波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

足跡   「世界最高の子育て」

2018-04-27 10:49:09 | Weblog
いま日本で「世界最高の子育て」という本が話題になっているそうである。子育ては大事な親の仕事の人るだが自分を顧みて、とても
人前で言えるようなことはできていないし、むしろ子供には自分が「反面教師」の存在で、むしろ親がこうだったから自分はそうなりたくないと思っていたかもしれない。それほどに自分を恥じているし反省するところばかりで、何もできなかったことを後悔している。
「親はなくても子は育つ」という例えもあるが、それでも我が子は息子も娘もなんとか家庭を持ち、円満に生活しているのでありがたいことだと思っている。
子供はいくつになっても子供であるし、親は親である。年齢に応じてそのけじめの上に立ってそれぞれが互いに認め合うことが大事であろう。上記の本によると子供の教育の評価の対象になったのは「知力」だけでなく人間関係における「コミュニケーション力や特技」そして
体力」「自己表現力」が審査されたようだ。
例えば正解のない問題に自分なりの答えを見つけて解決する力だとか、自分で何でも解決する力を養うことが大事だというのだ。
つまり英才教育ではなく人との間における「対話力」であるとか、「自制心」「責任感」を高めて社会に貢献できる人間を育てることが大事だと説いている。
確かに日本の教育には足りない面を重視したアメリカらしい世界観に基づいた教育だと感心した。我が家の「子育て」はそれには遠く及ばないが、先日娘が訪ねてきて、「お父さん、この間ね、私の誕生日に娘が(孫)誕生日祝いと言って、何も言ってないのに食事会をしてくれたのよ」と報告してくれた。
昨年から就職してし働き始めた孫娘が、親の誕生日に気を使ってそんなことができるようになったのかと、いじらしく、又ほほえましく聞いたのだが、母親はとてもうれしそうであった。

思いつくままに   「囲碁雑感」

2018-04-24 10:16:21 | Weblog
毎日の楽しみは囲碁の実習とTVによる観戦である。実習はパソコンによる実践だが、我流で自己流なのであまり進歩は望めない。しかし毎日何局か移っていると少しづつわかることもある。一番大事なのは精神面であり、気持ちをいかに落ち着かせて冷静に全体に目を配り自己の目標を実現するかを考えながら打つことだが、いらいらしたり、落ち着かないで打つといくら考えても間違えるか、どこかでミスを犯して負けることになる。それでも最低ランクを脱してワンランク上がることができた。しかしそのランクでの停滞は長い。
勝ち続けることができず、少し良いかと思うと負けが続きあがることができないでいる。そんな日常でTV観戦は息抜きになる。
一年間かけて約100名の選ばれた棋士がトーナメント方式で戦い王座を競うのだが、週に4回の放送がある。棋士は10台から60代までの年齢だが、見ているうちにあることに気が付いた。それは年代と成績に一つの関係があるということだ。つまり年代が若いほど成績が良く、高段者であっても年齢が上になるほどあっさりと負けることが多いということである。また2段とか、3段の若者でも9段の棋士に勝つこともあまり特別ではないということである。
最初はそんなことはないと先入観があったが、勝負はその場面での形成判断で正しく読み取ることが大事であり、しかも短時間の早指しである。1分での判断は高齢者になるほど大きな負担になるようで間違えることも多くなる。
若いほど形成判断を鋭く読み切り短時間で正しく打つことだ出来るようだ。高段者であるほど強いという先入観は破れ、そこに若い人の鋭い感覚と正しい判断が訓練の上に成り立って勝負を分けることが分かった。
現在はÀIなる電子機器のロボット器で学習ができるとあって、昔からの定跡だけでは勝てない時代になっているのかもしれない。
TV観戦は勉強になり、自分も同じように打てるような気にさえなる時があるが、実践はそうはいかない。
そこが面白く奥の深いところなのであろう。

