波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

「ウラジオストックの空に夢を」②

2020-05-30 13:26:09 | Weblog
優しい母は何とか義男の希望をかなえてやりたい、次男で在るゆえに何もしてやれないことが哀れであった。津山の城のある町に住んで居るいとこから手紙が来た。親戚の叔父が朝鮮の釜山というところで警察署長しているから、義男のことを頼んでみてあげるということだった。母は藁にも縋る思いで頼んだ。「何とか、勉強させてやりたい」それだけの思いであった。しばらく返事もなくやはり無理でダメだったかとあきらめて忘れかけていたころ、「義男は一人で釜山まで来られるか、もし来ることが出来るなら引き受けてやるぞ」という返事であった。母は喜んで義男に伝えた。義男は勉強ができるならというその一心で「おらあ、行くよ。そして
勉強するだ。」「わかった。そんだら支度してやるから」母はまだ幼い子供を手放す寂しさを感じながら、へそくりの金を使って旅支度の用意をした。
父も兄も驚いていたが義男の決心は変わらなかった。初めての旅であり、乗り物すべてが初めてであったが、夢中であった。津山駅から岡山へそして下関を降りると関釜連絡船の船に乗り、釜山へと向かった。船は日本を夕方出帆し、翌朝着く予定である。玄界灘の激しい波に揺られて船酔いに会い、義男はフラフラになりながら、これから自分が勉強できることの思いで我慢し、そのことだけを思い続けていた。「船が無事着いたら学校へ行ける」それはどんなにうれしい夢であったろう。そのためなら何でも我慢できる」。まだ10歳を過ぎたひ弱な体の義男はふらふらになりながらデッキのふちをつかみ一生懸命我慢したのだ。
そして一夜明けて船はようやく釜山の港へと近づいた。「ぼうー」と汽笛が着岸の合図とともに近づいた。
義男は外へ出て岸壁を見た。たくさんの人が旗を振って出迎えている。まだ見たこともない叔父さんは迎えに来てくれているのだろうか。朝鮮人の中にいる日本人の叔父さんが分かるか。心配であった。


「五人の仲間」⑬

2020-05-28 16:33:54 | Weblog
人間というものは不思議なものだということをこの時ほど感じたことはない。昨日までの同じ人とは思えない厳冬である。日頃から冗談も言うことはい程、真面目一途なところがあり、年齢も幼いところがあったので大丈夫かなという面もあったが、この日ほど人が変わったことは信じられないことだった。「ちょっと待てよ。
何があったか知らないが、突然そんなことを言われても会社としてはすぐには了解できないし、君の行動に注文つけることもできないよ。」と言いつつ、、このまま彼の言うとおり、「わかった、君の考え通りでよい」とも言えない。会社として言ってはならないこともあれば、言えないこともある。まして今までできたことが出来ないとしてお付き合いを断るということも、不自然であろう。私はすぐ本社へ報告をして指示を仰いだが、何があって、どうして突然変わったのか、そしてそれが会社にとってどう影響するのかは見当もつかない。「辞めてもらいなさい」と最後は結論となった。「私としてはとても良い仕事ぶりで、辞められると困るのですが、注意して管理しますので、置いてもらえませんか。」と頼んでみたが、「何が起きるかわからないし、起きてからでは遅い。会社としてはリスクは避けたい」という方針だった。「残念だが、辞めてもらうしかない」と通達すると、あっさりと「わかりました。」と一言いうと翌日から会社へは来なくなった。
「山崎君はどうしたんだろうね。」何となく納得のいかない儘の別れだったので、佐久間君に「何か聞いてないか」というと「詳しいことはわかりませんが」と言いつつ新興宗教に入信してその決まりで厳しいおきての影響らしいとのことであった。若くして結婚していたが、(仲人を引き受けていた。)その夫婦の間で強い勧誘があったようである。私自身もクリスチャンとして洗礼を受けていたが、会社ではすっかり、白紙で忘れていたが、その時は自分のことが少しそのことが過ったが。あまり気にしなかった。

