天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

季語は登山道である

2017-08-23 06:55:36 | 俳句


先日ひこばえ句会でМさんが季語についてぼくに聞いた。
彼女は金子兜太さんは季語をそう重視せず詩情を重んじていると指摘した。それでいいのに鷹はなぜ季語が効いていないとかうるさく季語にこだわるのか。だいたい季語が効くとか効かないとかむつかしくてわからない、といったことを言いたかったようだ。

句歴の浅い人に季語の講義を正面からしてもまずわかってもらえないのでぼくは川柳のことを話した。
ぼくは50歳から10年間、時実新子のグループに入れてもらい川柳をやった。新子さんが選者をしていた「アサヒグラフ」に投稿して仲間と競ったこともある。
「アサヒグラフ」は「消防車」とかいうような題があったので考えやすかったが俳句の雑詠にあたることを川柳でやろうとすると途方に暮れるという思いを再三経験した。

どうしても季語が欲しくなるのである。
一般の言葉を組み合わせてひとつの世界を表現しようとしてもどこで終わるのか、どこまでやれば決着できるのか、といったことでおおいに悩んだ。
このとき俳句における季語は、写真における現像液と定着液であると思った。現像液があるから白紙のうえに像を表すことができ、定着液があるゆえその像をしかと固定できる。それを万人が見ることができる。
五七五という短い文脈がきりっと立つのは季語あってこそということを確信したのであった。

山でいうと川柳は獣道を歩くようなもの。いやそれさえない藪の中を右往左往する感じがした。
決まりきった道、登山道を歩いているとときをりそれから逸れたくなる。
大学生の夏、南アルプス仙丈ヶ岳付近の藪沢小屋で管理人のアルバイトをした。このとき毎日仙丈ヶ岳まで3キロほど歩いていた。
毎日歩くと同じ道に飽きて道なき山肌を這い上ったりした。しかし道のないところを歩いているといつ空が見えるのかまるでわからない。自分がどこにいるかもわからなくなる。よほど地形の全体像が頭に入っていないと迷う。
道なきところを歩くのは川柳を書いていてどうすれば一行が完結するのか悩むのによく似ている。

登山道は大勢の人が歩いて踏み固めたものである。
北沢峠から仙丈ヶ岳をめざす場合、五合目までいつも同じ道を歩く。そこで道が二つに分かれるがそれだけである。
これを単調と思うか思わないかが川柳へ行くか俳句へ行くかの岐路であろう。
同じ登山道を歩いていても毎回自分自身の心境も体力も変るので印象が違うし、晴れか雨が曇りかで万物の見え方は大きく変わる。発見するものも興味の対象も変わる。
同じ道を歩いていて見えるもの、見たいものはそのつど違う。ゆえにそう飽きるものでないことに俳句を長くやっていると気づくだろう。

登山道の「踏み固められた」というのが季語の本意であるが、これさえも変化してゆく。豪雨の土砂崩れなどで登山道の一部が崩れ修復して変ったりする。これは積み重ねられてきた季語の本意が時代によりゆさぶりをかけられている印象である。
季語の本意も時代の流行からの影響を受けるだろう。それでもコペルニクス的転回はしない盤石感は持ち続ける。
これが俳句に安心して身を委ねられる理由ではないかと思う。
道を歩きながら気づきを新しくすることが季語作家の要諦と思うのである。
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