波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

「2018年を顧みる」

2018-12-31 10:12:21 | Weblog

今、私の机の上に4冊のノートがある。今年一年の日記だ。その1ページずつをめくりながら静かにこの一年を思い返している。人は年齢とともにその日のことを忘れて過ごしていくが、日記を見ることによって、その時々の出来事や忘れていたことを思い出すことができる。そしてそこから感謝と反省が生まれてくる。今年はそんな意味では様々なことで大きな変化があった。一つは7月から始めた作業である。自分が老年で何もできないと思い込んでいたが、まだ出来ることがあることを再確認できたこと、そしてそこから新しい自信と勇気を与えられたことだ。勿論そこには「一人KY」の注意が大切だがそれは同時並行的に守られている。その前に一年間健康に恵まれて過ごすことができたことが感謝である。そして家族の一人一人が、成長を知らせてくれたこともある。息子、娘そして孫とそれぞれに成長してそれが行動や言葉に生かされていることを確認出来ることが嬉しい。何もできなくても子供は親の責任にあることが頭を離れない。子供の言動で自分の果たしてきた責任が問われていると思わざるを得ない。普段会うことも話すことはなくても時折かかってくる電話の言葉や出来事でそれは感じることはできる。そしてそこから心の平安を得ることができるのだ。年々神の身許に近くなることを願うようになり、今の自分が「生きている」意識から「生かされている」意識に変わりつつある。そこから現在の自分の置かれているふ意味が分かってくる。一日をどのように生きるか、無駄のないように大切な時間としてどのように過ごすか、それが一日の課題となる。現在は情報の時代である。TVを通じて知らされる世界の情勢や日本の置かれた状況も詳しくわかる状態だ。不思議なものでTVの番組も見るものが昔とすっかり変わっている。スポーツ番組を除けばあとは世界のあちこちを紹介するものに惹かれている。そして世界が一つであり、日本人であることの幸せを細やかに感じている。年々正月感も遠くなりつつあるが、元気で新しい年を迎えられそうだ。来年もより一層それなりに成長出来たら真の「平安」に近づけると思いながら今年を感謝しつつ過ごしたい。


「今年のクリスマス」

2018-12-24 13:53:50 | Weblog

2018年度のクリスマスを元気で迎えることができた。私にはお正月よりもクリスマスのほうが身近に感じる。小さい時からこの日の思い出はいっぱいあり、毎年その時の記憶が刻まれるからだ。クリスマスといえばサンタクロース、サンタといえばプレゼントとつながるのだが、2018年という暦の記号がキリストの誕生にあることを改めて覚えたい。キリスト教、イスラム教、仏教の三大宗教のうちでもトップであることもその影響が大きいことがわかる。キリストが生まれたとき厩に三人の博士(星占い、夢占い他)がいたという。そして彼らは夫々の宝を差し出したといわれている。それはその人の持つ最も大事なものということでその宝を差し出すことに意義があるとされている。プレゼントに気が進みやすいがかなり厳粛な意義があることも知っておきたい。私のクリスマスの思い出はサンタクロースだ。12歳になるまでサンタが大きな袋にプレゼントをもって自分のところにも届けてくれることを信じて、前夜は眠れぬ夜を過ごしていた。そしてクリスマスの朝、プレゼントとカードのメッセージがあり、それを読むのが楽しみだった。何時かそれが母の手によるものであると分かったとき、サンタが両親であり、親こそがサンタだと改めて喜んだことを今でも覚えている。しかし分るまでの間のサンタの夢は今でもクリスマスのたびに思い出して懐かしい。人それぞれに今年もクリスマスを迎えたことと思うが、クリスマスが単なるプレゼント交換会にならないよう意義のある一日にしたいものだと思う。


