波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

「新東京物語」④

2021-03-29 09:46:16 | Weblog
家族というものはどんなものか、世界でも国々によってその在り方は違うかもしれないが、親を中心にその固い愛情の強さは変わらないものと信じているが、その在り方はその家族ごとに異なるようだ。その生まれ、育ち方、環境のちがいもあるだろう、家族とはいえその人の性格も考え方もそれぞれである。佳子は男家族の中ではその存在は女ということもあって特別だったようだ。「私は絶対その話は許しません」との一点張りで壱穂の話を聞くことはなかった。二人は仕方なく岡山の教会で無理やり結婚式をしたが、美継と佳子は参加しただけであった。そんな二人を見かねてか、美継は父として何とかしてやらなくてはと二人を呼び「福島に私が預かった鉱山がある。それを今、親戚に預けて頼んでいるが、お前たちで後を見てくれないか」と持ち掛けた。壱穂は理解してもらえない母親から離れるならと結婚と同時に岡山を発ち、さっそく福島へと旅立った。子供はそれぞれ大きくなり大人になると旅立って独立するのは動物の世界も同じであるが、特に男の子は妻を取り、一家を成立させて独立する習わしは日本の家庭の習わしでもあった。学生だった二人の弟は黙って親の言うままに暮らしていた。そんな時壱穂から父に電話がかかってきた。「お父さん。昌吾を俺が大学の受験の面倒を見るからよこさないか」との申し出で会った。10歳も離れていると兄という感覚より面倒見の良い叔父のような感覚があったのかもしれない。
父は早速、承諾し,昌吾はさっそく福島へと旅立った。壱穂には勉強の指導ということもあったが。福島の事業が初めての仕事でもあり、何かと手伝いが欲しいこともあり、新婚ということもあり、そばに手伝ってくれる人間が欲しかったこともあったのだろうと思われた・

「閑話休題」

2021-03-26 10:33:40 | Weblog
嘗て「寅さん映画シリーズ」を見ていた時に、こんなシーンがあったのを思い出した。ある時、寅さんが旅に出る時に柴又の駅まで見送りについてきた甥っ子の満男が寅さんからお小遣いをもらい、嬉しそうだった。そしてその時「おじさん人間って何のために生きているんだろう」と突然聞いている。寅さんも突然の難しい問いかけに戸惑いながら「そりゃあ、生きていてあんな良い時があったなあ。またこんな楽しいことがったなあ、と思える時があるからじゃないのか」と答えている。一見寅さんらしい答えのように聞こえるが、実はこんなところに山田監督の独特な哲学が表れていて、自ら考えさせられたことがある。「人間は何のために生きるか?」この問題は永遠の問いであろう。誰もが一度はふと考えることかもしれない。私自身もこの年になって「自分は何のために生きてきたのだ折ろうか?」と自問自答することがある。確かに寅さんの答えも一理あるだろう。私自身も自分の人生を顧みるに「何のため?」と自問自答することがある。確かに「生きていてよかった。」と思う瞬間もあった。また「こんなに苦しんだり、悔やんだりしなければいけないのか」と思う時もあった。しかし今では何があっても「生かされている喜び」のうちに感謝しかない。私のような人間がこんなに長い間生かされ、喜び、悲しみを覚えながら生かされていることだけが幸せである。現在もまた、日々感謝のうちにある。そのことが嬉しい。
だから日々をささやかながら、できるだけ楽しみ、喜び、小さな幸せの中で生きることを願っている。

「新東京物語」③

2021-03-23 09:35:58 | Weblog
壱穂は困惑したが親友の頼みとあって断ることも出来なかった。許嫁の相手の家は岡山市の高級住宅地の一角にあった。何しろ親は軍隊の立派な偉い人とあってお屋敷である。家には三人の姉妹と両親で住んでいた。相手は長女でカソリックの信者で聖歌隊のメンバーでピアノをたしなむ子女であった。
壱穂は恐る恐る訪問しその趣旨をつたえた。泣かれたりするかとも思っていたが、話はすっかり変わっていった。壱穂は思わぬ歓迎を受けて、もてなされその家で歓迎されたのだ。そして何時の間にかその娘と壱穂はすっかり良い中になっていたのである。壱穂もまんざらではなかったらしく何時の間にか二人は付き合うようになっていた。(女心と秋の空)ということわざもあるが、果たして二人の結びつきに何があったのか、それはふたりにしかわからない。やがて二人の関係は佳子の耳にも入ることになり、美継も知るところとなった。明治の古い教育と厳重な家庭で育った二人にとって大事な長男の結婚は最大の問題であった。当然相応しい嫁を迎え跡を継がせることを考えていたところ、若い二人から結婚の意思を知るところとなり、それは青天の霹靂となってしまった。とりわけ佳子にとってはかわいい息子を泥棒猫にとられてしまったように激怒することになる。
当然それは許されることではなく二人はその権幕を知り、話は大義絵になりそうになってしまった。佳子は三人の息子を育てているうちに何時の間にか息子たちをわがものしている気持になっていて自分の意志通りにする傾向にあったが、この事件をきっかけに一段と感情が高ぶり始めていた。当然二人の結婚は許されることなく、破談とするように言われたが、二人の気持ちはさらにつりょくなるばかりであった。そんな若い者の姿を美継は静かに見守るばかりであった。

