波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

   思いつくままに  「梅雨明け」

2014-07-31 09:59:14 | Weblog
今年の梅雨は台風8号に象徴されるように局地的な集中豪雨で総雨量としては満足できたかもしれないし夏を迎える水源地のダムに必要な水量もまず確保できたことだろう。さすれば原発による電力に頼らず安全な火力、水力、風力で暑い夏の電力をまかない、制限なしで過ごしたいものと思っている。
そして暑い夏を向けえるのだが、年齢を重ねるごとに体力の衰えとともに30度を越す
猛暑日がこたえるようになってきた。若いときは夏が来るのを楽しみにして海に山にと
心が躍ったものだったが、今では少々厳しくても冬の静けさと寒さのほうが恋しいし、
耐えられる気がしている。暑さは水分補給だけでなくそれに伴ったいろいろな推測できない変化もあり、身体への備えが難しい気がする。エアコンだけに頼るのも考え物だし、当面はこれしかないのだが、と言って汗を流しての耐暑訓練も限界が見えない。まして温暖化に伴って高温多湿が進んでいることを考えると、各々で用心が必要である。
さて、そんなことを考えながら毎日をどう充実させるか、やはり生きている限り、生かされている限りこの命題を無視することはできない。
毎日を一生懸命大事に過ごしているつもりだが、一週間のうち、どうしても何も手がつかない日があったり、くだらないことばかり考えて時間を無駄に過ごすこともある。そして
その日を後悔したり、悔やんだり悩んだりすることもあるのだ。そんな中でその日をどう過ごしたかを自己採点することがある。主な項目は「学習、読書、まとめ.作成」などがあり、項目ごとに予定を組んで進めるのは学校の時間割に似ている。
そして夜寝るときにその達成度が90㌫を達成しているときは満足して休む事ができる。
もちろんこの間には隣人(家族を含む)との交わりの時間もあるが、この時間をいかに大事に過ごせるかに気を使う。それはできるだけ自分を「無」の状態にして相手の心の側に立つことができるかを考える。そしてその時間が過ごせたときは本当に満足感を覚えることができるのだ。そしてこんな時間を刻み重ねることが「一日一生」になると思っている。今朝は庭の除草を蚊に食われながら珍しくやってみた。できればこの夏は朝顔の鉢植えでも置いて夏を夏らしく迎え、花に癒されながら乗り切りたいと願っている。
諸兄姉はこの夏をどのようにすごされるか、くれぐれも「ダメージ」を残すような夏にならないことを願っている。

   音楽スタジオウーソーズ    第8回

2014-07-28 11:27:12 | Weblog
光一の父は上司への返事を一週間延ばした。確かに悪い話ではないことは分かっていたが父にも計算があった。遣り甲斐のある仕事ではあるが失敗は許されない。「信賞必罰」とはわなくても同僚の手前をもあり、何らかの処置があるだろう。厳しい生存競争である。
「外処君、場所は常陸大宮あたりになるが家から通うのは不便だろうから、常磐線の最寄の駅の近くに一軒家を借りるのでそこを使ってくれ。後は状況しだいで必要なものを揃えるから何でも言ってほしい」そういわれて「私も行くからには期待にこたえるように頑張ります」契約は決まった。待遇も昇格した。会社としても最初の営業拠点でありモデルケースでもある。遣り甲斐があることは間違いなかった。
翌日早速現地へと飛んだ。建物は倉庫兼事務所の後のようであったが、古くなって使えるような物は殆どなかった。最近まで使っていたという話であったが、デスクも黒板もなく
(持ち去ったって再利用していたかもしれない。)必要な時計もなく、これではと早速本社へ必要なものの調達を依頼した。
一ヶ月を過ぎたころようやく何とか事務所らしく形が整ってきた。車の練習場になるコースも整備され真新しいペンキで線引きされて目に眩しいくらいであった。
しかし、本当の問題はこれからであった。資格はなくても何人かの従業員が必要であり、
それは現地調達しかない。教官は本社から出向であるが、その他にも人が必要になる。折り込み広告を出すとすぐ人が集まったが、面接をしてみると土地柄もあり、まるで手ごたえが違う。県民性もあり、土地柄もある。あまり貧しい生活ではなく優雅に暮らしているとあって一見してのんびりしているのと仕事への意欲も感じられないのだった。
こんな人たちで大丈夫かなという心配があった。何によらず厳しく規則を守り実行することを信念としている彼にとっては何となく物足りず不安があった。
「茨城自動車学校」がスタートしたのであるy。開業するとまだそんなに練習して資格をとるところがないこともあって応募者は殺到した。これは大成功であった。
まさに順調な滑り出しであった。しかし、始まってみると問題は山積みで、次から次への出てきて休む暇もない状態になっていた。
持ち前のやる気が俄然発揮されることになる。