足跡   「体調管理」

2018-04-20 07:06:25 | Weblog
現在の私にとって一番注意していることは言うまでもなく毎日の体調管理である。血圧測定は欠かさないで毎朝測定し、少しでも異常が感じられれば薬を飲む。そのほか動悸や足腰の動作に異常があれば安静にして様子を見るとかである。
そして欠かせないのは月一回の病院での診察と薬の入手であろうか。これは食べ物と違って配達がきかない。必ず診察と検査が条件である。そんなわけで私の仕事は毎月の病院行きは欠かせない。
病院は近くのところを探して(歩いて行けるところ)いるが、できるだけすいている時間を見ているが、いつも混んでいる。こんなに悪い人がいるのかと思うほどである。概ね高齢者であり、中には杖をついている人、車いすの人などもいる。
若い人はさすがに見ないが、よくこんなに病人がいるものだと自分のことを忘れて不思議に思うわけである。
殆どの人が私と同じように薬の入手のためなのだが果たしてこんなに薬を必要とするのだろうかと思得るほどである。
そして果たして薬の効果がどれだけあって、薬を本当に必要とするのかということもある。私自身考えてみても正直言って何となく「気休め」のような気がするときもあるし、飲んでおけば安心的なところもある。
そんな意味では病院もどれだけ必要としているのか、またどれだけの効果と影響があるのかと思時もある。
検査で万が一手術とか、入院とか、指示を受けたりしたらどうするかと考えたりすると状況によっては、成り行きに任せることも考えられるのかとこの年になると考えてしまう。
高齢なれば体は弱り部分的にあちこちが悪くなるのは自然であろう。そして命への影響も生じてくることでろうと思う。
そうなればその状況に応じて覚悟も必要になってくるだろう。そんなことを考えて病院へきている人の顔をみていると、不思議な気がしてくる。ただ家族や周りの人へのことだけが気になり、自分だけではないことが心配になる。
そのために最小限の体調管理は必要なのである。

足跡   「功徳を考える」

2018-04-17 08:08:51 | Weblog
この年になると(80歳)人生をもう一度振り返り、見直しながら何かやり残していないかということを考えることがある。
若い時から思い切り好きなことをやらせてもらって人生を過ごしてきたこともあって、自分的にはもう充分なのだが、それでよいのかとの反省もある。しかしこの年になると何をするにも肉体的にも精神的にも自分の思うままにはならないこともあり、悔しい思いの日々でもある。
そんな時私はふと孫のことが頭に浮かんだ。私には孫と呼べる若者が4人与えられた。しかしそのうち3人は女である。幼年時代は男女の性は関係なく愛情を注ぎ楽しく時間を過ごせるが、成長するにしたがってそうもいかなくなる。男女の違いが明らかになるにつれて、人間関係も離れる感じになるのは致し方がない。そんな中で忠人知の男の子は唯一交わりを持つことができる人間である。
すでに高校生(3年)とあってもう一人の大人への道を歩み始めている。そんな中で何とかこの孫との交流を図り、交わりを持ちたいと考えた。息子のの子供ではあるが嫁との関係もあるので気兼ねがないわけでもなかったが、スマホでラインが通じるようになって呼びかけをしてみた。「ランとタイム一緒にしようよ」と、ただ一緒に食事をすること、その時間を共にすることだけを願って誘ってみた。
なんとか時間を作ってもらって初めてのデイトが成功した。彼の好きな「回転すし」を充分食べてもらって、日ごろ使っているパソコンの操作について話題として話し合った。そしてなんとか家まで来て指導を受けることになった。
ブログに写真や、音楽を挿入する操作を教えてもらったのだ。一回教えてもらってぐらいで到底操作できるところまでいかないがそんな話題の中で二人の時間は過ぎるのも忘れるほどであった。
帰りには家族の土産を買って帰るように小遣いを渡しわかれる。そんな一日を過ごし今までにない時間を過ごすことができたことがうれしかった。考えてみれば孫といえども一人の立派な大人であるし、年寄りの言いなりになるものではない。
ましてどうのこうのと幼児をさせるという存在でもない。
一人の人間としての交わりがどのような形で進むか、そしてそれは何ももたらしてくれるのか、そのことは意味があるのか、ないのか、
そんな先のこてゃわからない。ただ身内ンお一人の若者がどんな成長をすrのか、その姿を身近に感じ、見ることができればと思うだけのことである。それは功徳とは言えないし、そんなものではないかと思うが素直にうれしかった。