「新東京物語」②

2021-03-15 09:50:04 | Weblog
武家屋敷としてできた住まいはかなり年数がたっていると思われたが、とてもしっかりとしたつくりであった。離れの静かな部屋の前には枯山水の庭があり、立派な松が枝を周りへたれている。池こそないがその雰囲気は充分であった。その離れの部屋に一枚の写真が飾ってある。先祖の親の写真と思いきやそこにはかわいい赤ん坊が写っていた。ベビー帽をかぶり当時では珍しいと思われるかわいいべぴー服を着せられ、そのつぶらな目はぱっちりとしたかわいい女の子である。次男の昌吾が「これ誰なの」と聞いたことがあったが、美継も佳子も答えなかった。後日分かったことだが、その写真の女の子は長男の壱穂の次に生まれた長女だった。生まれて一年半ほどで大病に架り、亡くなったらしい。美継は悲しみに打ちひしがれてしばらくは口もきけないほどだったらしい。その後も写真をずっと懐にに入れて過ごしていたという。そんなことがあって、二人目の男のことの年の差が大きくな慣れてしまったらしい。佳子は3人の男の子を育てるうちに何時の間にか強くものいう言葉になっていったのはその影響もあったのかもしれない。そして長男は家庭教育でも「跡取り」の思想が強く大事に育てられ、教育にも配慮して家庭教師をつけ、学費も糸目をつけず力を入れていたようです。
その長男の壱穂が結婚適齢期を迎える年ごろになると佳子は「何としても相応しい嫁を」と真剣にその問題に関心を持ち始めていた。
そんな時、壱穂は学友と何不自由なく学生生活を謳歌していたのだが、親友の友人からあることを頼まれたのである。彼が話すのには「実は俺には岡山に許嫁がいてその女と結婚を約束しているんだ。しかし新しく好きな女性が出来て彼女とは結婚できなくなったのだ。そこで悪いがそのことを彼女に伝えて断ってもらいたいのだ。親友の頼みとしてよろしく頼むよ」と言われてしまった。

「新東京物語」①

2021-03-12 09:38:38 | Weblog
美継は戦後、岡山の県北の田舎へ家族と一緒に引き上げた。田舎に家もなく帰るところがないために勤めていた会社の世話で住む所を用意してもらえたからである。落ち着いて数年後、会社からそう遠くない所に武家屋敷跡が売りに出たのを買い求め、そこを終の棲家として住んでいた。若かったミ美継も何時の間にか70歳を過ぎ、子供たちはそれぞれ成長し、家を出ていつの間にか老夫婦の二人暮らしが始まっていた。若い時から実直で真面目な美継は
創立者の山内氏から信頼があり、本社では創立者に代わり会社の代表として責任を負い、銀行をはじめ、工場の労働組合の管理まで一手に責任を負い、頑張っていた。そんな夫を妻の佳子はあまり顧みることなく、自分の好きなことをして暮らしていた。佳子も美継と同じ岡山の田舎育ちだったが、長女として生まれ、わがままに育ったせいもあり、あまり家庭的ではなかった。東京の店は倉庫や事務所もかねて借家とはいえ3階縦の家に住み、田舎から姉を頼って出てくる妹やいとこの面倒を見ながら女中代わりにしていたこともあり、気ままに過ごす習慣がついていたようだ。美継はそんな佳子をあまり気にせず、ひたすら自分の努めに時間を過ぎしていたこともあり、田舎生活で時間と余裕ができると佳子はお茶。お花。琴と田舎でもなかなかできない趣味を生かして火を過ごしていた。家は古かったが、武家屋敷とあってつくりはしっかりとして庭もあり、裏には畑も僅かながらあったので食べるには困ることはなく、余裕の生活が出来ていた。
二人には子供が三人いた。何れも男の子で長男は軍隊経験を一年して終戦を迎え、戦後仕事がないので美継が所有していた鉱山会社の管理を任せていた。次男は10歳年下になり、東京でサラリーマン、そして3男は大阪で就職していた。