思いつくままに   「笑う門には福来る」

2014-07-25 09:45:41 | Weblog
誰でもが知っている古い諺である。しかしこの諺を信じて笑っていれば良いことがあるはずだと、笑っている人がいるわけではない。単純にこの言葉のままに理解していたら
「あなた馬鹿じゃないの」と馬鹿にされて終わってしまうからだ。それではこの諺の意図するところはどこにあって、真意は何であって何を私たちに教えているのだろうか。
単純にこの諺の反対のことを想定してみよう。「しかめ面、其処には何も良いことない」とでもなるのだろうか。当然この句を作った作者もいたのだろうが、何を伝えたかったのだろうか。先週も書いたのだが、この世に生きている限り「悩み」は尽きないだろうし、
私たちを悩ませ続けることだろう。
ここにこんな言葉がある。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。そしてどんなことにも感謝しなさい。」これは聖書にでてくる言葉の一節である。上記の諺に共通するものを感じないだろうか。つまりどんな深刻な問題に直面したとしても角度を変えて考えることができれば違った面が見えてくるし、新しい考えが思い浮かんでくることに気づくことが出来るということを示していないだろうか。それは簡単なことではないかもしれない。また何も考えられないかもしれない。誰もがそんな時しばらく立ち止まり自分でできることを考えることだろう。そしてそこから脱却し新しい道を発見した時に希望が出てくるのである。(そんな考えが出てくることはないと考えてしまえば、そこで終わることになる。)それは「あきらめる」ことではない。「ギブアップ」することでもない。
静かに時を待ち冷静に示されることを待つのだ。其処には大きな試練もある。忍耐もある。しかし必ず新しい道を示されることを信じることだろう。
そして最後に「喜び、祈り、感謝する」につながることであろう。笑う門には福来る。
という所にたどり着くことになるのである。
どんな場合にも時間は要することになるし、人によってはこの結論にたどり着く前に道を誤り、目的に達する前に自滅する人もあるかもしれない。
しかしこの苦しみを伴う思考の道を辿る努力がなければ福は来ないのではなかろうか。
残念なことにこの諺には目的へ達するための方法については何も解説はないのである。
其処には各人へ託されている責任と努力にかかっていることなのだが、それに気づくかどうかであり、その福を得ることは簡単ではないことを示しているのではなかろうか。

  音楽スタジオウーソーズ  第7回

2014-07-22 14:51:58 | Weblog
光一の毎日の仕事は店が10時からということもあって、出勤はのんびりしたものだった。近所に何軒かの楽器店があったが11時というところもあり、まちまちである。
客層が独特であり、午後から夜にかけての
来客が多いということもあった。何しろ客はサラリおうーマンではなく自由人とも言える人たちで午後から夜にかけてのしごとをしている人たちと思われる。音楽関係とあればこの時間帯で自然なのかもしれない。
シャッターを上げ店の中にある陳列用の楽器や陳列用の宣伝物を丁寧に道に出し目印の旗を立てると一段落である。備え付けのコーヒーメーカーから勝手にコーヒーを作って一服し、タバコに火をつけるものもいるが、光一はこの時間は別の意味で貴重であった。
それは彼にしかできない店内の宣伝用の楽器のチューニング作業である。来客はランダムに入店し、楽器を思い思い使いがってを試し、そのまま帰ってしまう。楽器jは微妙であり、その一つ一つをきちんと正常に戻しておく必要があった。全あ部がわかるわけではおおないが、故障はないか、痛んでないか、きちんと使えるか、点検作業は毎日の日課で欠かせない作業である。なにしろ数が多いので、ほぼ午前中は店の中を歩き回っている事になる。お昼の交替をかねた休憩時間はたっぷりあるので、この時間は必ず店を離れて食事を済ませて静かなところで休息をとることにしていた。
午後になるとボツボツ客も入ってきて賑やかになる。客層は学生から一般人までいろいろだが、素人はいない。どちらかというとプロ気取りの人が相手なので接客にもがらうるさい客が多いので、その相手も神経を使うことになる。
ただ同じ楽器を愛し音楽を愛するという点ではおなじなので、その点は楽しい話だ。しかし種類が多いので手に余ると上司に来てもらうことになる。
光一は客受けがよく、気分よく話しかけてくれるので、毎日が楽しかった。肝心なことになると相談し決して独断で決めることpはなかったし、余計なことも言わなかったことが
よかったのかもしれない。そんな光一の楽しみはお昼のレストランのランチタイムだった。食事もさることながらそこにいたウエイトレスをしていた「春子」のそんざいだった。