「五人の仲間」⑫

2020-05-25 14:04:51 | Weblog
山崎は集団就職で秋田の大舘からきたこだったが、まさか一緒に仕事ができるとは思わなかった。隣の電気屋で10年以上修行をして一人っ前になり、独立して店でも出したいと思っていたらしいが、思わぬ運命の悪戯である。両親を亡くし兄の働きで生活をしていたと聞いていたが、いじけたところ御なく、ことばのなまりもなく素直な青年に成長していた。苦労しただろうと思うが真面目一本で仕事もきちんとできて貴重な存在になっていた。いつどこで思えたのか、麻雀ができるというので私は彼と一緒に接待に出かけてお客さんとすることができた。やはり一人より破風たちの方が、、少しでも味方がいるようで気持ちが軽くなった。
ある日、地方のお客を訪問した時、(まだ取引ができないで何とかそのお客から注文を取りたいと願っていた)「課長さん、私の所は後発ですが、品質は変わりません、値段も安くしてあります。ぜひ一度試しに買って使ってみてくれませんか」と得意になって売り込みをかけていた。技術的な説明は得意ではなかったが、説得力は地震があると自分では思っていたので若さにまぎ入れて熱くなっていた。客先の課長は季吟が悪くなったのか、突然「話は終わりだ、帰れ」と言い出した。突然のことで私は言葉を失ったのだが、山崎は冷静にとりなしの言葉を添えてその場を何とか収めて後日採用されたのだが、その時の落ち着いた言動は、その後も変わらず、どこへ行っても評判がよく、大変力になっていた。その彼がある日「今日から賭け事は一切しません、、仕事の話も嘘のことは言いません。会社に都合が悪いことでも本当のことを言わせてもらいます。」と宣言したのだ。突然のことで何が彼にあったのか、見当もつかず、言葉もなかった。

「ウラジオストックの空に夢を」①

2020-05-23 15:27:33 | Weblog
岡山県の北部に津山城が現在も残っている。「鶴山城」とも言われている日本に残る名城の一つである。特に城内に植えられた桜は桜は見事で春は近郊の花見の名所として知られている。そこから少し離れた田舎の片隅に名も知られぬ神社があった。時は明治時代の初めで神道が中心であり、あちこちに神社があり、そこに住む人々は神社にお参りすることで生活が成り立っており、「お百度参り」など、日常生活は全てに神社を中心に行っていた。「神主」と呼ばれ、その存在は人々の敬意の的として見られる存在であった。小さな社であり、氏子と称する人も少なかったが、その神主に二人の男の子がいた。当然長男がその神主の後継ぎとしての扱いを受け次男は何によらず軽く見られるのもその時代の習わしであり、ごく自然でもあった。「義男」と呼ばれる次男坊はそんな環境で生まれたのである。
神主の所へ嫁いできた母も親の言いなりで来たのだったが。神主の妻として相応しい日々を過ごして、二人の子供を愛していた。「義男」はそんな母親のもとで育ち、兄とは違い粗末に扱われながらいじけることもなく、素直にすくすくと成長したのである。『おっかあ、おらは学校が面白くて大好きだ。高等科終わったらもっと上の勉強したいんだ」母はその言葉を聞きながら兄はお金を工面しても神主の学びをさせねばと思っていたが、義男は奉公させようと考えていたが、思わぬ言葉にいささか慌てて「総会、お前はまだ勉強したいのか」と内心困ったことが起きたと「どうしたらよいか、金はないし、相談する人もなく、本人に言い聞かせて納得させるしかないかと子供の気持ちを思いながら悩んでいたのである。
そんなある日。母は遠い親戚に一人のいとこがいることを思いついた。「あの人は何をしてなさるかのう」