「新東京物語」

2021-03-09 09:26:16 | Weblog
ユーチュウブで偶然映画「東京物語」を見る機会ができた。「寅さん映画」を撮り終えた山田監督作品であったのがその動機であったが、あまり気にしないで見たのだが、久しぶりに映画らしい映画を見終えて大きな感動を得ることができた。調べると60年前の昭和時代に小津監督の作品のリメイクだそうだが、平成のこの時代に会って少しも劣らぬ「家族」だけの小さな舞台でその人間を通じて人間がいかにこの世に生きていく中で、何が大切でどう生きることが大事であるかを明確に示していて、大きく心をを揺さぶったことは収穫であった。一人一人の心のひだを正確に示しながら、それでいて「家族」という構成がきちんと守られ、人生とは。こういうものであり、この中でいかに人間らしく生きていくことが大事であるかを教えられた気がしている。最後のシーンで妻を亡くした父親が末っ子の息子の許嫁を前に、葬儀の後の手伝いのお礼を言いながら別れを告げる時に、その娘が「本当は早く帰ってしまいたかったのだ」言ったときに父親は「正直な子だね。」と言いながら亡き妻の形見として腕時計を渡すシーンが瞼に残っている。
「家族」といえども、血はつながっていてもいなくても、真心と本当の愛があればそこには心の絆ができる事を目の当たりに見ることが出来た。
そして見終わった後、私はある「家族」を思い出した。登場人物もその設計も違うが、共通する面も多々ある。そこで「新東京物語」として
それを紹介していきたいと思いついた。少し長くなるかもしれないが、丁寧に思い出しながら紹介したいと思っている。

「親子ってどんな関係?」

2021-03-05 13:30:55 | Weblog
今頃こんなことを考えることは不謹慎でもあり、「何を今頃改まって」という感じだが、この年になって親として最も大事なことに気づいた感じがして考えてみた。幼かった頃の親という存在はとても大きなものであった。全てが親の言いなりであり、親の言うとおりに生きる事しかできなかった。それは親を離れても、兄に引き継がれ30歳ごろまで自分というものがない感じで言われたままに生きてきた感じであったのは、言い換えれば大切にされていたのかもしれないし、自立心がなかったのかもしれないし、過保護であったのかもしれない。そんな自分が家庭を持ち親となって子供を持つ存在になってどうしたかというと、親としての自覚がはっきりしない。親でありながら親としての自覚も十分考えもせず生きてきた感じである。
そして何時の間にか人生の終わりを迎えるころ、親としての思いが生まれてきた。それは子供たちの自分に対する迎え方であったり、姿勢であったり
その対応の姿で自分が見え始めたことによる。ある時は忠告であったり、ある時は身の回りの世話であったり、ある時は注意で会ったりである。そして初めて自分が子供たちに対してどう向き合ってきたかを知るようになる。そして十分なことが出来なかったこと、自分の姿を見て彼らが育ちその姿を一人の人間として見つめながら、それなりに生きてきたのであろう。だから私は何も言えないし、こともたちもそれぞれ一人の人間として生きていくことになる。従って人間対人間としての関係であり、子供は親の物ではない。そんなことをしみじみ考えながら「この結果が自分が親として育ててきた結果」であることをしみじみ良くも悪くも考えさせられている。
いま日本では「家庭崩壊」も聞こえてくるが、本来の日本の家庭の在り方はどうだったのか、むしろ外国の方がむしろ家庭というソロを大事に守り育てているのではないかと思ったりするが、どうなのだろうっか。

「従妹どうし」

2021-03-02 10:27:58 | Weblog
ある日の午後突然電話が鳴った。最近は子供たち以外から電話が外からかかることは滅多にない。昔の友人、知人は年ごとに減り続け、年賀状の数も年々減り続け、増えることはない。電話も数少ない姪っ子から年に何回か、掛かってきて安否を尋ねられるくらいである。「誰だろう?」とでんわをとる。いつもの明るい声が聞こえてきた。ただ一人の同じ年齢の「はるちゃん」からだった。「元気してるかい」父方の妹の子供で同年齢とあって、昔から東京でも付き合ってきた。父方の家系は神官であったこともあり、従妹はまだ90を過ぎても湊川神社の仕事をしているとのこと「みんな元気かい」と聞くと、「年は取ってるけど、まだみんな元気だわ」彼は末っ子であって上に姉と兄がいるのだが、姉は京都で今年100歳を迎え、まだ元気で一人で出かけることもあるという。「驚いたね。うちの家系は長生きなのかね」と二人で笑った。不思議なものでそんな会話をしていると、昔の子供頃を思い出す。東京で育った私はその従妹の田舎へ行くと必ずそのおばの所へ遊びに行っていた。叔母はことのほか優しく小さな体を曲げながらやさしく大事にしてくれたことを思い出す。とんぼや蝉取りはその頃の最高の楽しみであった。「おばさんにはとてもよくしてもらったよ」「俺はお袋には叱られたことがなかったよ」そんな会話がいつまでも続き、二人はすっかり昔に返っていた。
「もう二人きりじゃけ、もう少し元気で頑張ろうや」という声に励まされて電話を切った。久しぶりに子供に返って心温まる一時であった。