波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

コンドルは飛んだ  第54回(最終回)

2013-05-30 09:38:08 | Weblog
ボリビアへ帰る友人がいることを聞いた辰夫は身体を厭いながら成田へ向かった。これが最後の仕事になるかもしれない。カミラへの手紙と形見になるかもしれない品物の数々を託すためであった。階段を昇り降りするのも苦しい状態であったが、これだけは自分でなければとボンベを片手に歩いた。友人に無事にその荷を託し終えるとほっとしたのか、急に疲れを覚えた。椅子に座ってしばらく目をつぶり身体の状態を確かめる。そして呼吸を整えるとそろそろと歩く。こうして無事に帰宅することが出来た。
そしてその年の暮れがやってきた。(2011年12月31日)定例の庭の掃除を片付けると久子と二人だけの大晦日を迎えた。「チャコ、風呂は沸いたかな。今日はゆっくり入りたいね。」体が不自由で思うように洗えないチャコの体を洗ってやり二人は、その年の疲れを取った。風呂から上がると辰夫は「チャコ、今日は爪もきれいにしようね。」というと、爪切りでチャコの足の爪をきれいにしてやる。
翌日は元旦だ。「今年も正月を迎えることが出来たね。」二人で炬燵に足を入れて雑煮を祝いその日を静かに過ごすことが出来た。
早めに寝ることにした二人はそれぞれ床に入った。そしてその夜半、久子は苦しげに唸る辰夫の声で目が覚めた。ふすまを開けて辰夫の様子を見ると辰夫は布団の上に立ち上がって両手をぐっと握りしめて立っている。「大丈夫」と声をかけるが、返事はない。
その内、そのままバタンと布団の上に倒れた。急性の心停止だった。
辰夫はそのまま帰らぬ人となった。辰夫の魂はそのまま、ボリビアへ飛び立った。
その瞬間まで辰夫は普段と変わらぬ様子であった。体調は決して良いとは言えなかったが、寝込んで介護を受けたり治療をすることはなかった。薬は欠かさなかったが、人の世話になることもなく、病人の生活ではなかった。元旦の雑煮も久子と二人で食べることが出来た。何も変わらぬ一日を過ごすことが出来たのだ。
そしてその天寿を全うしたのである。
今、彼の心はアンデスの山脈の連なるボリビアの高原を悠々と飛んでいることだろう。
それは地上におけるこまごまとした欲望ではなく、果てしない宇宙への飛躍かもしれない。私の耳にはその姿にアンデス民謡の「コンドルは飛んでゆく」が、あのケーナの悲しげな音色と共に聞こえてくる。


一年間、ブログをお読みいただいたみなさんに改めてお礼を申し上げます。
忘れられない人の生涯を、私の独断で書かせてもらいました。

思いつくままに   「去来苑」

2013-05-27 15:39:52 | Weblog
箱根の塔の沢温泉に道筋に「去来苑」と言う宿があった。(現在は実在しているか不明)嘗て著名な作家の柴田錬三郎氏がこの宿であの有名な「眠狂四郎控」を書いていたとも言われていたが、誰かの紹介で教えられ湯本駅から歩いても近いとあって、何回か仕事仲間と利用したことがある。こじんまりとして地味な建物のため、うっかりすると見逃して通り過ぎる程でであり、収容人員もおそらく20人程度ではないかと思われるほど小さい。詳しいことは知らないが、ある東京の金持ちが趣味として作ったとされ、あまり金儲けを目的としたものではなさそうであった。
玄関を入ると正面にガラス越しに小さな庭が目に入る。よく見るとそれは吹き抜けの床の間のような庭であり、見事な白砂には一羽の鶴が置かれており、その鶴に光線が差し込みまことに風流な雰囲気を醸し出している。各部屋も静かなたたずまいで決して派手さもぜいたくさも感じさせないが趣味の良さがわかる、かなりこった材料で一つ一つが作られていた。全体が黒を基調にしてあるのもその宿の重厚さを増していた。
人は毎日朝起きると一日の予定に取り組むことになる。(前日に予定は準備されていると思われる)もちろん食事を含めた生活時間が構成されていて、その中には「自分の時間」としての時間は自分にとって有効に使える大きな喜びであり、楽しみでもあろう。
それが読書であれ、「物書き」であれ、何でもよいのだが、静寂の中で過ごす自分の時間は貴重であり、自分にしかわからない不思議な喜びを感じることもできるだろう。
それは置かれた環境がどんなささやかなものであっても、そのような時間を持つことが出それば上記の先
生方と同じ喜びと満足感を持つことが出来ると思うのだ。
昔会社員として生活を過ごしているときは、まさに機械のねじの一本としての役目であり、そのねじとして油を差されながら四六時中動かされ、一年を無我夢中で消耗していたことを思うと、考えることも、感じることも味わうことも感動も知ることなくひたすら
動き回り止まらないことだけが、生きがいだったのだ。
今の時間こそ本当の時間であり、自分のものでありながら自分だけのものではない時間にも思える。だからこそ楽しみながら、喜びながらしかも自分のためだけでなく、自分を取り巻く隣人のことも考えつつ一日を過ごしたいと思っている。
この世の生活で過ごしながら「今日は一日本当によかったなあ」と心から感謝できる日を
少しでも多く過ごしたいものである。
ただ嬉しいと思うだけでなく自分の行ったことに自分自身で深い満足感を覚えることが出来るような一日であれば、尚更にぐっすり眠ることもできると思うから