「五人の仲間」⑪

2020-05-21 15:38:48 | Weblog
そんな田口がまいぺーすでそのまま10年も仕事をしてくれたことは弁柄部門がそのまま維持できたおかげであったが、そのスタイルは終始変わらなかった。ゴルフもプライベートでは誘うと必ず来たが、費用を持つわけでもなく、自分が楽しむだけで教えるわけでもなく常にマイペースであった・そんな田口が気が付くと会社で姿を見せなくなった。会社へ顔を出さずお得意さんへ直行し、仕事を終えると直帰して終わることもしばしばだったので、あまり気にすることもなかったが、少し長いので、佐久間君に「この頃田口君見ないけど具合でも割るのかな」と聞いてみた。すると少し間があって「所長知らないんですか、田口さん会社辞めましたよ。もう来ないと思いますけど」「えつ、そうなの。知らなかったな」挨拶もないのか、と思い保証人になる兄の方へ聞いてみようとも思ったが、「去る者は追わず」かもしれないと思い「それでどうしているか、何か聞いているかい」と佐久間君に聞くと「よく知らないんですけど、取引先の某社へ転職したらしいですよ。」と気軽に言う。本来なら大ごとになる話でもあるが、わが事務所では一事が万事、すべてが事後本位であり、個人事業のようなところがあって規律もあるようでないところが、成り立ちの特色でもあり、私自身の欠点でもあったのだろうとあきらめるしかなかった。「そうだったのか。」ある意味ではホッとするところもあり、また残念な気もちょぴりするところもあったが、本社へ報告を済ませ応援で本社から補充をすることにして片付いた。その後風の便りにその後の様子が分かったが、田口はその会社も長続きせずやめたらしい。後日、取引先の女性と結婚してその女性の実家の近くにゴルフの店を出し商売を始めたという話が聞こえてきた。
彼らしい人生で私との出会いも行き掛かりの出会いであったのだろう、人間的には何の印象も残らずただゴルフというスポーツを学んだだけの出会いであった印象であった。持病があったので50歳代で亡くなったとい話を後日聞こえてきたことだけを記憶している。

「五人の仲間」⑩

2020-05-18 13:37:17 | Weblog
五人の仲間がこうしてそろった。初めから計画があったわけではない。不思議な導きでいつしか5人の営業マンが集められて新しい東京の基地ができたのだ。5人はそれぞれの運命で新しい仕事に就きそれぞれの任務があった。特に田口は最初であり、ゴルフという特別な才能を備えていたことでは独特な行動であった。営業報告を出すこともなく、事務所にいてもほとんどしゃべることもない。そんなかれのえいぎょうで珍しいエピソードがある。静岡のお客さんを訪ねて行ったとき、話が気に入られたらしく「今日は止まって行けや」と誘われ招待されたらしい。大きな道路工事やさんでカラー舗装の時に弁柄を大量に使ってくれる良いお客さんである。話は当然ゴルフの話で盛り上がり、田口は自分のことはしゃべらず、ゴルフの話で盛り上がっていた。そして翌日その流れでプレーをすることになり、「俺が教えてやるから一緒に来なさい」ということになったらしい。その夜はすっかりご馳走になって酔いつぶれたが、酒には目のない田口は遠慮なく飲んだらしい。この辺は今までの習慣がそのまま残っている流れだ。翌朝お客さんのお供でゴルフ場へお供をしてプレーが始まった。
何も知らないお客さんは身振り手振りで教えながら田口にプレーをするように言った。「まあ、振ってみろ。弾は前へ飛ぶから」その言葉につられて田口はいつも通りスウイングした。当然元プロゴルフアーの球は素人とは全然違う球となって飛び出した。お客さんの社長は「そうだ。そうだ。それでよい」とまぐれでも飛んだことに気にしないでプレーを進めた。然し彼のボールは素人とは違い、プレーが進んでも、そのままプロのプレーであった・さすがに社長もこれはただ物ではない時が付き、「君は前、ゴルフをやっていたんだろう」と見破り、田口もそこで自分のことを白状したらしい。彼らしい行動であり、それなりの姿で会った。
普段は仕事帰りに必ず自宅近くのスナックに立ち寄り、招待なくなるまで飲みかえるのが日常であったが、年老いたお母さんが迎えに来る姿が、痛々しかった

