伊勢崎市議会議員 多田稔(ただ みのる)の明日へのブログ

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商店街はなぜ滅びるのか(光文社新書)

2012-07-07 19:30:05 | 政治・政策・経済

(「商店街はなぜ滅びるのか」)

「商店街はなぜ滅びるのか」新雅史(光文社新書)2012.5 740円+税
全国の地方自治体で中心部の商店街が不振で、
シャッター通りも増えています。

この本によれば、
商店街不振の問題は、個々のお店の経営上の問題だけでなく、
その発生・成立段階から、現在に至るまでの、
政治的、制度的、社会的なさまざまな要因が
絡み合って進んできたことが分かります。

今後の地域社会のあり方を考える上で
とても参考になる本です。
商店街関係者、自治体職員、地方議員の方などは
ぜひ読まれると良いと思います。

本の流れに沿って、
要点と感想などをいつくか述べます。



( 序 章 商店街の可能性 )

 商店街は伝統的なものではなく、日本の近代化の産物。
 商店街が日本に広がったのはなぜか、
 そのような過程で凋落したのか、
 社会・政治・経済状況の中での商店街の位置づけを分析した。

<感想>
地方都市の多くの商店街は、明治期以降のわりと
近年に作られたものだ、という解説は意外でした。



( 第1章 「両翼の安定」と商店街 )

 多くの商店街は20世紀になって人為的に造られた。
 近世(江戸期など)の商家は「イエ」制度で経営されていた。
 家長と親族、住み込みの奉公人でなりたち、
 奉公人が引き継ぐこともあり、家業は継続性があった。

 しかし、近代(明治以降)の小売商は「イエ」ではなく、
 「近代家族」によって担われた。
 現在の小売商は、子どもがあとを継がないと店をたたむケースがある。
 「商店街」は、地域に開かれているはずなのに、
 それぞれの店舗は「家族」の枠に閉じていた。
 その結果、わずか一、二代しか存続できないものだった。
 社会全体として、近代家族が衰退する中で、
 商店街だけが生き残れるわけがない。
 商店街が存続するためには、
 事業継続性の困難を乗り越えなければならない。

<感想>
跡継ぎがいない、という話はよく聞きます。
会社であれば新入社員がいて、社長も交代します。
しかし、家族の中だけで商売をやろうとすれば、
子どもが継がないだけで、すぐに行き詰ります。
事業の継続性が一つのポイントです。



( 第2章 商店街の胎動期(1920~1945)
      ――「商店街」という理念の成立 )

 第一次世界大戦後、
 農村では不況のため都市へ人口流入が激しくなった。
 しかし中卒者の集団就職は廃れ、
 企業による新卒者の学歴重視の直接採用が広まった。
 そのため農村の人々は世帯単位で都市へ出て、
 比較的簡単に始められた零細の小売・サービス業に従事した。

 1930年代の東京市内では、
 お菓子屋が16世帯に1軒、米屋が23世帯に1軒、
 と小売業は過密状態だった。

 第一次世界大戦後は、百貨店が存在感を増した。
 大正12年の関東大震災までは、
 百貨店は上流階級を対象とした高級衣料・装飾品中心。
 しかしそれ以降百貨店は一般大衆向けに変わった。

 政府としては零細な小売商が困窮し
 社会不安につながっては困る。
 大量に発生した小売商をいかに救済するかとして
 「商店街」という理念が造られた。

 ①百貨店が縦のバラエティーなら、商店街は横の百貨店。
 ②協同組合による協働主義。
 ③公設市場における小売の公共性。

<感想>
日本の地方都市に多く見られる「商店街」の形態は、
第1次世界大戦後に形作られたもので、
日本の歴史の中では比較的新しいものでした。
これは意外なことでした。

また、農村から都市の小売業へ自由に参入した結果、
小売業の過密ぶりは、驚くほどです。
百貨店に対抗して、個別の商店が組合を作り、
共同で売り出しセールや商品券を作ったり、
チラシを出したりしました。
「横の百貨店」というキャッチフレーズは印象的です。