 コンドルは飛んだ  第53回

2013-05-23 09:41:02 | Weblog
辰夫はあきらめなかった。数日後担当医の時間を予約し、出かけて行った。「岡本さん
本来は告知は難しいことで出来ないことだが、特別な事情もおありのようなので申し上げます。これは一つの目安で必ずこの時間と言う保証はありません。そのことは承知してください。あなたの場合は今後2年と申し上げます。」「ありがとうございました。分かりました。」辰夫はあまり動揺することはなかった。覚悟が出来ていたとは言えないが、あきらめと年齢(80歳)からしても止むを得ないという思いもあった。
彼には身体が動く間に済ませておきたいことがあった。その一つ、一つを良い状態で済ませておきたい、その為にだけ専念していた。身体は相変わらず、気だるく呼吸も楽ではなく、酸素ガスポンプは手放せなかった。
岡山にいる、専務の山内に電話をした。今は前の会社ではなく、親会社の仕事についていたが岡本の電話を受けると「暫くですね。上京できる日が決まったらお知らせします。その時は東京の営業所長だった木村さんも呼んで三人でお会いしましょう。」と言った。
彼にとって、三人で再会することは定年を迎えて始めてであり、終わりになることを知っていた。そしてほどなくその日が来た。
三人の再会はシンガポール工場が出来てから、かれこれ20年が過ぎようとしていた。
「内山君、あれからシンガポール工場はどうなっているかね。」「シンガポールは昨年閉鎖が決まり、現在その最後の終了作業に入っています。」「そうか。俺はあの仕事で会社に無理を言ってかなりの投資をしてもらったんだが、その収支はどうだったんだろう。」
「お陰様で終了時点では減価償却も終わり、最終決算では黒字も出ています。安心してください」「そうか。それを聞いて安心したよ。大きな金を使ったので、ずっとそのことが気になっていてね。そうだとすれば、君たちのおかげだ。君たちがいなかったら、あの仕事は出来なかったし、成功していなかっただろう。」そう言うと岡本は少し苦しそうにボンベを口にした。彼の一つの仕事は終わった。
後は今はチリーで家族と暮らしているカミラのことだった。出来ればもう一度会いたい
そしてボリビアの地を踏みたい。この思いは変わらず、ずっと彼の胸の内にあった。何度かその思いを果たそうとしたが、発病してからはどうにもならないことを悟った。
日本へ呼ぼうと久子と相談をして手配をしたが、現地の手続きでどうしても許可が下りず
諦めざるを得なかった。

