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本能寺  

2015年12月22日 07時13分36秒 | 寺院

多くの修学旅行生で賑わっています

どちらも 昭和3年3月の建立

能の文字が変えられています  何度も火災にあったため 火を嫌って  能の右のヒを変えてあるそうです

 

 

本能寺

織田信長の墓がある寺とし知られています。応永22年(1415)、日隆上人が下京区仏光寺通油小路に創建した本門法華宗の大本山で、はじめ本応寺と号したが、のち本能寺と改めた。天文法華の乱後、油小路蛸薬師に移った。寺域は東西150m、南北300mの広大な地であった。天正10年(1582)には信長の仮宿所となり、明智光秀の襲撃を受けた。「本能寺の変」です。建物は焼亡した。天正15年(1587)秀吉によって現在の地に再建された。その後、天明・元治の大火で再び類焼した。今の本堂は昭和3年(1928)の造営である。寺宝として、「伝藤原行成筆書巻」がある。本堂の背後に織田信長・信忠父子供養塔、本能寺の変に斃れた人々の慰霊塔がある。

新村出博士・言語学者、元京大教授、昭和42年8月没、91歳。本墓は東京青山墓地にあるが、本能寺に分骨された墓がある。広辞苑の編者です。

朝鮮通信使ゆかりの地

1719(享保4)年、徳川吉宗の8代将軍襲職を祝賀いる目的で、江戸時代に入って9度目の朝鮮使節(通信使)475名が来日した。このうち129名を除く346名が護衛の対馬藩主などと共に同年9月12日に淀から鳥羽実相寺を経て入洛、本寺に一夜宿泊した。通信使の正使らは本堂に泊まり、塔頭の蓮承院は上官、吉祥院は通訳官、本行院は五山僧などが利用した。その間、貫首以下の一山の僧侶たちは一時他寺などへ立ち退いたことが当寺の記録である「両山暦譜」に記されている。この夜、京都所司代の松平忠周らが挨拶に来て、将軍の命による饗宴の席が設けられた。このとき通信使の随員であった製述官・申維翰が著した見聞録「海遊録」では本能寺のことを「壮麗なことは比すべきものがない」と述べている。江戸からの帰路もまた11月1日より3日まで本寺に滞在した。また護衛役の対馬藩主宗氏の一行やその他の護衛の日本人たちは本寺の周辺の寺院や民家にも分宿した。

 

用水桶鉢でしょうか  何度も火災にあっているので防火意識の表れでしょうか

後ろは 本堂

 

加藤清正公 寄進  臥牛石

たしかに 牛に似ています  自然石にしてはよくできています 見事です

 

 

塔頭・恵昇院

 

塔頭・蓮承院

塔頭・定性院

塔頭・本行院

塔頭・源妙院

塔頭・龍雲院

 

織田信長公廟

信長公廟

信長が光秀の謀反のより無念の自刃をとげたのは天正10年(1582)6月2日早朝のことだった本能寺の変である。そのころの当寺は四条西洞院にあり4町4面の広大な寺域 周囲に堀と土塁その内部に7堂伽藍や多くの子院や厩舎を備えるという城郭構えになっていて信長が常宿するにふさわしい都で随一の大寺院であった。この大伽藍が烏有に帰し光秀の天下もわずか十数日で終わったあと信長の三男信孝は信長らの燼骨収集の作業をすすめ 本能寺の変から1ケ月後の7月3日早くも本能寺を父信長の墓所と定めた この信長の墓はこのとき信孝が建立したものである。この廟所には武将の魂とされる信長所持の太刀が納められている  当山識

 

記念碑

 

浦上玉堂 廟所

 

江戸末期の南宋画家・浦上玉堂春琴父子の墓、

延享2年(1745)、岡山城下備中鴨方藩邸内で生まれる。中略。35歳の時より自ら愛用の七弦琴の銘に因み、玉堂琴士と号す。藩務の傍ら、琴を弾き、詩を詠し、筆を執って墨書し、酒に酔い、絵を描くという文人として自適の生活を送る。50歳の時、春琴・秋琴の二子を連れ、岡山を出奔し、諸国放浪の旅に出る。自由人として生きる精神は日々研ぎ澄まされ、独自の境地に達し、わが国近代絵画の頂点を極める。晩年は京都に定住し、文政3年(1820)没。代表作に国宝「東雲篩雪図(とううんしせつず) 故川端康成蔵」重要文化財「山雨染衣図(さんうせんいず)」等がある。

浦上春琴

安永8年(1779)、玉堂の長男として備前に生まれる。精細巧緻な画名は高い。頼山陽ら天下の名人と交遊。弘化3年(1846)没

 

天明の大火に耐えたイチョウ

 

 

9代徳川家重夫人の供養塔

菅中納言局庸子の石塔

島津義久夫人の石塔

 

 

後伏見天皇七世皇孫  日承王墓

 

 

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