クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

羽生の桜の下には……(47) ―清水卯三郎の生家跡(おまけ7)―

2008年04月29日 | ふるさと歴史探訪の部屋
現在、清水卯三郎の墓碑がある寺は、
埼玉県羽生市北2丁目に所在する“正光寺”です。
清水家代々の先祖も同寺に眠っており、
中でも清水誓信夫妻の墓碑は市の文化財に指定されているせいか、
清水家ゆかりの寺のイメージが強いですが、
さらに関係の深い一族がいます。

それは羽生城主の一族。
正光寺は“羽生城主の母”が天文12年(1543)に開基したと伝えられる寺です。
由緒書には「此段創建之儀羽生城主木戸右衛門太夫母儀開基ト申傳候」とあります。
この母が没したのは弘治2年(1556)8月16日。
法号は“廣應院殿月清正光大姉”で、
境内にはその廟所と伝えられる石仏観世音が建っています。

この正光寺に隣接して鎮座するのは“大天白神社”。
ここは“羽生城主の奥方”が、
弘治3年に安産祈願のために勧請したと伝えられています。
奥方はその後どのような人生を歩んだのか定かではありません。
城が落城する際、沼を渡って落ち延びたという伝説がありますが、
羽生城は“落城”ではなく“自落”です。

ところで、この正光寺と大天白神社が所在する“簑沢”には、
“竹の内”という小字があります。
これは「館(たて)の内」の転訛であり、
かつてここに館があったことを匂わせています。
この通称“簑沢館”に誰が住んでいたのかというと、
正光寺と大天白神社が隣接してあることから、
どうやら羽生城主一族のようです。

最初、簑沢館に居館していた彼らは、
情勢に応じて東へ城を拡張していったのかもしれません。
いわば、簑沢館は羽生城の前身です。
「竹の内」と称す家は正光寺から東南約100mのところにあり、
その付近を流れるやや深い堀は、
簑沢館の堀跡の1部とも考えられます。


簑沢館の堀の1部か



“上杉謙信”に属し、その姿勢を最後まで貫き通したと言われる羽生城。
何度か後北条氏に属したという説もありますが、
上杉謙信と関係のあった城であることは間違いありません。
天正2年(1574)閏11月、城の維持を望めないと判断した謙信は、
城を破却し城兵を引き取っています。

この羽生自落と同じ頃、「一国を得るに等しい」と言われた関宿城も、
後北条氏によって落城。
北条にとって関宿城攻略が先決であり、
羽生城は“北条氏繁”が担当していました。
独立性の強い忍城主“成田氏”も、
隣で睨みをきかせています。
もし関宿落城後も羽生城が存続していたなら、
激しく槍玉に挙がっていたことでしょう。

しかし、関宿・羽生両城は同時に陥落。
第4代小田原城主“北条氏政”は念願を果たし、
小田氏治に宛てて次のように書き綴ります(賜蘆文庫文書)。

 輝虎(謙信)敗北、あまつさえ羽生自落、並びに関宿も明日出城に落着。
 残るところ無く本意を遂げ候

羽生城主木戸忠朝は戦死したか、
あるいは生きる望みを失って自害。
かくして、木戸氏の治める羽生城時代は終わりを告げました。

後北条氏も天正18年(1590)に豊臣秀吉によって滅亡。
北条の家臣だった清水家は元和年間に羽生に移ると、
簑沢村に家を構えます。
そして、寛永6(1629)に元羽生城家臣の酒井家と湯本家の誘いに応じ、町場へ移転。
それから200年後の文政12年(1829)3月4日、
清水卯三郎はこの羽生で産声を上げるのです。
(「清水卯三郎の生家跡(おまけ)」了)


「開基木戸右衛門太夫母儀廟所ト申傳石佛観世音造立有之候」(由緒書より)


正光寺参道

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