思い付くままに   「割り切りが肝心」

2014-07-18 11:18:04 | Weblog
人はどんなに全てが満たされて一日を過ごすことが出来たとしても満足できたと思える時間はほんのわずかな時間の間だけではなかろうか。
その典型的な場面を思い浮かべることが出来るのは結婚式の披露宴の新郎、新婦の姿を見るときである。その内面や背景に仮に見えない悩みや問題があったとしてもその飾られたその場面で見る限り二人は全てを忘れることが出来るし、全ての事は自分たちのためにあって不安はなく、どんなことでも二人で乗り切れるという自信に満ちているのだ。然しそんな時間はそんなに長くはないだろう。場合によってはセレモニーが終わった瞬間から現実に戻り、身の回りに起きてくる問題をどうするか、悩まなくてはならないのかもしれないのだ。
又自分の身の回りに健康を害しているものがもしいたとしたら、どんな環境にあってもその事は頭を離れることはないはずだ。それは自分の家庭であれ親戚であれ、知人であれ、それを知った時点で気になるものである。
ある知人の息子さんが結婚し程なく最初のお子さんが生まれたことを聞いていた。これで後継者が出来て良かったねと祝福の思いを持っていたところ、その二年後に二人目の子供が生まれると聞いた。二人ぐらいは欲しいところだろうと思っていたところ全く予想していないことが起きた。何と生まれた子供が予想していない「ダウン症」だったのである。
最近一般的には高齢結婚による高齢出産に多いという記事を読むようにはなっていたが、まさか
身近にこんな話を聞くことになろうとは思わなかった。
その因果関係も解明されていないので、これからもこのような話を聞くことになるのかもしれないが、親御さんたちはどんなに大きなダメージを受けただろうかと思うと同時にこれからの事を考えると想像できない問題を背負って生きていかなければならない。そこには常に不安と不満も伴うことになる。そして当然ストレスも生じることになるだろう。
そんな中にあって「どう生きるか」と言う命題を突きつけられることになる。
(もちろん私自身もその一人であり、問題は違えども同じようにその当事者である。)
そしてそれは考えても結論が出るものではなく、回答も得られないのだ。仮の金銭や物、その他で補えたとしてもそれは一部であり、根本的に解決したことにはならない。
健康問題とあれば何ものをもってしても解決にはつながらないのだ。さすれば仮にそれが一時しのぎかごまかしと思われようが、自分の心での「わりきり」であろうか。
それが「あきらめ」と取られようが、「逃避」と思われようが、自分なりに「割り切り」の覚悟と決断こそ必要とされる時なのである。その事を考えてみたい。

音楽事務所ウーソーズ    第6回

2014-07-14 09:40:49 | Weblog
光一の父はそんな息子の様子を見ながら何も言うことはなかった。言いなりになって父に反抗するわけでもなく自分のしたいことができる事だけに満足している様子を父もまた満足していたのかもしれない。母のいない光一には一抹の寂しさを漂わせながら妹のいない二人暮らしをしていたのである。親子の間には大宮から東京へ通う父と地元の店に通う二人の擦れ違いの生活のなかでいつの間にか会話のない距離が出来てしまっていた。
そんなある日、父は会社の重役から呼び出しを受けて役員室へ出向いた。「外処君、我が社もお蔭で年々順調に業績も伸びて充実することが出来ている。最近は東京近郊から是非教習所を作ってほしいという要望を多く聞くようになり、真剣に検討せざるを得なくなった。候補としては
千葉、神奈川、埼玉、茨城が挙がっているが、今回は一番遠方の茨城に出てみようと考えている。そこでそこの責任者として君を推薦したいと思っているが、引き受けて貰えんかね。」
彼は元来何でも自分で進め人の指示で行動することは好きではなかった。それは単に自分の権威を示したいと言うだけではなく自分自身の力を試すと同時に学習しながらでもその問題を処理したいという強いチャレンジ精神の表れでもあった。それは学生時代から発揮され負けず嫌いでもあったこともあった。何しろ50歳を過ぎたばかりの働き盛りである。もちろん会社内でもその
特徴は発揮されていて受験者の合格率も常にトップでその指導力は認められていた。
然しその場では慎重に言葉を選んだ。「大変ありがたいお話ですが、一度考えさせてください。家族や相談したい人もいるので」と濁した。「そうだろう。君にもいろいろ都合もあると思うので時間はいいが出来るだけ早く返事をもらいたい」
妻を亡くし、娘も東京で一人暮らしをして息子と二人暮らしなので特別障害になる問題はなかったが勤め人で宮仕えである以上、考えようではチャンスでもあった。彼の性格では仲間ともあまりそりは合うことがなく、その中でただ一人、彼の性格を飲み込み理解して味方になってくれた先輩が一人いた。その先輩に相談を指定と思っていた。
何しろ酒が一滴も飲めず、酒の席には出るが付き合ったことはない。と言っても座を壊すこともなかったがそんな彼はあまり仲間がいないのも仕方がなかったかもしれない。