思いつくままに 「入ってきて、出ていかないもの」

2013-05-20 09:09:09 | Weblog
やっと風薫る5月らしいお天気が続くようになった気がする。スポーツ界もいよいよ本格的にシーズンを迎え熱気を帯びている。私も雑用をこなしながら「頭休め」と称して
気晴らしを兼ねてTVを楽しんでいるが、その中でどのスポーツであれ優勝者のインタビューを聞いているとどの選手も一様に「嬉しい」とその喜びを爆発させている。
確かに本人の気持ちはそのままその通りだと思う。ある時、アメリカの新人ゴルファーが優勝した時のコメントはその中でとても違っていた。彼は全くの新人でしかもその試合には出場資格がなかった。偶々欠場者が一人出たために補欠であった彼が出ることが出来たのである。そしていきなり優勝して賞金120万ドルを手にしたのだ。(もちろんそれまでに下部組織のツアーでの実績はあったのだが、)
アナウンサーがマイクを向けると彼は冷静に答えた「マネーは単なるマネーに過ぎない。
入っても来るし出てもいく。だけど優勝は違う。手に入れた優勝は出ていかず、永遠である。~」このコメントを聞いて人はマネーを稼ぐことを主で考え、その価値に左右されて
生きていることが多い中で、そうリッチとは言えない状況にありながら、冷静にマネーは
単なるマネーで人生における目的ではないと看破していることを知って、22歳の若さでこんな若者もいることを知った。
人生には様々なことが日々起きている。まして良いことと思われることよりも自分が望んでいないことのほうが多い毎日である。その中にあってどのように考えながら生きるかと考えるとき、その大事な目的と根拠をどこにおいて人生を過ごすかは、その人の生活を大きく左右することになると思う。
「マネーはたんに入ってきて、出ていくものだ」と割り切ってもっと大切なものを追い求めようとする、この若者の言葉に教えられた思いだった。
先日は長い友人と定例の「ランチタイム」の時間を持つことが出来た。
お互いに健康を気遣いながら、昔話を中心に気晴らしをしているが、その中で一人の共通の友人がいた。彼は普段、着るもの、食べるものに一切拘ることをしなかったが、ある時、4人でマージャンをしている時、隣に座っていた友人に静かに言った。「さっきからお前の足が俺の足の上に乗ったままなんだが、何とかなるかね」落ち着き払った彼の
その大人ぶりに大笑いをしたのだが、そのパイの動きも囲碁を打つ如くに遅かったのも
彼らしいものだった。

 コンドルは飛んだ  第52回

2013-05-16 10:02:43 | Weblog
定年後、自宅で過ごすようになった辰夫の生活は変わった。朝は相変わらず早く庭に出て掃除をしながら手入れをする習慣は続いていたが、やはり自分に託された仕事がないことは心身に緊張感が失せ、やはりリズムが変わっていた。
ボリビアのカミラに近況を知らせる手紙を書いて、銀行へ行き送金を続けることは変わっていなかったが、今の状態では30時間を要して現地を訪ねることは無理だった。カミラを日本へ迎えることも真剣に考えてリフオームまでして準備を整えたが、先方の出国許可が
下りない。何とか手を尽くしたが、それも叶わず断念せざるを得なかった。
体調に異変を感じたのはその頃であった。
大学病院での検査は慎重を極め、何回かの診察の結果下された病名は「肺がん」であった。かなり進行しているが、治療の方法がないわけではなかった。しかし80歳を過ぎる年齢では「手術治療」は不可能であった。後は放射線による治療と薬物治療であるが、薬物治療には限界があった。止む無く放射線治療を行うことにしたが、これも制限があり、
2回まででそれ以上は効果も薄く、体力的にも良くないとのことであった。辰夫はここに至っても、自分的には深刻に考えることはなかった。
出来ることはして、あとは天命を待つという心境を保つように努めていた。一回目の治療の後、奇跡的に体調はびっくりするほどの回復であった。
健康であった時の気分を辰夫は久しぶりに味わうことが出来たし、明るい気分を持つことが出来た。しかしその時間はそんなに長くはなかった。半年もすぎると再び、胸の苦しさと呼吸困難が襲ってきた。医者と相談のうえ、二回目の放射線の治療をすることになった。
身体の状態は一回目と同じ経過をたどり、再び元の状態になってきたことが分かった。
辰夫はそのころ、だれに相談することなく、ある決心をしていた。
定期の診断と検査が終わると主治医の医者に唐突に聞いた。「先生、私の余命としてはあとどのくらいと考えたらよいでしょうか。」予測していない突然の患者の質問に医者のほうも面食らった。「岡本さん、急にそんなことを言われても、そんな大事なことを簡単には申し上げられません。」「確かにそうかもしれません。しかし私にもいろいろ考えがあって、助からないのであれば許されている時間が知りたいのです。」
二人の間にはしばらくの間沈黙が流れた。やがて医者は「原則、告知については守秘義務もあり、申し上げられません。しかしあなたの希望はお聞きしました。よく相談のうえで検討します。」