思いつくままに  「言葉の重み」

2018-04-13 10:32:20 | Weblog
ある日、友人から電話があった。「自分の住む町会の土地を再開発したいので、買い取りたいとの申し出があって町会では賛成派と反対派とできて困っている」との内容であった。町会の役員はどのような考えか聞くと「反対で何とか自力でここに新しい会堂を立てて、今まで通り町おこしをしていきたいと考えているのだ。反対派の人たちは売却して新しくして、その一角に町会の運営ができるようにしたらよいのではと一部ののひとたちを説得しているとのこと町会が 分裂しているような感じであった。
私は特に相談を受けたわけではないが(つまりそのことに口にはさむ立場でもなければ、意見を述べる立場でもないのだが)生来の性格もあり、黙っていられず「町会の役員の方々の意見を具体的に実行案にして町会の人たちに説明したんですが、」と口を出してしまったのだ。「まだ具体的には役員としての実行案は提示していない」と聞くと、私は「それはおかしい。役員として自分たちはこう考えていると具体的な改革案を提示して町会の人々にその考えを問うべきでしょう。出なければ役員の皆さんはその託された責任をきちんと果たしていることにはならないのではないですか。」と余計なことまで話してしまったのである。。
今後の問題については私が口にすることではなく、当事者である役員の方々の考えで進めればよいことであり、どうするかは当事者の皆さんの考えでよいわけである。そのような場面になるとその場の空気ですぐ口に出す癖が出てしまったのである。
どのようになっても賛成と反対の人がいればそこには対立があり、戦いが生じて傷つく人も出てくるわけである。逃避するというわけではないが、そのような話を聞いたとしても立場をわきまえて、自分の立場を心得て言葉を選んで話すべきであろうと、電話を切ってから
反省をしたのだが、生来の性格は治らないもので勢いで自分のの意見を正論かの如く話すことの自分が恥ずかしかったのである。
ことほど左様に物事が起きた時には否、そうでなくても言葉はどんな時でも慎重に言葉を選んで話すことが大事である。
そこには言葉の重みがあることをしっかりと自覚すべきであろう。
最近は政治の世界でも言葉の問題で大きな騒ぎになっているケースもあるようだが、もって自戒の言葉としたいと思っている。

足跡    「続・心の旅」

2018-04-10 09:32:56 | Weblog
人は生まれながらに好き、嫌いの感情をもって生まれているようだ。それは食べ物だけではなく、人間関係においてもある。「あの人は好ましい人だ」「あの人は私のタイプだわ」それは人格とか、人間性は別として理屈抜きに感じるものらしい。
そしてそれは理性でもどうにもならないことがわかる。聖書は「あなたの敵を愛しなさい」と教えているが、人間にとってこれは言葉通りではむつかしい問題である。しかしこの言葉を額面通りでなく解釈すればこんな考え方はできないだろうか。
「好きでないタイプの人でもまた何かのきっかけで増悪があったとしても行動において相手が好きである場合と同じ行動ができないか」と解釈することができないかと考えるのである。つまり心理の実態と表現は乖離していても許されるという解釈である。
人間はしょせん不完全なものである。それはアダムとエバの世界から受け継がれていると考えざるを得ない。どんなに愛していても長い人生の中ではそれが憎しみに変わることは何の不思議でもない。そしてそれは愛が強いほど強い憎しみとなることも教えられている。
心の中はどうであろうと行動と表現だけは相手を許し、相手のためを思い相手のためを思い優しく穏やかにふるまうことができればこの世の人生においては許されるのではないかと思われる。
言い換えれば人間は心の中にには増悪や憎しみを持ちながらもそれを表情や行動に出さないで人工的な(?)微笑や穏やかさを保った状態ができれば、神の前に許される範囲なのではないかと思われる。しかしこのことは本質的には「嘘」である。大人になることはある程度の嘘を身につけなければ穏やかな人生を生きることができなような気がする。またそれが危機回避のための知恵ともいえよう。
その知恵は学校では指導しきれないだろう。人はそれぞれ個性があり、一人ひとり教え方身に着け方が違う。
言い換えればその人に会った哲学が必要である。だからそれぞれに学び、身に着けていくしかないのである。
そのためにはどうするか、それはそれぞれが考えることではあるが、一言でいえば「読書」にその答えがあるような気がする。
また身の回りの賢いおじさんやおばさんの何気ない言動に隠されているかもしれない。
普段からそういう習慣をつけていると自然にそれらのことを身に着けることもできる。人生とは不思議であり、またいつも学びの時なのである。