   思い付くままに   「食事会」

2014-07-11 09:37:35 | Weblog
軽い認知症になった爺を励ます思いがあってトリオの三人で月に一度の食事会を持つようになった。今では行動半径も限られて、できる事は限られるが普段は娘と散歩することだけのストレスを少しでも緩和し気分が晴れてくれればよいと思うからだ。
主には婆の発声で「今月は何を食べる?」と言うところから始まり予定が建てられるのだが、7月は早くから「うなぎ」と決まっていた。土用の混雑を避けて少し早めに名物のうなぎを年に一度という事で意気込んでいた。何十年も昔からこの辺では有名な印旛沼の甚平私のふもとにある
「いしばし」の看板でやっている店が目当てだった。その日は雨模様でお天気も涼し目の中、三人は出かけた。到着は予定の時間を少し過ぎた11時であったが、すでに先客が三組もいて驚かされる。そして何年振りかで(私は2月に息子と食べる機会があった)jかんしょくし満足する
帰途、近くにある佐倉惣五郎の霊廟を訪ねる。今から400年ぐらい前にこの辺りの藩主であった堀田家によって重税が課せられ苦しんでいる住民を見かねて家臣でありながらその碌を捨てて
住民のために立ち上がり、最後は江戸城まで行き、直訴に及んだ。そしてその甲斐あって課税が
赦され住民が生きていくことが出来るようになったが、その罪は重く惣五郎は磔獄門、家族も斬首となる。その芝居仕立てのパノラマを見物しながら現代の世相と比べ、その時代の流れと幸せを改めて知ることが出来た。
そして帰路の途中にある「道の駅」へ立ち寄り、休憩を兼ねて楽しい買い物のひと時を持つ、
その時食べたソフトクリームは格別であり、早めの帰宅で無事に終了した。
しかし、緊張から解放されるとともに疲労がでて、しばらくは昼寝となる。
こんな一日がこれから何年過ごせるか、そんな思いで目が覚めた。勧化てみれば長いようで
短い人生の一日である。そんな一日を納得に行く一日にしたいと常々思いつつ過ごしているのだが、こんな一日も悪くないと思う。
そんな思いで満足することが出来た。そして幸せは身近にあることを覚えることが出来たのである。