思いつくままに  「母の日」

2013-05-13 10:53:31 | Weblog
今年は久しぶりに5月らしい晴天に恵まれて母の日を迎えることができた。(この所天気が不順だったので、)恐らく全国の家庭でも家族そろって、この日だけは気持ちを合わせて食事をしたり、プレゼント又は行楽とその絆を感謝の思いを持つ時間として共有することが出来たことだと思う。その時間がその時だけだったとしても、そして僅かな短い時間であったとしてもその時間は貴重であり、平安な時間をもたらしたことだと思って嬉しくなる。
然し、この「母の日」はいつごろから日本でこんなに盛んな行事として行うようになったのだろうか。この日、東京のある教会の日曜学校を覗くとそこでは母の日の礼拝が子供たちとその父兄が大勢集まって行われていた。その行事の中で母の日が今から100年ほど前にアメリカの大統領だったW.ウイルソン大統領によって制定された正式な祝日であるとの説明があった。その由来はあるクリスチャンの女性の母が自分の母の大好きだったカーネーションの花をその母の亡くなった日に捧げたことが、きっかけであったとあった。
日本で行われるようになったのは、まだ日が浅いことだと思われるが、今や日本でも全国的な行事として広まっている。
時代は変わり、人の考えも移りゆく中にあってその流れるままに生きるのではなく、こうして一つの行事を通して家庭を、家族をそしてお互いがお互いを思いやり、人があって
自分がある、自分は一人であって、一人ではない。誰かによって支えられ、助けられ、守られていることに気づかされることは大切であり、大事なことだと思う。
そんな事を思いながら棚に飾ったままで忘れかけていた亡き母の写真を眺めて思い出していた。正直母の思い出は自分にとって厳しいばかりで、優しい包み込むような愛情は感じなかったが、それなりに可愛がってもらったのだと手作りの「岡山の祭り寿司」を思い出していた。
夕方になって玄関のブザーが鳴った。「田舎から送ったきたから、おすそわけだよ」手には柏餅ならぬ「山形の名産チマキだんご」を持った隣のおばあちゃんが立っていた。
思いがけない母の日のプレゼントのおすそわけに預かることが出来たのである。

 コンドルは飛んだ  第51回

2013-05-09 08:52:27 | Weblog
大会社の古い歴史の上にある伝統はなかなか変わるものではない。歴代の社長のいすに座る人も結果からみるとある定率のうちにできているようで、その大学もほぼ決まっていて
ランダムに選ばれるわけではない。そして技術系、文系とその専門もほぼ均等に代わっている。この事は暗黙の不文律であり、守られている。そんな中でその組織の中にある役員人事も同じ傾向があった。辰夫はそれを知らないわけではなかったが、自分がその中に選ばれることを願い、また成れることを信じていた。
「残念だが、賛同を得ることができなくてね。役員として迎えることはできなかった。しかし、監査役として本社へ帰ってもらいたい。」常務は少し申し訳なさそうな表情で辰夫の顔色を窺った。
話を聞いて正直期待が大きかっただけに落胆もあった。しかしそのことに異論をはさむこともない。「ご配慮ありがとうございます。監査役としてお受けします」と頭を下げた。
岡山での仕事と任務は終わった。約十年ほどであったが、不自由な生活をしながらもその任務はやり遂げた思いだった。
社員の主だった幹部との別れもそこそこに辰夫は帰京した。そして最後の任務としての本社勤務となった。それは彼にとっては満たされるものではなかったが、生真面目な性格は昔と変わらず、時間前の出社、そして熱心な書類精査、疑問点の確認、調査と仕事としてはすべてに真剣であった。そして二期(4年)が過ぎた。
彼のサラリーマンとしてのすべては終わった。
そして家庭に戻り、久子と二人の生活に戻った。思えば長いようで短かった気もする時間であったが、彼にはいつも全力投球の満足感でいっぱいだった。
「家庭の人」になっても彼の行動は変わらなかった。朝は早く起きると庭の手入れに始まり、予定している私用の仕事を敵パイ処理していく。特別趣味があるわけではないので、基本的には遊びはない。久子がリュウマチで体が不自由なので、買い物も手伝う。
月に一回の「ボリビア会」の集いに出かける。そんな毎日だった。
唯一の楽しみは久子を交えて近所の人たちとの家庭麻雀だった。旅行や遊びがなくしいて言えば、好きな「うなぎ」を注文で食べることぐらいだった。
そして彼にすれば、久しぶりの平安な時間を過ごしていた、ある日身体の異変に気が付いた。いつもよりも体がだるく、熱っぽい。珍しく病院の診察を受けてみようと思い立った。