( 第3章 商店街の安定期(1946~1973)
           ――「両翼の安定」の成立 )

 第二次世界大戦後、第二次産業(工業)の
 労働者一人当たりの生産性が向上したため、
 雇用が伸びなくなった。
 政府は完全雇用実現のため次の政策を閣議決定した。

 ①海外への移民 (バブル期には、日系人を呼びました)
 ②家族計画による出産抑制 (今は反対に少子化対策)
 ③社会保障による女性・高齢者の非労働力化 (今と逆ですね)

 これでも有り余る労働力の吸収が不十分なので
 第3次産業で労働力を吸収することにした。

 第二次大戦後の日本政府は、
 工業を中心とした経済成長を最優先にしていた。
 小売業を含む中小企業が雇用を吸収していたから、
 完全雇用が達成できていた。
 こうした見方は自民党も社会党も共有していた。
 労働政策の官僚は、労働運動、消費者運動、自営業の
 すべてを調整することが関心事だった。
 この次期は商店街の黄金時代。

 高度成長期には、労働者賃金が高まり、
 日本社会のイメージは、男性サラリーマン+専業主婦となった。
 自民党は高度成長期を経て「包括与党」となった。
 あらゆる階層を支持基盤として、総花的な政策を掲げるもの。

<感想>
第二次大戦後の政策は、今と逆ですね。
当時は日本人を海外へ送り出し、
なんと少子化を進め!
女性や高齢者が働かないようにした。

国としては、工業を中心にすえて
日本の経済成長を図ることが最優先。
そのため、小売業やサービス業などは
あまった労働力を吸収するために必要という
政府と野党の共通認識でした。



( 第4章 商店街の崩壊期(1974~)
       ――「両翼の安定」の奈落 )

 オイルショック後日本は、日本型の社会福祉として
 都市型労働者の家庭を中心とした公共政策に転換。
 終身雇用・年功賃金・企業内福祉・専業主婦。
 サラリーマン家庭意外は日本では例外と位置づけられた。

 このモデルに当てはまらない自営業のような家族は
 「前近代的」とみなされた。
 自民党が男性家長を中心とした福祉政策を打ち出し、
 社会党も労働者重視なので追随した。
 そのため零細小売商や商店街は見向きもされなくなった。

 1970年代から80年代にかけて、
 零細小売商は自民党に圧力をかける既得権益層とみなされた。
 その原因は「大規模小売店舗法」運用時の振る舞いである。

 1980年代に起きた日米貿易摩擦。
 日本の黒字を減らすため、アメリカは日本の国内消費を求めた。
 日本政府は、財政投融資(郵便貯金)で地方都市の郊外にバイパスを作り
 その周辺に工業団地を整備した。

 しかし貿易摩擦の中で、工場はアメリカなどへ進出し
 現地雇用・現地生産を進めた。
 その結果、広大な更地が残り、そこへショッピングモールが進出。
 すると消費者が、商店街よりも郊外の大型店へ行くようになった。
 すると財政投融資を使い、商店街のアーケードなどの整備も進めた。
 「財政投融資」は、商店街を苦境に陥れると同時に、
 救済にも使われた。

 商店街の内部破壊としての「コンビニ」。
 大規模小売資本は、
 大店法の規制にかからないように出店戦略を変更。
 フランチャイズチェーンとしてのコンビニの出店ラッシュ。
 1980年代から90年代の日米構造協議により
 規制緩和が進む。大規模店舗の出店。
 酒、タバコ、米などの販売の規制緩和。
 それらの商店主は、長時間営業が可能なコンビニへ転換した。

 商店街の中核だったこれらの業種がコンビニへ転換し、
 商店街は弱体化した。
 デパートに対して「横の百貨店」として対抗してきた商店街に、
 コンビニという「よろずや」ができてしまったことで、
 古い専門店は存在意義を奪われてしまった。