音楽スタジオウーソーズ    第5回

2014-07-07 10:41:44 | Weblog
外処家一家五人の大宮での生活は順調であり、平穏であった。それはどこにでもあるごく平凡な一家庭であった。唯光一の母が突然のように膠原病と言う難病にかかって五十台の若さで早世したことだけが大きな傷跡を残したのだ。光一は小さい時から母に似て優しく静かな男の子であった。学生時代には母のその音楽好きが高じて楽器をいじり始め、何時のまにか友達とバンドを作ってクラブ活動を始めていた。スタイルも良く今でいうイケメンに近いマスクという事もあって彼の周りにはいつも何時の間にか何人かの女の子が囲むようになっていたが、彼の方から声をかけることはなかった。と言っても決して馬鹿にしているのでもなければ軽んじていたわけでもない。ただ単純に関心がなかっただけである。そんなニヒルにも見える一面が女性が惹かれるところだったかも知れなかった。
最初の楽器はギターだった。友達のお古をただ同然で分けてもらって使い始めたのがきっかけだったが、たちまちその魅力にはまっていた。ギターを抱えて指で軽く引いたときの感触とその音色にひかれて、心を癒され嫌な事や学校のことなどすっかり忘れてしまったのである。
教本を見ながら独学ではあったが引いているうちに何とか曲が弾けるようになってきた。
そしてその内友達の持っている楽器を貸してもらいながら色々と覚えることが出来るようになっていた。とくにドラムをたたいているときはその力強いビートの中に自分自身を埋め、無我の境地に入ることが出来た。そしていつの間にか友達とバンド「ウーソーズ」を結成していた。
学校の様々な催し物や文化祭、その他の行事に呼ばれると断ることなく夜であれ、昼であれ出かけていくようになっていた。唯楽器の音の世界にいることがうれしかった。
そして弁当と僅かな小遣いがでることで不自由をすることはなかったからでもあった。
父は普段仕事で東京へ行っていたこともあり、普段は殆どかを合わせることはなかったが、亡くなった母が好きだった音楽を光一がやっていることに文句を言うことはなかった。自分では何もすることはなかったが、母と同じように嫌いではなかったんだろう。
家事と時間にはうるさかったが、酒を一切飲まなかったので、アルコールの弊害はなかったし、夜も遅くなることはなかった。
然し妹は短大を出るとさっさと家を出ると東京で仕事を見つけて下宿して一人で暮らすようになっていた。光一はそんな妹を見ながら自分の身の振り方を考えていた。定職に就かず父に
「どうしようか」と聞いたが、好きなようにしろと言われて特別にしたいこともなく、近くの楽器屋に就職することにした。

思い付くままに   「梅雨空に思う」

2014-07-04 20:42:44 | Weblog
今年の梅雨は時折豪雨のような雨が降るかと思うと間もなく止んで暫く降らない時もあったり、
青空がのぞいて、これが梅雨かなと首をかしげることがある。昔のイメージだと梅雨の時期になると降るともなく静かに降る雨が幾日も続きじめじめ、じとじとと言う中で何日も暮らすことが多く、暗い空を見て梅雨明けを待ち望んだものであった。こんなお天気だと昔良く訪れていた
シンガポールのゴルフ場でプレー中に降ってくるスコールを思い出し、もう少し雨宿りをしていればそのうち止むだろうとあまり雨が気にならないようになった。
日本の梅雨も地球温暖化によるオゾン層の破壊で昔のようなパターンが変わりつつあるのかもしれない。そんな中で季節の花々は昔と変わらず、季節ごとにいつもの花が変わりなく咲いて私たちも迎え、癒してくれているのがうれしい。今年も3月の声を聞くころに梅の香りを感じ、初めて見る事の出来た薄紫のカタクリの可愛い花の群生を見ることが出来た。
そして月ごとに変わる花を追いかけて今はユリの花とノーぜんかつらのオレンジの花が夏に向かって咲いている。アガパンサスの紫もいいものである。そして梅雨明けと同時に夏にもttも相応しいヒマワリが準備を整えている。こうした花はいつの世になってもこの世のすさんだ中でもそれらを忘れさせ、癒しを与えてくれるのが、うれしい。
花は豪華な庭園であっても猫の額ほどの庭であってもベランダの片隅であっても同じである。
その変わらぬ存在を大事に思いつつ、日々の喧騒を忘れたいものである。
そんな中で最近思うことは「自分」という存在である。人間と言うものは不思議なもので
どんな立場であっても何をするにも無意識に「自分」の存在を中心にしているものだ。だから
何もするにしても、言うにしても自分の思うようにする、自分の言いたいことを言う。自分の
したいことをする。全てがいつの間にか自分中心に回しているのである。
そしてそれが当たり前であり、当然の権利であり、そのことが言うとおりにならないといつの間にか不満が残っているのである。
然しよく考えてみよう。自分の存在はそんなに大事であり、人の立場や相手の立場を無視していいもんだろうか。(そうは思っていてもその場の関係で自分を抑えていることももちろんあるのだが、)しかし、自分はそんな存在なのだろうかと冷静に考えると、まことに小さく、貧しく
弱いものであることに気が付く。それは権威ある立場にあるとか、権力者であるとかは関係ないのである。等しくみんな同じなのである。
その錯覚の中で人は様々な争いや、摩擦を起こし、事件に発展するのである。等しく人は自分を過信することなく謙虚でありたいとつくづく思う
そして間もなく太陽に向かって咲くヒマワリを待ちたいと思っている。