クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

柴田勝家のもとから勝手に去った羽柴秀吉(1577年)

2006年08月08日 | 戦国時代の部屋
同じ組織の中にいても、
どうしてもウマの合わない人間はいるものです。
そこに年齢や立場は関係ありません。
ただ、相手が自分より上の立場にいる場合、
不利と言わざるを得ないでしょう。

「部下は上司を選べない」という言葉があるように、
ウマの合わない上司を持つほどやりずらいものはありません。
反発したところで部下という弱い立場では、
逆に自分の首を絞めるようなものですし、
あからさまに対立するのもまたしかりです。

いまから約430年前の戦国時代真っ只中、
織田信長を頂点とする組織の中で、
2人の武将が対立し合いました。
それは“柴田勝家”と“羽柴秀吉”です。

天正5年(1577)閏7月、上杉謙信の七尾城攻めを機に、
織田信長は越前で加賀平定に苦闘していた柴田勝家のもとへ、
羽柴秀吉・滝川一益・丹羽長秀の援軍を送り込みました。
総勢3万余の大軍だったと言います。
そして同年8月8日、柴田勝家を大将とする織田軍は、
七尾城に向けて越前北庄を出陣しました。
『信長公記』には、次のように記されています。

 八月八日、柴田修理亮大将として北国へ御人数出され候、
 滝川左近・羽柴筑前守・惟住五郎衛門(中略)賀州へ乱入。
 添川・手取川打越し、小松村・本折村・阿多賀・富樫所々焼払ひ在陣なり

もし3万の兵を率いる織田軍と雌雄を決すれば、
“越後の虎”と呼ばれた上杉謙信といえども、
苦戦を強いられたことでしょう。
ところがです。
数にものを言わせ、破竹の勢いで加賀を攻略したい織田軍でしたが、
その足並みは次第に乱れてしまうのです。

要因のひとつとして、
柴田勝家と羽柴秀吉の意見がかみ合わなかったことが挙げられます。
信長家臣団の中で最も勇将な4人のひとりと数えられていた勝家は、
ややもすると伝統を重んじ、保守的な考えを持つ人物でした。
知略で攻める秀吉には、彼の策は非効率そのものに見えたのかもしれません。

一方、勝家からしてみれば、成り上がりの秀吉に己の策に口を挟まれることは、
当然面白いはずがありません。
上司という立場を利用し、秀吉を死地に追いやることができます。
この加賀攻めを機に、秀吉を葬り去ろうという考えがよぎったことは、
おそらく1度や2度あったことでしょう。

そんな勝家の考えを察してか、秀吉は信長の許可を貰わず、
兵をまとめて勝手に引き上げてしまったのです。
これは明らかな軍令違反でした。
解任追放はおろか、切腹を命じられても文句は言えません。
なお悪いことに、その後柴田勝家率いる織田軍は、
同年9月23日の手取川の合戦で、上杉謙信に悉く敗北を喫してしまいました。
そのことも、拍車をかけて信長の逆鱗に触れたことと思われます。

では、このとき秀吉はどう過ごしていたのでしょうか?
戦線離脱は信長への反乱と同然のことです。
まずは信長からの疑いを解かねばなりません。
秀吉は長浜城に戻ると、まるでお祭りのようにドンチャン騒ぎを催し、
金銭を惜しげもなくばらまいたと伝えられています。
すなわち、もし信長への反乱を企てていたのなら、
兵糧武器を買い集め、決戦に備えて軍資金を貯えねばなりません。
ところが逆に、金銭をばらまくことで、
自分に謀反の気持ちがないことを信長に示したのです。
これを聞いた信長は、苦笑を洩らしたと言います。
このことによって秀吉の謀反の容疑は見事晴れました。
そして、ちょうどそのとき
大和信貴山城で反乱を起こした松永久秀を討伐する命令が下ったのです。

それを聞いた柴田勝家は、やはり面白くなかったことでしょう。
秀吉の戦線離脱事件によって、両者の溝はますます深まったと言えます。
その後、天正10年(1582)の本能寺の変で、信長が明智光秀に討たれてからは、
両者の対立はますます深刻化し、もはや合戦は免れ得ないものとなっていました。
そして翌年の4月21日、賤ヶ岳で両者が槍を交えたことは周知のとおりです。
この戦いは秀吉の圧倒的勝利に終わりました。

以後、信長の偉業を継いで天下統一を果たす秀吉でしたが、
どうしても手に入れることのできなかったものがあります。
それは絶世の美女と言われた信長の妹“お市”です。
信長によって夫浅井長政を滅ぼされたお市は、
その後柴田勝家のもとへ再嫁していました。
秀吉は秘かにお市に想いを寄せていたと言います。
賤ヶ岳の戦いで勝家を破り、北ノ庄城へ攻め入ったとき、
お市救援のために一時攻撃の手を緩めたと言いますから、
よほど彼女を手に入れたかったのでしょう。

ところが、城から出てきたのはお市ではなく、
彼女の3人の娘たちでした。
お市は勝家と共に果てることを望んだのです。
このことは、秀吉に敗北感をもたらしたかもしれません。
秀吉は再び攻撃を開始し、城に火を放つと、
勝家とお市は共に自害し果てました。

そのとき救い出された3人姉妹の長女が、のちに秀吉の側室となり、
“淀殿”と呼ばれたことはよく知られています。
秀吉はお市の死後も、その面影を追い続けていたのかもしれません。
だとすれば、勝家に対する気持ちも、複雑なものがあったでしょう。
柴田勝家と羽柴秀吉。
同じ組織の中でウマの合わない両者が対立した、
戦国時代の一幕でした。

参考文献
奥野高広・岩沢愿彦校注『信長公記』角川ソフィア文庫
岡田正人著『織田信長総合事典』雄山閣
新人物往来社編『豊臣秀吉大事典』新人物往来社
谷口克広著『織田信長合戦全録』中公新書

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