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宝鏡寺  人形寺と呼ばれています

2015年10月17日 09時24分28秒 | 寺院

  単立寺院

百々御所とよばれる格式高い門跡尼院で、

寺伝によると景愛寺中の福尼寺を、応安年間(1368~75)

光厳天皇皇女華林恵厳禅尼によって現在の地に再興されたのが起こりという。

その後、皇族や公家より入寺されることが多く、

特に江戸時代初期には後水尾天皇皇女久厳尼・理昌尼王が入寺されてより

歴代皇女が住持となり、皇室との関係深い門跡寺院として栄えた。

天明の大火で焼失した。本堂は天保年間(1830~44)に再建されたものです。

書院の襖絵は、光格天皇の勅命による円山応震筆、吉村孝敬筆がある。

勅作堂には光格天皇作の阿弥陀立像を安置し、傍らに足利義政夫人日野富子の坐像がある。

寺宝は多く、光格天皇遺愛の人形をはじめ、

古式豊かな遊戯具(双六、投扇興、買覆い)等多数ある。

これに因んで「人形寺」とよばれ、毎年春秋2回人形展を行い、

人形塚では人形の供養が行われる。

 

昭和12年 建立

 

人形塚

「万勢伊さん」と呼ばれる江戸時代の御所人形が、寺に残っています。

後西天皇の皇女本覚院宮様の持ち物だった。

書画などに卓越した才能を持ち、信心深かった宮様は、ことのほかこの人形を愛され

その気持ちが、いつしか人形に乗り移った。

人形は、昼は書のお手伝いを、日が暮れると行燈を提げて寺の周囲を夜回りした。

本覚院宮様の死後も二人の皇女に仕えたが、

同寺の尼僧によって魂を抜かれた。

これが人形供養のはじまり、という。

 

本堂

 

庫裏

 

宝鏡寺第15世溪山禅師は、義政と富子との間に生まれた娘である

 

日野富子の坐像

 

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