(聖地巡礼)
今回はやわらかい話題です。
アニメファンは、その作品に出てくる場所を
「聖地」と呼び、巡礼(訪問)します。
例えば「イニシャルD」の藤原豆腐店(原作では渋川市)や、
「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。」の秩父市のように。
尾獣(びじゅう)とは、少年ジャンプに連載されている
漫画『NARUTO -ナルト-』に登場する架空の巨大生物。
一尾(いちび)から十尾(じゅうび)までいて、
人柱力(じんちゅうりき)とよばれる
特定の忍者達の体内にそれぞれ封印されています。
昨日(6月13日)の上毛新聞によれば、
尾獣のひとつ、「守鶴」の設定によく似た伝説が、
群馬県内に伝わっていました。
<ナルトの設定>
○尾獣・一尾:本名は守鶴(しゅかく)、人柱力:我愛羅(があら)
○守鶴の特徴:体表に隈取りのような文様がある化け狸の姿を持つ。
元は茶釜に封印された砂隠れの老僧の生霊だと
言われているが定かではない。
(高源寺)
<上毛新聞記事>
邑楽町狸塚(むじなづか)にある高源寺は、
「分福茶釜」で有名な茂林寺の末寺。タヌキにまつわる話が伝わっている。
ある日縁側で昼寝中の守鶴和尚に、村人が近づいてみると、
それは衣から毛だらけの手足と尾を出したタヌキでした。
正体を知られた守鶴は、慌てて茶釜を抱えて逃げました。
(感想)
守鶴という名前と、タヌキの正体が一致しています。
茶釜に封印された老僧という部分も一致します。
ナルトの守鶴ファンや我愛羅(があら)ファンにとっては、
巡礼の聖地になるかも。
(茂林寺)
館林市にある茂林寺にも、守鶴の伝説がありました。
ファンの方にはこちらもおススメします。
当山は分福茶釜の寺として知られております。寺伝によると、
開山大林正通に従って、伊香保から館林に来た守鶴は、
代々の住職に仕えました。
元亀元年(1570)、七世月舟正初の代に茂林寺で千人法会が催された際、
大勢の来客を賄う湯釜が必要となりました。その時、守鶴は一夜のうちに、
どこからか一つの茶釜を持ってきて、茶堂に備えました。
ところが、この茶釜は不思議なことにいくら湯を汲んでも
尽きることがありませんでした。守鶴は、自らこの茶釜を、
福を分け与える「紫金銅分福茶釜」と名付け、
この茶釜の湯で喉を潤す者は、開運出世・寿命長久等、
八つの功徳に授かると言いました。
その後、守鶴は十世天南正青の代に、熟睡していて手足に毛が生え、
尾が付いた狢(狸の説もある)の正体を現わしてしまいます。
これ以上、当寺にはいられないと悟った守鶴は、名残を惜しみ、
人々に源平屋島の合戦と釈迦の説法の二場面を再現して見せます。
人々が感涙にむせぶ中、守鶴は狢の姿となり、飛び去りました。
時は天正十五年(一五八七)二月二十八日。守鵜が開山大林正通と
小庵を結んでから百六十一年の月日が経っていました。
後にこの寺伝は、明治・大正期の作家、巌谷小波氏によって
お伽噺「文福茶釜」として出版され、茶釜から顔や手足を出して
綱渡りする狸の姿が、広く世に知られる事になりました。
今回はやわらかい話題です。
アニメファンは、その作品に出てくる場所を
「聖地」と呼び、巡礼(訪問)します。
例えば「イニシャルD」の藤原豆腐店(原作では渋川市)や、
「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。」の秩父市のように。
尾獣(びじゅう)とは、少年ジャンプに連載されている
漫画『NARUTO -ナルト-』に登場する架空の巨大生物。
一尾(いちび)から十尾(じゅうび)までいて、
人柱力(じんちゅうりき)とよばれる
特定の忍者達の体内にそれぞれ封印されています。
昨日(6月13日)の上毛新聞によれば、
尾獣のひとつ、「守鶴」の設定によく似た伝説が、
群馬県内に伝わっていました。
<ナルトの設定>
○尾獣・一尾:本名は守鶴(しゅかく)、人柱力:我愛羅(があら)
○守鶴の特徴:体表に隈取りのような文様がある化け狸の姿を持つ。
元は茶釜に封印された砂隠れの老僧の生霊だと
言われているが定かではない。
(高源寺)
<上毛新聞記事>
邑楽町狸塚(むじなづか)にある高源寺は、
「分福茶釜」で有名な茂林寺の末寺。タヌキにまつわる話が伝わっている。
ある日縁側で昼寝中の守鶴和尚に、村人が近づいてみると、
それは衣から毛だらけの手足と尾を出したタヌキでした。
正体を知られた守鶴は、慌てて茶釜を抱えて逃げました。
(感想)
守鶴という名前と、タヌキの正体が一致しています。
茶釜に封印された老僧という部分も一致します。
ナルトの守鶴ファンや我愛羅(があら)ファンにとっては、
巡礼の聖地になるかも。
(茂林寺)
館林市にある茂林寺にも、守鶴の伝説がありました。
ファンの方にはこちらもおススメします。
当山は分福茶釜の寺として知られております。寺伝によると、
開山大林正通に従って、伊香保から館林に来た守鶴は、
代々の住職に仕えました。
元亀元年(1570)、七世月舟正初の代に茂林寺で千人法会が催された際、
大勢の来客を賄う湯釜が必要となりました。その時、守鶴は一夜のうちに、
どこからか一つの茶釜を持ってきて、茶堂に備えました。
ところが、この茶釜は不思議なことにいくら湯を汲んでも
尽きることがありませんでした。守鶴は、自らこの茶釜を、
福を分け与える「紫金銅分福茶釜」と名付け、
この茶釜の湯で喉を潤す者は、開運出世・寿命長久等、
八つの功徳に授かると言いました。
その後、守鶴は十世天南正青の代に、熟睡していて手足に毛が生え、
尾が付いた狢(狸の説もある)の正体を現わしてしまいます。
これ以上、当寺にはいられないと悟った守鶴は、名残を惜しみ、
人々に源平屋島の合戦と釈迦の説法の二場面を再現して見せます。
人々が感涙にむせぶ中、守鶴は狢の姿となり、飛び去りました。
時は天正十五年(一五八七)二月二十八日。守鵜が開山大林正通と
小庵を結んでから百六十一年の月日が経っていました。
後にこの寺伝は、明治・大正期の作家、巌谷小波氏によって
お伽噺「文福茶釜」として出版され、茶釜から顔や手足を出して
綱渡りする狸の姿が、広く世に知られる事になりました。