「五人の仲間」⑨

2020-05-14 15:20:43 | Weblog
下駄を預けられた形になってしまったので、どうしたらよいだろうかと考えたが、急ぐこともないかと考えて4人で仕事を始めることを計画し、返事をしないでそのままにしていたが。友人から電話がかかってきた。「この前の話、どうだった。本社から返事はあったかな。」「それがまだなんだ。」「そうか。こっちも都合があって当人に返事を頼まれているもんで」「どうだろう。一度私が当人に会ってみようと思うが、事務所の方へ来るように言ってもらえないか。」「わかった。そうするよ」
そんなやり取りの後、暫くして当人が事務所を訪ねてきた。「杉山です、よろしくお願いします。」おとなしそうな印象だった。「君が杉山君か。待ってよ。内田所長から頼まれてね。ここではゆっくり話も出来ないから、ちょっとコーヒーでも飲みながら話を聞こうか」秋葉原の駅に近いこともあってここはたくさんの店が並んでいた。比較的静かな店を選んで二人は席に着いた。「大変だったね。弁柄部門が閉鎖になるということだけど前年だね。営業は販年ぐらいになるんだい。」緊張をほどくようにやさしく話し始めた。「高校を卒業してすぐからなので大阪事務所に5年いましたので15年くらいになります。」家は群馬の館林で現在は東京の事務所まで通っているが、片道2時間半ぐらいかかるという。ここは秋葉原だから東京へ行くよりは少し近いが、それでも2時間はたっぷり」かかる。「通勤が大変だね。」
「慣れていますので、気になりません」そう言われてみると何となくおっとりしていていかにも田舎の青年という感じだ。のんびりした雰囲気はこの都会にはない個性なのだろう。「ベンガラだけ仕事をしてきたのかな」「重点的にはそうですが、何でも屋です」と笑っている。「小さい会社はどこもそうだよ。」と合図地を打ちながら他の3人にないのんびりした雰囲気の杉山はほかの3人にないものがあるので面白そうだと感じ始めていた。




「五人の仲間」⑧

2020-05-11 11:47:18 | Weblog
一人として学卒も入社試験もした者はいない。強いて言えばこの時期縁があって集まったとしか言えない仲間だった。田口、佐久間、山崎そして私と4人いれば何とかなると「船出」をすることにした。それぞれが担当のお客さんを定期的に回り、製品を説明して注文を取る。それを本社へ連絡して売り上げを伸ばす。長い歴史と信用で取引ができて何とかなりそうであった。「ベンガラ」といわれる顔料を製造しているメーカーは全国で5社あり、それぞれのお客さんがあった。父がお世話になったこの会社も80年近い歴史があり、それなりによいおきゃくさんがあったので、それを引き継ぐ形である。「工場は田舎でもよいが仕事は東京に限る」というのが父の口癖で私もその言葉を信じて東京で会社を大きくすることを心に決めていた。父の後を継いだ新しい社長が「東京を任せるが、一度本社へも帰って研修したらどうだ」と勧められたが、「そんな時間はありませんよ」と生意気なことを言って断ったことを今では後悔している。謙虚に最初から勉強することから始めるべきであったと反省しきりだ。そしていよいよ本格的な船出をした。そんなある日、同業の営業部長さんが訪ねてきた。「いやあ、景気はどうだい」同業者とはあまり親しくしないものだが、年齢も同じぐらいの彼とはあまり抵抗がなかった。「まあ、まあだね。特別よくもないよ」「ところで一つ相談があるのだけど」と切り出した。
自社の弁柄部門をやめることにしたらしい。そこで人が余るので私の所で雇ってほしいというのだ。「ちょっと待ったくれ、いくら何でも同業者から人を送られてもそれは無理な話でできないよ。」と即座に断ったのだが、彼の言い分は「人柄もよいし、仕事もできる。俺が保証人だから責任持つよ」と頑張る。とりあえず考えさせてくれと一旦は」預かりとしたが、本社へ報告すると「それはあなたに任せるよ」と言われてしまった。

