波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

「嘘つきと呼ばれて」

2020-02-24 10:37:26 | Weblog
人は誰でも自分がかが付かないことを言われて初めて気づくことがあることを経験したことがあるのではないでしょうか。私もある時、ある友人から『君は嘘つきだ」と突然言われたことがある。それはいつまでも耳に残っていて今でも思い出す。その友人は私の交わりの中でも最も信頼し、親しくしていた人だっただけにそのショックも大きくいつまでも残った言葉だ。そしてそれは今でも消えない。「何故か。」「何を言ったのか」『何をしたのか」もわからない。彼もあえてそのことには触れてこなかった。その友人とは同じ会社で働きよく話していた。当時日本は海外進出を盛んに行っていた時であり、二人はよく自分たちも海外へと進出をしたいと機会をさがしていた。そしてチャンスが来た。台湾から技術協力の依頼を受けたのだ。私は彼にその話をすると彼は大賛成で会社の反対を押し切って台湾へと出向いたのである。私はそのことで会社には少なからず迷惑をかけたが、海外へのとっかかりをつけて会社としては飛躍の機会としていた。
時は過ぎ、時間は流れた彼は体を痛めて帰国して日本での家業についていたが、(自営業)ある日転倒して頭を打ち、入院となった。夫人からの知らせて危篤を知らされて見舞いに駆け付けたが、すでに話もできない状態であったが、手を取り固く握ると言葉にならないうなり声をあげて答えてくれたことが印象的であった。きっとわかってくれたことと信じている。そして彼との別れをしたのであるが、最後まで彼との信頼関係をつなぐことができたことをうれしく思っている。
しかし、彼からの「嘘つき」の内容は知らないままである。大事なことは人は嘘をつくこともある。まして人に迷惑をかけることがあることをしっかり覚えておきたいと思う。そしてそういう人間だからこそ常に注意して言語、行動に気を配ることを覚えて謙虚でありたいと思うのである。私は彼から私の欠点である軽率な言動について大きな警告を残してくれたのだと今でも信じて感謝している。

「反動期」

2020-02-17 10:19:21 | Weblog
人というものは本能的に動くものとされるところがある。普段の生活であれをするなこれをしてはいけないと抑圧されていると何かでそれを爆発させるとことがある。新聞広告で募集を見たとき応募したのはまさに本能的な行動であった。幸い何も言われずに合格通知が来たときは飛び上がるほどうれしかった。厳しい兄からの解放と好きなことができることの喜びが味わえることで自分の抑圧されたものが解放されるからだ。仕事が終わって疲れていることも忘れて放送局へ駆けつけていた。最初はアナウンサーによる指導講習で基本を学ぶことから始まる。そしてその月の帯番組の録音を構成する。その時は出演できる人が選ばれて台本を渡されるのだが、新人にはその機会はほとんどない。しかしそんなことは気にならなかった。ひたすら練習とその時間を楽しむことだけに夢中になることができた。そしてその時が来たのである。60年前に録音されたオーブンリールが今でも残っているが、それを聞くたびにその未熟さが恥ずかしい。然しその時はまさに有頂天で自分で何を話したかも忘れている。ただマイクを前に女性の声優さんと二人でその場面の会話をしたことは覚えている。
その瞬間の時間だけが青春であった。女性との付き合いはおろか、話も何もしたことがない青春時代で人生初めてのはじけた時間であった。3年間はむちゅうであった。上京して所帯を持ち仕事をすることがなかったらそのまま続けていたことだろう。然しその3年間の思い出は一生忘れないもので残った。
そしてその時出演した何本かの放送劇の役は懐かしい思い出として残っている。(東京ではできないれぼるのものであったが)
「目立ちたがり屋」の本能はこんなところでも出ていたのかもしれない。

