退職したころ急に血圧が上がり、それから爾来血圧の薬の厄介になっている。(測定も欠かせない)それ以来病院通いが始まった。病院での薬は薬局と違って原則1ヶ月分しか出してもらえないので必ず病院へ行かねばならない。お陰で別に体が悪くなくても病院には欠かさず行くことになった。
年齢とともに薬も増えて今では何種類かの薬をそのたびにもらうことになるのだが、診察が原則でそのうえでの処方箋なので月に一回の病院通いは欠かせない行事事項になっている。痛いとか苦しいとか治療を要するのではないので病院での時間はある意味極退屈な時間でもあり、待ち時間も長いのでかなりの忍耐を要する時間になる。来院してくる人の90パーセント以上が高齢者であり、若い人を見かけるとそれは老人の付き添いであるし、子供も親についてくる幼児で患者ではない。杖を突く足の不自由な人、車いすの人患者は様々だが年齢とともに体のどこかに支障をきたしているのだろうと想像しながら眺めている。そんな待合室で「自分は大腸の手術を2回うけた。そして今もその後の様子を検査に来ているんだ」「自分もそうなんだ。体には自信があったのだが、大病をしてすっかり自信がなくなったよ」と語り合う声が聞こえてきた。そして最後に「自分は病気には自信があったが思わぬ病気で病気に負けたと思っている。だからこれからは病気との戦いなのだ」と話し声が聞こえた。私はそれを聞くともなく聞きながら自分はどうだろうかと問いかけてみた。「負けたんだろうか?」私はそうは思わない。年齢とともに肉体は衰えていく。個人差もあり一人一人身体も違うので衰え方も痛み方も違うだろうが何れにしても衰え弱ってくる。そしてその弱さを補うために病院へくることになるのだ。
自然体でそれを受け止め、手当てをしてもらいながら大事に至らぬよう注意しなければならないだろう。
それは戦いではなく補い合いでしかないと思う。必然的な現象でしかないのだからそれを自然に受け止め補うことしかないように思う。
それは生きているものの宿命であり、義務でもあると思う。
年齢とともに薬も増えて今では何種類かの薬をそのたびにもらうことになるのだが、診察が原則でそのうえでの処方箋なので月に一回の病院通いは欠かせない行事事項になっている。痛いとか苦しいとか治療を要するのではないので病院での時間はある意味極退屈な時間でもあり、待ち時間も長いのでかなりの忍耐を要する時間になる。来院してくる人の90パーセント以上が高齢者であり、若い人を見かけるとそれは老人の付き添いであるし、子供も親についてくる幼児で患者ではない。杖を突く足の不自由な人、車いすの人患者は様々だが年齢とともに体のどこかに支障をきたしているのだろうと想像しながら眺めている。そんな待合室で「自分は大腸の手術を2回うけた。そして今もその後の様子を検査に来ているんだ」「自分もそうなんだ。体には自信があったのだが、大病をしてすっかり自信がなくなったよ」と語り合う声が聞こえてきた。そして最後に「自分は病気には自信があったが思わぬ病気で病気に負けたと思っている。だからこれからは病気との戦いなのだ」と話し声が聞こえた。私はそれを聞くともなく聞きながら自分はどうだろうかと問いかけてみた。「負けたんだろうか?」私はそうは思わない。年齢とともに肉体は衰えていく。個人差もあり一人一人身体も違うので衰え方も痛み方も違うだろうが何れにしても衰え弱ってくる。そしてその弱さを補うために病院へくることになるのだ。
自然体でそれを受け止め、手当てをしてもらいながら大事に至らぬよう注意しなければならないだろう。
それは戦いではなく補い合いでしかないと思う。必然的な現象でしかないのだからそれを自然に受け止め補うことしかないように思う。
それは生きているものの宿命であり、義務でもあると思う。