「日中交渉3000年史」の表題をみて、2000年史のマチガイ誤植バケかと思った人がいるかも知れませんが、3000年とかきました。
日中韓(朝鮮)越(ベトナム)の4国は漢字漢文を共通の古語としており、その歴史研究にもその各国資料をしようするのが当然だと思うのだが、現状は自国中心で、コリアは現代において、古代中世の神話を創造している。
歴史の真実の発見に予断は禁物であるが、農業が始まって後に文明が起こり、文字が作られ伝来して文化起こり、国家も成立したとの前提から、日本の歴史学者は木簡には眼の色を変えるが、考古学の発見した資料は縄文、大陸遺文物など無視している。
この小文ではあえて非常識三つを並べてみた。日中交渉は3世紀の卑彌乎に始まったのではない。
一つは約3000年目の周初成王の時、倭が使者を出した。時代は世界で始めて土で「器を作った」縄文時代晩期である。二つめは、人は道具を使うが2万年前に日本列島で「ものを入れる器」をつくる文明人が洗われたことである。3つ目は、うまくいかなかった聖徳太子の遣隋使は国使であるが、遣唐使は貿易の通商使節であって、天皇皇帝は無関係である、菅原道真はそれもやめてしまった。
まず日本の縄文時代に大陸の周に使節を派遣し、貢物を出した倭人がいたことは儒教5経の一つ「尚書」に「海隅の日を出すところ、島夷は皮服す」とあり、また5経の一つ「禮記」には「東方を夷という。被髪文身、火食せざることあり」とあり、王充の論衡には「周の時、天下太平、倭人香草を貢す」とあるのを無視する根拠は何でしょうか?
漁を含めて狩猟採集経済の縄文人が、毛皮を着るのは当然であり、「髪をかぶるのはチョン髷でなくても髷を結っていたのであろう、身体にいれずみ、時に刺身を食っている、男の被髪は明治維新でなくなったが女性の結い髪はいくらでも残っている。生食刺身など衛生向上で世界に広がっているが、、、また、使節の手土産がハーブだったというのもイイネ。
縄文初期の手土産ならば土器が全ての人の宝物となったであろうが、海の後退によって農業の大発展を周代では香草はいい手土産だ、南太平洋ポリネシアンの一部に他村訪問にハーブを携えるという、女性が香りの強いはなを送り、ハワイのレイもこの類か?周王はかもす酒に入れ、祭礼酒にしたと伝えている。
後漢書倭伝は「使人、自ら『大夫』と称す」と記録し、三国時代の「魏志倭人伝」は「古より来る、その使いの中国にいたるや皆自ら大夫を称すと。漢や魏にとって「大夫」は歴史に書き残すに値することだった。
日本人は「卿、大夫、士」という周の官職名を長く使っていて、今も「東宮大夫」などに生きているし、「士」も。これは周公の作った周だけの官制であり、現代人が外人から「私は家老です」と名乗られたように、びっくりしたのでしょう。
しかも倭文は周体なりという、漢は隷書、ほぼ魏から楷書になるが、倭書体は古い周後期の書体、実は私の実印も草です、はんこ文字です。漢字の最初は殷代の甲骨文であるが、殷の遺器物は日本で出土することはあるが、今のところ、甲骨文字はない。
漢書には「楽浪(コリア)海中に倭人あり、分かれて百余刻を為す、歳時をもって来たり献ず」と書き、弥生遺跡から漢鏡が出土する、後漢は初代の光武帝が授けたという金印が九州で出土しているし、その前の「新」の貨幣も多数出土している、卑彌乎さんはその次。
隋唐と続くが、菅原道真さんが「もう唐土には学ぶものはない」ということで、明治政府が清と国交を結ぶまで、国交なし状態、平清盛、足利の将軍らの通商も国交ではない。この間も交渉は禅僧が行い、貿易は商人、うまく行った時期でしょう。禅問答で負けなかった唯一の時期か?僧たちはインドにあこがれた人がいるが、中国などという仏僧はいなかったから!