<感想>
高度成長期に経済成長を追及した結果、
工業中心、サラリーマン家庭中心の社会となった。
日本経済の貿易黒字のため、日米構造協議が行われ、
規制緩和が進んだ。
商店街や小売商は、それらの大きな流れの中にあったのですね。
消費者にとっては便利なコンビには、
なんでも売っていると言うことは、そのほかの店が
必要性が無くなってしまうと言う、
商店街内部からの破壊という要素を持つのですね。



( 第5章 「両翼の安定」を超えて
   ――商店街の何を引き継げばよいか )

 新しい商店街とは。
 これまでの営業免許は、既存の営業者に権限を与えるもので、
 相続のように血縁関係で引き継がれた。
 これでは身分制度の維持のようだった。
 これでは商店の流動性を著しく低めてしまう。

 新しい商店街は、
 地域社会が土地を管理する仕組みでも良いだろう。
 空き店舗に若者が出店するのを応援。
 この本の筆者の父は、九州でコンビニを経営している。

 店の後継者はいないが土地を持っているので
 毎月銀行から融資の営業がある。
 事業の将来性のある無しに関係なく、
 土地を持っているかどうかで融資してくる。

 日本政府は不景気のたびにお金をつぎ込んできたが、
 そのお金は将来性の乏しい、事業意欲のない部分に
 回っている可能性がある。
 新規に起業しようとする若者にお金が回るようにしたい。





<感想>
商店街の魅力は、魅力あるお店が揃っていることでしょう。
そのためには、今あるお店が固定化して永遠に存続することは
商店街の魅力にとってはマイナスです。

時代の変化、お客のニーズの変化に合わせて
絶えず新陳代謝して、お店が入れ替わるのが健全な商店街です。

行政のお金が、商店街の魅力を高めるために
お店の入れ替え(街の新陳代謝)の促進に役立つように
使うことが戦略的には必要と考えます。

厳しいようですが、
銀行も見放すような経営に困っているお店に
税金から低利で融資して、お店の延命を図ることは、
そのお店にとっては一時的には良い事かも知れません。
(もしかすると借金が膨らむかも)

しかし、
お客から見て、魅力のないお店が居座ることは、
商店街の魅力の低下につながり、
商店街にとっても、消費者にとっても、
長い眼で見て良いことではないでしょう。

かつて倒産したダイエーは、
「何でもあるけど、欲しい物は何にもない」と言われました。

欲しい物があるからお客が買いに行くのです。
お店はその部分の企業努力をすべきだと考えます。
商店街の歩道がきれいだから、とか
街灯が立っているから、と言う理由で、欲しい物がないのに
買い物には行きません。



(まちなか夕市)

住民にとって、買い物ができるという「機能」は必要です。
伊勢崎市では中心部のスーパーの閉店があいつぎ
車に乗れない高齢者は買い物難民と化しています。

7月5日の日経新聞で紹介されましたが、
伊勢崎市では「まちなか夕市」として、市の中心部で
月に1~2回のペースで野菜などの市を開き、とても喜ばれています。
高校生も、荷物を運んだりして手伝っています。



(人口減少社会)

そのほか、現代の日本では
人口の減少という長期的な条件があります。
かつては人口が右肩上がりが前提でした。

これからは日本の人口はずっと減り続けます。
小売店が一定の売り上げが必要ならば、
同じものを売るならば、たえずどこかのお店が
廃業することになるでしょう。

製造業の海外進出や、生産性の向上により、
日本の労働者はあまります。
どの分野で労働力を吸収するのか。

若者の就職難も、
終身雇用制とともに、
新規事業を始めることのハードルの高さが
ネックとなっています。

いろいろな問題が根っこでつながっています。
表面的な現象に対応するだけでは、モグラたたき。
根本的な解決になりません。
長期的に望ましい社会となるように
政策を考える必要があります。



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