「自分自身を見つめることの大事さ」

2020-02-10 10:58:19 | Weblog
「目立ちたがり屋」の一言は私自身を気づかせてくれた大きな一言だった。私自身が自分をわからずに生きてきたことをいまさらに気づかされたのである。
しかしこの年齢になって少しでも何が大切であり、人間としてどうあるべきか、少しでも良い人間としての人生を歩みたいとの思いが日々強くなる。
そんな中で自分の人生を振りかえさせられている。国民学校私の言いっていた浜町で3年生の頃のことである。朝礼の時間は運動場に出て全員での朝礼と訓示があった。その時クラスごとに一列に並ぶのだが、成績の良い「級長」と呼ばれるものが先頭に「副級長」と呼ばれるものが列の最後尾に立つのが決まりだった・
私はその役がしたくてしたくて仕方がなかった。成績の悪い自分では到底回ってこないものとあきらめていたある日、担任の先生から、授業のあと残っているように言われた。「何か悪いことをして叱られるのか?」と胸をどきどきさせながらまっていると、「今度副級長にしようと思うのだがお前できるか」と言われた。体も小さく貧弱な私には荷が重いと心配した先生の言葉だった。「できると思います」震えるような声で答えた自分がそこにいた。そしてその日が来た。最後尾に立って指差し確認をした時の感動はこの年になった今でも覚えている。私の眼立ちたがりはこの時から始まっていたのかもしれない。それからの人生は真逆のコースを歩き始めた。家のしつけは厳しく親の言うことは絶対服従であったこと、学生時代(大学)は10歳離れた兄の軍隊形式の厳しい規律の中に置かれて学校、家のほかには家事、仕事以外には自由時間のないある意味軍隊生活まがいの10年間だったので、青春時代はなく、もちろん恋愛も、何もなかった。唯一許されたのは教会への礼拝へ行くことだけだった。そんな日々の中で与えられた女性との結婚はかなり重いものであった。親同士で進められていた結婚は内容とは違いうまくいくはずもなく一か月も過ぎないままに破綻、。そんな中で一筋の光が差した。それは新聞広告に出ていた「放送劇団員募集」の記事であった・目立ち互い屋の私は無意識に飛びついていた。

「目立ちたがり屋」

2020-02-03 10:08:11 | Weblog
二人はかなりの老人である。一人はすでに80歳を過ぎもう一人も70歳を過ぎている。この二人の間には既に50年以上の時間が過ぎている。二人の関係には不思議な縁があった。一人は福島から上京してきて初めて家庭を持つ若者であり、一人は青森から集団就職のために中学を卒業と同時に上京してきた少年であった。たまたま二人の住んだところが下町の駅前で近くであったこと、家庭を持った男の妻が福島の人であったことであり、子供が生まれたころから近所付き合いで遊びに来ていたのである。主人は下町生まれで仕事の関係で福島から嫁を連れて上京してきたのだが、知人のいない者どうし、親に頼れないもの同士の慰め愛も生まれていた。
いつの間にかその二人の間には不思議な信頼関係も生まれ、日々の出来事を話し、悩みを話し、相談事を語り合うようになっていた。
家庭を持った青年は自分の仕事に精を出し、、若者は仕事の合間に勉強をして資格を取る準備をする。そんな日々を過ごしているうちに二人の生活も成長していったのである。やがて若者は世話になった店を出て、自分の店を持つようになり、独立することができた。そして家庭を持つ年齢を迎えていた。すると年上の男に縁談の依頼が来た。早速、間を取り持ち二人を結婚へと進め、家庭を持たせることができた。そして二人の間には少し距離が離れていったが、その信頼関係は最初のまま
続いていた。若者はいつの間にか良い二人の父親になり、家庭を持っていたし、幸せそうであった。
最近は二人が会って話し始めると、必ずその中で「おとうは目立ちたがりだから」という言葉が出てくる。50年の付き合いで長く見てきた人の言葉である。
その言葉を聞くたびに80歳の男はしみじみと感慨にふけるのである。