     思いつくままに    「心の旅路」

2018-04-06 10:33:13 | Weblog
歴史的には人間の心を様々に表したものがある。有名な本としては「ジキルとハイド」であろうか。ジキルは薬を飲むことによってハイドになり、人間の邪悪な心を実行してあらわしている。また、聖書には有名な「放蕩息子」の物語がある。
何の不自由もない家に生まれながら、ある日父に「私に与えられる財産を今全部ください」と願い、それをもって都会へ出ていき、それを全部使い果たし、行くところもなく農家で働いたが、長続きせず、最後には父のもとへ帰った。父はその息子を叱って追い出すかと思いきや(長男の兄はそう考えていた。)涙を流して帰ってきた息子を抱きしめ、慰めたという。
この二つの話に代表されるように、人間の心には「善」と「悪」の二つが潜んでいる。それは消すことのできないものであり、生涯
その善悪とともに生きていくことになる。このことが人それぞれの人生を大きく左右し、変えていくことになる。
しかしここで存在する善悪はそれぞれの人によって異なることであろう。そしてその在り方も変わってくる。したがってその存在はそれぞれの生き方によってまた、生きている存在の中にある。
自分自身を振りかえって考えてみてもそれは大きな存在である。そしてその善悪の在り方にどれだけ振り回されてきたかを考えざるを得ない。それは行動であれ、言葉であれ、思いであれ、様々な形で表に出てくる。
その一つ一つに自分は責任を持たなければならない。しかし、その度合いはそれぞれ異なり、その影響や結果も変わる。
そんな人生を過ごしてきて自分はどんな生き方をしてきたのだろうかと今更ながら思い返す時が来ている。
それは時に後悔であり、喜びであり、誇りであり、平安でもある。そんな旅路を歩いてきたのだが。そのたびも終わになりつつある。
でき得れば平安と感謝で日々を暮らしていくことを願わずにいられないのである。

足跡   「球春きたる。」

2018-04-03 10:24:31 | Weblog
4月の声を聴くとやはりプロ野球に関心がいく。息子が小学校へ上がる前には小さなバットとボールでよく遊び相手になっていた。
日本では遊びの中に野球があり、野球の中で育ったところもある。そんな中でいつの間にかプロ野球に関心があり、球場にも何回か足を運んだこともあった。しかしフアンとしてチームを応援するのではなく、どちらかというと「アンチ」の立場で弱い球団に関心があった。
プロ野球も優勝のために球団ごとにその資金力を投じて、高額契約を結んで有名選手を集めていた時代が長かった。
そのために一時は一球団が何年も優勝する傾向が強かったのだが。ここ数年その資金力が乏しくなってきたのか、球団の方針が変わったのか、どの球団も選手を集めるのに高額の投資をしなくなった。
どこの球団も若い選手の育成に力を入れ、ドラフトの選手を強化してチーム力をつけるようになってきた。この時代変化がペナントを変えてくるようになり、どこの球団も戦力としてはあまり変わらないようになってきた。つまりようやくどの球団も公平な戦力つくりをして
戦うようになってきた感じである。
そんな目で今年の球団戦力を見るとどの球団にも優勝のチャンスがあり、何が起きるかわからないような気がしている。
それだけに興味がわくところもあるのだが、でき得れば全チームが5割勝率で競い合う形になれば、最高であり、理想である。
毎日どのチームがトップに立つかわからないほど、エキサイティングなことはない。
そしてどんな新しい若者が生まれてくるか、その成長と、指導力が問われる面も楽しみである。
外人に頼るのではなく、新人選手の育成に力を入れて活躍をしてくれることが望ましい。
そしてどのチームが優勝の栄冠に輝くのか、一年は長い、この長いペナントを監督選手一丸となって戦ってもらうことを願っている。