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祠下005  花咲稲荷神社  松永貞徳の邸にあった鎮守社

2016年05月06日 09時52分11秒 | 町内の小さな祠

 

 

松永貞徳貞亭址

 

大正9年  京都市教育会

 

 

 

 

花咲稲荷神社

当神社は、豊臣秀吉の右筆を務め、その後、俳諧の祖と言われる松永貞徳の邸内に祀られていた鎮守社であります。ご祭神は、宇賀御魂神、素戔嗚尊、大市比売命、大己貴神、猿田比古神の五柱であり、ご神像五体が祀られていました(現在、京都国立博物館にて保管保存)。貞徳は花咲亭逍遙軒と号したのに因んで、社名とした。正徳5年(1715)霊元上皇皇女八十宮吉子内親王が7代将軍徳川家継に降嫁される時、また、文久元年(1861)孝明天皇妹和宮親内親王が14代将軍徳川家茂に降嫁される時のいずれも、玉體安寧の御祈祷が当神社に於いて斎行されました。明治40年(1907)長谷川武右衛門が、大阪毎日新聞京都支局長・日出新聞(現京都新聞)の主筆であった大道雷淵(和一)より譲り受けて、武右衛門の妻於菟が社主として神明奉仕を勤めて以来長谷川家がお譲りし神事を続けて現在に至ります。

花咲稲荷神社 代表役員代務者  長谷川博一

 

昔の神社風景

 

松永貞徳は元亀2年(1571)の生まれ、早くから和歌や連歌・和学をたしなんだ。和歌を細川幽斎(1534~1610)に,連歌を里村紹巴(1524~1602)に学び、俳諧に心を傾けたのは晩年であったが中心人物となり、木下長嘯子と並び称せられた。その門流を貞門派と称し、寛文年間(1661~73)に至る半世紀のわたって風靡した。はじめ三条衣棚の私宅で庶民の子供のために塾を開いていたが、60歳半ばで隠居し、この地に移った。家を「花咲亭」と称したのに因んで「五条の翁」または「花咲の翁」と号した。貞門俳諧の式目を定めた拝書「御傘」はここで執筆されたものである。しかし、隠居は許されず、妙法院尭然法親王のすすめによって東山の大仏の南に移ったのは、80歳頃であった。そこは東山を望む景勝の地で、邸内の柿の木に因んで「柿園」と称したが、間もなく承応2年(1653)11月15日、83歳で亡くなった。墓は上鳥羽の実相寺にある。今は、「柿園」も茶室「芦の丸屋」もなく、貞徳をしのぶものはこの花咲稲荷神社だけとなっている。

 

松永貞徳の墓所 ⇒  寺院南0537 正覚山  実相寺 日蓮宗

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