波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

「病院風景」

2019-03-25 12:27:38 | Weblog
退職したころ急に血圧が上がり、それから爾来血圧の薬の厄介になっている。(測定も欠かせない)それ以来病院通いが始まった。病院での薬は薬局と違って原則1ヶ月分しか出してもらえないので必ず病院へ行かねばならない。お陰で別に体が悪くなくても病院には欠かさず行くことになった。
年齢とともに薬も増えて今では何種類かの薬をそのたびにもらうことになるのだが、診察が原則でそのうえでの処方箋なので月に一回の病院通いは欠かせない行事事項になっている。痛いとか苦しいとか治療を要するのではないので病院での時間はある意味極退屈な時間でもあり、待ち時間も長いのでかなりの忍耐を要する時間になる。来院してくる人の90パーセント以上が高齢者であり、若い人を見かけるとそれは老人の付き添いであるし、子供も親についてくる幼児で患者ではない。杖を突く足の不自由な人、車いすの人患者は様々だが年齢とともに体のどこかに支障をきたしているのだろうと想像しながら眺めている。そんな待合室で「自分は大腸の手術を2回うけた。そして今もその後の様子を検査に来ているんだ」「自分もそうなんだ。体には自信があったのだが、大病をしてすっかり自信がなくなったよ」と語り合う声が聞こえてきた。そして最後に「自分は病気には自信があったが思わぬ病気で病気に負けたと思っている。だからこれからは病気との戦いなのだ」と話し声が聞こえた。私はそれを聞くともなく聞きながら自分はどうだろうかと問いかけてみた。「負けたんだろうか?」私はそうは思わない。年齢とともに肉体は衰えていく。個人差もあり一人一人身体も違うので衰え方も痛み方も違うだろうが何れにしても衰え弱ってくる。そしてその弱さを補うために病院へくることになるのだ。
自然体でそれを受け止め、手当てをしてもらいながら大事に至らぬよう注意しなければならないだろう。
それは戦いではなく補い合いでしかないと思う。必然的な現象でしかないのだからそれを自然に受け止め補うことしかないように思う。
それは生きているものの宿命であり、義務でもあると思う。

「春到来=そして」

2019-03-18 10:53:02 | Weblog
3月も中旬を過ぎると身体ではっきりと春を感じるようになる。春颯を身体で感じながらこれが春なんだとしっかり覚えることができるのが嬉しい。
町内ある桜並木(約60本)を見るとまだ蕾が固くまだしばらくかかりそうだが、この桜もここに移り住んだ頃は下枝が垂れ下がり見事だったが、車の往来に危険があるということで下枝を切り取られその景観が寂しくなったが、それでも花見はできそうで楽しみである。
プロ野球もゴルフもその他のもろもろの分野でシーズン開幕を待つ時期になった。それぞれがオフシーズンを過ごしながら身体を整備しその準備をしてきたことだろう。目指すは今シーズンの「優勝」であることはだれしも同じであろう。そんなわくわくした時を迎えている。
そこでよく考えてみよう。この時期、このような準備と目標をもつのは何も運動選手だけではないということだ。私たち一人一人も(老いも若きも)
同じようにそれなりに準備をしてこのシーズンを最高のシーズンにするために備えなければならないのだ。それはどんな小さい事でもどんなに細やかな夢であっても目標と希望をもって備えたい。そして新しい決意をもって臨むのだ。古人はよくこんな時「願をかける」とか、自分の好きなものを「断つ」ことを心に決めて満願成就をねがうとか、「お百度参り」とかいう習慣もあったが、現在でもそれぞれが誓いを立てて臨むのも悪くはないと思う。
其処だ私もささやかながら心に決めて今年に臨むことにした。(口にすることは厳禁)
優勝とは言わないまでも目標を立て自分自身を律しながら日々を過ごすことに大きな意義があるように思う。人はとかく日々を漠然と過ごしてしまいがちである。それは生かされている人間としてある意味怠慢であるような気がする。
「この歳で」と言い訳せずできることを目標として立てることは誰でも出来ることである。そんな意味で日々を意義あるものにすることを「この春到来」に考えてみた。

