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神社下0124 綱敷行衛天満宮 2つの天満宮が合併

2017年12月17日 07時14分03秒 | 神社

2017年12月8日の記事  平成29年1月撮影

 

菅原道真と天神さん

 

学問の神さまとして知られる菅原道真。下京区だけてなく京都市内には菅原道真を祭神とする天満宮が数多くありますが、なかでも北野天満宮(上京区)は広く知られています。北野天満宮のことを京都の人々は親しみを込めて「天神さん」と呼んでいます。

 

幼いころから類まれな才能の持ち主で、秀才の誉が高かった菅原道真は、32歳で文章博士(もんじょうはかせ)となりました。その後57歳のとき従二位右大臣に任じられましたが、左大臣であった藤原時平の讒言(ざんげん)で太宰権帥として九州の大宰府へ延喜元年(901)左遷となり、うちひしがれた毎日を送った道真は、左遷から2年後の延喜3年(903)、にこの世を去りました。

 

その後、道真を陥れた張本人の藤原時平も延喜9年(909)、39歳の若さで亡くなったり、京都に飢饉(ききん)などの異常気象や疫病が流行るなど異変が続いたことを、怨霊となった道真のなせる業と恐れた藤原氏は、道真の死後20年たった延長元年(923)に正二位の位を追贈しました。

 

名誉を回復された道真は天満大自在天神として祭られ、生前の業績や才能から学問の神として人々から信仰されるようになりました。

 

 

綱敷行衛天満宮

 

もともとこのあたりにあった「綱敷天満宮」と西にあった「行衛天満宮」が合併され「綱敷行衛天満宮」と呼ぶようになりました。「綱敷天満宮」は、道真が筑紫に左遷され博多に上陸したとき、船の綱を敷いて御座とした一夜にして白髪となりました。道真のその相を画にし、綱敷天神像とか一夜白髪の御影と呼び、社名はその神像を祭ったことが由来とされています。

 

「行衛」天満宮には「靭負(ゆきえ)」が正しいとされ、右京の西靭負小路に面してしたことから社名となったようです。

 

西靭負小路は「猪隅通」とも呼ばれ、北野天満宮の南門から南区の唐橋を経て、吉祥院天満宮に通じる道で、道真はこの道を利用して吉祥院ほ通ったといわれています。

 

火尊天満宮(かそん)

 

火尊天満宮には、祇園祭の山「油天神山」のご神体となる菅原道真の木像が祭られています。普段は静かな町並みですが祭りの時期は賑います。中世以来、この町の東北角に愛宕神社があり、火伏の社といったのが名前の由来のようです。

 

 

 

文子天満宮(あやこ) ➡   文子天満宮 天神信仰発祥の神社  

 

社名の「文子」は、菅原道真の乳母「多治比文子」が由来です、この地に多治比文子の住居があり、道真は大宰府へ左遷されるに際し、文子に別れを伝えるためにこの地を訪れ、道真手彫りの御像を与えたといわれています。後に道真が亡くなったことを聞いた文子が、庭前に祠(ほこら)を造り御像を祭ったのが神社の起源とされています。

 

 

 

菅大臣神社・北菅大臣神社 ➡  神社下0023 菅大臣神社

   紅梅殿・・ 菅原道真です

 

菅大臣神社の社地は、平安期初期に菅原道真の邸と菅家廊下と称する学問所があり、道真誕生の地とも伝えられています。また、境内には産湯に使われたという井戸も保存されています。「東風吹かば にほひおこせよ梅の花 主なしとて 春なわすれそ」と大宰府に左遷された道真は詠みました。その後、梅の一枝が一夜にして筑紫に飛んだという飛梅発祥の地でもあります。北菅大臣神社には道真の父是善を祭り、別名

 

紅梅殿と呼ばれています。これに対して菅大臣神社は白梅殿と呼ばれています。

 

 

 

千喜万悦天満宮  西念寺境内

 

この天満宮のご神体は、菅家ご繁盛(繁昌)の絵図と尊像です。

 

絵図は道真が宇多天皇から寛平元年(889)、右大臣に任ぜられ、寛平3年(891)には、御簾中(貴婦人の総称)、御公達や重臣など一族が神殿に列座することを許されたとき、喜びの余りこの慶事の様子を道真自らが指示し絵図に表現したものです。これが、社名である千喜満悦(千万は無量という意味の語呂合わせの当て字)の由来となりました。

 

 

 

匂天神社

 

東洞院通と烏丸通の間、高辻通から仏光寺通までの鉤型の辻子が通る町に匂天神社があります。

 

このあたりは、もともと大政所の御旅所の敷地で、いくつかのおてら神社がありました。その一つに清光庵があり、匂天神社を祭っていたといわれています。

 

祭社は菅原道真で勧請の月日ははっきりしませんが、明治時代には洛中25社の一つになっていました。

 

周辺の開発でいったん取り壊されましたが、昭和47年(1972)に社殿が新しくなり、以後町内でお祭りされています。

 

 

 

火除天満宮 ➡  神社下0035  火除天満宮

 

織田信長と信忠親子の菩提を弔うため、貞安上人が開山した大雲院の鎮守社として、慶長2年(1597)に烏丸通御池付近に建立されました。豊臣秀吉が京の都を再編した「町割り」によって大雲院とともに今の地に移りましたが、大雲院は後に東山区に移転しお宮だけが残っています。「火除」の名は、幾度かの大火から類焼を逃れたことからついたといわれています。

 

 

2015年7月12日の記事   

もともとこのあたりにあった「綱敷天満宮」と

西にあった「行衛天満宮」が合併し

「綱敷行衛天満宮」と呼ぶようになりました。

道真が筑後に左遷され博多に上陸したとき、

船の綱を敷いて御座としたら一夜にして白髪になりました。

道真のその相を画にし 綱敷天神像とか 一夜白髪の御影と呼び、

社名はその神像を祀ったことが由来とされています。

「行衛」は「靱負(ゆきえ)」が正しいとされ、

右京の西靭負小路に面していたことから社名となったようです。

西靭負小路は「猪隅通」とも呼ばれ、

北野天満宮の南門から南区の唐橋を経て

吉祥院天満宮に通じる道で、

道真はこの道を利用して吉祥院へ通ったといわれています

幕末のころこのあたりは湿地が多くあったようです

左が 西門 右が 南門

 

西門  石鳥居  昭和8年12月 建立

 

南門  社号標 昭和9年3月建立    右には 愛宕灯籠

本殿

川勝寺  大正元年  とある

末社 

手水舎

 

末社  白太夫大神  末吉大明神

 

奉納額  文字がほとんど消えて 内容は 不明

 平成27年7月11日 撮影

1輪だけ咲いていました

 

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