村道に無花果ひさぐ籠一つ
菊いけて和敬静寂知らさるる
鈴虫や兄亡きあとの部屋広し
無人駅野菊一花に和みけり
妻逝きてはかなさ思う秋の夜
あき時雨あいあい傘を傾けて
秋朝に岩肌映える涸れの沢
日光山黄葉深し そばの味
民宿の玄関飾る蔦紅葉
湖畔の古寺脇に濡れ落葉
芋掘りは軽四輪の響くなか
落葉半ばの秋晴れに茸狩り
御岳はサクラ紅葉も早かりし
乱れ萩 二度の勤めを無事果たし
山そびえ黄に流れいく秋の風
錦秋の季語に最適上高地
鳥にやる吊るし柿一つ元の木に
第2次世界大戦時の米ルーズベルト32代大統領はいつから、日本との戦争を決意したのか?真珠湾から?とんでもない!
ΝΗΚ「真相はこうだ」マッカーサーの東京裁判によれば、日独伊3国同盟、日本軍の仏印進駐ということになっているが、ルーズベルトは就任当初から、人種差別に乗じて日本に敵対的であった。
日米関係の悪化は日露戦争時から、オレンジ作戦などで始まり、第1次世界大戦で激化した。それは日本がアメリカに何かをしたわけでわない。1922(大正11)年のワシントン会議の軍艦制限、日本との同盟破棄の英国への強要(チャーチルは英外交の失敗と岸首相に語る)24年の対日移民制限法、貿易制限など日本を圧迫しているが、日本は日米友好を基本に対抗措置をとっていない。
ルーズベルトはニューディール政策など内政専念の公報だが、外交はモンロー主義を捨ててチャイナなどに秘密軍事援助を拡大した。34年には公共事業促進局の予算で空母エンタープライズ、ヨークタウンを建造している。
国府空軍は航空機材、教官ともアメリカの丸抱え援助で建設された。派遣教官は退役将校とされているが、退役は紙上だけで、シェンノートなど実際は給与支払いも米軍であった。37(昭和12)年には対日爆撃命令にルーズベルト大統領は署名している。日米戦争は真珠湾で始まった訳ではない。
桂林は米軍飛行場であったが、昭和19年日本の第2戦車師団など地上軍が、占領したため、ルーズベルトは激怒、蒋介石没落の原因となった。
日露戦争時の米大統領もルーズベルトであるが、32代大統領の叔父にあたり、甥を海軍次官に任じた。叔父さんは日本に好意を持っていたが、縁故の海軍次官は日本撃滅のオレンジ作戦を立案し、官とにつくたびに改訂していたことがわかっている。根は人種差別でしょう。
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◇新宿駅西口に、2007年2月24日午前9時集合