天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

今井聖さん焦っていませんか

2017-08-06 08:11:54 | 俳句

「街」主宰 今井聖


今朝「NHK俳句」に今井聖さんが出た。冒頭、プロダンサーとかよやかに踊りを踊ったのにはびっくりした。
聖さんが出ておもしろくしたのが名句鑑賞のコーナー。
人口に膾炙した名句に対して聖さんが否定的な見解を述べたうえで同じ作家の違う句を推奨するという企画である。
今日は、高野素十であった。

づかづかと来て踊子にささやける  素十
より
歩み来し人麦踏をはじめけり  素十
のほうが格上であると聖さんは主張した。
「づかづかと来て」は下品である。それより歩いて来た人が歩幅をやや狭めて麦踏に移ったというのに品と味わいがある、という論旨であった。
その通りである。

踊子にささやいたのは村の若衆で、踊子(これも村の若い娘だと思う)を口説いているのであるとぼくは読む。「あとで一本杉で待ってるからな」という男に「ほんとうにお嫁さんにしてくれるの? じゃあなきゃ嫌」というような親しいけれど、しかしまだ男女関係未満の雰囲気。
それが濃厚に出ていてぞくぞくする。名句ではないか。
歩み来しはむろん聖さんのいうように名句であるが、下品だからといって名句にならないのだろうか。聖さんはどこか神経質すぎないか。あるいは何か焦っていないか。

今井聖の唱える「新・街 宣 言」をぼくは知っている。
いわく、
「俳味、滋味、軽み、軽妙、洒脱、飄逸、諷詠、諧謔、達観、達意、熟達、風雅、典雅、優美、流麗、枯淡、透徹、円熟、古いモダン、睥睨的ポストモダン、皮相的リベラル、典拠の達人、正義の押し付け、倫理の規定、自己美化、ではないものを私たちは目指します。
肉体を通して得られる原初の感覚を私たちは基点に置きます。私たちは「私」を露出させ解放することを目的とします。」

こういう今井聖のめざす道を神々しいと仰ぐのであるが、正直いって至難の茨の道であろう。絵に描いた餅にならないのだろうか。
だいたいの俳句は聖さんが嫌う「俳味、滋味、軽み、軽妙………自己美化」に入ってしまうのではないのだろうか。

たとえば聖さん自身が月刊「俳句」7月号に発表した次の句。

六月の象の頭の起伏かな  聖
この句にぼくは次の句評を書いている。
そういえば象の頭はのっぺらぼうではなく微妙な凸凹がある。それがよく見える句である。問題は何月がいいかということであり、上五に来られる月の季語は音数の関係で、ほかには一月、三月、七月、十月くらいか。
理論的にいえないのだがこれらと比べて六月がいい。この月でいいと直感するのが俳句という伝統でありそれにすっと乗るのが俳人である。

この句の「六月の象の」などという作り方はきわめて伝統的であり、「熟達、風雅、枯淡」といった「新・街 宣 言」で聖さんが嫌う内容ではないのか。
ほかの聖さんの発表句もだいたい聖さんが嫌う「新・街 宣 言」の中に入っているように思えてならない。

聖さん、なにか焦っているように思えてなりません。

コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 原爆忌も政治も嘘っぱち | トップ | 映画「君の膵臓を食べたい」 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

俳句」カテゴリの最新記事