「朧月夜」

2019-03-11 09:57:26 | Weblog
駅へ向かうわずか2キロの道筋に向かう途中にいくつかの畑の横を通り過ぎる。すると、そこはかとない少し生臭いような草の花に強く惹かれる。するとそこには一面に菜の花が咲きそろい蝶がそのあたりを舞っているのを見る。私は自転車でそこを通るとき一年に一度の本当の春を体で感じる事ができるのだ。。
この時期になると冬から春の温かさを待ちかねていたように花が咲き始める。しかしその中にあって素朴にひっそりとしかも元気よく伸びそろって迎えてくれるのは菜の花だ。あでやかさも特別な香りも美しさもあるわけではない。しかしその勢いと元気な伸びと香りはほかの花にない力強さと勢いを感じさせてくれる。春はこの花をもって代表されるような気がする。啓蟄をもってあらわされる冬を過ごし新しい息吹が見え始める。
それはオフシーズンを過ごしたスポーツの選手の若さの中にも卒業式を終えた子供たちの姿にも社会人としてのスタートを切る若者のうちにもそれぞれに見え始めてくる。そんな意味で今年も新しい「芽」がいろいろ
な世界で私たちを迎え喜びと希望と期待を持たせてくれるのだ。
そんな思いをこの時にこそ大切にしたい。それは若者だけではない。この世に生かされ用いられれているすべての人が覚えるべきであろう。
世界はいつの時代でも混とんとしてカオスから抜け出せない。しかしその中にあっても人はそれぞれに自分の世界で「平安」を持つことができる。それはそれぞれが多くを望まず与えられた世界の中でいかに自らの「勤め」を全うしそこに喜びと感謝を持つことができるかにあると思う。日本もまた世界の国々とともにその存在を明らかにしていくことになる。その象徴がオリンピックであろうが、このイベントをもって日本が日本であり続けていくにふさわしい成果を上げられるように願いたいと思う。
「菜の花畑に入日うすれ、見渡す山の端霞深かし春風そよ吹く空を見れば夕月かかりて匂い淡し」70年前の子供のころ覚えたこの歌が自然に口に上るのもうれしい。

「鬼の霍乱」のたとえ

2019-03-04 10:12:58 | Weblog
3月に入り春を告げるような柔らかな雨が降るようになった。1月、2月とカサカサに乾燥して降らなかった雨がその地を潤し草花を呼ぶように備えをしてくれるように降る。こんな自然の変化を受けることを本当にうれしく思う。
そんな日々を感謝して過ごしていて最も大事に思っていることは神からの贈り物である大切な身体の保持である。いかに健康を大切に維持していくかは「大切な預かりもの」を壊さないように大切に思っているのだが、先日急に体調に異変が起きて病院へ駆け込んだのだ。救急で手当てを受け検査をしたところ「たんのう」に変調がみられるとのことで手当てを受け薬をもらって休養した。原因はわからないが薬を続けることで体調は次第に回復してきたことはよかったと思っている。こんな現象を」江戸時代の人は」「鬼の霍乱」と言っていたそうだが私はこの意味がわからないでいた。
今では死語のようになり知ouiっている人も使う人も少ないが」、調べてみると「普段健康な人が急に病に倒れるさまを言う」とあったが、まさにそんな感じであった。参考に言えば」かく乱とは」日射病のような突然の原因不明な病を指して言うらしい。
そんなことがあって身近の人を振り返ると数十年来の知人で病気の話一つ聞いたことのない人や、義理の息子や60台の」まだ若い役員が突然の病に」かかり、治療を受けているニュースが入ってきた。
こんなに身近に一度に病気の話を聞くことはないのだがよく考えてみると中年を過ぎて老年に入る年齢に差し掛かると体の変調と異変が起きやすいのかと妙な納得をしてしまう。そしてこんなのを鬼の霍乱というのかなと思ったりしている。
体調が悪くなると食欲はなくなる、何もしたくなくなる、動くことができなくなる。すべてにネガティブになる。まさに空白の時間が過ぎていく。
このことが最大のマイナスである。ただひたすらに体調の回復だけを待つだけのむなしさはやりきれない時間だ
そして健康のありがたさをつくづく思わされた。弱り行く体をいたわりできるだけ無理をしないで大事にしたいと改めて考えている。