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光福寺  干菜寺系・六斎念佛  秀吉から「ほしな寺」と称された

2015年12月04日 07時14分01秒 | 寺院

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光福寺

正式には、干菜山斎教院安養殿光福寺と号する浄土宗の寺院であり、山号をとって「ほしな寺」とも呼ばれている。寺伝によれば、寛元年間(1243~1247)に道空上人が西山安養谷(長岡京市)に建立した一寺(斎教院)が当寺の起こりで、天正10年(1582)に月空宗心によって現在の地に移されたと伝わる。道空は「六斎念仏」を世に広めたことで知られ、当寺に伝わる「六斎念仏興起書」によると後柏原天皇から「六斎念仏総本山」の勅号を賜ったという。秀吉からもその特権を認められたという。六斎念仏とは、毎月の六斎日(8日、14日、15日、23日、29日、30日)に精進潔斎(身を清めること)して念仏を唱えることか起源であったが民衆の間に広まるにつれ、鉦や太鼓を打ち鳴らす念仏となった。大きく分けて空也堂系と干菜寺系があり、空也堂系は踊念仏で芸能的色彩を帯びていったのに対し、干菜寺系は原型を留めた六斎念仏といえる。双璧である。

また、文禄2年(1593)に豊臣秀吉が聚楽第在住の頃鷹狩の途次立ち寄った際、空心上人は貧しい寺のこととて何のもてなしもすることができないので、乾菜(ほしな)一把を献じたところ、秀吉はその質素さに感服し、「干菜山光福寺」の称号を与えたといわれている。本堂には、正和2年(1313)に花園天皇から賜った閉目の阿弥陀如来像を安置し、収蔵庫では、六斎念仏興起書等の諸文献や、秀吉寄進の陣太鼓や秀吉の画像等を所蔵している。書院庭園には、聚楽第より移したという庭石(臥牛石、片山石、諸眉石)がある。京都市等

 

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