「五人の仲間」⑦

2020-05-07 16:57:53 | Weblog
今から50年前日本は戦後の不況から新しい復興を遂げていた。その頃私は家庭を持ち新しいスタートをしていた。下町の雰囲気は生まれたときから慣れ親しんでいたこともあり、福島から出てきても違和感はなく子供のころからの身についた感覚が蘇ってくる気がしていた。そのころ近所に集団就職で田舎から出てきた少年がいた。一人は秋田であり、一人は青森であった。近所に福島から出てきた私たちがいるということで、妻がよく面倒を見ていたこともあり、よく遊びに来ていた。10年近い交わりのうちに信頼関係が生まれて即相談されたり、頼まれごとも出てくるようになった。大村君は電気の技術を身に着けて独立したいので保証人になってほしいと言い出し、少し離れた今の電気屋さんを離れて新しい電気屋へ転職していった。もう一人の山崎君もまた転職したいのでどこか探してほしいと言い出した。山崎君の電気屋さんは隣だったので、さすがに少し困ったが、何とか希望をかなえてやらなければと考えた末に私の会社へと考えて岡山へ行かせた。さすがにこの問題は過ぎ隣の雇い主の耳に入り、大きな問題になってしまった。「右も左おわからない子供を育ててやっと仕事ができるようになったと思ったら、いなくなって、あなたの所へ行ったそうではないか。とんでもないことをしてくれた。東京では仕事はさせない」とカンカンである。最もなことで私も事前に相談してよく話したうえで進めればよかったのだが、良かれと思うだけで軽率に勝手に進めてしまったことが招いたトラブルだった。
しかしこうなれば、よく説明して理解してもらうしかない。都内近所とあってしばらく気まずい思いをしたが、時間が薬となって何とか静まった。山崎は半年の研修を岡山で過ごし、東京の営業の一員としてスタートすることになった・東京事務所のスタッフはこれで4人になった。一人としてまともに社員として入った者はいなかったが、東京事務所は4人の営業マンがそろっていた。私は人生の流れを不思議な力で道枯れていることを知らされていたのである。

「五人の仲間」⑥

2020-05-04 10:52:55 | Weblog
取り合えず頭数だけはそろいつつある。しかし冷静に考えれば全くの素人集団である。能力も経験も全くない素人集団である。本社での研修も何をやってきて、何を覚えてきたのかも疑わしい。その点では私も同じであった。強いて言えば私の場合は上京の時兄から地図を渡され、「これ思ってお店を回り注文を取って来い。」と言われただけだったが、私は何のためらいもなく言われたとおり、東京を中心に東は千葉の調子まで、西は静岡までの顧客を一軒一軒、廻り、挨拶をして製品を犯してもらい、次回は注文を聞くという今考えれば「よくそんな大胆なことができたな」と思えることができたと思っている。従って挨拶の時はスーツで、弔問をとると作業着に長靴、軍手といういで立ちに早変わりで営業をしていた。誰に倣うのでもなく自然に出来ていたのだから、これも一つの才能だったのかもしれない。そこには何の抵抗もなく仕事一筋であった。一番苦痛だったのは福島から貨車で10トンの製品が貨物駅に就いたときの」荷下ろしと鞍馬への積み替えと自宅倉庫への運搬であった。すべてが一人だったので、これは体力のない自分としては結構きつかった。運版途中で道路へ製品が落ちでそれを拾いに行くことは何度もあり、恥ずかしい思いも何度もしたことだった。そんな経験があったせいで今回の事務所からのスタートはあまり抵抗もなく地震のようなものがあった。
お客さんのリストがあり、(、もちろん初めての所もあったが)すべてスーツでできる仕事であり、肉体労働はない。そたがって福島の仕事のことを思えば岡山の仕事は楽であったし楽しかった。まだ3人だが妙な地震があり、「これでやれる」そんな気持であった。そんな雰囲気で仕事は日ごとに忙しくなりつつあり、定時で終わることはなく忙しかった。しかし田口は例によって時間が来ると、いつの間にか消えていた。女性の佐久間女史も同じだった。
「これじゃあいつかパンクするなあ。」「もう少し人が欲しい」そんなことを考えていた。j本社からの連絡はなく東京へ任せきりというのも不思議であった。
岡山の本さやは何を考えていたのだろうか。