北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

地方が非効率的なのは人口が少ないからで仕方がない

2016-07-01 23:44:44 | Weblog

 ある経済関係の本を読んでいて、気になるのが「労働生産性の向上」という単語です。

 疲弊する地方の小規模自治体の活性化のために、政府は平成14年9月に「まち・ひと・しごと創生本部」を立ち上げました。

 「まち」と「ひと」と「しごと」の関係は、それぞれが上昇基調にあれば相互に関係しあいながら増えてゆきますが、それらが下降基調に入るとやはり相互に関係しあいながら減少してゆきます。

 地方の人口減少が地域経済の縮小につながり、経済の縮小が人口減少を加速させるという負のスパイラルを断ち切ることが重要だ、という視点です。 

 地域には「ひと」が大事なのか「しごと」が大事なのか、「まち」が大事なのか。ひとたび人口減少局面に入り込んだ地方自治体を救うためとはいえ、どの要素もそう簡単に増えるというわけには行きません。

 たとえば「しごと」。ある自治体では介護施設を充実させていて、お年寄りもこれから増えることが予想されています。介護施設での仕事は増えることが予想され、職員を募集しているのですが、なかなか若い人がその地方都市を選んでくれるというわけには行きません。

 ある離島では、熟練になれば年間1千万円は稼げるという漁師を募集してもなり手は少なく、高齢で引退する数に全く追いつきません。

 仕事はあっても、そこに住むまちに、医療・教育・買い物・娯楽などの都市的といえるサービスが脆弱であれば労働力が売り手市場の今日、条件不利地を選んでくれる「ひと」はなかなかいません。
 
 経済学の教科書的な本を読んでいると、もうそこで人間を増やすことはあきらめてしまって、「人間が増えないならば労働生産性を上げることが重要になる」とすぐに逃げを打ってしまいます。

 労働生産性も、非製造業のサービス系業種では人口が多いほど労働生産性が高いということがわかっています。そりゃそうです。食堂を経営しても、お客が一日に30人しか来ないお店と300人来るお店では儲けが格段に違います。
 同じ人数で切り盛りするなら後者のほうが労働生産性が高いに決まっています。

 逆に人口の少ない地方部で労働生産性を上げるという事になると、業種としての農林水産業、建設業などの比率が高いことから、機械化や技術開発によって一人当たりの生産性を向上させることが期待されます。

 しかし機械化されることで、それまで5人でやっていた仕事が4人でできるようになったら、余った一人は職を失ってまちを出ていくのかもしれません。労働生産性の向上というキーワードに隠れたパラドックスがここにはあります。

 そうやってマクロに眺めると、都市のほうが労働生産性が高く、ビジネスチャンスが多く、医療・教育・娯楽などの都市的サービスも充実してますます住むのに魅力が増してゆく。こうして若い人々から次第に都会に移り住むようになってゆく、あるいは仕事がなくて地方から追い出されるようにして都市に出ざるを得ない状況になっているのです。

 地方での暮らしを「非効率だからだめなんだ」と切り捨てるのは都会の論理です。非効率だとしても、そこに住んでもらうことの意味と価値を見える範囲での貨幣価値に加える必要があるでしょう。

 そのことをどういう切り口で、どの程度ならば国民が納得して共感してくれるのか。少なくても政治家はそちらを説明する側に回らないといけないんじゃないのかな。

          ◆ 

 大都市選出の政治家が「(非効率な)地方のために(効率的な)都会が損をしている」と主張するのは都会の住民のためのプレゼンテーションでしかないと私は思います。

 豊かな自然の中で暮らしそこを守ることは国土を保全するという意味がある。だから「一票の価値」という表現で、選挙で政治家を選ぶときに人口に応じて発言権を与えよう、という考え方には程度があるべきだし、声を出せない鳥や動物や草木の声も反映させる手段がないものか、とすら思います。

 
 政治家の選挙はどうあれ、現実に進む少子高齢化と財政の厳しさに対して国民として立ち向かわなくてはならないのも事実。

 嘆くばかりではなく、どういう形で地域社会を助けられるのか、活動に参加できるのか、を考えなくては、ね。

 

コメント
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