豊臣秀吉は仏僧嫌いか、子供の使い小西行長を使って大失敗、安国寺のほうが適任だったろうに。明治時代はロシアとの戦争も切り抜けた人で、清との交渉も適切といえるが、大正中華民国になると寺内首相が鉱山開発、鉄道建設を名に西原借款を与えると、兵器購入代金になり、反日54運動の原因になった。ペーパー役人が日本を支配するようになった結果であろう。蒋介石も毛沢東も間違っていたが。
汪兆銘か!日本人では辛亥革命に参加した、北一輝か、昭和7年刊行の「支那革命外史」に「支那をアメリカに譲って日本は大陸から引き上げよ、このままでは日米対決になるが、日本にとってアメリカが最重要である」と。
日中韓(朝鮮)越(ベトナム)の4国は漢字漢文を共通の古語としており、その歴史研究にもその各国資料をしようするのが当然だと思うのだが、現状は自国中心で、コリアは現代において、古代中世の神話を創造している。
歴史の真実の発見に予断は禁物であるが、農業が始まって後に文明が起こり、文字が作られ伝来して文化起こり、国家も成立したとの前提から、日本の歴史学者は木簡には眼の色を変えるが、考古学の発見した資料は縄文、大陸遺文物など無視している。
この小文ではあえて非常識三つを並べてみた。日中交渉は3世紀の卑彌乎に始まったのではない。
一つは約3000年目の周初成王の時、倭が使者を出した。時代は世界で始めて土で「器を作った」縄文時代晩期である。二つめは、人は道具を使うが2万年前に日本列島で「ものを入れる器」をつくる文明人が洗われたことである。3つ目は、うまくいかなかった聖徳太子の遣隋使は国使であるが、遣唐使は貿易の通商使節であって、天皇皇帝は無関係である、菅原道真はそれもやめてしまった。
まず日本の縄文時代に大陸の周に使節を派遣し、貢物を出した倭人がいたことは儒教5経の一つ「尚書」に「海隅の日を出すところ、島夷は皮服す」とあり、また5経の一つ「禮記」には「東方を夷という。被髪文身、火食せざることあり」とあり、王充の論衡には「周の時、天下太平、倭人香草を貢す」とあるのを無視する根拠は何でしょうか?
漁を含めて狩猟採集経済の縄文人が、毛皮を着るのは当然であり、「髪をかぶるのはチョン髷でなくても髷を結っていたのであろう、身体にいれずみ、時に刺身を食っている、男の被髪は明治維新でなくなったが女性の結い髪はいくらでも残っている。生食刺身など衛生向上で世界に広がっているが、、、また、使節の手土産がハーブだったというのもイイネ。
縄文初期の手土産ならば土器が全ての人の宝物となったであろうが、海の後退によって農業の大発展を周代では香草はいい手土産だ、南太平洋ポリネシアンの一部に他村訪問にハーブを携えるという、女性が香りの強いはなを送り、ハワイのレイもこの類か?周王はかもす酒に入れ、祭礼酒にしたと伝えている。
後漢書倭伝は「使人、自ら『大夫』と称す」と記録し、三国時代の「魏志倭人伝」は「古より来る、その使いの中国にいたるや皆自ら大夫を称すと。漢や魏にとって「大夫」は歴史に書き残すに値することだった。
日本人は「卿、大夫、士」という周の官職名を長く使っていて、今も「東宮大夫」などに生きているし、「士」も。これは周公の作った周だけの官制であり、現代人が外人から「私は家老です」と名乗られたように、びっくりしたのでしょう。
しかも倭文は周体なりという、漢は隷書、ほぼ魏から楷書になるが、倭書体は古い周後期の書体、実は私の実印も草です、はんこ文字です。漢字の最初は殷代の甲骨文であるが、殷の遺器物は日本で出土することはあるが、今のところ、甲骨文字はない。
漢書には「楽浪(コリア)海中に倭人あり、分かれて百余刻を為す、歳時をもって来たり献ず」と書き、弥生遺跡から漢鏡が出土する、後漢は初代の光武帝が授けたという金印が九州で出土しているし、その前の「新」の貨幣も多数出土している、卑彌乎さんはその次。
隋唐と続くが、菅原道真さんが「もう唐土には学ぶものはない」ということで、明治政府が清と国交を結ぶまで、国交なし状態、平清盛、足利の将軍らの通商も国交ではない。この間も交渉は禅僧が行い、貿易は商人、うまく行った時期でしょう。禅問答で負けなかった唯一の時期か?僧たちはインドにあこがれた人がいるが、中国などという仏僧はいなかったから!
豊臣秀吉は仏僧嫌いか、子供の使い小西行長を使って大失敗、安国寺のほうが適任だったろうに。明治時代はロシアとの戦争も切り抜けた人で、清との交渉も適切といえるが、大正中華民国になると寺内首相が鉱山開発、鉄道建設を名に西原借款を与えると、兵器購入代金になり、反日54運動の原因になった。ペーパー役人が日本を支配するようになった結果であろう。蒋介石も毛沢東も間違っていたが。
汪兆銘か!日本人では辛亥革命に参加した、北一輝か、昭和7年刊行の「支那革命外史」に「支那をアメリカに譲って日本は大陸から引き上げよ、このままでは日米対決になるが、日本にとってアメリカが最重要である」と。