天候に左右されることは否めないが、三日間の有効日があるので何とかカバーもできる。月に一回の謝礼金の配布も僅かだが、とても励みになる。
そして何より人生において健康でこのような務めを果たせる喜びを受ける嬉しさは神に感謝するほかないとしみじみ喜びを覚える。そして2根目への挑戦である。いつまで出来るか。健康次第ということもあるが、残り少ない人生を与えられた最後の務めとして果たしていきたいと願っている。
私の家のような小さいアパートにも月に一回くらいの訪問者がいる。その時間は昼間はなく夕方から夜にかけてである。嘗ては新聞の勧誘が多かったが最近は読者が減っていることで販売店も考えを変えたことなのかと思われるが、嘗てはサービス品を手にかなり厳しい勧誘に神経を使ったものである。ある日、夕食もすませてのんびりTVを楽しんでいるとインタホン越しに「今晩は、ご挨拶に参りました」という若い声が聞こえた。何かの勧誘か、宣伝の契約かいずれにしても今の私には用のない話で正直迷惑なのだが、出ないわけにもいかないので「申し訳ないが今体調が悪いのでお話を聞くわけにいかないので失礼する」と断ることにしている。するとほとんどの場合、黙って消えてくれるので、最近はこのパターンで断ることにしている。つい先日もこのパターンで何とか済ませたのだが、しばらくして不図どんな人が来たのかなとその訪問者の事が気になった。ほとんどの家族で遅い夕食をとる時間に手に書類の入ったカバンを持ち、一軒,一軒歩いているのだろう。今までならいなくなった時点でほっとして忘れてしまうのになぜか気になり始めたのだ。私も仕事をしていた時会社の製品を売り込むために営業で訪問販売をしたのだが、簡単ではなかった。当然ながら「今うちはB社と取引しているから」と断られ
今年も梅雨がやってきた。湿度が高くなり蒸し暑いのが身体に何となく重くのしかかる思いだ。しかしこの梅雨は日本の四季の中で大きな効用もあり、梅雨でしか味わえない情緒もある。そう思うとわずかな日々がそれなりに意義を感じて納得する。嘗てはこ時期になると「紫陽花寺」を訪ねて楽しんだものだが、其れも叶わなくなった。最近は過去の軌跡を振り返ることが多いいが、其れもまた楽しい。神が与えてくれたこの日々をどのように大切に生かして生きていけるか。それは若い時でも、年老いても同じである。しかし若い時はその時間をかなり無駄に過ごしていた。ただ夢中で自分の許される範囲でただがむしゃらにエネルギーを消耗していた。それも人のためではなく自分のためだけにである。しかし今置かれている立場で出来ることはどれだけその罪を償いつつ時間を大切に生かすことができるかということだ。最近ではサラリーマンも余暇をあまり余裕をもって過ごす時間がないようであるが、私の場合は会社の費用で(良いことではなかった)余暇を楽しむことができた。それは主に食事であり、麻雀であり、ゴルフの時間であった。お陰で体力がついていける範囲で(下手)お付き合いができた。その代償として家庭的な時間を犠牲にすることになったが、それが現在罪悪感として気にかかるところである。しかしすべては「委ねられた」ことであり、自分でどうすることもできないことでもある。「委ねている以上自分で右往左往することなく静かに指し示されるままに」進みたいと願っている。