思いつくままに  「口は災いの元」

2013-05-06 11:47:10 | Weblog
毎日の生活で、一日一言もしゃべらないことは滅多にないことだろう。女性はそんな時でも独り言を言ったり、歌ったりして何らかの発散をすることが多いと聞く。
しかし高齢になるにしたがって話をする機会が次第に減るのだが、そんな人でも「話す」ことは「ボケ防止」にもなるということで奨励されているくらいだ。しかし、これが過ぎると「おしゃべり」と言うことになって、あまり良い印象を与えないことになる。
むしろ、あの人は「おしゃべりだから気を付けて」と言われると「軽い」という意味で
却って注意人物とされてしまうことが多いし、逆にあの人は「口が堅いから」と言われればその人の信用度を増す意味になる。そんなわけで「言葉」と言うものが如何に人間関係において大きな影響を与えたり、左右することがあるかと言うことを改めて噛みしめるべきであろうと思っている。
しかし、総じて女性の間では気の置けない者同士でのおしゃべりがストレス発散であり、気晴らしになることから、日々欠かせないものとなっている。
男性はと言うと「沈黙は金」だとばかりに口を真一文字に閉じて武士のごとき姿を理想とするところがあったが、今はそのおかれた立場やその任務にもよって、そうもいかない場合も多くなっているようだ。「しゃべり」を職業としている人はその意味ではその為の
訓練や準備がなされていて、どこからも批判を受けることのないようにしている。
でも普段の生活では気楽にその場の雰囲気に合わせて話すことも多く、ともすれば
「あんなこと言わなければよかった」と後悔するような「場違いなこと」や「他人を批判するようなこと」ことも言ってしまい勝ちである。そして人の悪口ほど聞いている人の
関心と興味をそそるものはないかもしれない。
若気の至りで私自身も若い時から人一倍おしゃべりであったことで「言わなくても良いこと」を散々言ってきた。その功罪はと言うよりは、その罪科は数知れないのだが、その事を言った本人はすっかり忘れていて、たまたま昔の友人から「君にこんなことを言われたよ」と言われて赤面することもしばしばである。事ほど左様に「ドイツ人は考えてから歩き始める」と言われるように考えてから話す習慣があるかもしれないが、少しでも考えて話す習慣は人間関係を円滑にするには必要であるようだ。(家族でも)
「聞いて語りなさい。口に入るものは人を汚さず、口から出てくるものが人を汚すのである。」と聖書にあるが、この言葉こそ人間の真理をしている言葉であろう。
自然体のままで耳に心地よい事を、いつでも話せるようになるにはそれなりの訓練と心構えが必要であることがわかる。

コンドルは飛んだ  第50回

2013-05-02 10:07:57 | Weblog
岡山での生活も前ほどの情熱が薄らいでいた。それはここでの自分の役割をやり終えた
のではという感慨と目標とするものが見当たらないことであった。10年前に本社からの特命を受けてこの会社の再建と将来への基礎つくりを命じられた。それは彼にとっては格好の仕事であり、遣り甲斐もあった。そしてそれは社員の協力と時代の流れに沿って順調に進み、シンガポールに初めての海外工場を建設するという快挙を持って集大成を見た。
彼は十分その責任を果たしたことになる。後は「功なり遂げて、都へ帰る」のみだという気持ちがあった。(そこには常務の彼にささやいた言葉がいつも頭から離れていない。)
専務が毎月の収益を報告に来る。「社長、このごろ少し元気がありませんね。何か心配事でもありますか。」と気を使っている。「いや。みんなが一生懸命頑張ってくれているので安心しているよ。」「「息子さんの怪我はどうですか。」「無事に退院して今は自宅でリハビリ中だ。」「そうですか。一安心というところですね。実はシンガポールの製品は最近、その後中国とアメリカにも一部売れるようになりましてね。どうですか、時間を見て双方のお客さんへ視察旅行をされては」と水を向けてきた。
少し時間に余裕ができていたこともあり、海外はもともと嫌いではない。この際ついでのことで中国、アメリカの視察も悪くないなと考え「それじゃあ、一度お客さんへのあいさつということで行くことにしようか。」と腰を上げることにした。
間もなく、中国(大連、北京、上海)、そしてアメリカはオハイオ州を中心にユーザー周りを済ませることができた。
まだシンガポールの成果が完全に出ているわけではない。自分が責任者でいる間にその結果が出るところまでにはならないが、いずれ良い結果が出て収益につながることになればよいと思っていた。
そしてその年も終わるころ、本社常務から電話が入った。「今度上京の時ができたら、時間を少し開けてくれないか。話したいことがある。」「わかりました。こちらのスケジュールを調整してすぐご連絡します。」そして程なく上京を決めた。
いつものように常務役員室の応接へ通されると、いつものようにせっかちに常務が話し始めた。「岡本君。長い間ご苦労様だったね。岡山のほうもこれで順調のようだし、君の功績も大であったことは認めるよ。そろそろ東京へ戻ってもらおうと思ってね。」「ありがとうございます。常務の命令を無事に終えることができそうでほっとしています。」
「所で、君の本社での役職なんだが、私は取締役として迎えようと根回しをしていたんだが、なかなか全員の賛同を取り付けることができなくてね。」と少し言いにくそうであった。