「年末」

2018-12-17 10:46:06 | Weblog

今年も間もなく終わりになる。人生を一つの区切りで考え年が改まるということは大きな意味があり、いろいろな意味で意義を考えることができる。そして昔からの行事もそれぞれに意味があり、日本ではいろいろな風習があることを改めて考えさせられる。年末の行事で先ずあげられるとすれば大掃除であろうか。普段も掃除はしているが、なかなか手の届かない所を年に一度行うことはやはり意義があるし、大切なことでもある。また人間関係においても普段忘れていた交わりのある人のことがわかる時でもある。その年に亡くなった人の訃報が何通か必ず来る。仕事やその他の行事でお付き合いをしていて仕事を辞めて、その後の消息が年賀状でしか知ることができないようになってその消息を知りたいと思っていると、知らぬままに亡くなっていて知らせを受ける。そして当時を思い出し懐かしく思うのも年末の事である。そして新しい年を迎える準備をするのも、この時期の大事な行事であろう。昔なら「酉の市」で縁起物の飾りを買う人がいたりお餅つきがあったり、お正月の買い物であったり、何となく心がうきうきしてお正月を迎える気持ちになるものだ。それは休暇があるということとその時期に予定している様々な楽しみに期待が膨らんでいるからだろう。しかしそれらは若い人であり、一部の経済的に余裕のある人の世界かもしれない。私たちの高齢者には「めでたくもあり、目出度くもなし」というか、普段通りの一日でしかない。むしろ行事があることが重荷にすら思われる気もする。しかし素直に喜んで迎える準備をあらすべきであろう。生かされて長生きできることはそれはそれで楽しみや喜びが待っているということでもあるからだ。年末は一つの区切りであり、心を改めて新しい出発の時として心得るべき時であろう。大切にまたその意義をかみしめて過ごしたいと改めて考えている。

 


     「木枯らし吹く」

2018-12-10 11:09:15 | Weblog
12月に入り,少し暖かい日が続いたが昨日から最高気温が10度を割り冷たい風が吹く冬らしい日になった。いよいよこれから3月のお彼岸ころまでの3か月寒い日が続くことになる。この四季の変化を身体で感じると、いつも思い出すことがある。それは若いころ仕事で行っていた東南アジアである。台湾をはじめマレーシア、シンガポールなどでは四季がない。毎日27度ぐらいの暑い中での生活が続くのだ。そんなに長く生活したわけではないので実感はないが一年中暑いままでの生活と四季のある生活では何事につけても考え方や行動も変わることだろうと漠然とその影響を想像したものであった。そんなことから嘗て人間はみな同じ言葉を使いその結果バビロンの地に煉瓦とアスファルトを使って天まで届くほどの塔を建てようとして神の怒りを買い、人間の言葉をバラバラにして世界中に散りじりにされたとあったが(バベルの塔)この物語は知恵のついた人間のに多様性が生まれたと考えてもよいのであろうか。
そう考えると日本の四季も春、夏、秋、冬と移り行くごとに生きざまを変え、その対応を喜び、楽しみ、また耐えながら自然にその変化を乗り越えてきたと思う。もし四季がなければその必要がなく
自らの考えだけで生きることになり、そこには自分中心の考えが強くなるようにも思われる。
神は言葉を世界中でバラバラにして、それぞれの良さや違いを人間に植え付けてそこからお互いの良いところと悪いところをそれぞれが学び、取り入れながら生きることを教えようとしたのかもしれないなあと木枯らしの吹く寒い季節にこの世界は紆余曲折を経ながらも神の目論見通りに進んでいるのかもしれないと楽観的に人生を考えることにしようと思う。

「一人kyTってなに?」

2018-12-03 09:51:35 | Weblog
先日シルバーセンターから「講習会を開くから参加してほしい」との連絡があった。今更という思いと面倒くささが二の足を踏ませたが、久しぶりに仕事を親切に紹介してくれた担当者の人に挨拶をしたいと思うことと運動を兼ねて出かけることにした。参加者は選抜されたかのように少なくわずか10数名で何れも高齢者だったので、(欠席者もあり)参加してよかったと思いながら席に着いた
名簿には職種も書いてあって何れも植木剪定、除草とか駐輪場とか特殊な仕事についている人が多く、私のようにポステングなどは一人だけだった。初めて聞く「kty」とは「危険、予知、トレーニング」の略だそうで一つの訓練として各職場ではに何処でも行っているらしい。講師によって
型通りの説明を受けた後二つのグループに分かれてモデルテーマを設定して「危険事項、対策事項、重点事項などを作成し、それを全員で指差し点呼を唱和して終了した。
帰途歩きながら、何か役に立ったのかなあと思いながら「一人暮らし」の現在の生活を考えていて
ふと頭に浮かんだことを思い出した。朝起きた時に」電気の消し忘れ、エアコンの消し忘れ、電機、ガス、鍵などいくつかの危険予知につながる事項が経験的にあったことに気がついたのである。
正にこの事だ。危険予知は一人暮らしには最も大事で守るべき事項であると気が付かされたのである。出かける時。寝るとき、とにかく常に身の回りのことを自らが一人で指差し確認をして「全て良し」と声に出して確認する癖をつけておく必要があるのだ。
統計資料でも高齢者になるほどその事故件数は増加しているし、年々増加傾向にある。内容も転倒事故が最も多く火災までに及ぶことも分かった。
馬鹿にしながら(そんなことは分っている)と軽く考えていた自分を戒めながら、今日の学びをこれから生かしていかなくてはと心に刻んだのである。