治(公的機能)’を‘指導者(個人)’に巧妙に置き換えることで、独裁体制の正当化、あるいは、国家の私物化へと導かれてしまうのです。

 こうした共産主義の詭弁は多くの人々を騙してきたのですが、新型コロナウイルスの感染拡大は、この欺瞞を暴いてしまったかのようです。‘人民の人民による人民のための指導者’であるはずの習主席の対応は後手に回っており、人民に対する被害を広めてしまったからです。これまで体制批判を控えてきた中国の知識人の間からも、‘人災’という言葉も上がっており、習主席の‘指導者’としての能力が問われる展開となっています。

 例えば、習主席は1月20日に初めて武漢における同ウイルスの感染拡大に対して対応を指示したとされていますが、その対応の遅れを指摘されると、1月7日には感染拡大に対する指令を出しているとして供述を変えています。ところが、‘それでは、何を指示したのか’というさらなる疑問が呈されてしまい(適切な指示を出したのであれば、これ程の被害にはならないはず…)、むしろ、姑息な言い訳と指導力の欠如が印象付けられてしまいました。

 また、報道によりますと、今月の3日に開かれた共産党政治局常務委員会の会合の席で、同主席は、地方当局者を前にして、行き過ぎた新型コロナウイルス対策の是正と生産の再開を指示したそうです。しかしながら、現実には、3日以降も春節明は延期を繰り返し、全世界の有力企業がオフィスを置く首都北京でさえ、人通りがまばらであり閑散とした光景が広がっています。このことは、習主席の‘鶴の一声’で指示が即座に実行されるわけではなく、地方自治体、企業、そして国民も事業や活動の再開には慎重な構えを崩していないことを示しています。もっとも、同主席の演説の全文は、15日に至って漸く共産党機関誌「求是」に掲載されたそうですので、今後、中国の経済活動が一気に平常化に向けて動き出す可能性はありましょう。あらゆるリスクを顧みずに…。

 しかしながら、仮に、経済・社会活動を再開した結果、感染がさらに拡大するような事態を招けば、習主席の立場はさらに悪化することが予測されます。この点、3月上旬に予定されている全人代も開催が注目されます。同大会が延期となれば、3日の演説は早空文化することともなりましょう。この時、中国の国民は、どのように考えるでしょうか。

共産党一党独裁の国家体制を支える基本原理が‘指導原理’であるならば、その指導力に疑いが生じ、人民の大多数がそれを認識した場合、それは、即、国家体制そのものへの懐疑へと向かうこととなりましょう。猛威をふるう新型コロナウイルは、中国の政治体制をも生死の境をさ迷わせているように思えるのです。


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