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伊藤仁斎宅(古義堂)跡  家は燃え再建だが蔵は当時のまま残る

2015年08月01日 10時42分47秒 | 史跡・旧跡

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江戸初期の漢学者、伊藤仁斎の住宅で、仁斎の学問にちなみ古義堂と称する。

現在の建物は明治23年に遺構をもって再建したもので、2階建て、

土蔵造りの書庫は仁斎在世当時のものである。

仁斎は寛永4年(1627)ここに生まれた。

父了室は篤学の人であり、母は連歌師里村紹巴の孫にあたる。

仁斎は初め朱子学を修めたが、後にこれを排して古義堂を唱え、

寛文2年(1662)から宝永2年(1705)79歳で没するまでの約40年間、

私塾を開き教授に努めたので、

仁斎、東涯の学派を堀川学派、古義学派と呼んで名高く、

全国各地から堀川の流れを慕って学徒はここに集まった。

子孫は永く学派を伝え、

寛文2年(1662)から明治39年(1906)に至るまで実に244年に及んだ。

 

墓所は 二尊院

 

 

 

儒者伊藤仁斎(1627~1705)は,自邸に古義堂と名付けた塾を開き,

上層町衆の子弟や武士などを対象に講義した。

古義堂は堀川学派の拠点となり,代々伊藤家の家塾として存続した。

この石標はその邸宅と塾跡を示すものである。

大正11年に史蹟名勝天然紀念物保存法により史蹟に指定され,

現在は「伊藤仁斎宅(古義堂)跡ならびに書庫」として国指定史跡

 

西 史蹟伊藤仁斎宅古義堂阯並書庫

南  史蹟名勝天然紀念物保存法二依リ

   大正十一年三月内務大臣指定

北                   大正十三年九月建設

 

蔵の一部が写っています 当時のままのです

伊藤仁斎手植えの松といわれています

 

古義堂の扁額

伊藤仁斎が寛文2年(1662)に創立した私塾の看板

この扁額は、元文3年(1738)に仁斎の5男の蘭嵎(らんぐう)が篆書(てんしょ)したものが

天明の大火で消失したため、文化元年(1804)に花山院愛徳の書によりつくられたもの。

古義堂の史跡は現在の建物は住居に改築されているが、二階建ての蔵だけは当時のもの

 

京都学校歴史博物館

 

 

 



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